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シュウマツユウシャ

作者: 旅人

 夜の街に紙吹雪が舞う。

 白石を積んで組まれた建物が左右にずらりと並ぶ目貫通りは、幅広の道一杯に群衆を抱え、奥まったところにある豪奢な宮殿、その前に設えられた木製の高壇の上では一人の男が声も高らかに演説をぶっていた。

「神は死んだ」と宣誓した檀上の声に歓声が重なる。「これからは我々、人間が、人間の手によって、人間の世界を作ってゆくのだ」

 盛大な喝采が上がり、群衆から拳が突き上げられる。

「新たなる時代の始まりである」

 彼らの有史以来最大の雄叫びが響く夜空。響くと同時に、濃い緑色の光がちかちかと点滅している。瞬く間に大きくなって、地上を包んだ。


     〇


 無数の石塊が漂う無重力空間で、上も下もなく、ただ瞬く星と、遠くに白む恒星の輝きをなんとはなく眺めていた。

 あまりに眩しくて、手のひらをかざす。

「破滅確認」と耳元で声がする。ふと、そちらを眺めても、漆黒の宇宙が広がるだけだ。

「お疲れ様でした。作業終了になります」

「ありがとうございました」

 礼をいって、はだけていたミリタリージャケットの襟を正し、神経を集中させる。ふわ、と眼前が白い光に満ち、次の瞬間には見慣れたデスクの前にいる。

「ふうー」

 ため息を吐いて、空間に投影されていたディスプレイをタップして閉じ、椅子を回して立ち上がると伸びをした。弛緩した身体が弾み、こだわりのツインテールがふるりと揺れる。

「ジェシーさん」と同僚が恐縮した声をかけてきた。「今度、最優秀成績で表彰されるんですよね。スゴいです」

「それほどでもないですよ」と満面の笑顔でいう。

 それほどでもあるわ。このためにどれほどの努力を重ねてきたことか。

「ああー、憧れるなあ。あたしにもジェシーさんの半分くらいでも才能があったらなあ」

「そんな、才能だなんて。みんな、それほど変わりませんよ、きっと。少しの工夫と少しの努力です」

 おまえみたいな凡庸と比べるなよ、と思いながら手を振って謙遜する。話してる時間も勿体ねえっつーの。

「あたしももっと頑張らなきゃなあ」

 伸びをしながらデスクに戻っていく同僚を見送り、接触式の自動ドアを抜ける。長い廊下は片面をガラスが占し、空には一面の青い空、輝く日輪を冠し、地上には七よりも多い彩りの庭園が遥か霞の向こうまで続いている。大気を通した柔らかい日差しは、無重力空間で浴びる熱線とはやはり違う、と再び筋肉を伸ばす。

「ああ、ジェシーさん、おめでとうございます」

「ジェシーさん、今度の表彰式、必ず観に行きますね」

「ジェシーさん、サイン下さいませんか? 部屋に飾って人生の目標にします」

「あの有名なジェシーさんですか? 維持部成績トップの? 光栄だなあ。握手してください」

 一人一人に応えていて、吐き気がしてきた。こっちは仕事の休憩時間なんだよ、邪魔すんなよ、役立たずの間抜けどもが。

 舌打ちしそうになったのを堪えて、庭園に視線を戻す。滑らかなアイボリー色の廊下をコツコツ歩み、広々としたレストスペースのソファーに行儀良く腰掛けて、横になりたい衝動と戦っている最中のことである。

 どたどたと廊下の向こうから駆けてくる足音がする。

 この足音は……。

 茶色の長髪とワンピースのスカートの裾を激しくなびかせ、人波の合間を華麗に縫いながら、彗星のごとく広場を横切る女の子の姿がある。

「天花じゃないの」

「あら、ジェシーちゃん」と彼女は靴底をすり減らしながら煙を立てて立ち止まる。「休憩中?」

「あんたはそんな暇なさそうね」

「そうなんだよ、また係長に叱られて。全然ポイントが取れてないぞ貴様って、口を極めて罵るの。もうすぐ罵詈雑言を極めるよ」

「あんたが極めさせようとしてんでしょ」

「わたしたちはさ、愛とか、優しさとか、そういうものを集める仕事してるじゃない? その偉大な職務についてる人がだよ、無闇やたらに人を非難しちゃいけないよ。もっと寛大な愛をもって、優しく諭して道を指し示して上げるのが上司の役目でしょう」

「指し示したって、あんたはどうせ脇に新しい道を作って、作った挙げ句に迷子になるんでしょうが」

「そんな、ヒドい」と明るく嘆く。「わたしだって、道に看板を立てて迷わなくするくらいに分別はある」

「道は作るんだ」

「脇にはお花を植えて、背の高い木も植えるの」なぜか夢見心地で話していた天花の瞳が現実に戻ってくる。「そうそう聞いたよ、最優秀成績の話」

「ああ、あれ」得意になって胸をそらす。「大したもんじゃないわよ、あれくらい」

「おめでとうね。表彰式は観に行きたいけどどうかな、仕事の合間があれば。じゃ」

「ちょっと待って」そのまま駆け出して行きそうな天花を一声でくいつなぐ。「悔しかないの? 同期が表彰されるのに、あんたは係長に叱られて駆けずり回って」

「はあ?」と間抜けな顔を振り向けてくる。「悔しくはないね。むしろ、おめでたいね」

「でもさ、あたしみたいになりたいでしょ。みんなからちやほやされて、尊敬の的よ」

「そんなこといって」天花は豪快に大口を開いて笑う。「わたしはわたし。ジェシーちゃんはジェシーちゃん。それだけだよ」

 じゃ、とワンピースのエメラルドグリーンだけが残像を刻んで彼女は消えた。

 ジェシーの手のひらが握り込まれ、かたい拳が震える。


     〇


 しゃ、と自動ドアが開く。

 デスクにひらりと腰掛け、端末を起動させている間に、隣へ視線をやった。アイマスクをちらりと上げて、こちらを伺う瞳がある。

「木葉ちゃんは、昨日は徹夜?」

「そういう天花は係長のところね」

 低く、空気をうねらせるように笑う。

 木葉は、寝かせた楕円に寝かせた楕円を重ね、正方形の足をつけたような体格をしており、天花より三倍はデカい。心無い職員は、木葉ではなく岩石である、とよくいう。しかし、彼女は寛大な愛と優しさをもってそれを許している。職員たるもの、こうあるべきだと天花は思う。

「ちょっと聞いてよ」と木葉は嘲笑う。「創造部のヤツら、このあたしに欠陥品を送りつけてきやがったのよ。時間の時間設定間違えて、どんなに遅くても一分あたり百年は進む設定になってやんの。ちょっと寝落ちてる間に最終戦争おっぱじめて、残ったのは荒野だけ。徹夜してまで助けてやろうとしたのに、ホントバカ」

「お疲れ様。宿舎に戻って寝た方がいいよ」

「もうなんか面倒くさいから、適当な世界に入って寝ようかしら」

「ははーん、なるほどね。それもいいかもね」

 天花の手元の空間が藍色の光を放つ。光は四角く滞り、空間にディスプレイを作る。

「それで、係長、なんだって?」

「もっとフェイスを稼ぐ方法を勉強しろ、工夫しろっていうの」

「どうすればいいか、なんて分かり切ってるでしょ。効率の悪い世界は滅ぼして、イイ世界だけ手間をかけてあげればいいの。時々天災を起こして、飢饉にでもしちゃえばいいのよ。そしたら神に祈らずにはいられないわ。生かさず、殺さずが一番フェイスの回収率がいいってデータもあるし」

「それはいけないよ」と天花は首を振る。「命を慈しみ、人を愛せ。無為な不幸と虐殺は忌避せよって管理局の条文にもあるでしょ」

「そんなもん建て前よ」鼻を鳴らしてふんぞり返る。「律儀に守ってるの、あんたくらいのものでしょう」

「そんなことをいっていると、この世界を見守っている職員に破滅させられるんだよ」

「はっはっは」と木葉が突風を吐き出すように笑う。「確かにね、あんたの育てた世界、素晴らしかったわよ、あれ。研修終了のときの展覧会のやつ。青く輝く美しい惑星、いまどうなってるの?」

「あれ?」と天花は片眉を下げる。「とっくになくなったよ。ブラックホールに吸い込まれて。どうにかしようかとも思ったけど、さすがに手を加えすぎかな、と」

「そりゃ、しょうがないわな」

 さらに、アイマスクを額にやりながら、で、と付け加える。「それが吹き飛んで、いまトータルで、何個くらい抱えてるの?」

「ええっと」天花はディスプレイに指を走らせる。「四百十三」

「はあ?」呆れた吐息を出して木葉が身を揺する。「持ち過ぎよ。普通、百個かそこらでしょ」

「あれだね、創造部が造りすぎるんだよ。もっと質のいいものを少しずつ、端正込めて造った方がいいのよ」

「それは同意ね」

 二つ、三つ、四つ、ディスプレイを開き、時間を調節して現在の世界の様子を確認していく。と、端の一枚が木葉の方へ流れていった。

「ああん、勝手に取らないでよ」

 彼女の太い指がディスプレイをタップして画面を下へ、下へと流してゆく。映し出されているのは、天花の管理する四百十三の異なる世界の簡易ステータスである。

「こんな腐りかけの世界を後生大事に取っておくから平均値が落ちるのよ。例えばコレ、人は多すぎるし、信仰もない、知識はあるのに知性がないのは文明の末期症状よ。傲慢で、怠惰で、信じる力もない。もはや惰性で存在するだけのクズじゃないの。完全にお荷物。腐りかけじゃなくて腐ってるわね。腐臭がするわ」

「そこまでいう?」帰ってきたディスプレイに天花は目を落とす。

「あたしならいますぐ破滅部に提出するわね。秒でぶち壊す」

「でもなあ」その世界を観察する天花は、あ、と声を上げた。

「どうしたの? 最終戦争が始まった?」

「いま、御神体を蹴り飛ばした人がいる」

「バカくさ」木葉は座椅子に背中を預けた。「そんな下らないことまで仕事にしてたら過労死するわさ」

「バカくさくないよ。御神体っていったら信仰の形だよ。それを蹴っ飛ばすって許されないよ。ちょっと行ってくる」

「ああ」と木葉が身を起こして声をかけようとしたときには天花の体は光に包まれ、消えていた。再び背もたれに体重を預ける。

「まったく困った子なんだから」

 アイマスクを直した彼女は、ほどなく低いうなり声を上げながら眠りについた。


     〇


 ガシャーン、と大量の皿の割れる音がした。

 洋斗が厨房へ入ると白い陶器の残骸の前で女の子が呆然としている。

「あー、やっちゃったか」

「せ、先輩、あたし、その」

「わかってるわかってる」彼女は次にミスをしたら出ていってもらうと昨日店長から忠告されたばかりであった。

「どうしましょう?」

「おれがなんとかするから」とりあえずホウキとチリトリを両手にしたところで店長が駆け込んできた。

「なんだい、これは」

「すみません、店長。おれが割っちゃいまして」

「ええ? 気をつけてね、片付けも、これからも」

「はい、すみません」ペコペコとお辞儀をしているうちに、店長は奥に引っ込んでゆく。

「先輩、ありがとうございます」

「いいよ、別に。でも、次はかばえないからね」

「はい」

 その夜、衝撃的なことをさらりと書いて申し訳ないが、例の彼女が同僚の財布から金を抜いているところが目撃された。

「違うんです」と、彼女はいう。「先輩にいわれて」

 これも驚くべきことである。

 指をさされた洋斗には寝耳に水の出来事であった。

「本当かい?」と店長が疑いの眼差しを向けてくるのも信じられない。

「そんなわけないじゃないですか」

「あたし、先輩に脅されて、怖くて怖くて」彼女は泣き始め、頬を伝う涙が顎からこぼれる。「もう仕事も手につかなくて」

「ちょっと待って」と洋斗は笑う。「そんなこと信じるわけじゃないでしょう」

 が、さらに驚いたことに、店長の眼差しに軽蔑の色が加わってドス黒い。

「ちょっと店長」

「嘘であれだけ泣けるはずは……」

「冗談じゃないっすよ。こいつは最悪の悪女ですよ。皿を割ったのだってこいつで、おれはそれをかばってやったんだ。人の恩を仇で返して、罪をなすりつけて恥じない女だぞ」

「ヒドいっ!」と喚いて、また泣く。

「洋斗くん、君ねえ」

「店長、まさかこのクズのことを信じるわけじゃないでしょうねえ?」

 うーん、としわの寄った額を掻いた店長がいう。「とりあえず、しばらく来なくていいから」

「店長っ!」

「二、三日考えるから」

「そんなバカな話あるか」

「あんまり暴言をいうとクビにするよ」

「こんな職場、こっちからお断りだっ!」

 制服のジャケットを脱ぐなり、床にたたきつけ、部屋を出る。すぐさま帰路について、しばらく歩いたところで雨に打たれた。ポツポツ、と夜道を濡らす。

「あ、先輩」と後ろから声をかけられ、目を剥いた。あの女が平気な顔をして自転車に乗りながら手を振っているのだ。

「ごめんね、迷惑かけて」

「ごめんねじゃねえよ、おまえのせいで」

「まあまあ、付き合ってあげるから」

「はあ?」

「あたしのこと、好きなんでしょ? 付き合ってあげる。それで許してよ」

 一瞬、なにをいっているのか理解できなかったが、頭が回るにつれて白熱してくる。降りかかる小雨を熱して湯気にする。

「このクズ野郎っ!」

「野郎じゃないし」

「二度とおれの前に出てくんじゃねえぞ、カスがっ!」

 走り出して最寄り駅に駆け込んだ。一人暮らしのアパートまで二駅でしかない。いつもなら歩いて帰る距離だが、雨模様だし、あの女に会いたくないし、仕方がない。荒い息のまま満員電車に乗り、目的の駅で降りようとしたところで腕を掴まれた。高校生とその制服でわかる女性に。

