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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第一章 現世編―螺鈿の巻―
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第二話 覚醒(下)

「……今日のあんた、変よ」

「うん……」


 昼休み、廊下に並んで校庭でサッカーに興じる男子たちを見下ろしながら、二人は呟くような会話をした。美佳は開け放った窓の桟に重ねた両腕を敷いてそこに顎を置き、活発な男子たちの動きを眼鏡に映している。舞はもはや窓の外の光景に興味もわかないので、その隣にいながらも窓には背を向けている。小さな手を、腰の後ろで組みながら。


「どうしちゃったの、ほんと。転校生の名前は当てるし、いきなり倒れるし、バレーボールは吹っ飛ばすし」

「わかんない……」

「あんた、あの転校生と知り合いなの?」

「わかんない……」

「わかんないってことはないでしょーよ」

「わかんない……」

「こらっ」


 美佳に小突かれた舞は、自分は支離滅裂な返答をしていたことにようやく気がついた。舞は伏せた目を悟られぬようにそっと持ち上げて、教室の入り口から見える結城少年の姿を眺めていたのである。結城司は、同じ名前だった人がかつて――それが本当に「かつて」と呼んでよい時系列にあったのか、舞にはわからなかったが――そうしていたようにサッカーの群れにはまざらない。彼は難しそうな、古い本を開いて、静かにその世界に没頭している。そしてクラスで誰かがけたたましい笑い声をたてたりすると、時々眉をひそめてそちらを睨みつけている。教室の中の女子の会話がつい途切れがちになるのは、あるいは彼のせいかもしれなかった。


 もし、結城少年が午前の間にその卓越した頭脳と身体能力を見せつけていなければ、彼の睥睨も底抜けに明るい女子たちの嘲りに跳ね除けられたかもしれなかった。彼の沈黙は愚鈍の証とされ、彼の孤独は異端の表明と見なされただろう。そうであったら、クラスの生徒のみならず舞でさえもどれだけ気が楽だったことか。彼に投げかけられる軽蔑にも、軽蔑で返せばよいだけのことであったから。だが、彼の鋭敏さや聡明さは、見ている者に恐れを抱かせずにはいられないようなものであった。舞も含めた多くの中学生たちにとって、その知の総量がその人格さえも重厚なものに仕立て上げてしまうという例を目撃するのは、初めての経験であった。彼らは結城司に敬服せざるを得なかった。


 それになによりその美貌――舞は眩暈を覚えるほどに懐かしく愛おしいその横顔を眺めながら、その顔がその上に塗られるにはあまりにもふさわしくない冷酷さによって一層美しさを際立たせることを知って、腹立たしささえ感じていた。もし結城少年がかくも美しくなければ、先に述べたような知の総量でさえ滑稽さのうちに自ずから崩れかねなかったというのに。言ってしまえば、結城司はあまりにも完璧すぎた。人間らしからぬほどに。


(司じゃない……司じゃない……)


 舞は何度も胸のうちに繰り返した。


(頭がいいのも、運動神経がいいのも司と一緒だけど、でもやっぱり司じゃない。司はあんな、ロボットみたいな冷たい人じゃなかった……)



「それで、あんた、ほんとにどうしちゃったのよ」

「わかんない……でも、なんか悪い夢を見てるみたいな気分なの。現実みたいな気がしないの。なんか……そうだ、違う世界に来ちゃったみたいな……」



 美佳との会話を思い出しながら、舞は自宅への道を歩みだす。美佳は相変わらず舞を心配しながらも、それでも部活は休めないので舞に「気をつけなさいよ」と一言伝えて、校庭へと走り去った。舞はそんな友の背中をぽつんとさびしげに見送って、昇降口を出たのだ。舞には親友にさえも理解されていないという悲しみがあった。だからといって、こんな話をしたところで美佳が信じてくれるはずもない。


(あれが現実のことだとして……)


 舞は辛くおぞましい記憶をおそるおそる心の底から持ち上げてみる。整理することが必要だった。


(時間が巻戻ったっていうの?夢で見たのは今日のことだったもの。少なくとも日付は一緒。四月十二日――でも単に時間が巻戻っただけっていうなら、司のことはどうなるの?なんで司が転校生としてやってきて、それに別人みたいにならなきゃいけないの?)


(やっぱり私、ほんとに別の世界に来ちゃったのかな?この世界は前の世界とはちょっと違うパラレルワールドだったりして。こんなのバカげてるってわかってるんだけど……それとも、私、死んだの?)


