▶︎騒音被害者
──トタトタトタ。
足音が響く天井を見上げ、私は溜め息を吐く。
時刻を確認すれば、深夜一時過ぎ。多くの人が寝静まる時間帯にも関わらず、上の階の住人は無遠慮に歩き回っていた。
築年数の古い木造アパート。家賃の安さ、更新料や保証人が不要、ペット可というところに魅力を感じて二ヶ月前から住み始めたが、交通量の多い道路沿いにあるため、早朝から深夜まで騒音が酷い。それだけでも我慢ならないのに、住民の質まで悪かったらしい。
周囲の騒音に加えて、先ほどまで近所の大学に通う大学生や留学生達がアパート前で馬鹿騒ぎをしていた。飼っている猫も環境の変化や周囲の騒音にストレスを感じているのか、引っ越し前よりもよく鳴くようになった。構ってやると大人しくなるが、毎日鳴くので困ってしまう。
イライラしながらも外の馬鹿共が解散するまで耐えて、これで眠れると思いきや、上から響く足音。続く騒音に、私の苛立ちは膨らむばかりだ。
(うるさい。本当にうるさい)
私は天井を睨みつける。
上の階に住んでいるのは女のようだ。数日前に誰かと電話しているような声がして判明した。思えば、風呂に入った後もドライヤーの音が十分近く続いていた。
騒音女がベッドに寝転がったのか、ギシッという音がした。苛立ちが一気に上昇し、私は壁を軽く叩いた。
今までにも控えめにだが、壁を叩いて煩いとアピールしたことが何度もあった。これで大人しくなってくれたらいいが、騒音女は随分と神経が図太いらしく、効果が無い。騒音女が寝返りを打ったのか、またベッドが軋む音がして、私は苛立ちから再び壁を叩いた。
(引っ越したいが、今のアパートに引っ越すために金を使ってしまったからな……)
家賃は安いが、初期費用がかなり高額だった。私には保証人がいないため、家賃保証会社に払う金もそれなりにかかる。前に住んでいたアパートを退去する際に、がめつい大家に高額な退去費用を請求されたため、分割で支払うことになっている。引っ越した後に車を売ったが、余裕などない。
(そもそも、騒音女の常識の無さが原因なんだ。あっちが引っ越すべきだ)
天井を睨みつけ、私は「早く引っ越せ」と恨みを込めて念を送る。
(死ねばいいのに)
自分を苦しめた人間には同じ分だけ、いや、その何倍も苦しんで欲しいと思う。人間なら、そう考えるのが普通だろう。
(だが、このアパートで死なれたら迷惑だ。動物の死骸だって臭うのに、人間ならもっと臭いだろうな。腐った体液によって天井にシミができるかもしれない。外で死んでくれたら万々歳だが……)
騒音女が事故死するところを想像するが、願ってもそうそう起きないだろう。現実的に対処するために、明日にでも管理会社に連絡を入れるとしよう。
「上の階の人が、深夜にドスドスと足音を立てていまして。……ええ。それに、電話で大声で話していまして。あと、テレビの音もうるさいんですよ。引っ越してきてからずっとです。眠れなくて迷惑しています。なんとかしてください」
翌日の昼過ぎ。
私がいかに理不尽な目に遭っているかを管理会社の人間に電話で訴える。管理会社の人間には常識があったのか、「それは酷いですね」と親身に話を聞いてくれた上に、すぐに対応してくれると言った。
私はニヤリと笑って電話を切り、天井を見上げる。
(これで騒音女は大人しくなるだろう。それにしても、騒音女はちょっと前まで働いていたみたいなのに、ここ最近ずっと家にいるな。仕事をクビになったのか? 社会の役にも立たずに人に迷惑をかけるなんて、本当に底辺の人間なんだな)
底辺人間ならば、なおさら私の上に住むべきではない。私の足元に這いつくばって誠心誠意謝罪すべきだ。
管理会社はすぐに対応してくれたようだ。上から携帯のバイブ音が聞こえて、騒音女が電話で話す声がする。私は耳を澄ませるが、電話の内容は聞こえなかった。
(管理会社はちゃんと厳重に注意してくれたのか? 騒音女の虚言に誑かされていないといいが……)
騒音女が電話を終えたと同時に、私宛に電話がかかってきた。
管理会社が騒音女にしっかりと注意してくれたようだ。私は丁寧に礼を言って電話を切る。
これでまた騒音が続くようなら、今度は警察に通報しよう。
騒音女に社会という物を教えてやらなければならない。迷惑な人間は淘汰されるべきだ。
その夜、騒音女は流石に反省したのか二十二時にはベッドに入ったようだ。
(最初だけかもしれないから、これからも継続的に犯罪者予備軍を見張らなければいけないな。私も忙しいのに、とんだ迷惑だ)
苦情を入れてから二週間経った。
騒音女は深夜に物音を立てることは無くなった。しかし、まだ安心してはならない。私は今日も耳を澄ませて、騒音女の行動に注意を向ける。
騒音女は朝六時に起きるようになった。仕事をしていた頃は朝の五時に起きていたので、それより一時間は遅いが、生活を朝方に戻している。午前や午後に出かけているが、十七時までには帰宅。二十時に風呂に入って、二十二時には就寝している。ドライヤーも二十一時前までに終わらせるなど、騒音女にしては配慮をしているようだ。
(まだ物音はするが、許してやるべきか?)
