猫かぶりな意地っ張り、のち(三十と一夜の短篇第33回)
どうしてこんなイベントに参加したのだろう。
咲子は足の痛みになかば支配された頭で、そんなことを考えていた。
後悔はもうずいぶん前にし飽きて、現状への苛立ちがむくむくと湧きあがっていたけれど、そもそもイベントへの参加を決めたのは咲子だった。
あの日の咲子はおろかだった。話が脱線しがちな教授が講義の途中に言ったことばが、とても魅力的に聞こえたのだ。
「冬の夜空の満天の星のした、肩を寄せあいはげましあって、百キロの道のりを踏破する。すばらしいですねえ。青春ですね。過酷な道を乗り越えられたふたりは絆が深まり、一生を共にするパートナーとなることでしょう」
それを聞いて思い浮かんだのは、付き合いはじめてひと月の彼、信人の顔だった。
彼とふたりきり、夜の海辺を支えあいながら歩いていく。寄り添うふたりはきらめく星に囲まれて、ふと見つめあった互いのひとみのなかには相手のすがただけが映っている。やがてそれすらも映らないほど、ふたりの距離は近くなり……。
想像のなかの光景はとても美しく、教授のことばは甘美だった。
「なお、絆が深まるまえに破綻するカップルがいたとしても、ぼくは責任取れませんのでね。参加は自己責任でお願いします」
そんな教授の無責任な発言は、もうすでに妄想のなかへと飛んでいる咲子の耳に届いていなかった。そして、講義を終えたその足で、海浜踏破会の参加申し込みをしに向かったのだった。
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「え、大丈夫なの?」
学食で海浜踏破会の参加を告げた信人の返事に、咲子はぱちりとまばたきをして首をかしげた。
「大丈夫って、なにが?」
問いながら、ひとくちよりちいさめに切ったクリームコロッケを口に運ぶ。心がけるのはおしとやかに、かわいらしく。
ほんとうは、咲子の好物はカツ丼や親子丼といったどんぶりものだし、もっともりもり食べたいところだけれど、大口あけて食べるところを見せて、女の子らしくないなどと信人に思われたくない。嫌われて別れようなんて言われるくらいなら、がっつり食べたい気持ちを抑えるくらい、なんてことない。
「踏破会って、あの百キロ歩くあれだよね。運動部が参加必須のやつ」
「うん。でも運動部じゃなくてもいいんだって。一般参加もできるみたいだし、信人も出るから良かったらいっしょに歩きたいなあ、って思って」
参加申し込みをするときに聞いた話を伝えるが、信人はなおもうなっている。
「いっしょに歩けるのはうれしいけど……咲子ってサークル入ってないよね。高校のときも、書道部だって言ってたっけ」
「そうだよ。サッカー部のマネージャーならしてもいいかな、なんて思ってたけど、そうしたら試合のときに信人だけを応援できないもん」
入学当初のサークル見学で、早々に入部して練習に参加していた信人を見つけたときにひとめぼれしたことは、まだ信人には話していない。サッカー部のマネージャーに興味があるふりをして、同じ学科で同じ学年の信人に近づいたのだ。
話をするうち、やさしくて笑顔がかわいい信人の中身まで好きになったから告白したのだけれど、顔目当ての女だと思われるのが怖くて、言えないでいる。
「ありがとう、ちょっと恥ずかしいいけど、うれしいな」
はにかむように笑った顔が大好きで、咲子はつられて目じりがさがる。
「でも、だったらやっぱり心配だな。運動し慣れてないのに、いきなり百キロも歩くなんて…」
「そんなこと言っても、もう登録してきたんだろ。じゃあ出るか、不参加にするしかねえな。不参加でも参加費の返金はないんだっけな」
心配げに言う信人をさえぎったのは、彼の友人であり同じサッカー部に所属している広和だ。練習があろうがなかろうがいつでも空腹をうったえる彼は、ラーメン、春巻き、からあげに野菜炒め、そしてカツ丼まで載ったプレートを片付けながら、むぐむぐとしゃべる。
