プロローグ(1)
桜も満開になり始めた四月二日、東京都内の公立中学校のほとんどは入学式を迎えていた。仲中学校もそのうちの一つである。
仲中は、自称伝統あふれる名門校である。だが、実際はごく普通の公立で、校風もいたって変わったところはない。
八時三十分、校門をくぐらなければいけない時刻まであと三十分のとき、大橋八郎はのろのろ着替えをしていた。無論、八郎は仲中の生徒である。仲中の制服は詰襟なので、着るのが難しいようだ。
母親の園子に背中を押されながら、八郎は家を出た。実はこの八郎、とんでもない問題児なのである。
八郎の行っていた那賀小学校の卒業式の次の日、仲中の校長室ではこんな会話がされていた。
「四条小学校の生徒たちは素晴らしいそうです。真面目で、学力も高く、先生のために尽くすといった感じで・・・」
「あ、そう。那賀はどう?」
「那賀小学校の生徒は、四条小とはまた正反対で、頭の悪い不良どもが多いそうです。」
「教師に注意を呼びかけておく。」
石林幸太郎校長はそう言うと、面倒くさそうに校長室から出て行った。
「全く、あのあほ校長は、人の話を聞きやしないんだから。」
中畑雄三教頭は、石林が校長室から離れたのを見計らって、小声でそう呟いた。
那賀小がここまで酷くいわれる原因の一つに、八郎が入るだろう。
八郎は、家を出てから、詰襟のホックと、第一ボタンと第二ボタンを外した。
「こうするのが、不良っぽくてかっこいいんだよな」
大股で歩きながら呟いた。
八郎の家は十一人家族である。中卒の母親は今も妊娠中。父親は高卒で、トラックの運転手をしている。本人曰く、トラックは男の魂だそうだ。
八郎の横を、女子中学生らしき二人が通り過ぎていった。背負っているリュックに、「仲中」と書かれている。今日、一緒に入学する連中だろうか。
「なによ、あれ。かっこいいとでも思っているのかしら。」
女子中学生のうち一人が、嘲笑うかのように言った。近くには八郎しかいないので、おそらく八郎のことだろう。
「ふん、これだから馬鹿な女は。男のよさをわからないんだな。ぶさいくだし。」
八郎がそう吐き捨てると、女子中学生二人は逃げるようにして走り去っていった。
三十分ほど歩くと、やっとのことで仲中の校門に辿り着いた。時間ぎりぎりである。
「おうい、遅れるぞお、走れえ。」
校門のすぐ近くにいる教師が大声で怒鳴っている。入学そうそう、こんな下らないことを言われると、なんだか力が抜けて、走ろうにも走れなくなった。
「おい、お前新入生だろう。最初の注意なんだから、よくききなさい。」
八郎は知らん振りした。八郎自身にとっては、これがかっこいいらしい。
八郎が通り過ぎてから、先ほどの教師が思った。
(あいつ、那賀小だろうか・・・)
中学校の中に入ると、真っ黒な詰襟姿の男子と同じく真っ黒なセーラー服姿の女子で埋まっていた。セーラー服といえば、白のはずだが、仲中のものは何故か黒である。
八郎は、女子の塊に近づいた。
「よう、お前らおはよう。よろしくな」
ウインクしながらそう言った。女子たちは、気持ち悪がるような目つきでこちらを見る。
「この学校は馬鹿な女どもばっかだな・・・」
八郎は思わずこう言いそうになったが、口に出してはまずいと直感したのか、ぐっと堪えた。
朝の八時十五分、山本醍醐は、もう着替えや行く準備を済ませていた。
「いってらっしゃい。」
「いってきます。」
醍醐はそう言うと家から出て行った。すぐ傍のエレベーターに乗る。醍醐は、那賀小では数少ない優等生のうちの一つで、成績は芳しくないが態度が素晴らしい。だが、心の奥底で大人たちを憎んでいるらしく、いつ爆発するかわからない。ある意味、恐ろしい子供である。
三十秒ほど待つとエレベーターがやってきた。醍醐の住んでいる階は二十三階なので、一番下まで降りるのに時間がかかる。おまけに、このエレベーターはのろく、下についた頃には時刻は既に八時十八分になっていた。
醍醐はだだっ広いロビーを通り過ぎ、自動ドアから外に出た。東京都内とはいえ、長閑な雰囲気である。自動ドアの外には庭のようなものが設置してあり、大量の草木が植えられているからだ。
金網のようなものに草木が絡まる形でつくってあるトンネルを潜り抜けるとやっとマンションの敷地外である。
ところで、醍醐は花粉症である。庭には、小ぶりのスギやヒノキも植えられているため、醍醐にとってはつらい。
「くしゅん。ああ、また出た。もう嫌だ、死にたい・・・」
それにしても醍醐は、オーバーな表現をする。花粉症は確かにつらいが、いくらなんでも死にたいはないだろう。
醍醐はなんとなく憂鬱な気持ちになりながらとぼとぼと歩いた。醍醐のマンションもまた仲中から遠く、走って行っても十五分くらいかかるかもしれない。
三十分以上は歩いただろうか、やっとのことで仲中に到着した。くしゃみをしながら、校門の横に立っている教師に「おはようございます」と挨拶する。だが、教師に「鼻声で言うなよ」とからかわれ、醍醐は更に憂鬱になってしまった。
だが、いざ友達と再会したとなるとその憂鬱さも消える。那賀小時代の、数少ないおとなしめの友達たちだ。会話がよく弾んだ。