自信の一歩⑦
練習後、竜之介は辰馬と共に村木先生に挨拶に行った。本来は練習前に挨拶するのが筋だが、思わぬ仕事が入ったため後にしてくれと先輩から伝言があったのだ。
そんなわけで、これが高校バスケの名将村木先生と竜之介のファーストコンタクトだった。
「宮ノ里の三国と、県外から帰って来た相原だったな」
「「はい」」
「まずは二人ともお疲れ様、だな。初めての高校の練習はどうだった」
先生は180cmそこそこの身長で、もうすぐ50過ぎという年齢だと聞いているが、その割には仕上がった肉体をしている…ように見える。その威圧感ある佇まいに竜之介は気圧される。
そんな竜之介とは対照的に辰馬は飄々と質問に答える。
「ここでなら自分は強くなれる。そう思いました」
確固たる決意を滲ませ、辰馬は先生の強面を臆せずに見つめる。
「そう言ってくれると育成に携わる人間としては嬉しい限りだな。もっとも、実際にうちのチームに入ったら一切容赦はしないぞ」
先生はそんな恐ろしいことを、練習中はまるで見せなかった笑顔で言う。一応の補足だが、竜之介が聞いた話では今も昔も暴力をするような指導者ではないらしいので、そこは一つ安心である。まぁ、強面なので笑顔の方がかえって怖いという考えもないでもないが。
「相原はどうだ。呑まれたところもあったようだが、最後の一本は君がどういう選手で、何ができるのか十分に伝わったぞ」
先生はその顔立ちを比較的優しめの表情に変えて竜之介に講評する。その言葉を聞いて、一瞬竜之介は笑みを浮かべそうになるも、今日の前半の醜態を思い出して表情が曇る。
「いえ……自分は……。自分は何もできませんでした。辰馬に引き出してもらって、ようやくコートに居場所を見つけられた。この場で、自分以外の全員ができていることが自分にだけできなくて。自分以外が当たり前に持っているものを、自分だけが持っていなかった。自分だけが特別じゃなかった…です」
俯きながら言葉を紡ぐのが精一杯で、辰馬と違って先生の顔も見られない。これが自分の現在地だと足元を睨みつける。握った拳の中で、短く切りそろえた爪がそれでも掌に深く突き刺さる。
そんな竜之介を前に、先生はしばらく何かを考えてから口を開く。
「相原はいろいろ考えるタイプみたいだから、素直に俺の思っていることを話す。確かに君はうちの選手たちより未熟だ。だがそれは仕方がない。何故なら君は中学生で、アイツらが一年積み重ねてきた当たり前を知らないのだからな」
淡々と事実だけを述べているようだ。指導者として、教育者として、15歳の子供に向き合おうという真摯な姿勢を感じる。だからこそ、その言葉の中で隠されていない部分にも気づけてしまう。
「でも辰馬は違います。辰馬は自分と同い年で、このチームに参加するのも初めてでした」
辰馬は竜之介と同じ条件で参加していた。けれど、まるで違った。スキルだけの話じゃない。知識が、意識が、何より覚悟が違った。
「君はその理由をどこに求める」
唇を噛み締める竜之介に対して、先生は核心を突くような一言を放つ。その言葉は真っ直ぐに竜之介の心に突き刺さったが、もはや痛むことはなかった。
「何かを頑張ろうって、そういう気持ちで積み重ねてきた時間の差……。ここにいる人は、辰馬も含めて、バスケにたくさんの時間やものを賭けてて、ずっと何かを積み重ねてきた。その道を選ぶ覚悟があった。流されてきただけの俺なんかと違って。……今日はそんな自分が惨めで仕方がなかった……です。」
引き続きシューティングを続ける先輩たちがコートで放つ音に紛れて、最後の方は消え掛かっていた。それでも、二人には届いていた。その言葉の重みにも気づいていた。だから辰馬は口を挟まず、先生も慎重に言葉を選んでいた。
