第二十二話 桜花
遠のく馬の足音を誰か聞きつけたであろうか。否、きっと聞こえてはいない。夕景の仕草はあくまでしとやか、主人たる紫蘭の手綱さばきもまた巧みであった。
あまり勝手なことをしてはならないことはよく知っている。だが、人々は酔い騒ぎはじめていたから、ほんのしばらく席を外したところでとやかく言うものもあるまい。森のなかに勝手に馬を入れることについては後から文句も出るかもしれないが。
森は薄暗く、鳥の声さえも間遠であった。木の根を避けつつ夕景は同じ歩調を保って進み、紫蘭はその背の上で愛馬の清らかな鬣を見下ろしながら、酔いを帯びた耳朶が冷めゆくのを待ち、心静かに物思いに耽っていられた。
友がいないとどうも酒が美味くない。美味くないのはこういう堅苦しい場にはつきものであるから我慢もできようけれど、今日は旅疲れのせいか酔い方がはやく、頭ばかりはのぼせるのであったが反対に心の方は沈んできて、なんとも憂鬱な気分に飲まれてくるのであった。
……久しぶりに父上皇と対面した。数年ぶりにお会いした上皇は記憶より少し老けたようにはみえたが相変わらず壮健で、そして紫蘭にとっては近づきがたかった。隣の席に座っても何を話してよいのやらわからず、最初は上皇の尋ねられることに言葉少なに答えてはみたが、次第に父も愛想を尽かしたものか若い巫女をからかう方に興を催されはじめた。
一方で、舞台越しにみてみれば、兄帝が非の打ちどころのないみやびなお姿で月修院さまと話し込んでおり、父もまた若い女をからかうその端で、濃い灰色の眉の下よりその様子をうかがってひそかに満足げな笑みを浮かべていらっしゃるご様子である。それを盗み見る度に紫蘭はなぜだか胸のなかを冷たい針で突き刺されたような気になったが、紫蘭は痛みそのものよりもそんな痛みに怯んでいる自分に腹が立って仕方がなかった。
目の前の光景は耐えがたく、隣の席の右大臣も、酒が進む度に無口になってきて話もはずまない。人々の声はいよいよかしましく、酔態は見苦しかった。酔いのために弱った紫蘭の心と理性には、その場に座り続けていることは苦行に等しかった。自分の弱さを認めることは自尊心を傷つけもするが、救いもする――経験よりそれを知っていた紫蘭は、懸命にもその場を去った。
(そもそも、こんな行事自体が無駄なのだ)
紫蘭は自分の傷口から目を背けるために憤って胸中つぶやいた。
(月の女神だの、死後の世界だの、天つ乙女だの……死んだあとのことならば死んだあとに考えればいいだろう。時間ならいくらでもあるのだから。だが、命には限りがある。僕にはやらねばならないことがありすぎる。そう、そして僕のせねばならないことの第一に、こんな愚にもつかない儀式を、信仰を撤廃することがあるのだ)
それまで下樋を流れる水のようにひそやかにめぐっていた紫蘭の計画が切迫したものになっていったのは、あの夜からである。あの夜――深夜の京で偶然四神を見かけた夜のこと。あの時の四神の戦いぶりの無様さときたら。四神は紫蘭の前に無力を晒した。賤の家から赤子をさらうだけのつまらぬ魔物相手に、彼女たちはどれほど手こずっていたことやら。なるほど、確かに女人としては彼女たちの技は優れているかもしれない。しかし、所詮その程度のことだ。四神に京を守る力などない。
女の霊威の時代は終わったのだ。祭りは絶えた。今や男の時代、男のなす政のみが世界を変える時代である。唾棄すべき習慣を自分は廃さなければならない。
優雅な物腰、秀麗なる容貌、その下に氷の刃のような理智と青い炎のような野心とをひそませているはずなのだ、自分は。頼みにするのは己が才能と理性だけ。感情など、信仰など、顧みる価値もない。なぜなら、神の代はとうに終わったのだから。
かつて天つ乙女は暁の空を見上げて歔欷したと云う。他の神々が世界を見捨てはるか遠いところへと、神々のみが行き着くところへと旅立ったのに対し、天つ乙女はひとりこの世界に留まった。一体なぜ?古代人の空想はゆたかで骨太であるけれども細やかな情理を描かない。暁の星々がこの世界を去る神々の残影であるという、その想像はいかにも美しく物寂しいけれども……神々はこの世界を去った。天つ乙女を祀る儀式は日に日に形式化し、信仰は形骸化しつつある。信仰を失うことは神にとって死に等しい。