 舞は立ち止まる。襲い掛かってくる怪物の姿が目に浮かぶ――恐ろしい瞬間であった。怪物に飛びかかられていたその時よりも、自分が死んだのかと疑いはじめたこの時がなによりも。


(ここは死後の世界なの?私、もしかして地獄にいるのかもしれない……そうかも。だって、司がいない世界は私にとって地獄だもの……)


 舞はその途端に世界が崩れて、たちまち暗闇と灼熱の炎に鎖された世界が表出するかもと一瞬身構えた。だが、街並みは変わらない。花曇りの空は、舞の陰鬱な心に寄り添ってくれるかのような、あるいはますます孤独を深めようとするかのようで。薄い雲を透かして降り注ぐ日の光で、桜花市の街並みは埃を被ったかのように白くぼんやりと光っている。その端々に花の彩がある。だが、それさえも舞を喜ばせはしないのであった。


 舞は再び歩きはじめた。混乱して、疲弊しきっていた。こんな虚脱感に襲われるのは、明るく陽気なこの少女にとってこれが初めての経験だった。どんな可能性に思いをはせても、なにひとつ答えを返してくれるものはないのだ。そうして妄想のように次々とあらゆる可能性を考え付いたところで、所詮徒労でしかない。舞は明日のことを思う。明後日のことを思う。一年後、三年後、十年後を思う。舞の未来は司が別人のように変わってしまったこの世界の延長線上にしかないのだろうか。今まで、舞は未来を果てしなく遠いところに伸びていくものだと思っていた。だが、今の舞には、未来というものが箱庭の中に収められてしまったもののように感じられる。


(あれが現実のことだして……)


 舞は再び最初の仮定に立ち返った。


(もしかしたら私の願いを神様が聞いてくれたのかもしれない……死んでしまった司ともう一回やりなおせるように。何もかも元通りにはいかなかっただけで……)


 風にさらわれてやってきた一枚の桜の花弁が舞の頬に触れる。その柔らかな、湿ったような感触と、零れ落ちた塩辛い雫の感触を舞は混同した。息がつまった。


(だとしても、ちっとも嬉しくない……!)


 司に会いたかった。声を聞きたい、顔を見たい、手を握ってほしい。駄目だ、司はあの司でなければ駄目なのだ。同じ名前で同じ顔の人間が代われるような人間ではない。たとえ、新しく出会った結城司の性格が元の司のように優しく勇敢であったとしても――でもやっぱり違うんだ。舞は今ここでなら、一度は自分に投げかけた問いの答えが出せる気がした。すなわち、司の性格が変わったことと司が転校生として現れたことのどちらが自分にとってショックなのかと。もちろん両方に決まっている。決まっているには決まっているのだが、でも舞にはやはり、同じ時間を過ごしてきた幼馴染としての、初めての、そしてたった一つの恋の相手としての司の喪失がなによりこたえた。小さな舞の手を引いて家まで導いてくれたあの司の喪失が、あの時からこの掌に残っていた温もりの喪失がなにより……


(司、どこにいるの?)


 お願い、ここに来て、すぐに。あなたは絶対現実に存在したのだから。そして今も、存在しているに違いないのだから。


(司、お願いよ、会いたいの……!結ばれなくてもいい。私のこと、振ってくれたっていいから、今すぐここにきて……!)


 舞はふと、こんなことを前にも思ったような気がした。でも、舞の思いがここまで哀切なものになったのは、悪夢に立ち向かわされている今ならではであってのはずだった…………


 曲がり角を曲がって、見慣れた後ろ姿を見つけたとき、舞は思わず自分の願いがかなったのかと思って狂喜しそうになった。だが、それは舞の見知らぬ方の結城司の姿であった。あの、なんとなく人を寄せ付けないような物腰でわかる。元の司よりずっと優美なくせに、どことなく粗雑な印象を与える歩き方でも。まるで人に追いつかれることを嫌がっているようではないか。あの足の進め方の速さときたら――舞はそれを見ているうちに、なぜだか無性に苛立ってきた。喧嘩を売られているような気がしたのだ。司の姿で好き勝手しないでよ――舞の気持ちを代弁すれば、おおよそこのようなものになっただろう。急に闘志が湧いてきた。今ならば、結城少年の軽蔑の眼差しとも戦える気がした。


