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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第一章 現世編―螺鈿の巻―
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第三話 さだめと決意(上)

 苧環おだまき神社――舞の悲劇と奇跡とが同時に起こった因縁の舞台は、決して十七年の静寂のなかで眠っていたわけではなかった。参拝者が減り、代々この神社を継いできた宮司の家がついに途絶えてから、ここには絶えず行き場のない神や霊魂がさまよいこんでは、人の寝静まった夜深く、姦しく饗宴をくりひろげることもあった。美しく清らかなたぶの木々の葉はいつの間にやら乾いた血のようなどす黒い色を重ねていった。そこを拝み、顧みる優しい人々の心と眼に清められなければ、聖域とてかくも陰惨な場所になり得ることの好例であった。


 欠けはじめた月が雲の切れ間から白い骸のような顔をのぞかせて、卵色の障子をほの明るく透かして見せると、彼女の影が本殿の内部の薄暗さにも紛れずにそのひとの纏っている黒い直衣の裾にだけ、しっとりと細やかに溶け込むのが見える。彼女はそれを恍惚として眺め遣る。こんな奇跡がまた起こり得たのだと。そして、こんな奇跡以上のこともまた、起こり得るのだと……


「どうした、芙蓉ふよう


 その人はそっと問いかける。少し掠れた、けれど男のものにしては幾分高くてしとやかな声を聞くと、芙蓉はまるで甘い蜜を吸わせた綿を含まされたように嬉しくなる。その蜜の甘さを声音に滴らせながらも、微笑みを袖に忍ばせて芙蓉は答える。


「いいえ……」

「お前の考えていることは手にとるようにわかるよ、芙蓉。あんなに睦び合った私たちだもの。でも、お前は嘲笑っているのだろうね。今の私は昔のように美しくはない……」

「お戯れを」


 芙蓉は膝をその人の方ににじりよせて呟く。


「あなたは変わらず美しいままですわ。たとえ、不完全であったとしても……」

「不完全か。確かに。そう言うべきだったのだね、不完全と。今のお前の言葉に、お前の心が私から離れていってしまったことがよく表れていたよ……ああ、私は誰を恨めばいいのだろうね。こうしてお前の愛を失ってしまった悲しみは、どうやったら報われるのだろう。京姫を殺してやることか。それとも…………」


 芙蓉は差し延べられた白い腕を、月明かりと見紛えた。その掌が彼女の頬にそこに湛えられた深い影を押し付けるまで。芙蓉は目を閉じてほうっと息をつく。甘やかな吐息が口元の紅を湿らせるか湿らせぬかのうちに、冷たい唇がその音色を引き受ける。芙蓉の体は闇の中に崩れ込んだ。


うるし様……」


 月はただ、芙蓉の十二単の裾だけを儚く照らすばかりである。その部屋の奥に満ち満ちている悲しみと称されたおぞましいまでの憎悪と、そしてそれを束の間慰めるために繰り広げられている饗宴とを、照らし出せぬまま……そしてまた、薄雲が月の面を覆い始める。闇が辺りに立ち込めていく。






「司!司!!」


 それは、舞が五歳の時の出来事を再生しただけの夢だった。幼い舞は母親にしっかりと肩を抱きしめられながら、救急車に運ばれていく傷ついた司に取りすがらんとして、泣き叫び、もがいていた。夕暮れの街の空は青くなずみ、佇む家々の屋根に成り変わられた地平線のあたりには一筋の緋色の帯が消え残って燃えていた。その燻る煙のように、西の空に湛えられた雲は黒い。舞は全ての終末を見切ってしまったような気がした。幼い心ながらに。汗と涙で頬が熱く、喉は乾いて焼け付くように痛かった。それでも、恐ろしい予感を振り払わんとして、閉ざされた救急車の扉に向かって舞は叫ぶ。