寛大な私がそう思い始めた頃。
昼時に上の階からカチャリ、ガタッ、と何かを動かすような音がするようになった。
(……家具を移動する音。模様替えか? それにしては、数日間続いているな)
苦情を入れる要素になると思って耳を澄ませていると、騒音女の部屋から話し声が聞こえてきた。
話している内容は聞こえないが、電話をかけているようだ。それも、一度ではない。複数箇所に何回も。少しだけ聞こえてきた言葉は、騒音女に似合わない丁寧なものだった。
(外面だけはいいみたいだ。もしかして、こちらへの復讐を考えて、何かしようとしているんじゃないか?)
私は警戒を強める。騒音女が、若さや女であることを武器にして、頭の弱い周囲の人間を味方につけるかもしれない。弱者を演じる人間が恐ろしいことは、私もよく知っている。
(もしかしたら、最近テレビでよく聞く”闇バイト”みたいなものを雇って、私を襲いにくるかもしれない。警察に連絡するべきか? いや、警察は実害が出ないと動かないよな。それなら、どうするべきか?)
夜になっても不安は消えず、私は頭を悩ませながら室内を歩く。
騒音女によって、私が脅かされていることが許せない。足元にあった柔らかい物を蹴りつける。それだけでは収まらず、私は窓に目をやる。女のベッドがある方向の窓。嫌がらせとして、いつもより勢いよく窓を閉める。私が味わった苦しみを、女にも味合わせる。これは正当な仕返しだ。
(このくらいで大人しくなるならいいが……。何か抑止力になるような良い方法はないだろうか?)
悩む私の頭に浮かんだのは、子供の頃にテレビで観た呪いの記憶。
私は記憶に引っ張られるように右手を持ち上げた。中指と人差し指を交差して、私は呪いの言葉を口にする。
「えんがちょ」
汚いものを触った時に言う呪いだった気がするが、その名の通り縁切りの役割もある筈だ。騒音女の首を切り落とすことができたら最高だが、最低でも縁切りができたらいい。
(まあ、ただの呪い。効果なんてないだろうが……)
子供の遊びを真剣にしていた自分に気恥ずかしさを感じる。それでも、少しの気休めにはなった。
(念の為、闇バイトに襲われた時の練習をしておこう。的確に急所を刺さなければ)
私はキッチンから包丁を取り出す。こちらに来てからまだ使っていないせいか、刃にびっしりと黒サビが浮いているが、問題はないだろう。
(何か……そうだ。丁度、かいかえようと思っていたんだ)
先ほど蹴った柔らかい物を掴んで引き寄せ、包丁を突き刺す。何度も、何度も満足するまでシミュレーションをした。
さらに一週間後。
私が気持ちよく寝ていると、上の階から複数の足音が聞こえた。
時計を確認すると、十一時三十分だった。
(足音の重さや話し声からして、男二人か? そうか! 騒音女が闇バイトとして雇った男達と会っているんだ!! こちらも攻撃に備えなければ)
私は枕元に置いていた包丁を掴み、部屋の奥に立って襲撃に備える。バクバクする心臓の音に妨げられながらも、物音に耳を澄ませた。
上の階から響く足音や物音は大きく、私を不安にさせる。
二十分くらい経った頃だろうか。男達が女の部屋から出てきたようだ。ついに来るかと、包丁を構えていると、外から車のエンジン音がした。怪訝に思ってカーテンを少し開けて外を確認すると、引越し業者の名前が書かれたトラックが見えた。
小さなトラックは、そのまま走り去っていく。
(もしかして、騒音女が引っ越すのか?)
騒音女は掃除をしているのか、上から歩き回っている足音がする。一時間後、管理会社が来たのか、何か話した後に部屋を去ったようだ。
私はシンと静まり返った天井を見上げる。
(苦情が効いたのか? それとも、あの呪いが効いたのか?)
どちらにしろ、私が騒音女を撃退したことは間違い無いだろう。
(これで、もう騒音に悩むことはない! ようやく静かに眠ることができる!)
私は嬉しさが込み上げて、小さくガッツポーズをする。手に持った包丁を見て、フッと笑った。
(思えば、こんな安アパートで暮らす無職女が、闇バイトの人員を雇える金もあるわけがない。私も警戒しすぎたな)
私は勝利の喜びに浸りながら、自分の部屋を見回した。
布団の隅に置いていたゴミ袋を見て、「あ」と声を出す。今日はゴミ捨て日だ。ペットを飼っていたからか、以前住んでいたアパートで「臭い」と神経質な異常者である隣人に何度か苦情を言われたことがある。このゴミも、もう使わないので出しておいた方がいいだろう。
(早く飼い替えないとな)
臭いのするゴミ袋を持ち上げながら、私は軽い足取りでゴミ捨て場へ向かう。
今度の住民は常識を持った人間だといい。
もし、非常識な人間ならば、私がまた追い出してやろう。