 舞はおもむろに駆け出して、少年の肩を叩いた――以前そうしていたように。結城司は驚いたように足を止め、舞を見ると、たちまち顔面を冷たい憎悪のこもったものに凝らせた。司の顔がそんな風に蹂躙されていることに、舞は一瞬耐えられないような思いがしたが、舞は自らを奮い立たせ、明るい声調で言った。


「ゆ、結城君!今、帰り?」

「……見ればわかるだろ」


 結城少年は返事をするかどうかさえ迷ったようであったが、結局低い声で吐き棄てるように言った。それから、舞の大好きだった薄紫の瞳を冷やかな流し目で濁しながら「なにか用?」 と尋ねた。


「ううん!でもせっかくだから、途中まで一緒に帰ろうと思って!」

「僕は一人で帰りたいんだ」


 僕、だなんて。一人称まで変わっている。


「い、いいじゃない!わ、私、結城君と仲良くなりたいなー、なんて……ほ、ほら、どうせ家の方向も一緒だし!!」

「なんで僕の家の方向がわかる?」


(あっ、しまった……)


 舞は密かに汗をかいた。以前、司は舞の家から南側に二本ばかり道を隔てたところに住んでいたので、うっかりこの司の家もそうだと思い込んでいたのだ。でも、そうであるはずがない。だって、この人は別人なんだもの……


「あっ、えっと、いや、なんとなくそんな気がしただけ……お、おうち、どこ?」

「教える義理はない」


 結城司は不審の色もますますあきらかに言い放った。


「もういいか?家が一緒だとしても君とは帰りたくないんだ」

「そ、そんなこと言わないで……せっかく同じクラスなのに!」

「だからなんだって言うんだよ?」

「だって、友達になりたいじゃない……」

「ぼくは友達なんていらない。みんな馬鹿ばかりだから。君も含めてね」

「ば、バカっていったほうが、バカなのよ!!」


 むきになる舞は、すっかり以前の司との口喧嘩のペースで言った。そのせいで、今現実に向かい合っている結城少年はあまりにも子供っぽい言い草に初めて軽蔑と憎悪以外の感情を表した。彼は露骨に呆れていた。


「なんだ、それ……」

「む、昔からそう言うじゃない!だから、私のことバカっていう結城君だってバ、バカなんだから……」


(何言ってるの、私……)


 舞はますます泥沼にはまっていく自分に気付いて必死にあがきながら、自分の子供っぽさに悄然とした。その時だけ舞は司への不快感を忘れ去っていたのだが、舞自身はそのことを自覚していなかった。今ひと時だけ、以前の司とのやり取りの骨格だけは少なくとも蘇ったのだが。


(これじゃあ、ほんとにバカにしか見えない……)


「変なやつだな」


 結城司は言外の意味はまったくないという口ぶりで投げ捨てた。そして、前より足を速めて、舞を振り切るように歩きはじめた。


「あっ、待ってよ!」


 舞も慌てて足を速める。


「ついてくるなよ」

「だって、まだ会話終わってないもんっ!」

「君と話すことはなにもない」

「あるよ!いろいろ!そうだ、京都にはいつからいたの?」

「教えたくない……!」

「前はこの町に住んでたんでしょ、なんで京都に……」


 結城少年が急に足を止めたので、舞はつんのめって危うく転びそうになった。それでも転校生はクラスメイトのために手を差し出しはしなかった。舞は自分を見つめている結城司の瞳が、今初めて感情らしい感情を映しだしていること気がついた。軽蔑、憎悪、呆れ――それは彼にとって習慣にすぎないのだろう。それを表すということは。しかし、今、彼はようやく能動的な己の心の働きによって感情を描出しだしている。舞に対する怒りと嫌悪感とを――


「いい加減にしてくれ!ぼくに付きまとうのはやめろ。目障りだ。ぼくが以前何をしてどこに暮らしていようが、君には関係ないじゃないか……!」


 結城司の言葉は氷柱のように舞の胸に傷を残す。舞は走るようにして去ってゆく彼の後ろ姿をもはや追いかけることができなかった。舞は鞄を地面に落として、空になった拳を震わせる。やっぱり司ではないのだ。舞はついその面影を探し出そうとしていたのだけれど。結城司の心に土足で踏み込んで、素手で過去を漁った。その結果、彼を怒らせてしまった。ああ、祖母がいたらどんなに舞を叱っただろう。舞の行為はおおよそ礼儀を外れていた。舞は己を恥じた。