「まあ、出てみればいいじゃん。どうせサッカー部は全員参加だって部長が言ってたし、そのあとの棄権は自由なんだからさ。本人がやりたいっていうんだから、付き合ってやれよ」
信人の背中を押してくれるような発言はありがたいけれど、はじめからゴールできないことを前提にしているような言い方が咲子は気にくわない。
そもそも、付き合いたての男女が仲良くランチを楽しむ席についてくるのもどうかと思うし、咲子の目の前でおいしそうにカツ丼をほおばっているのも、たいへん腹がたつ。しかも大盛りだなんて。おいしいに決まってる。
「そう、だね。つらかったら無理しないで、すぐ言ってね。今日の講義が終わったら、いっしょに持ち物を準備しようか」
「……え? あ、うん。うん! そうだね!」
箸で持ちあげられたカツからとろりと卵がこぼれそうになっていて、咲子は信人の言ったことを半分聞き逃してしまった。はっとして返事をするけれど、咲子の視線はだしのしみたごはんから立ちのぼる湯気に向けられていて、信人が心配げに見ていることには気がつかなかった。
そうして迎えたイベント当日。
空は快晴、冬の透きとおった空気が天のたかいところまでずっと続いているようで、とても気持ちのいい朝だった。出発時間の午前九時を前にして、大勢の参加者が大学の正門の前に集まっていた。
下は咲子たちと同じ大学一年生から、上は咲子の祖父母よりも年上と見受けられるほどのご高齢のかた。その服装もさまざまで、もこもこに着ぶくれている者もいれば、カラフルでかわいい登山用のタイツにショートパンツを併せている者もいる。うすい長そでシャツと中高生が履いていそうなジャージズボン、首にうすいタオルをかけただけの老人は、歴戦の勇者か、はたまた通りすがりのお散歩老人か。
種々さまざまなひとでごったがえす正門近くからすこしはなれ、咲子と信人は道の端の花だんのそばに荷物を置いて、出発までの時間を過ごすことにした。
向かいあって立ち、上から下まで咲子の服装をチェックした信人は、満足そうにうなずいた。
「かんぺきだね」
咲子の大好きなかわいい笑顔を添えたことばだったけれど、咲子は笑って返せなかった。
自身の足元をじっと見つめながら、咲子は不満いっぱいに顔をしかめる。
「……ねえ。やっぱり、ちょっとダサくない? ヒールは我慢するから、せめてパンプスにしたいんだけど……」
そう言う咲子の足元を彩るのは、あずき色のダサい靴だ。信人いわく、ウォーキングシューズというらしいが、田舎のおばちゃんが履いてる靴、と言われたほうがしっくりくる。
どうダサいかと言うと、まず色が良くない。
赤茶けた色がすこし焼けて色落ちしたのか、すこしくすんでいて、それがなんとも芋くさい。ワインレッドやキャメルなんて表現でごまかしようもない、ちっちゃい豆のあの赤茶けた色だ。
そして形もださい。当然ながらヒールはないし、やけに幅広でずんぐりしている。そのうえ靴ひもはなく飾りをつけるような箇所もないため、アレンジを加えてすこしでもましにすることもできなかった。
そんな靴を履いて彼氏の横に立っていたくない、という気持ちを込めた訴えに、けれど信人は首を横にふる。
「だめだよ。パンプスなんかじゃ咲子の足の皮がめくれちゃう。クッションがしっかり効いてるその靴じゃないと、危ないよ」
イベントに備えて買い物デート、と浮かれていた咲子を失望させたこの靴だが、信人の心はがっちり掴んでいるらしい。
店頭でさまざまな靴を試し履きした結果、咲子の大好きな笑顔とともに渡されて、どんなに言っても変更してもらえなかったひと品だ。
いわく、「重要なのは見た目じゃない、咲子の足に合ってるかどうかだよ。合わない靴でつらい思いをするよりも、ずっといい」とのことらしい。
信人の言いたいこともわかる。咲子だって痛いのはきらいだから、しかたなく承諾した。
けれども、新しい靴を慣らすために、と買った日以降、信人と会う日は必ずその靴を履くハメになったのは、納得がいかなかった。