天つ乙女、桜乙女、稲城乙女、四神、京姫――神話とはわずらわしいばかりの単なる名前と系譜の羅列である。思い出されるのは、先ほどの儀式のことである。天満月媛に捧げるべく京姫の披露する舞を、紫蘭は乾ききった心地で眺めていた。慰月の儀に列した者たち全員が、それこそ帝からお傍仕えの婢のような者までが、あんなにも小柄で華奢な、あどけない少女の舞に恍惚となっていたのにも関わらず。天上よりは午後の日が金色の薄衣のように降り立って、姫の所作のひとつひとつ、白いお手を差し出すさま、桜色の袖に浮き上がるほっそりとした腕のささやかな躍動、小さな履におさまったおみ足ですさる動き、その動きに合わせて紅の裳が揺らぐさまなどに、ひとつひとつ神秘の意味を添えていた。樺色のゆたかなお髪、大きく瞠られた翡翠色の瞳、雛のように繊細な横顔、引き締まった薄い唇。幼くも優美でどこか取りつきがたいような高貴なる面差しを、確かに紫蘭も美しいとは思った。だが、やはり紫蘭は京姫に、また彼女を取り巻く四神たちにも反感と軽蔑を抱かずにはいられない。神の代は終わったのだ。神秘が、神意が、ことごとくこの地を去って物言わぬ暁の星と成り果てた今、四神はただの物言う骸であり、京姫は亡霊のよりましに過ぎない。そんな彼女らを崇め奉るこの宮廷も時代遅れである。彼らはただ古い慣習に従うよりほかにないだけだ。
……それを知っているというのに、この一抹の寂しさはなんだろう。ほくそ笑みたいはずなのになぜだか失望している、そんな自分が紫蘭にはもどかしかった。かねてより考えていた計画はやはり正しかったのだ。自分の慧眼に自惚れてもよいはずなのに、自分はやはり人より聡いのだと安心してもよいはずなのに。
(僕は本心では四神の力を信じたかったとでもいうのか。自分の理性や能力よりも、その先にある華々しい未来よりも?天つ乙女の瞳がこの僕に向けられる日が、はたしてあるとでも……?)
「……ばかばかしい」
青年のつぶやきを聞いていたのは、愛馬のみであった。
ふと、紫蘭はなにか頬に触れるものがあって顔を上げ、唖然とした。暗い森のなかに満開の花を咲かせた桜の樹々が群れつどう一画がみえる。光差し、花満ちる世界が遠からぬ場所にひろがっている。酔いのみせる幻かと疑って、紫蘭は目をしばたいた。幻は掻き消えなかった。花弁は風に乗って紫蘭の方まで靡ききて、夕景の薄灰色の肌に白い斑をまぶす。
夕景は惹かれるように桜の森へと突き進んでいった。あまりのことにかすかな不安を覚えた紫蘭は夕景を留めようとも考えたが、その時うるわしい歌声が聞こえてきて紫蘭をはっとさせた。
「神々は何処へ去にしや。天つ乙女、自ら問へど、答うれど」
澄んだ美しい声であった。高くのびやかな若い女の声だ。誰かがこの森のなかにいるのだ。
「古の神々は、暁に消え残る、かの星々」
月修院の巫女かもしれない。でも、この声にはどこかで聞き覚えがあるような。
「残されしこの身は一人、君を恋ふ……」
歌がやんだ。夕景もまたその場で足を止めた。だが、紫蘭は気がつかない。まるでこの桜の国を統べる女王のごとく、どの樹々よりもあざやかに、凛々しく、気品高くそびえ立つ大樹に見惚れてしまって、その刹那、歌のことも、森のことも、宴のことも、頭からかき消されてしまったのだ。
桜の大樹は、紫蘭と夕景の頭上にゆうゆうと枝を伸ばし、花の色を薄紅色の天蓋のごとくひろげていた。それは恵み深き女王の庇護であり恩寵のようであった。梢を小鳥がゆするたび、あるいはゆすらずとも、花弁は雪のようにひらひらと舞い降りてくる。それでいて花は一向に失われる気配はないが、枝先がまばらになったところにだけ、陽光がまともに差し込んで、夥しい金色の光の線を描き出す。花は舞い降りる拍子にその光のなかをくぐってくる。まるで戯れのように。
もしその時夕景がかすかに身じろぎをしなければ、また、視界の端でなにかひらめくものがなければ、紫蘭は夜が夕闇の色の包みのなかに花を包みこんでしまうまで立ち尽くしていたかもしれなかった。紫蘭は何に気を取られたのかもほとんど意識できないままに木蔭を見遣り、そして少女を見出した。
ああ、もしあの時彼女に出会わなければ……!