「ごめんなさい……」


 聞えない事を知りながらも、舞はそう言わずにはいられなかった。舞は彼を怒らせたばかりではない。彼を傷つけたのである。舞は思いがけず彼の表情のなかに、彼が必死に隠そうとしているものさえ見出したのだ。彼は明らかになにものかを恐れ、そのなにものかが残した傷痕に触れられそうになって怯えていた。よく馴染んだ顔であったから、読み取るのは簡単であった……


(もうやめよう、あの人に関わっちゃだめだ……)


 不思議と舞は自然に諦めがついた。そして、なにより吹っ切れたような思いがした。多分、単に胸の神経が麻痺しているだけで、家に帰ったらまた悩みだすかもしれないけれど。


 鞄を拾い上げようと身を屈めたとき、制服のポケットのなかで小さく鈴の音がした。舞は動きを止めた。桜の鈴の存在をすっかり忘れていた。でも、確かあの鈴は鳴らなかったはずではないか。今になって、なんで……?鈴がまだ震えている。持ち主である舞がぴたりと制止しているにも関わらず、その音は次第に大きくなっていく。舞は鈴を取り出してみた。すると、驚いたことに、鈴は玲瓏な音色とともに桜色の光を発しているではないか。


「どうして……?」


 背中がぞくっとした。舞ははっと振り返った。


 四月十二日――その日は悲劇の日なのであろうか。この悲劇からは、何度繰り返しても逃れられないのだろうか。舞は永久に終わらぬ悪夢を見続けるのか……角と爪と牙とを持った、狼に似たあの怪物が、民家の屋根の上から赤い目で舞をじっと睨みつけていた。剥き出しになった牙に唾液が伝って屋根瓦を鈍く光らせる。舞と目が合うと、怪物は低く唸り声をあげた。


「あっ……」


 司もあの時こんな光景を見たのだろうか。このおぞましい姿を咄嗟に舞に見せまいとして、手を引いてくれたのだ。舞が怖がって動けなくなることを恐れて――しかし、手を引く人もない今、舞はすっかりすくみあがってしまっていた。舞は廃神社で思いがけず出くわすことになった死の恐怖を思い出した。死にたくないと思うほど、死を手繰り寄せているような焦燥感と、もうどうしようもないのだという絶望感を。せめて声をあげられたらいいのに。そしたら誰かが気付いてくれる――でも気づいたところでどうしろというの?こんな怪物、武器でも持っていなければ倒せそうもない。でも司は、あの朽ちかけた柄杓で、あんな貧相な武器でこの怪物に立ち向かったのだ。傷ついた体で、我が身を犠牲に舞を守ろうとして……思考だけが忙しなく頭を過ぎるけれども、足はまだ動きそうにない。逃げなければ。でも、逃げて、どこへ行くと言うの……


 舞の腕をぐいと引く人があった。その人が走り出したので、舞もつられて走り出した。鞄を置き去りにしたまま。その瞬間、怪物が先ほど舞がいたところに飛び降りて、その角で鞄を突き上げた。鞄がその角に刺し貫かれ、ずたずたに引き裂かれている光景を舞は小道に入り込む寸前に見た。それから、舞はようやく前を歩く人の顔を見た。正確には、顔というより後ろ姿であったが――舞は目を疑った。それは、司であった。


「つ、司……!」

「君に呼び捨てで呼ばれるほど仲良くなったつもりはない」

「ど、どうして……」


 結城司は答えなかった。舞はこの見知らぬはずの司が通る道が、以前導かれて通った道と全く変わりないことに気がついて、漠然とした不安を覚えた――同じ運命をたどっているという不安――しかし、舞は走っている人を止めて別の道に導くほどの余裕は到底なかった。舞は怪物が恐ろしかったし、ずたずたに引き裂かれた鞄を見た今では猶更であった。怪物は追ってきているのだろうか。振り返ろうとした舞の気配を察知したのか、結城少年は鋭く叫んだ。


「振り向くな!」


 舞はその横顔のうちに、司と同じ表情を見た。




 二人は以前にもやってきたあのカーブに突き当たって、しばらく呼吸を整えた。舞は両手を膝の上に突き、荒く息をしながらも注意深く周囲を見回してどうするべきかをうかがっている司の顔を見上げ、冷酷なまでに聡明なよそよそしい瞳が、今ひと時だけは却って頼もしく感じられるのに、果たしてどうやって折り合いをつけようかと迷っていた。しかし、今はそんなことよりも……