「……このイベントが終わったら、いっしょにキラキラのかわいいハイヒール買いに行くんだから。ぜったいそれ履いて、信人とデートするんだから」
「うん、行こうね。咲子の行きたいところ、どこでも付きあうよ」
ぶっすりとしている咲子に信人が笑って返したとき、おーい、と駆けよってくる者があった。
「ようよう、おふたりさん。もう受付済ませたか?」
気安く信人と肩を並べたのは、広和だ。
「ああ、早めに済ませてゆっくり出発しようと思ってさ。広和は……荷物それだけ?」
「いやいやいやいや、おれ、最低限は持ってるよ。小銭、飲み物、スマホと懐中電灯。このボディバッグでじゅうぶん入るっしょ」
背負っていたボディバッグを前にまわしてポンポン叩いた広和は、信人の足もとに置かれたバックパックを指差して眉を寄せる。
そこにあるのは、登山用と見受けられるほどにおおきなバックパック。それが荷物でいっぱにふくらんでいるのだから、これから同じ長い道のりを歩こうという広和が怪訝に思うのも、当然のことだ。
「広和はそれでじゅうぶんだろうけど、おれには足りないんだよ」
さわやかに笑う広和がなにをそんなに詰めてきたのか、咲子も知らない。ただ、咲子は手ぶらでいいよ、と言われていたから咲子のぶんまで荷物を持ってきてくれているのだろうとは思う。けれど、くわしい中身までは聞いていない。
「あ、ほら。そろそろスタートの時間だ。集合しなきゃ」
うながす信人のこえで、けっきょく荷物のことは聞けないまま、スタートすることになった。
それから一時間は、楽しかった。
スタートと同時に駆けだす一部のひとたち。広和いわく、彼らは朝9時にスタートしてその日の夕方までにゴールするのだという。
「えー、ずっと走るの? しかも夕方って、十時間もかからないってこと? 百キロ移動するのに? うっそだー」
「いやいや、本当らしいんだよ。主催にいる友だちが言ってたんだから、間違いないって。なんでも地元のひとで、毎年参加してるほんの一部らしいけどな。この日のために体作ってくるんだとよ」
「へえー、すごいねえ。まあ、おれたちは自分のペースでね、無理せず行こう」
天候に恵まれて、十二月にもかかわらずあたたかい気温は咲子たちを応援しているかのようだった。
ばらばらと歩道を進む参加者たちは、思い思いのはやさで追い抜き、追い抜かれしながら、おだやかに道をゆく。ひとびとのあいだをぬける風はさわやかで心地よく、広和が提供してくれる話題で盛り上がりながら歩くことができた。
さらに、一時間。
「おれ、そろそろ先に行くな。彼女連れでもないのに時間内にゴールできなかったら、ほかの連中に笑われちまう」
そう言って広和は歩調を早めて、去って行った。大学から離れるにつれて、あたりの景色は土と草木が目立つようになる。青空をバックにゆれるすすきを眺め、夏に来てもいい景色かもね、なんて会話を交わす。
ふと見回せば、たくさんいた運動部の集団は姿を消して、あたりに残っているのは女の子のグループばかり。
「もうちょっとでお昼だねえ。足もだるくなってきたし、この辺でランチして、電車で帰ろっかー」
そんな会話がちらほら聞こえてくる。間をおかず楽しげな同意の声があがるあたり、彼女たちはそもそもゴールすることを目的としていないのだろう。
参加費は安いし、参加人数は多いし、棄権は自由ときているから、ちょっとイベント気分を味わいたい、という子が多いのかもしれない。
そんな会話を尻目に、咲子はせっせと足を動かす。
「咲子、あんまり飛ばすとあとがキツイからね。自分のペースで、ゆっくり行こう。あ、水分補給を忘れないでね」
「うん、ありがとう。信人もね」
やさしく気づかってくれる信人に笑顔で返しながら、咲子はペースを落とさず進んでいった。
そして、また一時間後。
「うー、足がだるい」
昼どきになり、信人に昼食を取ろうとうながされた咲子は、コンビニの横の空き地に腰をおろしてうなった。
