プロローグ
ヒトは、暴力を行使する生き物だ。
相手をねじ伏せ、すべてを奪い取る。
それが種の誕生から続く人間の本質……。
「――僕は、ずっと奪われてきた」
十六歳の誕生日を迎えたその日。
最後の一線を越えようと、八坂鳴海は風呂場にてカミソリの柄を握り締めていた。
「……」
手首に刻まれし、無数のためらい傷。
あとほんのわずか、刃を埋めるだけで望みは叶う。
理不尽きわまる世界からリタイアしたいという望みが。
「……死にたく、ない」
されど震える指先から刃は滑り落ち、鳴海は嘆くかのように両手で顔を覆う。
日常化したクラスメイトたちからのイジメ。
離婚した父から養育費を得るために、親権を主張し続ける母親。
それらにあらがうことできず、今日もカミソリにすがった次第である。
致命傷には届かぬ、いつもの自傷行為に。
「ぷ、あはは……」
無機質な友達に手を伸ばそうとした鳴海は、不意に聞こえてきた音に苦笑する。
今一歩のところで、心を正常に戻してくれたお腹の虫に。
「そういえば……昨日から何も食べていなかったな」
時刻は深夜0時。
台所の椅子へと腰かけた鳴海は、
「僕の誕生日なんて……母さん、忘れてしまったのかな」
包帯が巻かれた右足へと視線を落とし、
「あんな暴力を振るう人と再婚とか……嫌だな」
母の交際相手から負わされた怪我に心を悩ませていたが……。
「母さん?」
不意にインターホンが鳴り、急ぎ玄関口へと駆け出す。
「おかえりなさい! いますぐ開ける――」
「こんばんわ~」
が、ドアの向こうから聞こゆるは、小学生とおぼしき少女の声。
「え、と……」
困惑のさなか、ふたたびインターホンは鳴り、
「八坂鳴海さんですか~?」
フードで半面を隠した来訪者は、のぞき窓から様子を窺う彼の名を口にする。
「そうですけど……どちらさまですか?」
黒のレインコートに、真っ白な髪。
「はい、死神です。――八坂鳴海さんをブッ殺しに来ました」
にこと微笑んだ赤目の少女は、ごつい拳銃を懐から手にし、
「おねえちゃん、準備おっけーだよ」
青い瞳以外は瓜二つの妹は、ガソリンが揺れるポリタンクを床へと置き、バックから油圧式カッターを取り出す。
「ち、ちょっと……」
そして慌てふためく鳴海をよそに、拳銃を構えた少女は引き金に指をかけ、
「ばんっ!」
発砲音を口ずさみ、ドアのシリンダー錠を粉砕。
「な……」
「あいたた……。この火筒、すごい反動なのです」
尻もちをついてしまった少女は、ふたたび銃をドアへと向け、
「おねえちゃん、だいじょうぶ? ――よいしょっと」
チェーンロックが破断されたことを認めた鳴海は、居間の窓へと逃れようとする。
「あ、待つのです!」
が、右足を吹き飛ばされ派手に転倒し、
「逃げることはできないのです。これは運命なのです」
「そういうことなのです。――それでは、さようなら」
少女たちは容赦なく銃を乱射し、挽肉となった彼は自宅ごと灰になった。
……そう……。
たしかに八坂鳴海は、死んだはずだった。
『本日未明。都内に住む十六歳の男子高校生が、拳銃にて撃たれる発砲事件が起こりました』
暗闇にこだますは、ニュースキャスターの音声。
「我が校で、生徒たちによるいじめは発生しておりませんでした」
「ハハッ、鳴海の奴、最後まで楽しませてくれたな?」
「あ~あ、また財布になる奴を探さねぇと」
縁のあった人々。
「お前、あのガキに保険金をかけてなかったのかよ」
「……かけておけばよかったわね」
母の声は、無情なる闇のかなたへと消えさり、
「僕の居場所は……どこにも無かった」
世界から切り離された鳴海は、無情なる孤独に泣きはじめる。
そして……。
《このまま消えたいか?》
どれほどの間、嘆いていたであろうか。
突如、闇にただよう鳴海の幽体へと若い男の思念が届き、
《八坂鳴海。もう一度だけ人生をやり直してみたいかい?》
謎の思念は、重ねて問い――悲しみに打ち震えた鳴海の魂は、やがて男の言葉を肯定する。
《ならば夢の続きは、その目で見るといい》
そしてふたたび鳴海のまぶたは開かれ……。
醒めやらぬ意識のまま、彼は石造りの祭壇から身を起こした。