「あれはなんだ?」


 司が指さしたものは、苧環おだまき神社の古い看板であった。


「廃神社……だけど」

「廃神社か。なら、人はいないんだな?」

「うん……そうだけど……」

「だったら、そこに向かおう」

「そんな!駄目……!」


 打ち捨てられた神社のもの悲しい風情、それを取り巻くたぶの鬱蒼とした森。しかし、それらを舞台に起こった出来事の方がその舞台の雰囲気よりもどれほど陰惨であっただろう。舞たちとともにそこに迷い込んでしまった怪物は、その廃れた社務所や手水舎の屋根を蝕むものたちよりどれほど邪悪であっただろう。舞はタブのつややかな硬い葉が、今この瞬間でさえ司の血を滴らせているように思われる。舞は身を震わせた。あの神社には二度と行きたくない――


「あの神社は駄目。他のところに逃げよう」

「とにかく人気がなくて、隠れられるところを探してるんだ」

「どうして?それより助けを呼ぼうよ。町の真ん中に戻ろう!そうだ、商店街に……!」

「駄目だ」


 司はすばやく首を振った。


「どうしてよ?」

「あんなのが繁華街に現れたら大混乱になる。被害だって拡大する。とにかくあいつから隠れられるところを見つけて、その隙に警察と保健所に連絡するんだ。それしかない」

「でも、怪物だなんて信じてくれるかなぁ」

「土佐犬とでも言っておけばいいだろう。大差ない」

「どうやって電話すれば……?」

「馬鹿か。携帯があるだろう」


 舞は一瞬きょとんとした。


「け、携帯?ゆ、結城君、携帯電話、学校に持ってきてるの……?!」

「こういう非常事態があるからだ。別にいいだろう。授業中使ってる訳でもないし……とにかく、もう行くぞ。君が行かないっていうならぼく一人で逃げるからな」

「あっ、ちょっと、待って……!」


 司が道路を横切ったのに、舞はくっついていった。あの優等生の司が学校に携帯電話を持ってきているなんて。舞はこの非常時にそんなことに傷ついてその一方で感心してもいたが、苧環神社へと続く白い階段が照葉樹の木陰に続いているのを見ると、途端に些末なことは吹き飛んでしまった。ためらわず突き進んでいこうとする司の手を、舞は無意識のうちに取って止めた。司は舞を拒絶したときを思わす恐ろしい形相で振り返った。


「一体この神社がなんだっていうんだ。そんなに問題があるなら早く言え」

「ちが……結城君……でも、やっぱり、駄目……!」

「ああ、そうか。なら君は助けを呼びにいけ。僕は他人を巻き込むのは御免なんだ……そもそもあの怪物は君を襲ってきたんだ。いいさ、別行動にしよう。君が囮になっている間に僕が連絡をつけるよ。さあ、行けよ!」


 人に行けと言っておきながら、動きはじめたのは司の方であった。舞はどうすべきかと躊躇った。焦りと迷いのために汗ばみ、恐怖のために喉と唇が渇いてくる。司を引き留めることはできなさそうだ。どうする?司を追うか、それとも彼の勧告通りに繁華街の方へと向かうか。確かに司の言う通りだ。あんな怪物が町中に現れたらみんな混乱する。怪物が誰を押そうとも限らない。もしかしたら、買い物をしている舞の母親や下校途中の友人たちまで……司と舞との間で終わらせられたはずの惨劇を、自分はこの町全体にまで拡大しようというのか。


 あの怪物が本当に司の言う通り、舞を狙ってきたものだとしたら……司を追うことはできない。舞はやはり囮にならなければ。一人にならなければ。それは恐ろしい考えではあったけれども、再び司の死を見るよりははるかにましなのだから。


(逃げよう……とにかく限界まで走るの。結城君が通報してくれるまで、できるだけ怪物を町から遠くに惹きつけて……)


 舞は鈴を取り出した。一度は聞えなくなっていた鈴の音が再び大きくなってきた気がする。怪物が近づいてきていることを示しているのかもしれない。舞は急カーブの斜面の下から隣町にむかってひろがっていく、畑と、河と、架橋との白けた景色を打ち眺めた。自分はあちらへ逃げよう。


 震えながら、怯えながら、それでも地に伏した司の姿を振り払うため進み始めた舞はあやうく悲鳴をあげそうになった。舞の体は朽ちかけた階段を二メートル近く滑っていった。突然引っ張られたせいで。


