弱小貴族令嬢が第一王子の唯一となる為の静かな策略
とある森の中。麗らかな木漏れ日の下に、二つの人影があった。
「だーかーら、僕はリグと結婚するんだってば」
そう言いながら、幼い顔を膨らませるのはセルベッド・スティルファー。齢8歳の少年だが、白銀色の髪は紛れもなき王家の証。ゆくゆくは王位を継承する第一王子である。
「セルベッド様、簡単にそのような事を言ってはなりません」
受けて嗜めるのはリグナーレ・ファラリス嬢。歳は14歳。とある貴族の令嬢である。
ただ――極貧の弱小貴族のだが。少なくとも第一王子と関係を持つのは難しい身分なのは間違いない。外見も不恰好ではないのだが……グレーの髪に大人しめの顔立ち。お世辞にも華やかはないだろう。
にも関わらず、傍目から見たら二人の様子は親密であった。
ここは、リグナーレ嬢の避暑用の別宅――と言っても規模や外観はとても貴族のそれとは思えないみすぼらしいさ。きこり小屋と見紛うほどだ。
そんな小屋に申し訳程度に付けられたバルコニーに二人はいた。粗末なテーブルを囲み、安物の紅茶を飲んでいる。
「リグは分からずやだなー」
そう言ってセルベッドは紅茶を啜った。渋い香りと強い酸味。美味しくはない代物だが、セルベッドはこの味が好きだった。
「わからずやの紅茶は飲みたくないでしょうから、取り下げますね」
「あ、ごめんごめん……それだけは許してくれ」
セルベッドがリグナーレと関わるようなったのは何てことはない。王子の狩場がリグナーレの別宅と近場であり、狩りをサボった時にたまたま逃げ込んだだけである。
窮屈な王宮に辟易していたセルベッドは色んな意味で貴族らしくないリグナーレに惹かれ、こうして通いつめているのだ。
ここで行われるのは安物の紅茶による小さなお茶会。聞いたことのない童話。森の恵みで作られたお菓子。リグナーレから振舞われること全てがセルベッドにとって魅力的だった。
相手がただの平民ならセルベッドは通うことを止められていただろう。だがリグナーレも貴族の端くれであるために、この奇妙な状況が続いている。
もちろんセルベッドの周囲は良い顔をしていないが、幼さ故の自由を阻みはしなかった。
「リグは僕の事が好きじゃないの?」
「セルベッド様、人にはそれぞれ与えられた役割があるのです」
そうすました顔で言うものの、リグナーレも王子を好いていた。純粋で心優しい人柄。幼いながらも民や国について話す姿はリグナーレを惹きつける。
だが、彼女は聡明であった。自身の思いを突き通せば良くないことが起こるのを理解していたのだ。
そして二人で話せるタイムリミットが迫っている事も。だから――彼女は決めた。
「……だから私の役割は精々、セルベッド様の十番目が相応しいでしょう」
「十番目? リグは僕の一番だよ」
「いいえ、私にはお側で支える身分も力も無いのですから。その代わり、この日々を忘れぬよう、十番目で居続けます」
「うーん……よくわかんないよ……」
リグナーレの静かな誓い。その時はまだ王子には理解ができなかった。
――そうして年月が過ぎた。
セルベッドは王位継いだ。そしてリグナーレを側室に入れた。が、人の心とは移ろい行くものだ。
様々な出来事がセルベッドを揉み、リグナーレへの思いを疎遠にしていったのだ。幼い頃に見えなかったものがセルベッドの周りに溢れていた。
それらの眩い光が、リグナーレの小さな灯火を掻き消していったのだ。
そうしてセルベッドはリグナーレの事など忘れ、高貴で美しい女性達を相手にする。情からかリグナーレを側室から外しはしなかったが、後ろめたさから彼女の住処を離れへと遠ざける。
皮肉にもリグナーレは序列最後尾の側室――相手にされぬ10番目の女と嘲られた。そしてセルベッドの記憶から風化していく。
――さらに月日が過ぎる。
セルベッドは心を病み始めた。きっかけは父の死。どうやら毒による暗殺だったのだ。22歳の時である。
セルベッドは人の気持ちが分からなくなった。前々から純粋過ぎるきらいがあったセルベッドだが、今回の事件により過敏になってしまったのだ。
自分に近づく為に嘘を吐く権力者。ハリボテの愛を紡ぐ側室達。王妃は未だおらず、父と母を亡くしたセルベッドには全てが――自分の心さえも欺瞞に見えたのだ。
次狙われるのは自分か。嘘つきは誰だ。嘘。嘘。嘘。頭を常によぎる疑惑。
