ぬばたま1
たま子がさけんだ。
「豹子さん、悪ふざけはお止しになって!」
「……あら、ごめんあそばせ。ほんとうに禍王の当主になるような方なら、これぐらいの魔風は簡単に受け止めると思ったのですけど」
豹子が鼻で笑うように言うと
「翔之介さまはあなたさまと違って、今まで何ら魔道の教育をほどこされてはおりません」
魔美子が翔之介を抱きおこしながら言った。
「わたしが、今から仕込みます」
「……あら、そう。存じませんで失礼しました。ごめんなさいね」
ちっとも悪びれた風もなく豹子が言うと、脇にひかえた天鼠先生が言葉を添えた。
「――しかし、たしかに魔能はお持ちのようですな。豹子お嬢さまの『あまつかぜ』を受ける瞬間、本能的に体の周囲に防御結界をお張りになった。よい素質をお持ちとお見受けします。
魔美子殿のような優秀な術者のもとでお学びになれば、優れた魔道者になられることでしょう」
「天鼠先生。そんな冷静な分析は今していただかなくとも結構ですわ。それより、あなたこそ豹子さんの世話役兼教育係なのでしょう?教え子のイタズラを見て見ぬふりをするのは、お止しになってくださいまし」
たま子のなじるような言葉に
「わたしはただのやとわれ教師でしてね」
ひょろ長い体をすくめるようなしぐさを見せた。
「翔之介さんは禍王の当主になる方ですよ!」
たま子の叱責に豹子は
「わたしども裏家はそのことについて、まだなにも受けたまわっておりませんわ。こんな急にあらわれた、よくも知らないこどもに当主を任せるだなんて。本当に禍王の当主としてふさわしいかどうか、よく見極めませんと。
……第一、この方が当主を引き継ぐまで、ちゃんと『生きていられる』かどうかわかりませんもの」
こわいことを笑顔で言う。
「ですから、当分の間、わたしも表家に滞在させていただき、翔之介さんの人となりというか、当主としての適性というものを見させていただきますわ。よろしいですわね?たま子お姉さま」
いやも応もない言い方だった。
「さて、裏家の当主として、大おばさまにも申すべきことは強く申し上げないと。みなさま失礼いたしました。――ついていらして、天鼠先生」
豹子は世話役を引き連れ、あわただしく部屋を出ていった。
「ごめんなさいね、びっくりしたでしょう?」
たま子は翔之介にすまなさそうに言った。
「……まさかこんなに早く裏家がやってくるとはね。あの豹子さんという方はまだ中学生だというのに本当にしっかり者なのだから。今のでわかったでしょうけど、彼女はわたしや龍臣お兄さまと違って優れた魔能を持っている。あなたが見つかるまで、すっかり自分が禍王の当主になるつもりだったから、いても立ってもいられなくなったのよ」
(ということは、あのおねえさんにとってぼくは邪魔ものなのか。……もしかして、さっきここに来る途中襲ってきたのも……)
翔之介はあらぬ想像にとらわれたが、その少年の黙りこくった様子を一日の疲れによるものだと思ったたま子は
「――翔之介さんもさぞお疲れになったことでしょう、今日はもうゆっくり休んでね。魔美子さんお世話を頼むわ」
「かしこまりました」
食事の後、翔之介にあてがわれたのは客用だという十五畳あまりの和室だった。
龍子は、龍雄がこどものときに使っていた部屋を使ったらいいといったらしいが、魔美子が、あの部屋には龍雄の妖気に引き寄せられた瘴気・妖虫の類が数多くわいているので翔之介がふつうに眠るのはむずかしいだろう、と言ってこの部屋になったのだ。
その彼女が布団を出してくれた。
「家の中にいるかぎりは強力な結界が張られているので安全ですが、念のため、トイレ以外で夜中に勝手に部屋をお出になることはつつしんでください。今のところ、この家は完全に安全とは言いかねますので」
安全じゃなさそうなのは、昼間の高速道路での出来事や、庭師さんの騒ぎで十分わかった。とにかく、今日一日はあまりにいろんなことがいっぺんにあったので表に出る元気など十歳の少年にはまったくない。
翔之介は床につくと、あっという間に眠りこけた。
翔之介は夢を見ていた。
その夢の中で、彼はどこか、知らない洋館の暗い階段をひとりで下りていた。禍王家とは違うが、それに負けないぐらい立派な館だ。階段を降り切ると、大きな扉があって、そこから光が漏れている。どうやらホールのようだ。中から大人同士がどなり合う声がしてくる。
翔之介はドキドキしていた。なにかわからないが、そこに大きな不安が待っていることが感じ取れる。
扉を開けると、目の前に大きな空間がひらけた。
そこでは二人の男が対峙していた。
黒い服を着た男と白い服を着た男。そのわきに女性の姿がある。
「ひさかた!」
白い男が唱えると、まばゆい光が黒い男を襲った。
(ああ、あれは魔美子さんが使った術だ)
しかし黒い男はその光をはじいた。そして今度は黒い男の口から
「ぬばたま」
という声がしたと同時に指から黒い闇が放たれ、白い男をつつむ。
白い男の苦しむ声、そして
「やめて!」
という女の悲鳴が聞こえた。
(ああ、あれは母さんだ)
それは、まだ若い自分の母・冬子の声だった。
しかし、そんな母の声もむなしく白い服の男は倒れた。黒服の男が振り向いた。
(あっ!あれは肖像画の人だ。おとうさんだ)
龍雄がニタリと笑った。
「冬子。もう奴は終わりだ」
そう言う表情はとてつもなくおそろしかった。
翔之介は、夢の中で自分の放つ悲鳴が聞こえた。
それは、なぜか女の子のものだった。