樺色の髪がさらさらと風にゆれていた。唇と頬は色づき、ゆるやかな弧を描く眉のあいだは言い知れぬ興味のためにひらかれて白く輝き、瞳はあどけなかった。桜色の外衣にはまだところどころに草がはりついていて、その胸もとの紅の紐はほどけていた。歌と舞とは姫の身体を昂らせ、呼吸をはずませ、薄く開いた唇からかすかにのぞく椎の実のような小さな歯並みをつやめかせていた。
かくのごとく、紫蘭に見出されたときの京姫は子供らしい無邪気さと、桜の花に包まれてひときわ勝る可憐さ、そして貴なる人ならではの香気をただよわせていた。だが、姫はそれらを少しも意識していなかった。小さなお手をあたたかい桜の幹にあて、その指先あたりから顔をのぞかせながら、ただ馬上の人の美貌に驚いていた。
紫蘭もまた突如あらわれた少女のうるわしさに見入っていた。紫色の瞳をその髪から裳裾よりのぞく素足の指先までゆっくりと落とした時、紫蘭は話には名高い仙女のたぐいが目の前にあらわれたのかと疑った。この時、自らの蒙昧さを嘲笑い叱りつける紫蘭の理智は働かなかった。再び目線をあげてその小さな頭を飾る桜を模った宝冠に気づいたとき、紫蘭の理智はようやく動き出して、胸のなかにさざ波を立てた。
「京姫さま……?」
たずねる声がかすれていた。長いこと言葉を発していなかったかのように。
「あなたは……」
京姫は馬上の人を見定めようとでもするように、手は変わらず桜の幹についたまま、右腕を胸で乗り越えるようにしてわずかに前のめりになった。そのところへ、夕景が顔を突き出したので、京姫は「きゃっ!」と声を上げて身をのけぞらし、勢いで仰向けに倒れた。紫蘭はあまりのことに一瞬呆気にとられたが、すぐにはっとして馬から飛び降りた。
「ひ、姫さま!」
「いたたたた……」と後頭部をさする姫君を、紫蘭は両肩を支えて抱き起こした。優美な衣裳にくるまれた華奢な肩の感触は、紫蘭が初めて触れる女の肉体であった。紫蘭の指先はそのやわさと軽さに怯んだが、初めて異性の肉体に触れたものが皆通る道だということも知らぬその若者は、その動揺すらをも恥じて急いで言った。
「お、お怪我はありませんか?」
「あ、ありがとうございます。ええっと。そうだ!あなたは……」
蹄の音がひとつ低く響いて、京姫の言葉を途切れさせた。夕景が京姫にほとんど覆いかぶさらんばかりになって、姫の眼前に再びその顔を突き出していた。馬の鼻息は姫の前髪をあおり、鼻先をくすぐるようで、京姫はこそばゆそうに片目をつぶってみせた。「おい、夕景!」と紫蘭は止めに入ろうとしたが、それよりも早く京姫の手が夕景の頬のあたりに伸びた。
「もう、こらっ!あなたが驚かせるからひっくり返っちゃったじゃないの!」
夕景はいななきなのだか荒い鼻息なのだかわからぬ音を立てて、目をぱちくりさせた。「もうっ!」と姫君が怒るのも無理はなく、一見すると京姫をからかっているようにもみえる。確かにからかってはいるのだろう。だが……主人は驚愕と困惑の入りまじった顔でこの光景を眺めていた。夕景が初対面の人間に体を触らせている。