「ぼやっとしてるな。死にたいのか!」

「ゆ、結城君……」


(駄目なのに。絶対に駄目なのに……)


 階段を駆け下りる苦しさにも、足の痛みにも負けず、椨の森の不気味さにもあるいは死の恐怖にも紛れず、舞が司に手を引かれながら胸に抱きしめていたのは深い悲しみであった。舞は明らかに司の手を振り切っていかなければならなかったはずだ。でも、それができない。司は一人で逃げられたはずなのに、それをしない。舞を見捨てる機会があったにも関わらず、もう二度も舞の手を引いてくれたのだ――舞も司もなにか抗いようのないものに支配されているような気がして、それに従うばかりの自分たちが舞は悲しかった。舞たちはもしかして、こうして何度も悲劇に突き進んできたのだろうか。何度も転生と夢とを繰り返しながら……黒い鳥居が見え始めてくると、舞はある決心をした。


 階段を降り切ると、今度は舞が司を社務所の方へと引っ張った。閉じられた扉は舞の力でいともたやすく開けることができた。舞は司を座らせ、自分はかつて司がそうしたように中腰になって、ちらりと格子窓から様子を窺ってまた身を屈めた怪物の姿はなかったが、鈴の音は先ほどよりやはり大きくなってきてはいた。


「怪物は?」

「来てない。大丈夫」


 司の目が、不審そうに舞を見上げている。


「君は……」

「結城君、今のうちに通報しちゃって。でもそれが終わったら絶対に声を出さないで。目をつぶって、耳を塞いでて」

「なに言って……」

 舞は笑顔で相手の言葉を封じられることを学んだ。

「大丈夫だから。ちょっと様子を見てくるだけ。すぐに帰ってくる」

「ちょっと……おい!」


 舞は司に引き留められぬうちにと急いで社務所を出た。それ以上そこにいたくなかったせいもある。そこにいると、思い出しそうで。格子窓に見えることを恐れたのは、怪物の姿ではなくて、椨の木にまで鮮やかな紅の花を咲かせていた、司の――


 舞は社務所の扉に依りかかり、胸の上に小さな手をあてて深呼吸を一つした。それから、社務所の表側へと回り込んで、ついに手水舎に向き直った。風に崩れ去ってしまった骨組みだけの屋根の下、水盆は光の届かぬ底の色と、水面に映り込む照葉樹の色を織り交ぜて沈鬱な暗緑色を湛えている。椿の木はその隣で静かに佇んでいる。ただ足元のみに花を降り積もらせて、水面を乱すこともなく。その光景が舞にまた勇気を与えてくれた。

 舞は参道を横切って、地面に転がり落ちている朽ちた柄杓を拾い上げた。手にしてみれば、ますます貧相な武器であった。こんなものに頼って司は戦っていたのか。舞は破れた柄杓の底に堪えた涙を溜めた。その脆そうな柄を握り締めた。司の手の温もりの痕跡をそこに認めようとして……舞は目を閉ざす。風が木々の葉をざわめかせている。聞こえるのはただそれだけだ。耳を塞ぎたくなるほどの沈黙のなかで、ポケットの中の桜の鈴が舞を勇気づけるように震えている。舞は片手に柄杓を、片手に鈴を抱えて、鳥居の方へと歩みだした。


 舞は己自身に誓ったのだ――もう結城司の死は目撃しないと。たとえ彼が舞の深く愛した司ではなくとも。司に手を引かれて石段を降りる途中、抗いきれぬ運命への悲しみのなかで、かつての司が舞を守ろうとして起こした行動の意味を、その筋書きを見出したのであった。司は舞から怪物を遠ざけようとしたのだ。自ら囮になることで……携帯電話なんて学校に持っていけなかったあの司は誰にも助けを呼べなかった。だから、一人で戦おうとしたのだ。


「幸せに、なって」――夢の中で聞いた言葉は、二重の覚醒を経ることで遠ざかってしまった。でも舞は不幸になろうとしているのではなかった。死のうとしているのでもなかった。司に殉ずることも、押し付けられた不幸に自ら向かっていくことも、結城司の命を守るというひとつの目的を達成できさえすれば唾棄してもよいような些少な問題であった。舞はただ、結城司を守るために命を惜しまないというだけなのだ。舞はただ、結城司を守らねば、自分の幸せなど永遠に来ないことを知っていただけなのだ。


(結城君は私が守る……司、お願い、力を貸して……!)