歩いているあいだは感じなかった重だるさが、座ったとたん両脚に広がった。靴を脱ぐと、その感覚は足の裏にも広がってくる。
「あー、でも靴脱いで休めるの、すごく良い。信人がレジャーシート持ってきてくれたおかげだね。ありがとう」
力を抜いて見上げた空のたかいところで、太陽が輝いている。すこし暑いくらいの陽気だけれど、足を止めたいまはそのぬくもりがじんわりと疲れを癒してくれるようだ。
「役に立って良かった。あ、冷却スプレーあるから、食べる前に足の筋肉をクールダウンさせておこうか」
ここまでの道のりでも、汗をかけばタオル、のどが乾けば飲み物、小腹が空けばちょっとつまめるお菓子など、信人のバックパックからはつぎつぎと物が出てきた。
けれど、それが序の口であったのだと、昼休憩に入ってから思い知らされた。
タオル、飲み物、お菓子に続いて、レジャーシート(大人二人でゆったり座れるサイズ)、冷却スプレー、小型のサンシェードまで出たときには、バックの中が四次元につながっているのかとうたがったものだ。
「ごはん、食べられそう? 飲み物ばっかりじゃ、あとでつらいよ」
言われて、咲子は自分がペットボトルをあおっていたことに気がついて腕をおろす。靴を脱いだ開放感で、気持ちがゆるんでいた。信人がコンビニで買ってきてくれたばかりの冷えた飲み物があまりにもおいしく感じて、うっかり飲み干してしまいそうになっていた。
「ごめん、冷たくっておいしいから、一気飲みしちゃってた。お腹ふくれちゃったから、サンドイッチ半分こしよ」
そのことばは半分ほんとうで、半分うそだ。飲み物を飲みすぎたわけではなく、咲子の胃袋は空腹を感じていなかった。疲れで食欲がわかない、というのがほんとうのところだった。
でも、それを言えば信人はきっと心配して、棄権しようと言うだろう。参加したからには行けるところまで行きたい咲子は、自分の疲れも彼の心配も笑ってごまかして、食べたくもないサンドイッチをかじるのだった。
重い腰をあげ、進むこと一時間。
休憩をはさんだことと、小春日和のあたたかさのおかげで、踏破を再開した咲子は元気を取り戻していた。
体が軽くて、足がどんどん前に進む。そうすると気持ちも楽しくなって、あたりを眺める余裕も出てきた。
「あ、あのひとたち、バレー部のひとだよね。ずいぶん前に追い抜かれたのに、追いついちゃった」
「ほんとだ。咲子が調子よく歩いてるからだね」
すっかり田舎になった景色のなかで、咲子はきれいなものをさがしながら歩く。
電柱を這いのぼるツタの葉のグラデーションみたいな紅葉。枯れ葉のあいまにふいに頭を出しているちいさな花。
葉の落ちた柿の木のたよりない枝にびっしりぶらさがる赤い実。
体にたまったつかれもほどよく気持ち良くて、咲子はごきげんだ。ちょうしの良さそうな咲子を見て、信人もにこにこ笑っている。
「いっぱい歩いたもんね。ねえ、何キロくらい進んだかなあ。そろそろ半分くらいきた?」
「まだまだ、だと思うよ。でも、たしかにずいぶん歩いてきたね」
そんな会話を交わす余裕があったのは、ふたたび歩きだしてから三十分ていどのこと。
時間が経つにつれ、咲子の調子は右肩下がりに悪くなっていく。
体がずんずん重くなり、足の先から太ももの付け根まで、余すところなくにぶい痛みに侵されていた。
「咲子、もうすこしペース落とそうか? それとも一回、休憩する?」
「……さっき休んだばかりだから。もうちょっとだけ進みたい」
心配して声をかけてくれる信人に、笑顔が作れない。ぶっきらぼうな喋りになっていることがわかっていても、改善する余裕がない。
前だけを見て歩く咲子に、信人は半歩遅れて着いて行くのだった。
信人が声をかけ、咲子が短く返し、目を合わさないままにぽつぽつと会話をしながら歩いていく。
じわじわとにじむ程度だった汗が、しだいにひたいを流れだし、咲子をイラつかせはじめた。
「今日は暑いね。寒くないのはありがたいけど、歩いてると汗が出るね」