「司!!!!」



 はっと舞は目を覚ました。携帯電話の画面を見る――7時50分。最悪だ、寝坊した!と青ざめたところで、日付の横に刻まれた括弧書きの曜日に目が移る。現代のあらゆる問題の原因であると度々糾弾されているこの文明の利器は、このように人を焦らせもさせ、安堵させもする。要は翻弄しているのだが、舞はひとまず心の均衡を手に入れた。ただし、それは、極度の興奮から憂鬱な内省へと落ちゆく通過点に過ぎなかった。


(なんであんな昔の夢を見たんだろ……)


 舞はパジャマの膝を片方だけ抱きかかえて呟く。隣の部屋からは姉の鼾が壁を通り越して聞こえてくる。ああ、お姉ちゃん、今日は部活ないんだ。こんな平和な土曜日なのに……


(司……)


 舞は膝の上に肘をついて、その指で髪を耳にかけた。結城司が転校生として現れたあの日から、早くも五日が過ぎようとしている。この一週間、舞は結局結城司とほとんど会話を交わすことができなかった。司は他の人を避けるのと同様に舞を避け、他の人を軽蔑するのと同様に舞を軽蔑し、他の人との会話に意義を見出せないように舞との会話にもなにひとつ見出せないようであった。あの恐ろしい出来事をどう口にしていいのか、舞には分からなかった。二人のたった一つの共通の思い出があの苧環神社での出来事であるにも関わらず、それを口にするのは憚られた。司が明らかにその話題があるから舞を避けている素振りを見せてくれていたならともかく、そもそも何事もなかったかのように振る舞われてみると、却って舞は勇気が挫けるのであった。それに、舞がその過去に踏み込んだ時の司の傷ついた憤怒の表情は、怪物の醜悪な姿にも薄れずに舞の瞼の裏に焼き付いている。舞がただひとつ、逡巡しつつも安心して投げかけられる言葉は「おはよう」だけであった。


 四月十二日――あの日になにが起きたのか。舞には二重の記憶がある。一つの記憶では司が死に、もう一つの記憶で生き延びた。一つの記憶では司は舞の大好きな幼馴染であり、もう一つの記憶では冷酷な転校生であった。そして一つの記憶では舞はなす術なく怪物に降伏し、もう一つの記憶では怪物に立ち向かった――あの不思議な力はなんだったんだろう。舞は枕元に置いていた桜の鈴をそっと持ち上げて掲げてみる。しかし、何度問いかけても鈴は答えを出してはくれない。振っても音さえ転がせない、その鈴は。


「よく考えたら私、なんでよく分からないもん持ち歩いてるんだろ……」


 舞は口に出して呟くと、溜息をついて鈴を枕元に置いた。もういいや。悩んでも仕方ない。ここ一週間そうだったのだから、今になって答えが出るはずがない。朝ごはんを食べにいこう。


「司……どこ行っちゃったの」


 それでも想いはつい零れ出て。

 立ち上がった舞の背後で、なにか物音がした。舞は思わず立ち止まる。その音がなんだか人の咳のようなものに聞えたので。


「姫様、こちらは常にお持ちにならなければなりませんぞ。命の次に大切なものなのですからな」


 今度は確実に聞き間違いではない。老人の声だ……

 舞は臨戦態勢をとってさっと振り返った――誰もいない。いつもと変わらない舞の部屋だ。東向きの窓からは明るい陽射しが差し込み、カーテンの色を透かしながらフローリングの上に波模様を作って遊んでいる。ベッドはきちんと整えてあるし、テディベア、サボテン、写真立て、なにもかも変わらぬ場所に置いてある……あれ、テディ?