「この人、痴漢です」

「はあ?」と彼女の正気を訝しんでみたが、周りの人間は洋斗の正気を訝しんでいる。

「なにかに間違いだよ」

「だって、ずっとはあはあいってるじゃないですか、気持ち悪い」

「走ってきたから、はあはあいってるんだよ」

「とりあえず降りて」と駆けつけてきた駅員に引っ張られる。「事務所で話そう」

 それから駅員と通報を受けた警察に弁解しても聞き入れてもらえず、眠れぬ夜を拘置所で過ごしてから、女性の方が勘違いかもしれないといったらしい。突如釈放され、夕方の町に投げ出された。

「申し訳ありませんでした。先方の間違いだったようで」

「申し訳ありませんでしたじゃ許されないでしょう」

「はあ、そうですが……」

「大体、あなたたちがおれの話を聞いてくれないで一方的に決めつけるから、こういうことになるんですよ」

「ですが、疑われるようなことをしていたのも事実でしょう。呼吸は荒かったし、彼女のうしろにも立っていたようだし」

「たったそれだけで……」

「ともかく、今後はお気をつけください」

「おまえ等がな」

 唾を吐きかけたいところだったが、それでまた捕まるのもバカらしいから、足早にその場を離れた。スマホの留守番電話には、店長からクビの一報も入っていた。

「くそ」どちらにしても二度と顔を見せるつもりはなかったが。

 家まで数キロはあるだろう。さすがに歩いて帰る気力はなく、忌々しいことではあるが、再び電車に乗った。その時間は車両も空いていて、二人掛けの席に、ジーパンのポケットに手を突っ込んだまま腰掛け、次の次の駅で乗り換えだなあと考え、ふと視線を上げたら自分の呆けた顔が夜の窓に映っていた。

「終点となります。この車両は車庫に入りますので……」

「ヤバいっ!」と跳ね起きても時間が戻るわけでもなく、車両がレールを逆走するわけでもない。ドアに張りついて終点に降りるしかなかった。逆方向の電車には乗ったものの、乗り換えの電車がなくなっていた。アパートまでおよそ二十キロ。

「くっそー」

 なんでこんなことに。おれがなにをしたというのか。頭に来る。全身が燃え上がるようだ。特に涙腺が。泣くものか、おお、そうだ、こんなところで泣いてたまるか。

「くそ」

 蹴り上げたつま先が竹でできた柵を破って、石積みをぶち壊した。何事かと傍を見やると立て看板がある。なにかを奉っていたらしい。

「ああー、もう」叫びたくなるのをこらえ、それらしい石をそれらしく積むが、それらしくてもそのものとはいえない。原型がわからん。「どうすりゃいいんだよ」

「こらーーっ!」

 あまりに原始的な台詞が舌足らずな声音で鳴ったことに虚を突かれて、怒りも苛立ちも忘れて振り返った。周りの街灯の余韻で、その雰囲気が窺える。歳は十六歳くらいだろう、茶色い髪の愛らしい女の子が憤怒の表情で仁王立ちしていた。

「なにしてんですか、御神体を蹴っ飛ばすなんて」

「別に好きで蹴っ飛ばしたわけじゃないけど、君はここの子?」御神体は白漆喰の壁に隣接していて、奥には大きな破風が見える。「ここの神社の子?」

「違いますけど」

「そっか」後悔の念が押し寄せてきて、思わず頭を掻いてしまう。「さすがに悪いことしたなあ」

「悪かったと思うなら、なんでこんなことをしたんです?」

「それが、昨日からろくなことがなくって、ずいぶん苛ついてたんだ。悪かったよ」

「ははあ」と顎を擦る彼女。「詳しく聞かせていただけませんか?」

 高校生にも見える女の子に相談するなどどうかしているとしか思えないことであったが、堰を切った感情が止めどもなく出てくる。しまいには泣き出してしまって、背中を擦られていた。我ながらみっともない。

「なるほど、なるほど」

 彼女が宙に指を滑らせると、四角い青色の光が現れる。洋斗が我が目を疑っている間、彼女は、はあはあ、と一人首肯している。

「なにしてんの?」光の中を覗こうとする。

「秘密」と彼女は身を退く。すぐに指を走らせて、光を消した。「大変な二日間だったんですねえ」

「わかってくれるんだ」

「わかります、わかります。理解者を得られない苦しみはわたしもわかります。わたしも係長から怒られっぱなしで」

「なに? 社会人?」

「上下関係の荒波に揉まれているという意味では」

 彼女は竹柵の手前でしゃがみ、鑑識のように地面を漁っては石を拾って、投げ捨てて、また別の石を拾っている。

「なにしてるんだよ?」

「壊れっぷりを見ています」

「悪かったよ。盛大に壊して」あれ、と呟く。「でもここの家の子じゃないんだろ? この辺りの子? 檀家の子とか?」

「違いますけど」

「じゃ、なんなんだ?」

「ああ、いうか、いうまいか」ま、と呟いて、彼女は立ち上がった。「今回はわたしがなんとかして差し上げましょう」

「なんとかって……」

 彼女が、ぱん、と手を叩く。と、竹柵の周り、内側が黄色い光に包まれて、折れた竹材が繋がり、きれいに組まれ、石はするすると組み上がって塔を作る。

「はい、これで完了です」

 なにかの魔法としか思えない現象に、呆然とした洋斗はなんとか首を回して、まばたきをしながら彼女を見つめた。

「なんなんだ、君は?」

「わたくし、天花、といいます。あなたは?」と洋斗の顔を覗き込むようにして小首を傾げる。洋斗はというと、たじろいで身を退いた。

「洋斗っていう」

「では洋斗さん」

「なによ?」

「さすがに、無罪放免、というわけにはいかない。そう思うでしょう?」

「まあ、多少は思うけれど、君はこことは関係のない子なんだろう?」

「あら、でも、いまこれを直したのはわたしですよ。もう一度、壊れた状態に戻すのも……」

「わかった。悪かった。関係ない子じゃない」

「なにかお礼をしてもらえることはあるかしら」と彼女は、くるくると身を翻し、二歩、三歩、と跳ねるように歩いていた。そうです、ときらめく長髪をなびかせて振り返る。その顔が思いの他、鬼気迫っていた。

「わたしのお仕事のお手伝いをしませんか?」

「君の仕事の?」

「日給を払います。そうですね、一日金五グラムでどうです? カネじゃありません、キン、元素記号Au」

「なぜ金?」

「金ならいくらでも用意できるからです」

 なんだか胡散臭くなってきた。しかし、金五グラム、検索してみると単価は悪くない、むしろいい。

「仕事内容次第だ」

「端的にいうと世界救済です。いま逼塞している世界が無数にあるから介入して助けたいわけです。でも、わたしが行くと角が立つんで、別の人に。ここであったのもなにかの縁ですもの」

「なにそれ? なんかのゲーム? ベータテスト的な?」

「似たようなもんです」と天花は勢いこんでいう。「身の安全は保証しますし、一騎当千気分爽快です」

「なんとか無双みたい」

「実際無双になるんですよ」

「金も本物なんだろうな?」

「もちろんです」と翻した天花のチーカマのような指に、きらめく石が挟まれている。受け取ると見た目以上にずっしり重い。「前金ですよ、金だけに」

 に、と笑う彼女の口元は不気味である。しかし、金五グラム。バイトがクビになったいま、断るには惜しい。

「わかった。いつからやるんだ?」

「早速行きましょう。洋斗さん、大学生ですよね? 明日は日曜日ですし、予定はありませんよね?」

「まあ、ないけど、オーバーナイトはキツい」

「大丈夫、憂鬱な気分も疲れも一発で吹き飛びます」

「だんだん標語がヤバくなるなあ」

「はい、ワープッ!」

「なに」と呻いている間に青空の下に放り出される。高地の荒野に呆然と立って、眼下の土煙を見やった。何万にも及ぶ人の群れが手に刀槍を握り振り、どこからともなく生じた光が走って、炎が飛び交う。

 肌を撫でる乾燥した空気の熱、土の煙る臭い、鉄と火炎の気配は本物の圧をもって身を炙る。

「なんだこれ? 本物の戦争みたい……」

「ちょうど大規模な合戦をしていますねえ」と天花は空間ディスプレイを操りながら舌なめずりする。「洋斗さんにはこの戦場を突っ切って、向こうの赤い旗の下にいるアルフレッド帝、通称魔帝を討伐してもらいます」

「ちょっと意味がわからない」

「今日は初回なんでチュートリアルですね。簡単に説明します。青い旗が味方、赤い旗が敵、武器にはコレを使ってください」

 投げ渡された赤い球を受け取って、天花を見やる。

「素手やら念力で倒すより、武器があった方がわかりイイですものね。念じれば望みの通りの武器になるようにしてあります」

「念じればって……」いってる間に球から光が伸び上がり、片刃の剣のシルエットのまま固定された。金色の炎のように刀身の縁を揺らめかせ、赤い球は鍔に収まっている。「スゴい」

「服もそれでは貧相ですから」

 どこから取り出したのか、黒いコートを渡されて着込む。

「これで彼らの攻撃は効かないし、武器の一振りで軍の一つも潰滅できます。いわゆるチートですね」

 ふわ、と天花の体がわずかに浮いて、また驚いた。

「どうなってるの?」

「わたしがこの世界を支配しているので、ある程度は自在に動かせるのです。ちなみに、洋斗さん以外にわたしの姿は見えませんから、あしからず」

 行きますよ、と短く言った天花に背中を押されて、洋斗はそのまま崖を落ちていく。

「ちょ」と呟いた体中の血が沸騰する。切る風の音。身を引く星の重力。慌てて伸ばした足が絶壁を蹴り、我が身を天空へ放り出した。信じられない距離を飛ぶ。百メートル、二百メートル、下はすでに戦場で、不思議そうにこちらを見上げる目すらある。

 ぐるぐる、と激しく前宙を繰り返し、手の一本と両足で着地した洋斗の一刀が空を斬り、喧騒と闘争の波を断つ。

 一呼吸、二呼吸ぶんの沈黙。

 うおおおおお

 次の瞬間には猛烈な雄叫びが天地に轟き、剣戟が響く。

 洋斗のもとにも刀槍が殺到し、その身を裂かんとする。が、白銀のきらめきがやたらに遅く、洋斗には見える。遊び慣れた音ゲーのノーツのようだ。

 ひょいひょいと切っ先をかわし、黄金の刃を振り抜く。揺らめく刀身は差し向けられた刃を断ち、同時に放たれた衝撃波は人の群れを吹き飛ばす。さらに一振り、二降り、洋斗の眼前の兵は竜巻の前の塵のごとくに吹き飛んで、新手も近づけず人垣の向こうまで放物線を描く。