夕景が後ずさりをして顔を遠のけると、京姫は紫蘭の助けを借りつつも起き上がった。姫のお手は知らない体温を以って紫蘭の掌を圧した。紫蘭はむずかゆいような気分になった。この手を放り出したいような、ずっと握っていたいような。そんな紫蘭の葛藤なぞつゆ知らず、京姫は紫蘭の掌を離れたばかりの手で長い髪や衣裳にはりついた草を取り除けはじめた。最後に裳を払い終わると、京姫は桜の根元で草を食みはじめた馬をみて嬉しそうに微笑み、さらに紫蘭の方を見上げてにこりと笑った。その前髪にまだ草が残っていた。
「すてきな馬だね」
紫蘭は言葉を返しそびれた。
「初めまして!ねぇ、あなたは紫蘭の君でしょう?」
「……私をご存知なのですか?」
「もちろん!京中の評判ですもの。それに主上も紫蘭さんことをお話しされるから。とても優秀な弟宮なんだって、そうおっしゃってました」
「主上が……?」
紫蘭は京姫の笑顔から顔を背けつつ、眉をひそめた。兄帝の褒め言葉が嬉しくないわけではない。帝のことは尊敬している。温和な性格も、その聡明さも、自分に対する気配りの行き届いたその態度も。だが、すなおにとれないでいる自分がいる。というよりは、すなおにとりたくない自分がいる。なぜなら……
紫蘭は物思いを忘れた。あまりの心やすさにうかつに近づいてしまったが、大変なことを失念していた。このお方は帝の奥方なのである。少なくとも、形式上の。もし二人きりでいるところを逢瀬とでも見咎められたらどうなるだろう。帝への反逆とも見られかねない。紫蘭は慎重に京姫との距離をとり、草を食む馬の方へとさがっていった。
「……ところで、姫さまはおひとりですか?」
「そうですけど……って、えっ?あっ、あぁーっ!!」
姫の叫ぶ声の大きなこと。紫蘭は思わずその場に立ち止まって耳をふさがねばならぬほどだった。
「そうだ、藤尾さん!藤尾さんのこと探さないと!」
「藤尾?」
「月修院の巫女さんなんです!藤尾さんに潭月寮のお庭のなかを案内してもらってるうちに、つい森のなかに迷い込んじゃって、気づいたらはぐれてて。それで私、藤尾さんを探そうと思って歩いていたらここに来ちゃったの……!」
せっかく開いたはずの距離は一瞬で縮められた。京姫が紫蘭の元へ駆け寄ってきて、その両手首に縋ったために。紫蘭は驚いたが、もう心は不用意にときめかなかった。それは、姫君の前髪にはりついた一片の草のため。ほとんど見知らぬも同然の殿方に触れて憚らぬ無邪気さのため。女性としてはあまりにも未完成であるため。兄君に甘える妹のように、京姫は涙目になっていた。
「紫蘭さん、帰り道わかりますか?」
「えぇ、まあ、わかると思いますが……」
「お願いします!一緒に連れて帰ってください。それから藤尾さんのことも探さないと……!もうっ、ここにいると思ったのに。藤尾さーん!ふーじーおーさーん!!だめだ、もう一回探してみないと」
京姫が指をかかげて花びらをなくしたことに気づいたのと、紫蘭が額を打つ雨滴に気づいたのが同時であった。紫蘭が空を見上げてみると、無数に差しこまれていた金色の光の筋は消え、桜は花曇りの色を透かして重たくものうげであった。冷たく湿った風が吹きつけると夕景も草むらからさっと顔を上げて、不安そうに鳴いた。
「姫さま、雨が降ってまいりました。急いで帰りましょう」
京姫はなにか悲しそうに自分の右手をじっと見つめていた。紫蘭の言葉に反応して瞳をもたげはしたが、その言っているところは理解していないようであった。「えっ?」とつぶやく姫の声は遠雷にかき消された。