 ゆるやかなしっとりとした足取りで鳥居を潜り抜けた舞は、ふと立ち止まり、そして鳥居の上を振り仰いだ。怪物がうなりはじめた。

 鈴の音が一度大きくしゃんと鳴り響いた。鈴の中の小さな桜の花弁が突如として音色とともに風にのって溢れ出し、桜嵐が吹き荒れると、舞の体は夥しいその桜の花弁の中に包まれた。


京姫みやこひめ、さあ、戦いなさい……!あなた自身の運命と」


 桜の花びらは舞の腕に、胸に、背に、腰に、足に、そして髪に纏わりついたかと思うと眩い輝きを放ってきらびやかな麗しい衣装へと変わっていった。腕には桜の色をそのままに透かした袖が、胸元には桜の花弁をそのままに襟元に散らした背子はいしが現れた。背中から一度体を取り巻いた桜は一筋の川を作って領巾ひれとなり、舞の腰元に巻かれて大きなリボンを作った。太腿を取り巻いていた桜はレースの裾のついたピンク色のミニスカートに。脚にはニーハイソックスが履かされた。足元には桜の花弁の柄がついたピンクゴールドの靴。髪は伸びてふわりと腰元まで波打ち、宝石を散らした、両端に桜の花びらが二枚ずつハート型を描くように飾られたピンクゴールドのティアラがその頂きを飾る。舞は驚いて自らの衣装を見下ろした。一体なにが起こったというのだろう。


 それから、舞は持っていたあの貧相な柄杓もまた姿を変えていることに気がついた。柄杓は、先端に水晶の球体のついたロッドへと変わっていた。そのきらめく水晶の中には、桜の花びらを模したピンクの宝石が輝いている。舞はすかさずそれを怪物の方へと向けた。怪物は舞の変身に怯みながらも、獣の本能と、その生命を突き動かしている悪意とによって、猛然と舞に襲い掛かってきた。舞――否、京姫と呼ばれたその少女は杖を振りかざして、獣の角を跳ねのけた。怪物は大きく後ろに飛んで椨の幹にぶつかり、椿の木にぶつかってその花を夥しく散らしながら、手水舎の屋根の骨組みに引っかかった。泡を吹いた怪物はもがいてその下に落下し、水盆の水を散らした。水はその体に触れたそばからどす黒く澱んでいった。


「う、うそ……!」


 目の前の現象になにより驚いているのは自分自身であると、京姫は思い込んでいたがそれは違った。がたん、という大きな音がしたかと思うと、結城司が社務所から飛び出してきて、水盆の上であがいている怪物を信じがたいという面持ちで見つめた。それから、ふと京姫と司の目が行き合った。京姫ははっとした。


「君は……」

「結城君、逃げて!」


 怪物が再び立ち上がり、土の上に飛び降りた。片方の角は先ほど木にぶつかった衝撃で折れてしまったようだ。しかし、怪物の脅威は少しも損なわれていない。それどころか、怒りと痛みのためにその獰猛さは一層煽り立てられたようにも見える。怪物は損なわれていない爪で土を何度か神経質に引っ掻くと、おぞましい彷徨をあげた。その声に、京姫も司も凍りついた。烏の群れが悲鳴をあげながらこの椨の森より一斉に飛び立ったせいで、薄曇りの空が一時的に暗くなるほどだった。重なる羽音がやかましかった。


 京姫と司の戦慄を見越して、怪物は飛び上がり、間近にいる司に向けて躍りかかる。咄嗟に気付いた京姫が駆け出して、司の体を押しのけた。怪物の爪を仗で交わし、次いで角の攻撃をもひらりと避けて、仗の先端による一撃で健全だった方のそれを打ち砕く。くるりと仗を返し、その頂上に飾られた宝石を向けると、怪物はその光を恐れて後ずさった。京姫は為すべきことを知った。


桜吹雪さくらふぶきッ!!』


 京姫が両手で仗を高く掲げて叫ぶと、水晶のうちに桜色の光が満ちた。京姫がそれを怪物に向けて突き出した途端、光は怪物に向かって放たれてその硬い被毛を包む。おぞましい断末魔を掻き消して、光はおどろおどろしい醜悪な怪物の姿を美しい桜吹雪へと変えてしまった。花びらは、舞の頬まで漂ってきた。

 ふっと膝を落としたとき、舞は元の姿に戻っていて、手にはあの桜の鈴だけが握られていた。舞は空いた方の手で自分の顔に触れてみた。手が震えている。そういえば、膝も、喉も、全身も……本当にこれは夢でないのだろうか。こんなにもありえないようなことが。舞は美しい姫君に変身して、しかも怪物を倒したのだ。


「嘘、じゃないの……?」


 舞はそっと呟いた。答えはない。疲労しきった体だけが真実だ。


「あっ……結城君……!」


 思い出した瞬間に、舞の披露は吹き飛んだ。立ち上がった舞は、地面に倒れている司を見つけると、蒼白になって駆けよっていった。舞の脳裏に、息絶えた司の姿が閃いたのだ。


(まさか……!)