言いながら信人が差し出してくれるタオルで、咲子は乱暴に汗をぬぐう。うん、と返事をしたつもりだったけれど、それが声に出ていたのかどうか、それすらわからなくなってきた。
ずる、ずる、ずる。
人通りのなくなった道に、足を引きずる音がひびく。
咲子がななめ前に視線を落として歩きづつけているうちに、あたりにはだれもいなくなっていた。あれほどたくさんいたひとびとは見当たらず、よろよろと見回した周囲には人家もない。コンビニも自動販売機も見かけなくなって久しい道は行けども行けども代わり映えせず、果てしなく続くように思えてくる。
「咲子、ねえ」
足もとの小石から、長い影がのびている。
「ねえ、咲子、ねえ」
陽が沈みかけているのだろうか。ところどころ舗装の割れたアスファルトが、冷たそうな色へと変わっていく。
「咲子、止まって!」
ぼんやりと、ただただ足を前に進めることだけを考えていた咲子は、耳もとで聞こえた声と力強い手に腕を引かれて、はたと我にかえった。
「信人……?」
思わぬ近さで信人の顔が目の前にあり、咲子はぱちりとまばたきをする。どうしてそんな顔をしているのだろう。暮れかけた陽が影を落とす顔は、ずいぶんと悲しげに見えた。
「…咲子、もう、棄権しよう」
信人が静かに言った意味が、咲子にはわからなかった。
すこし首をかしげて、腕をつかむ手をはずした咲子は、歩きだすために止まっていた足を前に出す。
けれど、咲子の前に立ちふさがった信人が、進ませてくれない。
「もういいって! 咲子はじゅうぶんがんばったよ」
そう言って進路を邪魔する信人に、咲子はかっとなって言い返す。
「なにがいいのよ! すこしも良くない! ゴールはまだまだ先にあるの。もっとがんばらなきゃダメなの。あたしはまだ歩けるの。すこしもじゅうぶんなんかじゃない!」
体は感覚がないほど疲れに支配されており、頭は考える力をなくしていた。なにも考えられなくなった頭のなかにあるのは、進まなければ、という思いだけ。
「棄権するなら、ひとりでして。そうでないなら、先に行って。あたしのことは気にしないで、放っておいて!」
とりつくろうことなど考えられずに、熱くなった頭からことばが飛び出る。後悔すらも浮かばぬままに、言うだけ言って咲子は歩きだす。
「…………」
よろり、ずる、ずる、おぼつかない足取りを眺めていた信人はなにも言わず、よろめく咲子の数メートルあとをついてきた。
「…………」
「…………」
もはや、ふたりのあいだに会話はなかった。
夕闇が色を濃くして、吹き付ける風がぐんと冷えても、聞こえるのは風の音ばかり。
足もとも見えないほどに闇が広がり、信人が取り出した懐中電灯のまるい光の輪をたよりに歩いていても、どこか遠くで打ち寄せる波の音が聞こえてくるほどに、ふたりは声を発しなかった。
黙々と歩く足取りは、遅い。
よろけてはわずかに進み、止まったかと思えば、にじり寄るように足が前に出る。
頑なに進み続けた咲子の足が止まったのは、冷え切った夜空に星がちりばめられたころだった。
進みたい。進まなければ。
頭はそう思っているし、気持ちもそう願っている。それなのに、体が言うことを聞かない。
咲子の足なのに、咲子の思うとおりに動いてくれない。
「……うーーーっ」
くやしくて、悲しくて、咲子は立ち尽くしたままくちびるを噛みしめる。きつく噛んだすきまから、白い息が細く流れ出る。
「咲子……」
ささやくような声と、頭に置かれたあたたかな重み。
今日一日ですっかりパサついてしまった咲子の髪の毛をやさしくすいてくれる、信人の手のせいで、こらえていた涙がぽろりとこぼれる。
一度こぼれたものは、もう止められない。ボロボロとあふれて、咲子のほほを冷やしていく。
「おつかれさま。もう、帰ろう」
やさしいことばとともに、咲子はあたたかな腕に包まれた。ほほを冷やしていた涙は信人のシャツに吸いこまれて、音もなく消えていく。