「ていっ!」と気合いを入れて一回転してみると、激しい衝撃波とともに、洋斗の周りには空き地ができる。

「ば、化け物だあ!」

 背を向けて走り散る赤い旗の兵。

「なんという爽快感」ゲームなのか、幻なのか、なにかのシミュレーションなのか、いま自分が置かれている状況がよくわかっていないが、ともかく爽快である。

「カンペキですね」といつの間にか隣にいた天花がいう。「さっさと揉み潰してしまいましょう」

「おう」

 剣を振れば、砂浜に線を引くのよりも容易く道ができ、走ればエンジンを積んでいるかのように早い。

 遠くの空から流星群のように降り注ぐ光の雨が洋斗の四方を穿って煙らせ、さらに殺到してくる。身を翻す洋斗の頬を尋常でない熱が炙って過ぎる。

「なんだ、これは?」

「魔法という奴ですね。この世界の人は術式を理解すれば誰でもある程度自然を操ることができるのです」

「ファンタジーだ」

「剣と魔法の世界です」

「面白い」

 光の豪雨を駆け抜けて、時には揺らめく刃で斬り飛ばし、人垣を天空に打ち上げては戦場を行く。


     〇


 火炎を帯びた拳に刀身を砕かれ、戦いた身も打たれる。鎧の胸元が鉄片に変じて、白い胸元が赤くただれる。息をするのも難しい。

「うぐぐ」

「王国最強の騎士などといってもこの程度か。下らぬ」

「まだ、わたしは……」起き上がろうとした頭を蹴り抜かれ、飛ばされるままに転がって地べたを這った。盛大に漏れた吐血がベージュの長髪を赤く染める。

「遊びは終わりだ」立ちはだかる大男が太陽を背にいう。「消し炭も残さず、その命を断つ」

 両の拳を腰元に構えた。

 もはや抗う術もない。

 足の一本も動かず、指を握る力すら残っていない。自らの非力と世の無残を呪わずにはいられない。涙が頬を伝い、絶望が吐息となって唇を濡らす。

「たっ!」

 聞き馴染みにない声が発し、太陽の温もりが背中に落ちる。かろうじて動く視線を前に向けると黒い外套の男が光輝く剣を構えていた。

「おいおい、大丈夫かよ?」

「あなたは……」何者か、と問う余力もなく、身を起こそうとしたところで男が怯んだ。こちらの胸元がはだけていることを気にしたらしい、目をそらして中空を見つめている。

「あのさ、天花」と独り言をブツブツと呟いている。「ああ、そうそう。わかったわかった」

 危ない奴だ。

 訝しんでいる間に、なんだか呼吸が楽になってきた。見ると、胸元の火傷も回復して、なめらかな肌が戻ってきている。治癒魔法だ。それも相当レベルが高い。

「いったい、あなたは……」

「やってくれるな」

 声の方へ目をやると、拳に炎をまとわせた敵が悠然と歩み寄ってくる。

「オレはアルフレッドさまに使える四天将の一人、コルフェドール。貴様は?」

「洋斗」

「なかなかの戦士と見受ける。勝負」

 コルフェドールの、構えられた拳の炎がたぎる。陽炎が空を歪ませながら疾駆する。大地を砕き、大気を鳴らし、その猛威の前に洋斗と名乗った男も戦慄した様子で退く。灼熱の舌先が黒い外套を舐める。

「逃げるだけか、小僧」

 一際大きく振り抜かれた拳が洋斗の鼻先で空を切る。同時に光が一閃、コルフェドールとすれ違いざまに洋斗の剣が敵の胴を抜き、間合いを斬った。どう、と巨体が倒れ伏す。

「い、一撃で……」魔力を奪い尽くしたのだ。肉体を傷つけず、卒倒させている。「あの四天将のコルフェドールを」

「おい、話が違うぞ」と洋斗がいう。「ここにその魔帝がいるんじゃないのかよ? 情報が違う? あのな、そんなこといわれたって……」

 頭を掻いて顔をしかめている。

「あ、あの……」と、恐る恐る声をかけた。洋斗はちらとこちらを向いて外套を脱ぎ、こちらに投げて渡す。胸元を隠せというふうに。彼の外套の下は見慣れない服装である。別にいいだろ、と宙に怒鳴っている。

「あの」と機嫌と頭を窺いながら声をかけると悪くないらしい、無愛想な顔をこちらに向けた。「わたくし、レイチェルと申します。御助力、感謝いたします」

「あんた、アルフレッドってのがどこにいったか知らないか?」

「あ、王城の方に進軍して」

 王城の方角を見ると山が一つ。あれを越えなければならないとはいえ、ずいぶん前にここを離れている。

「急がなくては」

「向こうに城があるんだな? アルフレッドはそっちに行ったと?」

 レイチェルが頷いたのを認め、洋斗は地を踏み切った。残像を宙に残して消えていった。


     〇


 紫色の霧が滞り、巨大な槍を形成すると宙を走った。

「お父様っ!」

 父の掲げた刃を擦過して胸を貫き、その肉体を押し込んで、背後の玉座を砕き、大理石の壁に貼り付けた。赤い濁流が浮いた足を伝って赤い絨毯を色濃く染める。

「そんな……」膝に力が入らず崩れ落ちるしかなかった。

「今日、王国は終わる」アルフレッドが赤いマントを翻し、金色の髪を掻き上げる。「王女殿下、貴殿の死によって」

「あ」と呟くことしかできず、後退り、しかし距離を取れず、アルフレッドの掲げた手が頭上に伸びる。

 そのとき、アーチ窓が激しく砕け、ガラス片を散らした。ゴロゴロと、一人の男性が飛び込んできて金色の炎に包まれた剣を振るう。

「あんたがアルフレッドか?」

「何者だ、貴様?」

「負けてもらうぜ、金五グラムのために」

 知らぬ男性が視界から消え、アルフレッドの眼前でスパークが弾ける。

「なにっ?」

「弾かれた」

 両者驚きに顔を歪め、それぞれの剣を構え直す。交わった一撃が凄まじい圧を発し、謁見の間を軋ませ、王城を揺らす。

「な、なんという力だ……」

「おいおい、話が違うじゃねえか」

 さらに一、二撃交えて、アルフレッドのかかとがにじって下がる。顔が苦渋に満ちている。

「お、圧している……」あのアルフレッドを。人類最強と謡われ、この戦争においてそれを証明した魔術師を。「救世主さまだ……」

 王国の滅亡に際し、神が送り賜うた救世主さまだ。そうとしか思えない力である。

 彼が上段から振り下ろした剣に、アルフレッドは堪えられず、数歩も下がる。

「こんなことがあるものか」と口走ったアルフレッドの顔が蒼い。

「アルフレッドさまっ!」

 大扉を蹴散らして現れた四天将の三人が彼を囲む。

「止めろ」とアルフレッドが叫ぶ。「その男は普通じゃない」

 救世主さまは、突き出された槍をかわし、魔術の氷塊を刀身で砕き、振り下ろされる剣を断つ。三人と続けざまに交錯し、尽く一刀のもとに卒倒させてみせた。

「すごい」

 四天将といえば、一つの軍隊にも匹敵するといわれる力を持つというのに、それを一瞬で、三人を同時に。アルフレッドも呆然とし、したのも一瞬、柄を握る拳をかたくし、歯を軋ませた。

「許さんぞ、貴様」

「来なさい」

 彼は余裕を笑みにして剣を構える。が、その表情が凍りついた。アルフレッドの周囲で紫色のスパークが激しく爆ぜたのだ。常軌を逸した魔力の波動に空間が歪んで見える。紫電の奥にある冷たい眼差しが彼を刺した。

 目を白黒させて狼狽える救世主さま。

「貴様、覚悟はいいな?」

 アルフレッドが紫色の尾を引いて駆ける。光の剣に一刀を打ち込み、身を翻して二刀、救世主さまが後ずさる。

「こ、これがラスボス級」と意味のわからないことを呟く救世主さま。

 さらに一、二合打ち合うが、アルフレッドの剣戟が速い。いや、救世主さまは精神的に圧されているのだ。たまらず大きく飛び退いた。

 見計らったように、アルフレッドの左手に紫色の霧が凝って、暗く輝く。

「砕けて消えろっ!」

 突き出された左手の輝きが爆ぜる。生まれた紫電は救世主さまを飲み込んで、衝撃波が城を崩して瓦礫に変える。舞い上がった噴煙の向こう、ようやく見えてきた爆心地には黒い霧が滞って、あまりの力に周囲の塵芥が引き寄せられて渦を巻いていた。

 王族に伝わる防御魔法でも、その余韻を受け止めて揺らめいている。かろうじて耐えたといって過言ではない。直撃を受けて生きていられるはずが……。

「バ、バカな……」

 アルフレッドが呟くのが聞こえる。

 炎のようにたゆたう剣の切っ先が見える。天空からさす太陽の輝きが塵に霞む中で、揺らめいていた。

 アルフレッドが膝を屈し、倒れたまま動かなかった。

 救世主さまは間合いを斬り、刀身を鞘に戻そうとして鞘がないのに気づき、持て余していた。

 防御壁を解き、彼に近づく。

「あの……」

 彼の瞳と視線が交わる。天にも昇る心地よさに笑みと涙が溢れてくる。

「お名前を、伺ってもよろしいでしょうか?」

 あー、と彼は頭を掻く。

「洋斗っていう」


     〇


「ワープ」

 と、遠くから声が聞こえて、は、と目が覚めた。暗い。夜の街路である。

 LEDのライトが白々と光っているのが白々しい。はたはた、と蛾が右往左往しながら飛んでゆく。

「おれはいったい……」

 エステリカを名乗る王女さまに、国に残って力を貸してほしい、と嘆願されたことまでは覚えている。いや、そのあと、先を急ぐ旅であるからと、断るよう天花にいわれ、いわれたままに断り、見送られて城下街を出たところまで覚えている。そのあとは……?

「ゆ、夢だったのか?」

「夢ではありませんよ」

 すい、と横合いから、天花が滑るように姿を見せた。

「あ、おまえ」

「任務終了です。お疲れ様でした」

「いまのは、一体なんだったんだ? 夢だったのか?」

「夢じゃありませんよ。現実です」

「現実?」

「歩きながらお話ししましょう」と、数歩踏み出した天花の足がぴたりと止まり、視線を一点を見据えたまま動かない。瞳が小刻みに揺れている。

 洋斗がその視線を追うと、ひとつの光がある。ラーメン屋だ。

「そういえば、腹、減ったかも」拘置所のランチを食べて以来、なにも口にしていない。

「なら行きましょう。空腹では血の巡りが悪くなりますよ。寿命が縮みます」

 チェーンのラーメン屋に入って、誰もいない店内のボックス席に座を占めて、オーダーを取りに来た店員に洋斗はいう。

「ラーメンと餃子」

「ラーメンと餃子とチャーハンと油淋鶏」

「えっ!」と思いの外大きな声で叫んだ洋斗は、向かいのソファーの天花を見た。光の枯れた眼差しで一心に虚空を見据えている。

「そんなに食べるの?」

「オナカペコペコダナー」お腹をさする。

「まあ、いいけどさ……」

 そこで店員の不審な目に気づき、洋斗は頷いた。

「それで、お願いします」

「はあ、かしこまりました」

 店員の背中を見送った天花の瞳に光が戻る。

「では先ほどの説明の続きを」コホン、とひとつ、咳払いをする。「まず、わたしたちは人間じゃありません」

 え、と呟いても、これは首を傾げるだけであった。あまりに意味がわからない。

「わたしたちは生き物の出すフェイスという思念を糧にして生きる生き物です。だから人間じゃありません」

「あれだけ炭水化物と脂質を頼んでおいて、よくもまあそんなことを」

「あれはオヤツですよう」と笑う。「意味なんてありません」

「ウソだろ? あれだけ頼んでオヤツ?」

 眉をひそめる洋斗を無視して、それでですね、と天花が続ける。

「わたしたちはフェイスを回収するために世界を育てます。畑のようですね。耕し、色々な作物を育てます。その中で、わたしたちに容姿を似せてデザインされた人間から最も効率よくフェイスが回収できることがわかったんです。で、このフェイスというのは人の人ならざるモノへの信仰、いわゆる神や自然に対する信仰、なにかを愛おしむ心、命をいたわる心、未来を信じる力や、未知を探求する意志なのです。そこでわたしたちは、創造部が作成した世界に生きる人が、フェイスを精製しやすいような環境に世界を整えてあげる、と、そういう務めをしているんです。いまわたしの抱える世界が四百十三個ありまして、多くは安定しているのですが、不安定なものもあります。人類同士、いがみ合い、殺し合っている状態ですね。そうすると、行き着く先は滅亡です。わたしはそうならないように世界を調節したい、でも如何せん手が回らなくって救えない世界もあります。そこで、洋斗さんにはわたしの庇護の元、勇者さまになっていただき、世界を救ってもらいたいのです。あくまでわたしに都合のいいように、ですが」