「いやはや、御挨拶もせずに再会早々から説教など。これだから老人にはなりたくないものですな」


 テディと名づけて舞が小さい頃から大切にしているテディベア――古くなってますますやわらかくなったふかふかの体と円らな黒い目の大好きなぬいぐるみ。ただ、それはその愛らしい容貌を持っているというそれだけで、舞の抱擁やキスを一身に受ける幸運を手にしており、格別喋ったりましてや動いたりする必要はなかったのである。それが今、喋りながら、二本足で立ちあがり、舞を見つめているではないか。


「姫様、お久しゅうございます。わたくしは……」

「いやあああああああああああああ!!!!」


 舞の悲鳴は家中に響き渡り、階下でパンケーキをひっくり返していた母親を驚かせた。しかし、フライパンを離れる訳にはいかない。


「あなた、舞になにかあったみたいですけど」

「悪い夢でもみたんじゃないか。それかゴキブリでも出たか」

「まあ、食事中にやめて頂戴な」


 両親がこんな調子であるから、舞が最初に家族から得られた反応は、姉が壁を蹴り飛ばす音と「うるさい!!」という姉の怒鳴り声であった。舞はぬいぐるみが喋ったことよりこちらの方が恐ろしくて震え上がる。


「朝っぱら騒ぐんじゃあないわよ!!!!」

「ご、ごめんなさいいいい……!!」


 舞は隣の部屋の壁に向かって頭を下げると、恐る恐る再びぬいぐるみの方に目をやった。見間違いではない。ぬいぐるみは舞の叫び声に辟易したように両手で丸い耳を塞いでいる。ぬいぐるみは再び言った。


「いやはや……すさまじいお声ですな、姫様。相変わらず元気がよろしいことでなによりでございますが、しかしそれでは……」

「や、やっぱり喋ってる……!」


 舞はじわじわと後ずさった。これは幻覚だろうか。あまりにもおかしなことが起こったから、ついに気が狂ったのだろうか。とにかく、助けを呼びにいかなければ。


「ああ、姫様、お待ちくだされい!」


 舞が扉に手をかけようとすると、テディベアはぴょんと軽やかにベッドを飛び下りて、舞のパジャマの裾に手をかけた。もう片方の、丸い小さな手で桜の鈴を舞に差し出して。


「わたくしです!九条くじょう門松かどまつでございます!……いえ、記憶を失われていらっしゃるからには驚かれるのも無理はありませんが。とにかくこちらは常にお持ちなされ。そして、わたくしの話を聞いてくださいませ。そうすれば、どうしてこんな姿で参上しなければならなかったかもおわかりになりますゆえ」

「やっぱり夢じゃない……」


 舞は頬をつねって半泣きになっている。


「姫様、どうしてもお話ししなければならぬことがございます。なぜ、貴女が京姫みやこひめとして再び現世に蘇らなければならなかったかを……」


 京姫――その名で舞を呼んだ人がいたはずだ。夢の中で見知らぬ美しい女性が舞をそう呼んだ。それから鈴の力で変身をしたときにも、そう呼ばれた。どうしてこの人(テディ?)がこの名前を知っているのだろうか。それに、九条門松……なんだか懐かしい響きのような気がする。


「左大臣……?」


 舞は慌てて口を噤もうとしたが、言葉はすでに零れ落ちていた。テディベアは感激したように見えた。


「おお、覚えておいででしたか!この左大臣、これ以上嬉しいことはありませぬぞ……!」


(違う……覚えてたんじゃない。嘘、どうして……)


 舞は改めてテディを見下ろした。こんなに可愛らしい見た目をしている。ずっとこの見た目にふさわしい可憐な声を描いてきたのに、まさか老人の声でこのテディに話しかけられるなんて。見慣れた顔なのに見知らぬものたち。司も、このテディベアも、そして自分自身でさえも。舞がテディの脇の下に手を入れて抱き上げると、テディベアは「ひ、姫様!」と叫びながら手足をばたつかせたが、舞は構わずにぬいぐるみをベッドの上に座らせると、舞自身は床に座り込んで視線をあわせる。その翡翠色の瞳が切なげに揺れるのを目撃して、テディベアはにわかに黙り込んだ。舞は静かに切り出す。


「……あなたは、誰?」

「ああ、やはり覚えていらっしゃらない。無理もございませんな。あまりにも長い時間が経ちすぎましたからな。えー、改めまして姫様、わたくしめはかつて姫様にお仕えしておりました左大臣、九条門松でございます。畏れ多くも姫様の後見役を務めておりました」