「司!!」


 舞は司の傍らに膝をつくなり、その体をゆすぶった。司の眉がうるさそうにひそめられ、小さく呻く声がその口から洩れた。でも、怪我はない。生きている。司は無事だったんだ……!単に気を失っているだけで。それから舞は、なんで司が気を失ったのかと不思議に思い始めた。怪物のことがよっぽどショックだったんだろうか。でも、舞をここまで引っ張って逃げてきてくれたほどの司だというのに?もしかして……と舞は思い当たった。もしかして、私が突き飛ばした衝撃で……?


「ゆ、結城君!お、起きて!!」


 結城少年は無理矢理たたき起こされた、といった風情で目を開けた。すぐに頭を押さえたところをみると、どうやら頭を強く打ったらしかった。舞はますます慌てた。


「ゆ、結城君、大丈夫……?」

「頭が……」

「痛い?ご、ごめんね……!本当にごめん!」

「なんで君が謝るんだよ……」

「えっ、だって……」


 舞ははっと口を噤んだ。司はどうやら刹那だけ見かけた少女のことを、舞だと分かっていないらしいのだ。ならば、触れない方がいい。舞が怪物を倒したなどと、知られない方がいい。司に限らず、他の誰にも……


「怪物は?」

「逃げちゃった……多分、おまわりさんが来たからだと思う」


 ちょうどその時パトカーの音が聞えてきたので、舞は言い訳にちょうどいいと一言付け足した。司は舞に介抱されつつも起き上がると、周囲を見回し、それからこんな場所に二人でいること自体への不審を一所に集めたというような目線で、舞を射た。しかし、舞はそんな目に動じなかった。もっと大切な感動が、その胸の内に泉のように湧き上がっていたから。


「……なんだよ」

「結城君……無事でよかった。ほ、ほんとに……!」

「……はっ?」

「司……!」


 舞は結城少年の肩に顔を埋めると、すすり泣きはじめた。結城司は明らかに狼狽し、困惑し、迷惑そうな口ぶりで舞に「おい」と数度呼びかけながら舞を突き放そうとしたが、舞は滅多なことでは離れなかった。警察がやってきたときも、二人はまだそのままの姿勢であった。すなわち、舞は司に抱き付いて泣き、司は離したいような離したくないような素振りで少女の肩に手を置きながら……


 結城司の命が助かった――舞はその喜びを忘れることはないだろう。たとえ、これより先の人生に悲しみが雪のように降り積もって、その姿を掻き消してしまっても。雪解けの折には、きっと舞がその喜びを見出すときが必ずやってくる。しかし、舞の前途はまだまだ多難であった。なぜなら、舞の京姫としての戦いは今始まったばかりであったから。


 翌朝、登校してきた舞は、クラスメイトでごった返す教室のなか、一人平和と静謐に包まれて洋書を読む結城司の姿を見つけた。やはり司の姿は戻ってこない。怪物をこの手で倒した後でさえもなんの褒美も降ってこないなんて。舞はひそかに、怪物さえ打倒せば司が戻ってきてくれるような気がしていたのに――舞はまだ、結城司という幼馴染を失ったことを、新たな結城司との邂逅で埋めることができないままでいた。それでも、舞は司の席に駆け寄っていった。女友達たちにむけて作った、明るく優しい微笑を崩さまいと努力しながら。


「おはよう、結城君!」


 結城少年はちらりと洋書の頁から舞の方へ薄紫の瞳を映した。それが彼なりのごく親切な挨拶だったのかもしれない。だとしたら、それ以上を望むのは無粋といったところだろう。

 舞は小さく笑った。その華奢な肩にかけられた真新しい鞄の中で、桜色の鈴が音もなく揺れる。それはまるで、持ち主のさびしさに打ち震えたとでもいうように……





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