 運ばれてきたラーメンをすすり、餃子をかじり、チャーハンをかき込みながらいうから、咀嚼音に混じってよく聞こえない。しかし、内容は大体右の通りだ。

「この世界も誰かが調節してるっていうのかよ?」

「この世界はわたしの管轄です。他職員の管理する世界に入るのは咎められないまでも推奨されていません」

「さっきの世界も?」

「そうです」シナチクを一本ずつ、大事そうに食べる。「わたしもね、ずいぶんと警告したんですよ、あのアルフレッドさんに。もっと穏便な方法で世界を変えてはいかがですか、武力での改革など天罰が下りますよって」

「どうやって?」

(こんなふうに)と洋斗の頭の中に天花の声が響き、目の前の顔が得意気に口角を上げる。

「イマイチ信じられん」

「ま」と呟いた天花が心外な顔をする。「コレだけの奇跡を受けて疑うなんて」

「おれはなにと戦ってたんだ?」

「人ですよ。この世界と同じ種の、人です。人が作った国家であり、なぎ倒したのも人です」

「でも魔法を使ってたじゃないか」

「その点、この世界は幸運でしたね。遥か昔に魔力を捨てたおかげで大して大きな戦争もなく、寿命を延ばしています」

「戦争はあったけど」

「魔術の類があったら滅んでましたね」ははは、と笑う天花。

「しかし、そうだとしたら、あんなに乱暴に薙ぎ払ってよかったものか、どうか」一般兵を。

「洋斗さんの一撃では体にはダメージがなく、卒倒するだけの仕様にしてありました。大丈夫ですよ、たぶん」

「たぶんて……」

「科学ではなかなか絶滅しませんね、人類は。生産力があがるからかしら」と天花は箸を持ったまま、両手を天秤のようにする。「こう、破滅の力と拮抗しやすいんですよ。でも魔力がないとフェイスの生産効率が著しく低いです」

「低いとどうなるんだ?」

「普通は破滅処分です。センメツギョクってアイテムを使って、一撃で星を破滅させます。残るのは無数の岩石ばかり。一般に、その世界に生きていた人たちはなにが起きたのかもわからないまま消滅するといわれています。安楽死ですね」

「ホントに? そんな簡単に世界を滅ぼして虐殺してるの? この世界もさっきの世界も、行き詰まったら、ボカンで終わり?」

「そうです」と天花は勢いよくラーメンをすする。「リマスターする前のスターウォーズエピソード4の星くらい呆気なく吹き飛びます」

「なんでそんなこと知ってんだ?」

「観ましたから。映画館で」

「おまえ、本物かよ?」

「ふー、ご馳走さま」四品をペロリと平らげた天花が手を合わせて頭を垂れる。

「さあ、行きましょう」

 レジ前に立って、

「お会計はご一緒ですか?」

「いえ、別々……」

「ご一緒で」

 天花を見やると、魚が死んだような目を店員に据えたまま表情筋の一筋も動かさない笑みを浮かべいる。

「いや別々……」

「ご一緒で」

 繰り返す天花は洋斗と目を合わせない。

 仕方なく会計を済ませた洋斗は、店を出るなり天花を睨んだ。

「おまえ、金は?」

「やだなあ、わたし、四百の世界を行き来してるんですよ。いちいちお金を持ってたらお財布パンパンになっちゃう。電子マネー導入してる世界なんて少ないんですから」

「おまえ、おれよりだいぶ食っといて」

「まあま。怒らないで。お礼に洋斗さんのアパートの前までテレポートしてあげます」

「はあ?」

「安心してください。命は削られません」

「なんだ、それ?」

 いっている間に景色が変わり、洋斗はアパート前の駐車場に立っていた。頭が重みを増して、くらりと揺れる。

 現実と幻想の境が曖昧になっている。

「大丈夫ですか? 洋斗さん」顔を覗き込んでこようとした天花を払いのける真似をする。

「ああん、せっかく心配してあげてるのに」

「とにかくおれは寝る」

「ではお仕事の約束ですけど」

「考えとく」

「ええ? こんな優良契約なのに」

「悪魔との契約かもしれん」

「ヒドい」

 洋斗は天花を駐車場に残し、八畳一間の自室に入るなり、ベッドに潜り込んだ。


     〇


 翌日、いつもの習慣に従って昼前に起き出し、大学の研究室へ向かった。鍵がかかっている。

「ああ、今日、日曜日か」

 昨夜のことで時間の感覚がおかしい。

 しかし、昨日のあれは真実であったのだろうか? 無数にある世界の存亡を左右する管理者を名乗る小娘。見た目は愛らしくあったが、能天気そうな顔をしていた。頭が狂っているのではなかろうか? いや、狂っているのは、彼女か、それとも、そういう幻想を作る自分の頭か。

 鍵を開けて、デスクでぼんやりしているとスマホが鳴った。

「昼飯に行こう」と通話口の向こうが叫ぶ。「いまどこいんの?」

「研究室」

「日曜日なのにご苦労だな。まあ、かくいうオレもだが。研究者に休みなしってな」

 しばらくして研究室に来た茶髪の男、柊と連れ立って大学の正門へ向かうと、見知った人影があった。ぎょっとして、我が目を疑うが間違いないらしい。洋斗と目を合わせた天花の顔がほころんでいる。

「ああん、お兄ちゃあん」

「おまえ、なにしに来た、っていうか、お兄ちゃんって……」

「なあに? 生まれたときからお兄ちゃんでしょ?」

「バカいうな」

「なに? 妹?」と隣の柊がチノパンのポケットに手を突っ込んだまま笑った。「スゲー可愛いじゃん。紹介しろよ」

「やん、可愛いだなんて」身をくねらせる。

「紹介するほどのものじゃない」

「そんなこといって、妹ちゃんを守りたいのかい、お兄ちゃん」

「お兄ちゃんいうな」

「お兄ちゃんお兄ちゃん」

「お兄ちゃんお兄ちゃん」

「もういい。帰る」

「おい、怒るなよ」

「そうですよ。度量が狭いですね」

「だよねえ」

「ねー」

 バカとバカが頷き合う。

「可愛いね、歳いくつ? 十六? 趣味は? 好きな食べ物とかは? 休日はなにしてるの? 彼氏とかは? いる?」

 富士の天然水より滔々と湧き出す質問はガンジスの流れより淀んで人間の生の感情を湛えている。それは定食屋で白飯をおかわりする天花の前でも続き、彼女のぶんの会計を払う洋斗の横でも続く。

「今日ははるばる遠い実家からお兄ちゃんのところに遊びに来たんです」

「へえ、仲がいんだねえ」

「運命共同体です。わたしが女神さまなら、お兄ちゃんは勇者さまです」わけのわからないことを宣う。「ね、お兄ちゃん」

「実家に帰りなさい」

「冷たい」と顔をしかめる。「オーバーデビルか」

「おいおい、お兄ちゃん。せっかく遊びに来た妹ちゃんにそりゃねえだろ」

「そうはいっても……」

「妹ちゃん、仕方がないからオレと遊びに行く?」

「行きません」

「ここはシベリアより寒いぜ」

 研究室に戻る洋斗に天花もついてくる。

「それで」と回転椅子の上でグルングルンに回り、長い髪で円弧を作りながら訊いてくる。「わたしのお手伝いをしてくれるんですか?」

 椅子にもたれた洋斗は、ふー、と長いため息を吐いて、応えた。

「少しだけ、手伝うことにしようかな」


     〇


 すでにいくつの世界を救ったであろうか。

 人間とその亜種はもちろん、巨大な竜や無機生物、無機とか有機の範疇に属さない正体不明から邪神や地獄の王を自称する怪人まで、様々な敵と刃を交え、勝利を重ねながら、自壊しようとする星を修復したり、迫り来る隕石を押し退けたりもした。

「スーパーマンよりスーパーだ」

「もうじきマーベルに入れますね。雑誌が違いますが」

 一日当たりおよそ三つ、多い日には五、六個の世界を救い、今日はすでに三つ目。世界ごとに時間の経ち方が遅かったり早かったり、向こうの一分が十年であったり、百年であったり、様々であるが、今日はもうおしまいであろう。

 横殴りに振り抜かれた大剣を足下に見て、身を捻るとともに光の剣を振るう。敵の額にある角を断ち、紫色の肌を持った胴を撫で斬りにする。三メートルはあるであろう鬼に似た巨躯が背中から、どう、と倒れた。

「貴様のような、小僧に……」

 洋斗は常闇の世界の空を見上げ、岩石を削っただけの城郭の屋上から飛び降りた。

「お疲れ様でした」と天花の声が聞こえる。「無事終了したようですね」

「ああ、今日はこんなもんか」

「はい。いま転送しますから、ちょっとお待ちを」

 暇を持て余して街の方へ向かう。この辺りの住人は光を必要とせず、別の感覚器官で状景を捉えているらしい。にも関わらず、街の方に灯火がある。それも数千と並んであるのは異様な光景であった。

「奴らを皆殺しにしろ」と口々に叫んでいるのは洋斗と同様のデザインの人間である。この世界を二分する勢力の半分、天花が守ろうとした思想を持つ種であり、鬼と敵対する者たちである。手に手に刀槍を持ち、逃げようとする鬼たちを、老若男女の見境なく、背中からでも串刺しにしてゆく。

「殺せ、殺せ」と、紫色の血飛沫に呑まれながらの大合唱である。

 親に手を引かれた鬼の子供がつまずいて倒れ、槍の穂先が小さな背中を狙う。母親の悲鳴が鳴る中、洋斗は長柄の上に降り立ってへし折った。対峙した人間兵の額に血管が浮き上がる。

「貴様、なにをする!」

「なにをするって、あんたたちの邪魔をしてる」

「人間が、鬼の味方をするか」

「虐殺を見て、見過ごすことはできない」

「貴様」口角に泡を噴きながら腰の剣を引き抜いた。「この裏切り者が」

 飛びかかるようにして最上段から振り下ろされる刃を光の帯が断ち斬った。二枚目の帯が人間の体を吹き飛ばす。異常事態を察したジェノサイダーたちの視線が洋斗を向いた。

「敵だ。奴らに味方する裏切り者だぞ」

 血相を変えた人間たちが群れをなして襲いかかってくる。

「果たしてどちらが鬼か」

 洋斗は剣を振り振り、人間軍を彼らの侵入口であった洞窟まで押し返し、頭上の岩石を砕いて、その穴を塞いでしまった。

 これで良かろう。

 振り返ると、暗い岩石の街並みに紫色の屍が無数に横たわっている。逃げ遅れた人間が絶望の悲鳴を上げながら鬼にひねり潰され、補食されるのも見て、洋斗は頭を振った。

 天花が救済しなければ終末を迎えていたわけだ。

 しかし、とも思う。

 おれがいなければ不幸にならなかった者もいるのではなかろうか?