「……どうして、私を姫様って呼ぶの?」

「もちろん、貴女はなにを隠そう、京姫でございますから。姫様は忘れていらっしゃるかもしれませぬが、貴女は前世で帝とともに京を守護する巫女であったのでございます。もちろん、はるか遠い時代、神の代が終わって間もなくという今の時代からは気が遠くなるほど古い時代のことでございますが」


 舞はテディの言葉が頭に入りきらずに頭の周りを旋回しているのを感じながら、頑張って咀嚼を試みていた。前世?帝?京?平安時代の話かしら。でも、それが私になんの関係があるっていうの。それに、京姫だなんて聞いたこともない。そもそもぬいぐるみと話している私の現状は一体なんなのだろう。舞はやや躊躇いつつも、正座した膝の上に手を重ねた。舞のなかには訳がわからないという困惑を一筋貫く、全てを知りたいという気持ちがあった。たとえそれが信じられないことであったとしても。もしかしたら、司に起こったことに関係するかもしれないもの。


「左大臣……さん?」

「いえ、わたくしのことはもう呼びつけにしてくださって……」

「最初から話してくださいませんか?その……前世のこととか、京姫のこととか。それに、その鈴のことも」


 舞は小さな手に握られた鈴を指さして言う。左大臣はしばらく黙したのち、「かしこまりました」と言って居住まいを正した。その威厳ある振る舞いは熊のぬいぐるみがとるとかなり滑稽ではあったが、しかし、今の舞には笑うほどの余裕はない。左大臣はこほんと咳をひとつして、重々しく口を開いた。


「はるか昔のことでございます。多くの神々はその御代の終わりを悟られましてこの世界を去り、暁に消え残る遠い星々になられました。すなわち、『暁星記ぎょうせいき』に『この世自ずから成らず。日なければ明けず、月なければ暮れず。暁に消え残る星々は先の世を去にし神々の名残なり』と記された時代のことでございますが……まあ、これもいずれ思い出されることと思います。ただ一柱の神、天つ乙女だけがこの世界に留まられまして、それから、あー……まあ、ともかくも天つ乙女は自ずから身ごもられて、偉大にして聡明なる帝のご先祖となったのでございます。天つ乙女の御子、天有明星命あめのありあけぼしのみことは世界を支配していた悪しき四神たちを成敗し、人々を従えて初代の帝、すなわち白菊帝となられました。そして、帝をお助けしたのが、麗しき巫女、斎桜乙女いつきさくらおとめ。この方が初代の京姫となられたのです。そういう貴い神のお血筋を引かれた帝と、高い霊力を持った京姫との力によって、この玉藻国たまものくにの京は代々守られておりました。姫様も八つの時に京姫としての霊力を見出され、即位されたのです」


 左大臣は一度ここで言葉を切った。舞は何も言わずにいることで先を促した。舞はその時、テディベアの首元にかけられた赤いリボンをただ見つめていた。


「しかし、姫様の御世に思わぬ悲劇が起こりました。京を滅ぼそうと企むうるしという男が現れたのです。姫様は力の限り戦われ、ついにご自分の命と引きかえに漆を封印されることに成功いたしました。それでも、漆によって大きな損害を受け、かつ帝も姫様をも失った京は滅びざるを得ませんでした。そして、世界が終わり、また新しく世界が、今姫様が暮らしていらっしゃる世界が生まれたのでございます。ここまでは、過去の話でございます……」


 左大臣は悲しげな深い溜息をついた。その指し示すところは舞にも分かった。今の話は決して虚偽ではないと訴えているのだ。到底信じられない話だ。あまりにも壮大すぎる。それに、私が京姫だなんて、世界が一度滅びてまた生まれただなんて、そんなことが……と、テディベアの手が桜の鈴をつと舞の方へと突き出した。


「これからは、現在の話をいたしますぞ」


 舞はテディベアの目を見た。ただの黒い釦の目。でも、そこになぜ感情が宿っているのだろう――なにかとても辛いことを忍ぶかのような。


「姫様、漆の奴が蘇ったのでございます。この御代に。まだその力は微弱なものですが、わたくしめは感じます、奴の邪悪な気配と悪意とを……奴は姫様に復讐なさるでしょう。先日、姫様にあのおぞましい怪物を差し向けたのは漆の手先かと思われます」