ボロボロになって行く心。欺瞞が欺瞞を誘い悪循環に陥る。セルベッドは崩れゆく心を満たす為に毎晩側室を抱いた――リグナーレを除いて。
理由は特になかった。もうずっとセルベッドはリグナーレと顔を合わしていなかったのだ。離れに遠ざけたのにわざわざ抱く事もあるまい、と。
だが、歪んだセルベッドの心は思う。側室にされたのに、相手もされない。女として屈辱な筈なのに何故なにも言わないのだ。遠くから俺の財産を卑しく狙っているのか――――と。
穢してやる。その汚い心を罵り、犯し尽くしてやる。仄暗い気持ちを秘め、セルベッドはリグナーレの元へ向かった。
今夜に出向く事は伝えた。大方、他の側室に共と同じ取り繕い、媚びへつらって自分を迎えるのだろう。甘い誘惑の香りを身に纏って。
そして離れへと辿り着く。そしてリグナーレのいる部屋へを開き――。
「今晩はセルベッド様。お久しぶりですね」
懐かしい芳香がセルベッドの鼻腔をくすぐった。渋くてとても良い香りではないが酷く懐かしい。
テーブルの上にあるのは二つのティーカップ。そして向かい側にリグナーレは佇んでいた。
幾分か老けてはいたが、その顔に変わりはない。グレーの髪に素朴な顔。側室とは思えない雰囲気だ。
「さあ、座って下さい。セルベッド様」
その声にセルベッドは我に帰る。紅茶? 違う、リグナーレを穢しに来たんだ。
「何の真似だ貴様――」
「貴様の入れる紅茶は飲みたくないでしょうから、取り下げますね」
リグナーレはそう言ってセルベッドの言葉を遮る。そして毅然とした態度でティーセットを片付け始めた。すると、何故だろうか。セルベッドの心に焦りが浮かんだ。片付けないでくれ、飲みたい――と。
「ま、待ってくれ」
「はい、分かりました。では、座って下さい」
「わ、分かった」
セルベッドはおずおずと席に着く。そしてテキパキと紅茶が準備されていく。
「お待たせしました。どうぞ、セルベッド様」
ティーカップを受け取り、啜る。あ、ああ……懐かしい。セルベッドの胸に郷愁が浮かぶ。
磨り減った心が満たされていくのを感じた。感情のささくれがなくなっていく。リグナーレに夢や理想を語っていた時の気持ちがじんわりと染み出してきたのだ。
同時にリグナーレに対する後悔の念が浮かんできた。自分は何をしていたのだろうか、と。
「あ、あの……リグ」
「どうしましたか?」
「許してもらえるとは思えないけど……すまなかった」
「……何がです?」
セルベッドは驚き、リグナーレを見上げる。リグナーレの顔には怒りや悲しみも浮かんでいなかった。ただ、ただ穏やかな昔と変わらぬ笑顔。
「怒って……ないのか?」
「申し上げたではありませんか。私は貴方の十番目で良いと」
「リグナーレ、教えてくれ。それはどういう事なんだ」
セルベッドはリグナーレを見据えて問う。リグナーレはゆっくりと口を開き。
「私にはセルベッド様のお側で支える力はありません。現にセルベッド様のお父様が亡くなった時に側へいても、私は何も出来ないでしょう」
「……」
「そしてセルベッド様は心がお綺麗な方です」
「そんな事……」
「いいえ、今の貴方がその証拠ですよ。純真な心は欺瞞に弱いですから。だから、あの頃から私わかっておりました。将来セルベッド様のお心が乱れる事を」
リグナーレは一息つくと目を伏せ、続ける。
「だから、あの時決めたんです。私に出来る事……セルベッド様が迷われた時、昔の心を思い出せるように――2人で語り合っていた頃の私で居続けようと」
「り、リグナーレ……」
それはあまりに過酷で残酷な決意。報われず、省みられない奉仕だ。
「そんな顔をしないで下さい。私が自分で決めたんですから。まあ、中々来ないなとは思ってましたけど」
「僕は、これからどうすれば良いんだ……?」
「何も変わりませんよ、辛い時や苦しい時に紅茶を飲みに来てください。いつでも待ってますよ。貴方の幸せが私の幸せですから。私は貴方が力尽きるまで十番目の側室で有り続けます。私は貴方が好きですから――――」
とある大陸にスティルファーという国があった。現在大陸の覇権握るその国は、数百年前のある王により大きく発展した。セルベッド・スティルファー王。武と知に優れたセルベッド王には不思議な伝承がある。王は渋くて酸っぱい紅茶を愛したという。そして彼の墓には奇妙な事に末端の側室の遺骨が納められている。