 あの鬼の子供も母親も、虐殺の恐怖を覚えなくてよかったであろう。

「それはそうですよ」と転送してくれた天花がポテトチップを頬張りながらいう。洋斗の部屋の座椅子にふんぞり返り、空間ディスプレイをタップしては片手にしたドクターペッパーを喉に流し込む。「当然、わたしたちが味方しなかった方は主導者を失い、衰退しますもの」

「それでも世界を救済しなきゃならないのか」

「でないと破滅に転落しますから。少しでも延命させているのです。世界の医療ですね。悪い細胞を駆除して正常なバランスを保つ」

「しかし局地的には不幸を招く」

「でも、わたしたち職員には必要なことですから」

「こうまでする必要があるのかな?」

「洋斗さん、人間だって稲に虫がつくからって、農薬を撒きますよね」

「おれたちが相手にしてるのは、意志を持った人間とそいつらが住む世界だ」

「虫だって意志をもって畑の中に住んでいます。おれたちは害虫とは違う、っていってるかもしれません」

「むう……」と押し黙る。

「洋斗さん、所詮命に差はありません。だから自分の種が優位になるように生きなければ。ただ滅亡するばかりです」

「おれは、それを傲慢だと思う」

「傲慢です」と天花は居住まいを正した。「だから敬意を払わなくてはいけません。命と世界に」

「おまえたちのやってることは敬意を欠かないのか?」

「わかりません。わからないから自問します。これが正しいのかって。考えます。考えながらやるべきことをやります。だってわたしたちは生きているから。生きていかなければなりません。わたしはわたしなりの敬意を、わたしが管理する世界と命に払っています。そのために努力しています」

 黒目がちな目を洋斗に、じっと据えて動きもしない天花を見つめ、洋斗は唾を飲み下した。苦味が強い。

「人の家でポテチ食ってる奴の台詞かよ」

「それとこれとは別問題ですう」と頬を膨らませるのを見、洋斗は目をそらした。

「勝手にいってろ。おれは夕飯の買い物に行く」

「今日はカレーにしましょ」

「おまえは帰れ」

「いーやっ!」

 一丸になって部屋を出た。月のない夜空に無数の星が、哀しげに瞬いていた。


     〇


 夜の研究室で、液体培地で大腸菌を培養している三角フラスコを撹拌機から取り出した。実験に有用な菌には抗生物質の耐性を与えている。だから、抗生物質を放り込めば有用な菌だけが単離できる。無用な菌は増殖できず、明日の昼には有用な菌だけを潤沢に回収できる。

 フラスコの蓋を開け、抗生物質のチューブも開いたところで、はたと手を止めた。

 果たして、この中にいくつの命があるだろうか。明日の昼にはどれほどの数になっていることか。二の何乗という、驚異的な速度で増えてゆくから恐ろしい数である。

 おれはいま、それを邪魔しようとしている。自らの都合で、必要なものだけを選び取るために。

 この液体が一つの世界であるのならどうであろう?

 あの鬼の母親の悲鳴が耳元で鳴った。

 甲高い余韻が残る中、洋斗はチューブを傾け、培地に抗生物質を混ぜてゆく。

 これが科学だ。


     〇


「洋斗さあん、今度の週末のことですけど」

 カーペットの上に転がる天花が腹ばいになっていう。

「いくつかピックアップして、中でも……」

「もうやらない」

「え?」と天花が素っ頓狂な声を出す。「なにをやらないんです?」

「天花の手伝いを。もう充分働いただろ」

「なんですか、急に。いままでうまいことやってきてたじゃないですか」

「みんな必死に生きてる。異世界の生き物たちは自分たちのルールの中で必死に生きてる。おれたちのやってることは命の努力を踏みにじる、ルール違反だ」

「でも……」

「もう議論はしない。天花一人でやってくれ」

「うええー、そんなあああ」

 天花が仰向けになって両手足を広げるさまは大文字だ。

「また過剰労働の日々があっ!」

「悪かったな」

「いいんですけどお」と天花は胎児のように丸まる。「無理強いはできませんもの」

 でも、と続けて起き上がった。

「時々は来ていいですか?」

「なんで?」

「ポテチを食べる場所が職場にないんです」

「勝手にしろ」


     〇


 不穏な着信音に苛まれ、目を覚ました。

 地震警報のやつだ。命の危機を感じさせる嫌なサイレンののち、グラグラとアパートが軋む。

 地震速報を立ち上げると、震源地はアラスカとなっている。

 アラスカの地震で日本がこれだけ揺れるというのは尋常ではあるまい。大陸分裂以来の天変地異だ。

 詳しいニュースをネットの波に乗りながら見ていくと、どうやらアラスカとあらゆる連絡が取れず、陸があるはずの場所は大海がうねりを上げているらしい。

 世間では、アラスカ消失、が話題になっている。

「そんなバカな」

 魔法を使ったわけでもあるまいし……。

「魔法?」

 洋斗は飛び起きて、絨毯の上でいびきを立てる天花の頬をピチピチと叩く。プリンのように柔らかい。

「おい、起きろ」

「なんですかあ? 体罰ですかあ?」いつもの黒目がちの瞳が逆3を描いている。

「寝ぼけてる場合か。おまえ、リアルタイムの世界地図を出せるだろ」

「出せますよお、管理者なんでえ」

「アラスカが消滅したらしいぞ」

「はははは。そんなバカなことあるはずないでしょう。アラスカってバカでかい半島ですよ」天花は空間ディスプレイを広げながらタップして、世界地図を確かめる。その瞳孔がみるみる開いてゆく。「無くなってる」

「おいおいおいおい、まさか、誰かが異世界から来たんじゃないだろうなあ」

「それこそバカな話です。だって、空間はわたしが管理してるんですよ? 安定していて、亀裂だってありません」

「じゃあ、なんだってんだよ?」

「過去映像を観られます」とディスプレイをタップしている間に、再びアパートが軋む。先ほどより大きい。立っていられない。

「なんなんだ?」

 慌てて外に出ると、赤毛のツインテールをなびかせた、見たことのない少女が、向かいの一般家屋の鬼瓦の上に仁王立ちしている。スカジャンにホットパンツというギャルらしい格好と真っ白な生足を隠そうともしない自信が、彼女の性格を物語っている。「おーほほほほー」とわざとらしい高笑いをするのもソレだ。

「ジェシーちゃん!」

「知り合いかよ?」

「わたしの同期です」

「天花、あんた、管理局にあんまり顔を出さないと思ったら、こんなところで怠けてたのね」

「怠けてたわけじゃないもん、仕事してるもん」

「らしいわね、最近、ちょっと成績上げちゃって」

「それより、なんでジェシーちゃんが?」

「あたしがあんたより上だって証明するためよ」

「なんだって?」洋斗は理解力できない話を聞きながら路上に躍り出て、青い空を見上げた。高いところに誰かいる。黒い点がある。「あれは……」

 ジェシーの腕が空を切る。

「アルフレッドッ!」

 高空にあった黒い点が瞬く間に降りてきて、見知った人の形になる。

「アルフレッド」初めて洋斗が救済した、あの世界の……。

「久しいな、勇者」

「おまえがアラスカを消したのか」

「すでに問答は無用だな」

 アルフレッドが腰元に携えた鞘の柄を握る。

「洋斗さんっ!」

 天花の悲鳴に近い呼び声を最後に意識が消えた。


     〇


 まぶたを開くと、きれいなフラクタル模様を施した天井があった。

 唸って身をよじる。

「洋斗さん?」

 天花の声だ。珍しく不安の入り混じった頼りない声音を探して、洋斗は視線をさまよわせた。光が眩しく、目を開けていられない

「なんだよ? ここ、どこだよ?」

「クラスタル、洋斗さんが最初に救済した世界の王城ですよ。ここなら洋斗さんを避難させてくれると思いまして」

「そっか」洋斗は丸まって、身体をほぐしながら天花の言葉を待った。が、なにもいわない。

「どうやって助かったんだ?」

「どうもこうも、わたしが連れてきたんです。大変だったんですよ。覚えてますか?」

 ようやく天花の顔が見えた。枕元に立ったまま、笑顔でこちらの様子を覗き込んでいる。

「おまえの同期が来て、アルフレッドが来て、そこから先は覚えてない」

「それより前は?」

「前? 寝てて、起きたら地震があって、アラスカがなくなってて」

「その前は?」

「大学の仕事が終わって、部屋に帰ったら天花がいて、救済の仕事はもうやめるって話。それがどうしたんだよ?」

「そうですか」安心した音が混じる。

「なんなんだ? いや、それより」洋斗は毛布を跳ね飛ばして起き上がった。「向こうの世界はどうなった? 地球は?」

「まだ滅亡はしていません」

「そうか」と胸をなで下ろした。

「でも、人類の持つ兵器は尽く尽き果てて、ユーラシア大陸は全土が焦土です。人口は三十億人にまで減少し、怯えて暮らす毎日です」

「三十億……」

「不幸中の幸いは、やっぱり魔力を棄てたことですね。兵器がなくては戦えない彼らは兵器がなくては戦えませんもの。核も、戦車も、造るまで時間がかかって。魔術であれば、人は生きている限り、勝機があります。死ぬまで、滅亡するまで戦います」

「そうか」

「それと、日本は無事ですよ。ほとんど攻撃を受けていません」

「そうなのか?」

「たぶんわたしたちをおびき寄せてようとしているんです」

「おれたちを……?」

 天花が明るく笑う。

「大丈夫です。わたしに任せてください」

「どうするんだ?」

「上司に報告に行きますよ。管轄外の世界への干渉は職員法に触れてます」プンプンと頬を膨らませ、両腕を振るう。「なんでジェシーちゃんがあんなことするのか、意味がわかりません」

「あいつは自分の方が上だと証明するためっていってたぞ」

「もうすでにジェシーちゃんの方が圧倒的成績上位です。なのに、なんでだろ?」

「おれはどうすればいい?」

「洋斗さんは休んでいてください。事が済んだら元の世界に戻れますから」

「でも、なにもしないなんて」

「まだ身体も本調子じゃないでしょう? ゆっくり休んでいてください」

「あのな、天花……」

「ほらほら」と肩を押されて、仕方なくベッドに埋まる。

「問題が解決するころには洋斗さんの身体も、きっと元通りです。あとはわたしに任せて、ね」と小首を傾げる彼女に大人しく従うことにした。失笑して、全身の力を抜く。

「頼りになればいいけれど」

「わ、わたし、ちゃんと頼りになりますって」

「どうだか」寝返りを打って、背を向ける。

「ぬぬー、じゃ、見ててください、すぐに解決しちゃいますもの」待っててくださいね、洋斗さん、と言い残し、テケテケと足音を鳴らして部屋を駆け出てゆく。

 その後ろ姿を横目で見送っていると、入れ違いに王女さま、エステリカが現れた。不思議そうに天花にやっていた青い瞳を洋斗の視線に重ね、表情を綻ばせる。

「お目覚めになられたのですね」

「ああ、ありがとうございます。ベッドを借りてしまって」

「洋斗さまは救国の勇者さまですもの。返そうにも返しきれないご恩がありますわ」

「おれは別に」主義や主張があって戦ったわけではない。ただの恥知らずだ。

「窓」とエステリカは部屋の一角を指でさす。「開けてもよろしいでしょうか?」

「ああ、はい」

 楚々と日差しの下に進み出たエステリカの開いた窓から風が吹き込み、彼女の白いドレスの裾と後ろで束ねた茶色の髪を柔らかく揺らす。涼やかな緑の香りが部屋に満ちてゆく。

「お加減はいかがですか?」

「悪くありませんよ。でも、まだ本調子じゃないかも」

 手足の関節、指の開閉、なにか違和感がある。そうですか、とエステリカが頷いた。

「妹の、天花さん、愛らしい方ですね」

「あれは」洋斗は彼女から目をそらして、天井の隅を眺めた。「あれは、ただの能天気でしょう」

「そんなことを」クスクスと、鈴を鳴らすように笑う。洋斗より少し歳上のようで、その視線や声音に弟をあやすような色がある。「とても心配していらっしゃいましたよ。洋斗さまをここの門前まで運んできて、それから二日ほど経ちますけれど、彼女、始めは目を真っ赤に腫らして、ずいぶん泣いていました」

「あいつが……?」泣くものなのか、と意外に感じた視線が外を眺めるエステリカの横顔を捉えた。美しい顔が幸せそうに話を紡ぐ。

「泣き止んでからも、少しも洋斗さまのそばを離れようとしないんです。ずっと付きっきりで、いままで」

 洋斗は再び天井に目を向けていたが、エステリカの視線に気づき、彼女を見返した。青い瞳が優しく微笑む。

「とても、いい妹さんだと思いますわ」

「そうですね」と洋斗も笑う。「そうかもしれません」

 洋斗はベッドから足を下ろし、身体の具合を確かめながら立ち上がった。悪くない。

「ちょっと、外の風に当たってきます」

「はい。無理はなさらないでくださいね」

 はい、と頷いて、足早に部屋を出てゆく。


     〇


 外に出てみると、洋斗がいたのは王城とは名ばかりの平屋であった。ただ素材は重厚で、造りも丁寧、装飾と彫刻に至っては子細を極め、芸術の域に達している。庭園の緑も多く、広々とした芝生は城下と一線を画す緩衝地帯の役目を担っているのだろう。そう思わざるを得ない。なぜなら、城下はあまりに騒がしく、活気に満ちていたからだ。