「こういうチームになったのは俺の影響で、俺の責任だ。チームの方針は選手が決めたが、強制したつもりはなくても、俺という“指導者”が着任した影響は絶対にあった。だから“教育者“として俺には簡単に『うちの部に入れ』とは言えない。君の言う『覚悟』というヤツがなければ楽しくない、苦しいだけの環境になる可能性を孕んでいるのが現実だ」
それは“公立の名将”として知られる村木先生の、苦悩が滲む偽らざる本音だった。部活動への風当たりが強い昨今、増して公立高校の教師である。勝利を求めること、そのために厳しい練習を課すこと。それらが公立高校の部活動という枠組みの中では最早許されなくなっている現代において、誰もが無条件にバスケットボールを楽しめるわけではない状況は先生にとって後ろめたいものなのだろう。
だが、先生の言葉は続く。
「それでも、自分が特別でないことの理由を才能でなく覚悟に求めた君には、バスケを続けて欲しいと思う。一人の大人としてな」
「何故ですか?」
「まだ15歳の君に、覚悟を理由にして全てを諦めて欲しくないんだよ。15歳なんて自分の進路を決めていない奴がほとんどだ。それに人生の良し悪しは、他人よりどれだけ早くスタートを切ったかで決まるわけじゃない。俺の言っていることがわかるか?」
「なんとなくは」
竜之介の脳裏をよぎったのは先日の辰馬の言葉だった。
『どんな競技でも他人よりスタートダッシュが上手い、誰かより早く走り出した。俺はそれだけのことを俺の“才能”だなんて思わないし、誰にも言わせない』
先生が言っているのは、きっとそれと同じだ。
「これ以上長々話すと、無理に勧誘しているみたいだから簡潔に俺の考えを伝えよう。大事なのは勇気を出して、自分で選んで進むこと。その選択が怖くても、たとえ間違っていても。その瞬間に、早いも遅いもない」
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帰り道、竜之介の頭の中は混沌としていた。今日感じた圧倒的な絶望感、無力感。最後の一戦で感じた抑えようのない高揚感。そして先生の言葉を聞いた時の、胸が空くような感覚。先日、辰馬と再会した時と同じ感覚。
考え事をしながら、前も見ずに辰馬の少し後ろを歩いていると、気づけばいつもの駐車場に着いていた。辰馬はさも当然のように、自然な動作で、ボールを取り出し投げてよこす。
「おい、お前何しれっとこんなとこに」
「バスケ、やろうぜ」
竜之介の言葉を遮ったその言葉が、単にこの場でバスケをしようという意味でないことはわかった。
「俺に、その才能があるからか?」
「まぁな」
「それが幼馴染を誘う文句かよ」
竜之介は呆れて苦笑したつもりだった。けれど、その笑顔は歪で、自分が全く笑えていないことに気づいた竜之介は苛立ちに顔を歪める。
辰馬に最初に『才能がある』と言われた時、初めてバスケに出会ったあの日以来の、何かが変わりそうという高揚、期待感、ときめきを感じた。心の中に微かに種火が灯った音がした。
今、この一瞬が、田舎町の外れにある日当たりの悪い駐車場で放たれた些細な言葉が、あの日見た“彼女”の姿と同じくらいに、自分の人生を変えるんじゃないか。根拠のない昂りが膨らんでいった。信じてみたい、賭けてみたい。そんな気持ちが膨らんで止められない。同い年の天才の言葉は、どうしようもなく少年の心を揺り動かし、前へ前へと突き動かした。
だがそれでも、相原竜之介という少年は“利口な少年”という誰に課されたわけでもないのに背負ってしまった役柄と歳の割に発達し過ぎた理性を捨てられない。知らぬ間に誰かに植え付けられた自分を信じることへの不安に囚われてしまう。それは今日の練習を通して助長されていた。
「俺のどこにそんな才能がある?具体的に、俺に何ができる?俺は何になれるってんだよ!確かに先輩たちは凄えよ。でも、たかが田舎の高校の、たかが普通の選手だ!それに太刀打ちさえできなかった俺が何になれる!お前を引き立たせる脇役か?お前の野望にとって都合が良いロールプレイヤーか?」