 舞の目にあらわれた動揺を左大臣は見逃さなかったと見えて素早く後を続ける。


「姫様!漆を倒さねばなりません!漆は姫様を殺し、そしてこの世を掌中におさめんとするでしょう。かつて京を滅ぼしたのように、この世界を滅ぼそうとするでしょう。ですから、姫様、どうぞご自分を、そしてこの世界を守るために戦うのです!わたくしは……」


 左大臣は声音を落とす。


「わたくしは先の戦いで命を落としました。姫様のように転生することもかないませんでしたが、姫様をお救いすべく、魂だけでこちらへ馳せ参じました。そして畏れ多くもこんなお姿を……姫様、お許しくださいませ。そして、この左大臣を肉体も持たない、惨めな、憐れな老いぼれだと情けをかけて、せめてわたくしの言葉を信じてくださいませ。そればかりが、この老いぼれの望みでございます」


 左大臣は跪いて深々と頭を避ける。額を地面に、否、ベッドのシーツに擦らんばかりにして。しかし、左大臣の嘆願の様子を舞は見つめていながらほとんど見ていなかった。舞は空白の過去を見据えようとしていたのだ。物心ついたころなどというものなどではない。生まれるよりずっと昔の、前世の記憶――舞は自分自身の手で確かめたかったのだ。信じようもない、けれども確かに信じなければならないような話を、自分の記憶でなればなんとか掴めるだろうと。舞は左大臣の話のなかに不確かなヴィジョンを得た気がしたのだ。だが、見つめれば見つめるほどそのヴィジョンは曖昧になってしまう。ある言葉を弄びすぎると、ふとその言葉と認識できなくなるあの瞬間のように、見つめ過ぎれば見えているものの本質がわからなくなってしまう。


(私は前世で京姫だった……京を守護していた。帝とご一緒に……私は、漆と戦って、死んだ。漆と戦って……)


「嘘……」


 唐突に飛び出た言葉に、左大臣も舞自身も驚いた。左大臣はその言葉の意味に。舞は自分の声のぞっとするほどの低さに。舞はこんなことを言うつもりではなかった。舞には確かめなければならないことがあったから。舞は司が一体どうしてあんなに豹変してしまったのか、それは今の話となにか関係があるのかということを聞きたかったのだ。それなのに、どうして冷たい言葉がまっさきに出てきてしまったのだろう。舞はその瞬間、得体の知れぬ恐怖に襲われた。なにか突き上げてくるものと、それを必死に抑えようとする衝動とに苛まれ、舞は咄嗟に立ち上がった。致し方なく舞は衝動のままに言葉を継いだ。それが本心とは例え異なっていたとしても、舞にはもはや自分の言葉の意味さえよく分かっていなかったのだ。


「う、嘘、嘘よ……!そんな話信じられる訳ないもん!そんな話が本当だとしても私じゃない。前世だなんて、京だなんて、私には関係ない!!……私は漆と戦って死んだわけじゃない!!」


 テディベアが呆気にとられて舞を見上げている。その光景を見ていると、不思議にも、舞はつい吹き出したくなってしまう。こんな真面目な話をしているというのに、司のことを考えているというのに、その話し相手がテディだなんて。表情を取り繕うとして、舞の微笑みは歪んだ。


「ごめんなさい……私、京姫なんじゃないんです」


 舞は咄嗟にかけてあったセーラー服を引っ掴むと、部屋を出て階段を駆け下りていった。唖然と開いたままの扉を眺め遣るしかないテディベアを、貴重な休日の安眠を妨害されたゆかりの怒声が戦慄させた。


「舞!!ふっざけんな!!!!」





(休日だっていうのに、制服なんか着てバカみたい……)