 どうやら町は復興の最中にあるようであった。目貫通りの白い石畳に瓦礫が転がっていることはないものの、所々が欠けて剥げ、両脇の家屋は崩れかけ、全壊しているものも珍しくはない。道を行けば木材の足場が高々と組まれ、喧騒と金槌の音と砂塵がさらに高く上がり、遠くの青空に映える山並みを霞ませている。右に左に、行く人の波は激しく、そして途切れることもない。

「これは、勇者さま」

 頭上から影が差したかと思えば、馬上の人が日を遮り、長い髪を翻すそのシルエットには見覚えもある。

「ええっと……」

「レイチェルです」彼女は名乗って馬から降りる。「いつぞやは命を助けていただきました。なんとお礼を申し上げたらよいものか」

「いいんですよ、お礼なんて」下らない。

「勇者さまのお力添えをいただけ、陛下と国を守ることができました。いま、こうして町を復興させられるのも勇者さまのおかげです。いずれ、かつて以上の大きな都市にしてみせます。それがわたしたちのできる最大の恩返しかと思うのですが……」

「恩返し、ですか」

 あまりに馬鹿らしく感じ、惰性で応じながら、馬の口を取るレイチェルと町を歩く。すれ違う人が帽子を取り、彼女と挨拶を交わし、彼女もそれに応え、手を振り、声にする。ふと、有刺鉄線を張り巡らせた柵に挟まれた通りが目に入った。その奥にあるのはみすぼらしい民家の列である。

「あれは?」

「ああ、アルフレッドの軍の残党とその家族の住居です」

「ああ」と洋斗は嘆息する。

 そうであろう。敗者に与えられるのは屈辱と絶望に違いない。恥辱に溺れ、泥水をすすい、嘲笑れる生涯を過ごす者もあろう。それを生んだのが自らの手だ。だから、アルフレッドは洋斗の前に現れたのだろう。結果、己の世界を滅ぼしかけている。あまりにも浅はかな自分を嘲笑うしかない。

 しかし、レイチェルは思わぬことをいう。

「あの鉄線は、彼らを守るためのものだったんです」

「守る? 捕らえておくためのものではなくて?」

「違いますよ」とレイチェルは笑う。「彼らは敗北による喪失感で著しく生きる気力を失っていました。陛下は彼らに住居と食料と仕事を与え、なんとか絶望しないよう、手を施されました。でも、仕事のある城下に呼び寄せた都合、城下の住民たちが反発して、彼らを攻撃し始めたんです。恨みは骨髄まで染みているといえば、まあ、そうでしょう。要するに、小競り合いを防ぐための鉄柵ですね」

「ははあ、なるほど」

「本当は、あの鉄柵も破壊されて、多くの住居が焼かれては壊されたんですよ」

「そうなんですか? じゃあ、やっぱり彼らは……」

「いえ、そこでまた奇跡が起きたんです」

「奇跡?」

「ちょうど十日前の夜のことです。空が金色に輝いて、天の声が聞こえたんです。こう、頭の中に直接語りかけるような声で。両者手を取り合い、命を尊び生きてゆきなさい、と。隣人を愛し、隣人を認め、許す勇気を持ちなさい、と」

「天の声」天花だ。あいつは……。

「皆、目を覚ましました。必要なのは、他者を認め、許す勇気だと」ご覧になられますか、とレイチェルは続ける。「彼らは元アルフレッド軍の人々で、一緒に資材を運んでいるのは王国民です。いまは一緒に仕事をして、食卓も囲みます。恨みはあります。消えることはありません。でも、わたしたちは許す勇気をもって、共に明日を目指すんです。そのきっかけをくださったのは、あなたですよ」

 レイチェルの鳶色の瞳が柔らかく笑む。

「人の一人も命を奪わず、戦を鎮めたあなたの心は、いまこの王国に生きるすべての民に染み渡っています。彼らは洋斗さまにお救いしていただいた誇りを胸に、精一杯に、いまできることに汗を流しています。あなたの示してくださった善意に恥じぬよう、日々を努力して生きているのです。どうか、皆の顔を、その胸に刻んでいってください」

「皆の顔?」

 洋斗は視線を四方に振り向ける。行き交う人々の顔はよく見える。忙しそうにしながらも、その顔には精気が満ち、楽しげにすら見える。

「あなたは、この世界に命を吹き込んでくださった」レイチェルの右手が洋斗の前に差し出される。「本当に、ありがとうございました」

 洋斗はレイチェルの手のひらを眺めたまま、目が離せなかった。

 命を吹き込んだ? 俺が? この世界に?

「洋斗さま?」

 レイチェルの不思議そうな視線に、洋斗は自らの頬を伝う涙に気がついた。すぐさま拭う。空を向く。

「洋斗さま、お加減でも?」

「おれは、おれたちは、間違っていなかったのかも……」

「なんのことです?」

「天花を見かけませんでしたか?」

「妹さん、ですか? あちらの展望台の方へ、先ほど歩いていかれましたけど」

「ありがとうございます」

 駆け出して、一段飛びに階段を登り、ほどなく頂上である。胸の高さの木柵に囲われた展望台から、埃に煙る町並みを眺める背中がただの一つ。滑らかな茶色の髪がたおやかな波を打ち、エメラルドグリーンのワンピースがはたはたとなびく。

「天花」

 ちら、と横顔が振り向いて、両手が目元を擦る。

「洋斗さん」呟いて身体ごと振り返り、満面の笑みを見せた。「もう大丈夫なんですか、お身体は?」

「すぐ解決しに行くんじゃなかったの?」

「い、行きますよ。わたしにも、色々と事情があるんです」

「そうかよ」洋斗は一歩、一歩と彼女に近づいてゆく。「なにがあったんだ、あのとき?」

 え、と天花は表情を消して吐息を漏らした。

「天花の、涙の理由を知りたいんだ」

「わたし、泣いてなんていません」

 おどけてみせる彼女の手を取った。おれは、と勢い込んでいう。

「おれは、死んだんじゃないのか?」

 天花の全身から力が抜け、うつむいた顔を前髪に隠して、一言、一言、震える声を搾り出す。

「どうして、わかったんです?」

「天花の心配の仕方があまりにもヒドいから。おれが目覚めても元気は出ないし。避けてるみたいだし」

 沈黙したまま、天花は洋斗の手を振り払い、両手で顔を覆った。

「おれはどうなったんだ?」

「わたしは、ヒドいことをしました」

「なにを?」

「洋斗さんを死なせてしまった。アルフレッドさんの一撃で、洋斗さんの肉体は塵になったんです」

 ボロボロと涙を流し、嗚咽を上げながら言葉を紡ぐ。

「わたし、どうすればいいのかわからなくて、とにかく集められるだけの断片を集めて、この世界の土や植物を繋ぎにして洋斗さんを再現したんです」

 嗚咽は収まり、ただ虚脱感だけがある。

「洋斗さんの身体の構造、骨格は過去のデータを参考にして。外見は完璧に再現できています。肉体のシステムも、人間とは違ってもすぐに馴染むレベルになっているはずです。でも、心まではわからなかった。記憶や意識まで戻るかは」

「ちゃんと戻っただろ」

「わからないんです」と激しく首を振る。「わたしは、洋斗さんを生き返したのか、それとも、洋斗さんに似せたなにかを造ったのか。わたしには……」

 天花は一歩、二歩と後ずさる。

「わたしは、間違っていたのかもしれません」

「天花……」

「洋斗さんのいっていたことは正しかった。わたしたちのエゴで世界を変えようとした報いです。あるべき未来を踏みにじった、わたしに対する天罰です」

「違うよ、天花」

「違いません」

「天花っ!」

「もういい! わたしは間違えたの!失敗したの、こんなことしたってなんにもならないんだから!」

「聞けよ、天花!」

「嫌、聞きたくない!」耳を塞ぎ、髪を振り乱す。

「天花っ!」

「わたしは洋斗さんを殺して、みんなも不幸にする、ただの……!」

 ばち、と彼女の頬をひっぱたいた。

 震える真っ黒な瞳が洋斗を映す。

「おれたちは正しくなかったかもしれない。でも、間違ってなかったよ。おまえの想いも、皆に伝わってるよ」

「でも、わたしは……」

「見ろよ」洋斗は足元に広がる町並みをさす。「この世界に生きる人の命を。笑顔を。おれたちが守ったんじゃないのか? あるべき未来があったんだとしても、この笑顔はおれたちが守ったんじゃないのかよ? 違うのかよ? 答えろよ、天花!」

「でも、わたしはあなたに、ヒドいことを」

「おれは誰だ?」

「え?」

「おれは誰だよ? いってみろよ、おれの名前を」

「洋斗、さん」

「そうだろ。おれは天花を信じてる。おれはおれを信じてる。天花の、優しさを信じてる。それじゃダメか?」

「わたし……」

 天花の大きな目が潤み、目尻に涙が溜まってゆく。洋斗は再び彼女の手を取り、額に当てた。

「天花は、おれを信じてくれないか?」

 涙がこぼれ、頬を伝い、顔をくしゃくしゃにして、天花は嗚咽を必死に言葉にしてゆく。

「わたし、洋斗さんを、洋斗さんのこと、信じてます。ずっとずっと、これからもずっと」

 胸に飛び込んでくる小さな身体を抱き止めて、力一杯抱きしめる。

「ありがとう、天花」

「わたしの方こそ、本当に」胸に額を擦り付け、「ありがとう」

 最高の笑顔が、泣き濡れた顔にある。


     〇


「ところで、あのジェシーって女はなんなんだ?」

「わたしの同期ですけど、とんと恨まれるようなことをした記憶はないんですよね。むしろ、仲は良かったくらいで」

「天花より上であることを証明するっていってたぞ」

「もう研修が終わった直後からジェシーちゃんの方が上ですけどね」

「わかった。証明してやろう、天花の方が上だって」

「わたしの方が?」

「ああ、おれがアルフレッドを倒して証明する」

「でも、今度負ければ本当に消滅してしまうかも」

「おれは天花を信じてる。だから訊く。おれはアルフレッドに勝てるか?」

「もちろん勝てます。わたしの勇者さまですもん」

「なら行こう。アルフレッドを倒しに。ジェシーって高飛車よりも天花の方が上だってことを証明しに。しまいにはあの小娘に泣きべそをかかせてやるぜ」

「うふふ」と天花が笑う。「かかせてやりましょう、泣きべそを」


     〇


「全然帰ってこねえじゃんかよお、あいつらあ」ジェシーは眉をひそめながら空間ディスプレイを弄る。「まあ、仕事があるから、暇をするほどではないけれど」

 島国の首都圏にある赤い電波塔の展望台の上の鉄骨に腰掛けて朝霧に霞む摩天楼を眺めていた。ちら、と横に目をやると、赤い詰め襟の男が腕を組んだまま、険しくした黒い瞳を地上に向けている。

「あんた、一晩中突っ立てたわけではないでしょうね?」

「ちゃんと寝たさ。決戦の前の休養は欠かせない」

「はん」と鼻で笑う。「決戦することがあればいいけど」

 人類に抵抗する術はない。

 すでに核施設は地割れの下に沈め、空軍基地には竜巻をぶつけ、海洋艦隊には彼らの撃ち出したミサイルの軌道を変えて返り討ちにしてやった。陸軍部隊もヨーロッパに編成され、ユーラシア大陸中程で会戦となったが、果たして、アルフレッドに擦り傷一つ与えることもできず壊滅、ほうほうの体で逃げていったのち、挙兵の様子は皆無。ちなみに、遙か彼方上方に浮く衛星の尽くも破壊して大気圏の塵にしているから、長距離の通信も難しかろう。こうなると、魔術を捨てたこの世界の人類の武器は徒手空拳しかなくなる。