「リュウ……」
「今日みたいに、お前に使われて初めて輝く便利な駒か?それを確保するために、俺を誘ってんのか?だとしたら他を当たれよ。俺はそんなことで自分に才能があるって錯覚できるほど間抜けじゃないし、利用されていることに気づかないほど鈍感でもない!」
自分でも気づかないうちに竜之介は大声で叫んでいた。地元に帰ることを決めた日から、否、それよりもっと前から竜之介の心の奥底で澱んでいたものが堰を切ったように溢れ出す。そんな彼を前に適切な言葉を選べる人間など大人でもそうはいないだろう。
しかし、辰馬は違った。15歳にして彼は、誰かに知らぬ間に課された“天才”という役柄を自覚し、肯定的に受け入れ、どこまでも一貫して、遂行してきた。そんな辰馬だから、どこまでも残酷に、素直に告げることができた。
「俺の野望にとってお前が一番都合が良いって部分は否定しないさ。だけどただの駒なんかじゃない。俺とお前が揃うなら、俺の野望は叶えられる。俺とお前で叶えるんだよ」
暗に、というよりほぼ直接的に『俺はお前を利用したい』と言っているような言葉を淡々と告げる。その言葉には湿っぽさなどまるでなかった。そして一拍を置いて、辰馬は先程まで封印していた、いつもの顔。即ち悪巧みをする時のニヤリとした笑顔に戻り、言い放った。
「俺の野望にはお前が必要だ。お前じゃなきゃダメだ。だからお前はバスケをやれ」
「開き直れば何言ってもいいわけじゃねぇぞノンデリ野郎!身勝手なことばっか言いやがって!」
「身勝手上等!他人に気を遣って、頼みもしないで自分の夢を諦められるか」
「それが人にものを頼む態度かよ!」
幼馴染の珍しい激昂に構いもせず、辰馬は突き進む。
「お前は誰に気を遣ってる?何を怖がってる?」
「それは……」
「お前が特別だと信じるなら、お前は特別なんだよ。その自信がないなら、俺がくれてやる。能力がないなら、嫌でも鍛えてやる。だから、今は俺を信じてついて来い。絶対に後悔はさせない」
辰馬は再び笑顔を封印し、真摯に竜之介の心の奥を見透かすように、その視線で瞳を貫く。その視線に、言葉に、何を返せばいいのか。今の竜之介はその答えを持ち合わせていなかった。勢いを失った竜之介は、息を何度か吸って、吐いて、平静を取り戻す。否、平静ではいられなかった。昂りをなんとか抑えたその面持ちは悲痛なものだった。
「こんな俺だから……ダメなんだよ。ずっと、ずっと、理由を誰かに求めて。今日だって、今日に至るまでだって、お前が『特別だ』って言うならって。誰かに理由をもらってばかりで、自分で選んだことなんて一つもなかった……!」
辰馬や晴が、先輩たちが特別に見えた理由。才能とかそれ以前の問題だ。みんな自分で自分の道を選んできた。理由を自分で持っていた。生まれついての気質なのか、先生の言ったように勇気を出したのかはわからないけれど、みんな自分の理由で選んでいた。
竜之介はふと玉井さんの言葉を思い出す。彼女は、何故竜之介のことを応援していたのか問われた時、こう答えたのだ。
『それがね……上手く言えないし、どうしても失礼な感じになっちゃうんだけど』
『相原くんの、自分は特別じゃないけど頑張る!って感じに勇気をもらってたんだ』
彼女に悪意はなかった。けれど、その言葉は竜之介が自身の中学3年間に抱えていた違和感や後ろめたさを完全に自覚させるに至った。あの瞬間、竜之介はぼんやりと感じていた自分の心の底に巣食う何かの正体に気づいた。
「この期に及んで自信が持てないような奴は、自分一人で立てないような奴は、才能があろうがなかろうがダメなんだよ」
そう吐き捨てて、竜之介はボールを投げ返し帰路に着く。その背中に辰馬は声を掛けなかった。それはきっと、どれほど強引でも最後の決断は竜之介がしなければ意味がないと理解しているからではないか。後になって竜之介は気づいたが、振り返ることはしなかった。