 友達との約束に遅れると言い訳をして家を出た舞は、溜息を吐いた。携帯電話も財布も置いてきてしまった。それに朝食をとっていないから胃がさびしくてすすり泣いているのが分かる。舞は気がまぎれないかと、ついお腹の辺りをさすってみる。


(でもしょうがないよな。テディから逃げなきゃいけなかったんだもん……でもどうしよ。帰ったらまだいるよね。テディを捨てる訳にはいかないし、それに……)


 それに、あの左大臣とやらは嘘をついている訳ではない。信じがたい話だけれど、あの話で大方説明がつくのだ。あの怪物のこと、京姫のこと、そしてただのぬいぐるみがしゃべりだしたことも上手く説明できている。ただ、結城司がまるきり別人になってしまったことは別であるけれど。


(でも、漆とかいう人と戦えって言われたって……)


 舞は立ち止まる。休日の町はいつもより目覚めるのが遅い。普段は誰もが慌てふためいているこの時間も今日はのどかで静かである。白と茶の野良猫がいかにも暢気そうに道路を横切っている。舞の右手にある民家の庭の灌木にはまるで雀の成る木のように、小鳥たちが集まって意味もなく騒がしい。その家の二階のベランダが開いて、なんだか機嫌のよさそうな中年の女性が、布団を干し始める。布団を叩く乾いた音が耳に心地よく響く。雀たちがまた騒ぐ。その頃には、猫は道路を渡り切っている。舞はそういうところに意識を巡らせながら、戦いという非日常の出来事を捉えなおそうとしていたのかもしれない。舞は考える。


(もし、司が変わってしまったのも、漆のせいだとしたら?その、漆とかいう人を倒して、司が戻ってくるとしたら……?)


 舞はごくりと唾をのみ込んだ。朝日が白く眼に滲んだ。


「いやはや。探しましたぞ、姫様……!」


 右斜め後ろ、頭の上あたりからだろうか。確かに声がした。舞は一瞬固まり、そして次の瞬間にすさまじく優雅な素早い動きで振り返った。あの機嫌のよさそうな女性の家(もしくは雀たちの家)を囲っている塀の上に、見慣れたぬいぐるみの姿が、見慣れぬ膝に手をついて息を荒げているという姿勢をとって立っていた。


「ま、またでたっ!!」

「出たとはなんですか、まるで物の怪のような言い方を……はあ、姫様、この体ですとこう少し姫様の後を追いかけるだけでも……」

「追いかけなくていいから!その恰好で見られたらまずいから、家にいて!というか、私のことは放っておいて!」


 ベランダの上から、女性が怪訝そうな顔でこちらを眺めだす。舞はテディの腕を引っ掴むと、塀の裏に身を屈め、テディベアを抱き上げて自分の顔の前に掲げるようにして、必死にささやく。


「言ったでしょ。私には関係ないんだってば!絶対人違いなんだから!」

「確かに姫様が信じられぬも無理ないこと。しかし、姫様は確かに京姫として覚醒され、怪物と戦われたではありませぬか。前世のことは次第に思い出されることでしょう。何の疑う余地があるのです?」

「い、いろいろあるの!ともかく!!も、もうどこかへ行ってよ!わ、私、忙しいんだから……!」


 舞はテディベアを地面にそっと降ろすと、ぱたぱたと駆けていってしまった。その後ろ姿を見送りながらぬいぐるみは渋い顔をして呟く――ぬいぐるみに許される範囲の渋い顔でという意味だが。


「まるでお変わりありませんなあ、姫様」


 左大臣の脳裏にも「わ、私、忙しいんだから!」と叫び走り逃げていく小さな少女の姿がある。少女は桜色のあこめの裾を翻しながら、説教を垂れようとする老人の手をいとも容易くすり抜けていってしまったのだ。実質は帝以上の権力者――事実はそんなに単純なものではなかったが、ともかくもそういうものと評されていた左大臣に対して、忙しいという言葉を投げつけられるのは幼い京姫だけであった。


「しかし姫様……お変わりないからこそ、老いぼれは心配ですぞ」





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