「本当に天花たちは帰ってくるのかしら」

「必ず来る」とだけいって、アルフレッドは中空を眺めている。

 ピピピ、と唐突に、ディスプレイが音を立てた。

「来た来た来た来た」とジェシーが喝采を上げる。「南アジアよ。空間が歪んでる」

「行くぞ」

「あんたにいわれなくたって」

 光に視界を奪われた直後、ジェシーは緑の眩い大山景の真ん中に浮いていた。この辺り、突き出した岩盤に砂礫と岩石が降り積もり、乾燥した山稜を抱くだけのつまらない土地であったが、会戦ののち、道楽で撒いておいた土壌に草木が根を張り、早くも芽を吹き出している。

 爽やかな風が薄い雲を青空に流し、崖の上に佇む二人の姿を霞ませる。

「遅かったじゃないの、この脳天気頭」

「ジェシーちゃん、なんでこんなことをするんです?」

「あんたのそのスッカラカンの脳みそじゃ、未来永劫わかんないわよ」

「そんなこといったって、話してくれないと……」

「そんなにお話をしたいんなら、このアルフレッドを倒してみなさい。次にあんたとその死に損ないが負けたら、この星は木っ端みじんよ」

「そんなことはさせません」

「いい返事」ジェシーは胸を張り、足下の同僚に侮辱の目を向ける。「アルフレッド、思い知らせてあげなさい」

「貴様にいわれずとも」

「ちょっと、あんたに力をやってるのはこのあたし……」

 振り向きもせず、アルフレッドは悠々と高度を落としてゆく。

「なんであたしの周りはこんなバカばっかなの」


     〇


 洋斗がするすると浮き上がり、その高度をアルフレッドに並べた。懐から紅玉を取り出す。

「生きていて、嬉しく思うよ」とアルフレッドは微かに笑んだまま、赤いマントの留め具を外して、風に乗せた。黒い詰め襟の首もとを緩める。「あれほど骨がないのでは貴様を倒した気がしない」

 腰元から引き抜かれた両刃の剣は、透き通った紫紅色の刀身を蒼天下にきらめかせた。

 洋斗の手の内も金色の炎を発し、片刃剣の形に滞る。

「聞いたよ」とアルフレッドが呟く。「貴様等の無責任な奸計のせいでわたしの国は滅びたのだ。新しい世界の門出であったはずの国家がな。我々がどれほどの屈辱を受けたか、貴様には想像もできまい」

「今更言い訳はしない。おれたちはおれたちの都合でおまえの国を滅ぼした。その怒りも受け入れて、いま、おまえを倒す」

 洋斗は炎刀を中段に据えた。対するアルフレッドは足下に剣先を垂らし、その柄に両手を添える。

「あのとき伝え損なったことはこれで全て」

「だったら来い。あとは力だ」

 アルフレッドの姿が衝撃波を伴って殺到し、身を翻しながら大剣を振り上げる。洋斗の一振りが最上段から降ろされる。叩き合った二刀から黄金と紫紅の燐光が噴き出して、山野を焼いて大地を揺るがす。

「こうでなくては」

 続けざまに上段から来る紅色の剣。洋斗は一息に加速して胴を狙う。が、引き戻された大剣の柄を打っただけに終わり、アルフレッドとすれ違って振り返り、剣に力を込めて宙を駆る。

 黄金の輝きが散る。

「アルフレッドッ!」

「来い、勇者!」

 灼熱の波動が空で渦巻き、地上に亀裂を走らせる。


     〇


「ぎええーー」と天花は宙を転がっていた。

 二人の衝突から生まれる力は天花の操作領域を大幅に上回り、どう気流を操ったところでその乱流を制御できるものではなかった。もしかすると、世界を支配する管理者とはいえ、あの戦場に巻き込まれたら、ただでは済まないかもしれない。

 ようやく姿勢を立て直したところで、頭上から影が落ちてくる。巨岩が降ってきた。

 すぐさま原子制御をかけ、鉱物を分子レベルに分解する。直後、バチ、と火花が散って、宙を漂う金属分子が激しく爆ぜた。

 肌に触れる熱を制御するのに精一杯で、再び身を転がされる。

「死ねっ!」

 ジェシーのドロップキックが上昇に転じた天花の足下を行き、山肌を穿って同心円の岩盤を隆起させる。飛び上がったジェシーもついてくる。

「ジェシーちゃん、なんでこんなことを」

「あんたにはわかんないっていってんでしょ」

「いってくれなきゃ、わからないかどうかもわからないよ」

「喧しいっ!」

 ジェシーの手のひらから噴き出した火炎を気流操作であしらい、接近しては繰り出される拳蹴を過減速でやり過ごし、身を翻しながら空を疾駆する。

「逃げるな!」

「逃げなかったら殴られるでしょ」

 海上に出て、波間に接近、水分子を操って海面を半球状に固定する。その中心に身を浮かせる天花へ、ジェシーが突撃してくる。

 振られた拳を屈んでかわし、勢いジェシーと入れ違い、上空に登って海面を閉じる。大波が白泡を立ててジェシーを囲う。

「こんなもの」

 荒波は容易く水素と酸素、その他微量の分子に変換されて宙を漂う。天花はそれらを材料にして原子操作、エンターキーをタップ。

「核融合です!」

 ジェシーを中心に白光が膨れ、数キロメートルに及ぶ空と海を瞬時に呑み込んでゆく。光のあとには濃い蒸気が立ち込め、荒波が渦を巻く。

 天花は遙か高空に身を漂わせ、光球の中心のノイズを排除しながら望遠している。全身から滲む闘気に震えるジェシーの姿があった。

「やっぱりね」

 所詮、この世界の物質で生まれた熱。管理者権限でどうにでもなる。


     〇


 高速で過ぎゆく情景が昼から夜へ、海から高いビル群に変わり、きらびやかな明かりを灯した針山を縫って、赤い燐光が急速に接近してくる。

 剣を構えた洋斗も全身に力を滾らせ、受けて立つ。

 衝突の余波がビルのガラスを砕き、近場のものは鉄筋が溶け、瓦解してゆく。

 すれ違ったアルフレッドは上空へ。差し伸べられた手のひらに紫電が走り、光柱として撃ち出される。が、剣を掲げた洋斗の周囲を撫でるだけで四散し、続けて放たれた光球も黄金の剣に断たれ、烈光に転じる。

「ちい」

 舌打ちをしたアルフレッドが急降下、勢いも借りて振り下ろした剣は遙か下方のジャンクションを触れずして崩し、車両を易々吹き飛ばす。だが、洋斗の炎剣を弾くことも圧することもできず、宙で鍔を交えながら二人が一つになって回転してゆく。

「貴様さえいなければっ!」

 激しく瞬いた洋斗と距離を取る。次の瞬間、振り抜かれた光の剣は刀身を肥大させて伸ばし、暗い海面を強烈に打った。蒸気が上がり、波がうねる。

 間一髪で上空に舞い上がったアルフレッドを追って、洋斗も高度を上げる。ビルのなくなった空がやたらと広い。湾曲した地平線の向こうが白み、桃色の太陽が顔を出す。

 すでに成層圏を抜けた洋斗が顔を上げれば空は黒い。

 横合いから来る紅色の斬撃。金色の粒子を混ぜて、満天下に散る。

「わたしは貴様を超え、貴様が卑劣な手段でわたしを倒したのだと証明しなければならないのだ!」

「天花には天花の道があった。おれはそれを信じて、あいつに賭けてこの剣を振っている!」

 さらに一つ、二つと打ち合い、その都度光が広がってゆく。

「洋斗さん」

 天花が下方から昇ってきて、遙か下方からジェシーも続く。

「アルフレッド、その男を殺っちゃって」

 アルフレッドの全身から赤い燐光が噴き出した。勢いを増してゆく。

「最大出力なんだから」

「感謝する、ジェシー」

「洋斗さんも」

 天花が空間ディスプレイをタップする。洋斗の剣が激しく燃える。

「行くぞ、アルフレッド!」

「覚悟っ!」

 二刀が交錯し、紫紅の刀身に亀裂が走る。

「なに」

 砕けた剣を捨てたアルフレッドはさらに上昇し、眼下に輝く洋斗を見据えた。その輝きは背負った星より青く、激しく瞬いている。


     〇


「なんてこと……」

 ほとんど重力から脱した高空で、きらめきながらゆるゆると降下してくる紫紅色の結晶。その向こうに輝く群青の光。

 思い出す。

 正職員として配属される以前、研修終了成果展覧会の席で、研修生は一つずつ、自らの育てた世界を提出する。ジェシーは丹誠込め、育てた世界に自信があった。圧倒的に首席卒だと。正職員に比べても引けは取らない。むしろ、上位に入る出来であると。しかし、どうであろう。天花の育んだ世界を目にし、その美しさに脱帽した。皆が口々に賞賛するその輝きを見て、不覚にも涙した。

 その青く美しく瞬く世界を。


     〇


「貴様っ!」

 アルフレッドが両手を向かい合わせ、その空間に紫電を溜める。

 洋斗は四肢を開き、右手の剣を大きく振りかぶった。刀身の放つ炎が青白く輝く。

「食らえっ!」

「死ね、勇者よ!」

 撃ち出された紫紅の光を、投げ出された群青の輝きが砕く。霧散させて、さらに飛ぶ。

「バカな」

 呟いたアルフレッドを串刺し、宇宙を走って、月面に打ちつけ、打ちつけられた月は瓦解してゆく。

 天花のディスプレイタップで全壊を免れた月面に洋斗は降り立ち、アルフレッドの肩に刺さった剣を抜いた。血が噴き出すこともなく、黒い詰め襟を小豆色に塗る。

「おれたちの勝ちだ」

 アルフレッドは洋斗を見据え、口元を緩めた。

「どうやら、そうらしい」

 澄んだ瞳が細められ、どこか遠くの、こことは違う世界に向けられる。

「もし、おまえがあの世界に産まれていれば、やはりわたしは負けていたのかもしれないな」

 月面に埋没するアルフレッドに手を差し伸べ、握られた手を引いて埃を被った身体を抱き寄せる。

「悪かったな」

「いまさら謝るものじゃない」

「まだよ」

 ジェシーが二人の前に立ち塞がり、前のめりに叫んだ。

「アルフレッド、あんたにはこいつに勝つために力をやったのよ。なんとしても勝ちなさい。戦いなさいよ!」

「わたしの負けだ。少なくとも、いまはどうやってもこいつに勝てない」

「勝てないじゃない。勝つのよ」

「ジェシーちゃん、もう止めてください」

 二人の隣に天花が浮く。

「わたしたちの勝ちです」

「なんであたしが負けなきゃいけないのよ。あんたみたいなグズのノロマに」

 ジェシーの目元から溢れた水が玉になって宙を漂う。

「あたしが一番なの、成績も人望も、一番管理局の利益を上げたエースなのよ、あんたなんかに負けるわけがないのよ」

「ジェシーちゃん」と天花が眉をひそめる。「わたしたちは理論や利益を糧に生きているわけじゃない、誰かを思う心、未来へ進む心を糧に生きているの。勘違いしちゃいけないよ」

 はっとしたジェシーが息を呑んでたじろぐ。

「そんなこと、あたしは……」

「もう止めよう、ジェシーちゃん」

「まだよ」

 懐から五ミリ銃弾のようなものを取り出した。今度は天花が目を見張る。

「殲滅玉……」

「あたしの世界を一つ殲滅するとき、フェイクの光を使って同時に自壊させたの。こんなときのためにね」実包を青い星に向けて、指鉄砲の真似をする。

「やめて、ジェシーちゃん」

「ジェシー、もういいだろ」とアルフレッドもいう。

 いっている間に、実包は濃緑色の光を放ち始める。

「いいわけないでしょ。負け犬どもが吠えないで」濃緑色の光が強さを増して、肥大する。「本当はあんたの大切にしてる世界の人間を恐怖のどん底に叩き落としてじわじわと殺していくつもりだったけど、もういいわ。一撃で粉砕してあげる」