それからふたりは、滅多にこない車のヘッドライトに邪魔されるまで、寄り添いあっていたのだった。
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咲子が苦い思い出をふりかえっているうちに、踏破会の写真はスクリーンから消え、そのほかのなつかしい写真へとつぎつぎに移り変わっていく。
うす暗いフロア内のあちらこちらで、思い出を語る声があがり、笑い声がさざめいている。
「どーよ、おれの編集した写真」
こそっと声をかけてきたのは、かっちりしたスーツを着た広和だ。皆の視線がスクリーンに向いているのをいいことに移動してきたらしい。
信人の親友を自称する広和は、写真選びのセンスをほめる信人の肩にもたれかかりながら、咲子を見てにやにや笑う。
「いい写真ばっかりだろ? ほんとうは踏破会の帰りに撮ったやつもあったけど、入れないでやったんだぜ。あれはひどかったからなあ」
しみじみと言う広和に咲子はむっとするけれど、なにも言い返せない。彼の言うとおりだと、自分でも思っているのだから。
振り返れば、踏破会の思い出は辛さと後悔と、後悔と後悔だ。けれども、そのおかげでかぶっていた猫なんて吹き飛んでしまい、得がたいものを手に入れたのだから、後悔の最後にすこしの感謝を添えておいてもいいかもしれない。
「咲子は泣き顔もかわいかったし、思ってた以上に頑張り屋さんだってわかったから、あれはあれで良かったんだよ」
からかうような広和の態度は気にさわるけれど、すべてを受け入れて甘く笑う信人のことばもまた、むずがゆくって仕方ない。
踏破会の翌日に、余裕のない自分が発した言葉をふり返って血の気が引いて、筋肉痛でろくに動かない体で謝罪に駆けつけた咲子を前にしたときも、彼はこんな顔をしていた。
いわく「遠慮がちな咲子の壁が崩れて、本心に触れられるのがうれしかった」だの「おとなしくしようとしてるときもかわいかったけど、限界までがんばる姿もかわいかった」などと恥ずかしげもなく言って、青ざめていた咲子の顔を真っ赤に染めあげてくれたのだった。
そのときに、実は咲子が肉好きでがっつり食べたいタイプだということもバレていたと知らされて、咲子は恥ずかしいやら、がまんせずに食べたり焼肉デートにも行けるとうれしいやらで、複雑な気持ちになったものだ。
信人の甘い雰囲気に広和はあきれたような顔をしていたが、気を取り直してにっかり笑う。
「まあ、なんだ。あれだけぐずぐずに泣き崩れた顔見て、それでもおまえのことかわいいとか言うんだ。ぜったい幸せになれるぜ、おまえら。おめでとう」
そう言った広和はうす闇にまぎれて、自分にあてがわれた席へと戻っていく。
その背に信人とふたり感謝のことばを投げかけながらスクリーンに視線をやれば、ちょうど最後の写真がフェードアウトしていくところだった。
会場が明るくなるまえに、ととなりに座る信人に目をやれば、彼もまた咲子のほうを見ていたらしく、視線がぶつかった。
すこし照れるけれど、こんな機会は二度とない。咲子のなかで欲が恥ずかしさに圧勝するのに時間はかからなかった。咲子は欲望のままに、白いタキシードを着て、かっこよさが天井知らずになっている信人をしっかりと目に焼き付ける。
信人もまた、咲子の顔と言わず全身を眺めてほほ笑んでいるから、このドレス姿をかわいいと思ってくれているのだろうかと、咲子はうれしくなった。
「がんばる咲子をずっと、となりで支えていたい」
プロポーズのときに言われたことばを思い出して、咲子の顔はだらしなくゆるむ。こんなとき、猫をかぶらなくていいことに感謝したくなる。
しばし見つめあった二人がもう一度スクリーンに目をやると、そこには「結婚おめでとう」の文字。
ふわりと明るくなった会場はたくさんの笑顔に満たされて、そこかしこから「おめでとう」の声が聞こえてくる。
たくさんの祝福のことばに包まれた咲子は、なにを取り繕うこともなく、心からの笑顔を見せたのだった。