「ジェシーちゃんっ!」

 そのとき、さ、と月面に光がさして、真っ白な光点が四人を照らす。ああ、とジェシーがため息をついた。

「思いついたわ。あいつらを絶望の淵で滅ぶす方法をね」

 ジェシーが身を翻し、殲滅玉を放った。エメラルドグリーンの光が宇宙を走る。

「どこに撃った?」

「恒星だ」とアルフレッドがいう。「あの光に」

「なんだと?」

「ジェシーちゃんっ!」

 ジェシーは狂ったように笑う。

「太陽がなくなれば。そんな絶望ないもねえ。再構成しようにも時間がかかるでしょ。人類が滅びるくらいの時間がね」

 ひゃひゃひゃ、と宙で笑い転げるジェシー。

「行くぞ」

 洋斗の声に天花が、へ、と呻く。

「太陽はまだ壊れてない。天花の力を使えば崩壊する前に形を留められるだろ」

「無理です。殲滅玉の処理能力は一瞬です。わたしがコードを走らせる時間がありません」

「ならおれがその殲滅玉を破壊する」

「そんなこと……」

「おれは誰だ?」

 天花は目を見開き、優しく笑って頷いた。

「わたしの勇者さまです」

「そうだろ。行くぞ」

「はい」と天花が頷いたのを潮に二人の姿が消えてなくなる。

 ジェシーはその光景をぼんやりと眺めていた。

「わたしたちも行こう」

「へ」とこれも素っ頓狂な声を上げる。「な、なんであたしが……」

「見届ける義務がある。そうだろ?」

 眉間にしわを寄せ唸ったジェシーはようやく叫んだ。

「行けばいいんでしょ、行けば」


     〇


「殲滅玉は亜光速で飛翔して、創造部が作り出したものを瞬時に破壊できるよう設定されています。あと十分でここに到達します」

 どの辺りかというと、水星軌道の内側、太陽表面との水星軌道の中間地点付近である。

 真っ赤に光る恒星はやたらに大きく、その表面に血管のような磁場を走らせては爆ぜさせ、漆黒の宇宙に橙色の波を立てて彩る。

「近すぎないか?」

 迫り来るような迫力と爆発の圧に圧倒される。が、天花は、大丈夫です、と真面目な顔をして空間ディスプレイを叩くだけだ。

「殲滅玉は、洋斗さんの太刀で破壊できれば、すぐにエネルギーを失って消失します。むしろ、重要なのは、いかにミートさせて、かつ、競り負けないかです」ディスプレイが一際強くタップされると、洋斗の前に白い光が生まれ、外宇宙に向かって真っ直ぐ一本の線を引く。「これが殲滅玉の軌道です。洋斗さんのステータスを知覚と腕力に極振りしますから、光速の弾丸も叩けるはずです」

「わかった」

「大丈夫です」と天花は前にのめる。「ファミスタでホームラン打つようなもんです」

「おまえ、なに時代の人間なんだ?」

「ちょっと」と頭上から声が聞こえる。ジェシーがアルフレッドを連れて降ってきた。「本気なの?」

「本気に決まってるだろ」

「はん、できるわけないじゃない。あんただって所詮この世界の物質なのよ? 簡単に消されて、この恒星だって……」

「おれの身体は天花が造ったものだ。もうこの世界のものじゃない」

「なんですって?」ジェシーは丸くした目を天花に向ける。

「アルフレッドさんがいきなり無茶するからです。でも、いまとなっては不幸中の幸いかもしれません」

「だ、だからって、タフになってるとは限らない」

「やれるかもしれないなら、おれはやる」

 洋斗は青白く閃く炎剣の柄を両手で握り込む。視覚に集中させた神経が無限の数の星を精細に見せ、その軌道すら予測させる。遙か彼方に濃緑の光がある。

「おれならやれる」

「バカなんじゃないの? どいつもこいつも……」

「ジェシー、もうやめろ」アルフレッドが彼女の肩を引いた。「我々は見届けるだけだ」

「あんたね」とジェシーはさらなる暴言を吐こうとして呑み込み、ただ熱いため息を吐いた。「見届けあげるわよ、あんたが無様に消えるところをね」

 行くわよ、とアルフレッドと共に宇宙の彼方へ飛んでゆく。

「洋斗さん」

「天花は避難しなくていいのか?」

「しますけど、もう一度伝えたくて」

「なにを?」

「わたしを信じてくれて、ありがとうございます」


     〇


 濃緑色の光が燐光を撒き散らして、長大な尾を太陽系に刻む。金星を星ごと揺さぶり、彗星を粉砕して、軌道上にある塵を蒸散させながら、たった一つの恒星へ向かう道を純粋にひた走る。

 いま、水星軌道の内側で、青白い光が弾けた。濃緑の線と交錯し、交錯した深い緑色は次第に輝きを失い、暗黒へ溶けていった。


     〇


「やりました!」と天花が両手を上げて喝采する。「さすが洋斗さんです」

 すでに天花は宇宙空間を駆っている。見える。洋斗の手を振る姿が。

「洋斗さんっ!」

「楽勝だったぜ」

「よくやるものだな」とアルフレッドと握手する。その遙か後方で、ジェシーが唇を噛んでいる。

「ま、まだ」と太陽に向かって飛び始めた。「直接、あたしが破壊する」

「ジェシーちゃん」

 天花が叫んだころには洋斗も飛び出しており、ツインテールを追っている。

 天花も続こうとしたそのとき、太陽の輝きが格段に増した。

「危ないっ!」

 激しく爆ぜた太陽表面から橙色の炎が伸び上がり、百万度をゆうに超える熱波がジェシーと洋斗を呑み込んだのだ。

「ああ」と吐息を吐く天花。

「死んだな、あれは」と他人事のようなアルフレッド。

「死にませんよ」

 焼かれた塵が景色を煙らせる。

「洋斗さん」探す声は真空の中でも伝わっているはずだ。左右に視線をさまよわせ、ようやく見つけた洋斗はコートの中の胸元にジェシーを抱えていた。

「洋斗さん、無事でしたか」

「うん。こいつもな」大丈夫か、と洋斗が胸元に問いかける。

「あ、ええ、あたしは……」

「ジェシーちゃんは大丈夫ですよ」と盛大に笑う。「例え、ビッグバンの現場にいてもビクともしません」

「そうなの? 必死になって助けたのに」

 洋斗がジェシーの細い腰に回した手を離しても、彼女が離れようとしない。洋斗がいぶかしんでいる。

「おい、どうしたんだよ?」

「い、いえ、もう少しこのままで」

「はあ?」

「ダメですか?」と洋斗を見上げる胸元の赤い瞳が熱っぽい。太陽の熱を上回って余りある。

「吊り橋効果というやつですね」天花はいう。「インディー・ジョーンズ、魔境の伝説を思い出します」

「いってる場合か」

 ともかく、丸く収まったようである。


     〇


 かっ、と天を覆う白光に紫電が走る。

「はあああっ!」

 大地が揺れて、隆起と沈降を織り交ぜながら刻々と地形が変わってゆく。

 光の収まった地上には巨大なクレーターが一つ。その真ん中に倒れた人間を、アルフレッドは天空から見下ろしていた。

「つまらん」と身を翻す。


     〇


 天花は管理局の廊下を、今日も爆走していた。

「廊下を走ってはいけません!」と見ず知らずのお局に激怒され、小さくなっていた彼女の背中をジェシーが叩いた。

「ああ、ジェシーちゃん」

「アホみたいに走ってるからよ」

「いやあ、でも仕事があるし」

「うまいこと時間の進み方を調整しておきゃいいでしょう。そもそも、一個、二個、世界が滅んだところでなんだってのよ」

「またそんなこといって」

「ところで、洋斗さまのご様子はどう?」

「どうもこうも、研究室でしょう」

「ちゃんと相対時間合わせてんでしょうね?」

「時間のことばっかりね」

「今度、アルフレッドと取り替えましょうよ」

「ええ?」と眉をひそめる。「アルフレッドさんの方がジェシーちゃんにお似合いな気がするけど」

「なんで、あたしがあんな無愛想なやつと」とジェシーが腕を組んで苦虫を噛み潰したような顔をする。

「でも、いまランキング一位なんでしょ?」

 あの一件ののち、ジェシーが天花の世界に不法侵入し、破壊の限りを尽くしたことが公になり、彼女の最優秀職員賞は剥奪されてしまった。同時に、洋斗とアルフレッドの戦闘映像も公になり、上下の職員の目を惹いた。以降、自らの世界で強力な戦士をスカウト、育成し、戦わせることが管理局で絶大に流行した。公には認められていないものの、ランキング表まであり、そのトップがアルフレッドだ。ジェシーは最優秀職員賞の栄光は失ったものの、コロシアム最強トレーナーの栄光は手に入れたわけだ。

 は、とジェシーは鼻で笑う。

「下らないわよ、他人の尊敬とか栄誉とか。このあたしの洋斗さまに対する想いに比べたら」

 急に声が甘くなり、瞳は夢を見るようだ。

「あら、もうこんな時間」と天花はわざとらしい声でいい、空間ディスプレイを開く。「わたし行かなきゃ。洋斗さんに伝えておきますよ」

「よろしくね。ちゃんと伝えてね」

 絶対よ、としつこく言い募るジェシーを背中の向こうに置いて、執務室に入っていった。


     〇


「いやー、マジ良かったよ」

 柊に肩をバチンバチンと叩かれる。

「世界の終わりかと思ったね、さすがのオレも神さまに祈ったよ」

「信仰心の厚いことで」

「その甲斐あったのかな」

 ははは、と笑うこの男の声が頭上の蝉の声よりうるさく、立ち込める人の熱気と夏の熱気が醸造されて地獄の大鍋を思わせる。

「こうして、アリアリのライブに参戦できるのはよう」と柊がサイリウムを両手に握って、晴天の下では見えにくいオレンジ色の光を、ぱっ、と灯す。

 ここは関東でも有名なアリーナで、洋斗がいるのはアリーナ前に設えられた並木の下である。

「なんなんだよ、アリアリって」

「おまえ、知らねえのかよ?」

 飛んでくる唾をかわして身を屈めた洋斗を柊が追ってくることもない。むしろ、その視線は洋斗の向こうに据えられて動かない。

「どうした?」

「あれ、妹ちゃんじゃないか?」

「はあ?」と片眉を下げて振り向くと、長蛇の物販列に並ぶ茶色い髪の女の子に気づく。「おい、天花」

「げぇっ! 洋斗さん!」

「げぇってなんだよ?」

「なんでここに? サブカルに興味なさそうだったのに」

「オレが文化のなんたるかを教えてやろうと思って」

 洋斗の肩に肘を置いた柊が前髪を掻き上げる。

「ああ、ヤックデカルチャ」

「そういうこと」

「どういうことなんだよ?」

 呆れた洋斗は真夏の蒼天を見上げた。

「柊さん」と天花がいう。「わたし、列から抜けられないので飲み物買ってきてもらっていいですか?」

「合点だ」と柊は人波に消える。

「天花がこの世界に固執してたのはこのためだったんだな」

「ヘエー、ナンオコトダカワカラナイ」

「まあ、別にいいけれど」

「そういえば、ジェシーちゃんがよろしくっていってましたよ」

「おれからも、よろしくっていっておけ」

「かしこまりました」

「アルフレッドは?」

「相変わらずですよ。コロシアムランキング一位です」

「コロシアムねえ」洋斗は首を捻る。

「そういえば、洋斗さんにも参加してほしいって。かつてランキング一位に勝利したレジェンドとして」

「出ないよ、そういう見世物には」

「ですよね」と天花が失笑する。「アルフレッドさん、ジェシーちゃんのお手伝いも頑張ってるみたいです」

「エステリカさんとは?」

「そっちも順調そうです。時々姿を現すアルフレッドさんと折衝していると、彼女がいってました。あと、洋斗さんのこと、気にしていらっしゃいましたよ」

「ええー? 会いに行ったほうがいいかな」

「ジェシーちゃんとはエラい違いです」

「そんなことはない」

「じゃ、ジェシーちゃんも時々こっちに来ても?」

「つーか、来てるよ、時々こっちに」

「うえー」と天花の口があんぐりと開く。「また規律違反だあ」

「まあ、別に騒ぎを起こすわけじゃないからいいけれど」

「そうですねえ」と渋々頷いた天花が、もう一つ、と続けた。「週末のことですけど……」

「三つか? 四つか?」

「六つくらいになりそうです」

「そんなに?」洋斗は眉をひそめる。「仕方ないな」

 柔らかな、天花の笑い声が聞こえる。ふ、と彼女の方を向くと愛らしい笑顔があった。

「よろしくお願いしますね、わたしの勇者さま」


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