「……大雨になるやもしれません。さあ、馬の上に」
紫蘭の手を借り、夕景の配慮を得て馬の上に乗った京姫は、生まれてはじめて体感する高さに少しおののいた。白虎も青龍も平然と乗りこなしているけれど、馬に乗るというのはなかなか難しそうだ……!紫蘭は白虎と青龍側のひとであった。軽やかに馬の背に飛び乗ると、「失礼します」と断ってから姫の後ろより手を回して、手綱をとった。紫蘭の胸がほんの一瞬背に触れて、京姫は鼓動がひとつ大きく高鳴るのを感じた。だが、それがなぜなのかはまだわからない。
「では、参りましょう」
「えっ、あっ……」
葦毛の馬は駆け出した。夕景は小柄な馬ではあったが、二人の人間の重さを苦とせずにやすやすと道なき道を進んだ。桜の森を抜け、椨の森に入ると薄闇が姫の視界を覆ったが、馬は少しも蹄を降ろすべき場所を過たなかった。樹々は陽の光を容易に通さぬのに、雨粒にはそのなめらかな葉の上を伝い滴ることを許していた。たちまち森の中は雨靄に包まれ、姫は冷たい雫をうなじに浴びて身震いした。すると、紫蘭がささやきかけた。
「姫さま、上着を」
姫は最初その意味を理解しかねたが、やがて上衣を被れという意味であるとわかり、馬車のそれとも異なる揺れのなかで袖を抜き、頭の上にかけた。それから思い出して、
「あなたも……!」
「私は結構です」
紫蘭の口調は断固としていた。このような冷たい取りつく島もないような話し方をされたことがいまだかつてない姫君は呆然として、ついにそれ以上勧める術を忘れた。
夕景が急に足を止めたのに京姫は桜色の上衣を掲げたその影でけげんな顔をしていたが、言葉なくとも愛馬の意図するところを汲んだその主人は姫を抱き下ろした。そのまま抱きかかえられた姫はどうされるものかときょとんとして見守っていたが、紫蘭はすばやく樹々の間を走り、とある大木の木蔭にたどり着くと姫の体を洞のなかへとやや乱暴にも思われる強引さで押し込んだ。姫の頭よりずり落ちた上衣をその両肩のあたりで抑えてかけなおしてあげながら、紫蘭は澄明に言った。
「しばらく雨やみを待ちましょう。このまま進んでも雨に濡れて風邪を召されるだけです」
「で、でも、あなたは?」
京姫の声は、触れられそうなほどの手近な闇にくぐもって聞こえた。仄暗く狭い木の洞の中は、じめついてはいるけれど温かい。しかし、紫蘭はその内には入ろうとしないで、椨の葉のつやめきが照らし出すその微光の下、身を屈めて疲れたような笑みを浮かべている。
「私は大丈夫です。これしきの雨ならばなんともありません」
京姫が反論できないでいるうちに、紫蘭は言いのけて洞のそばを離れた。引きとめようと差し出した姫の手は空を掻き、雨粒が爪に宿ってきらきらと光り、震え、くずれて指の根元に流れた。
雨はなかなかに降りやまなかった。もしかしたら永遠に降りやまないのかもしれないと、姫は思った。そうしたら、どうしよう。もう二度とみんなのところへと帰れなかったら……?一生をこの小さな穴のなかで過ごさなければいけないのだとしたら。それに藤尾のことも心配だ。うまく月修院に戻っているだろうか。せめてよい雨宿りの場所を見つけているとよいけれど。京姫は膝を抱えて腰をおろしながらも、目をつぶって藤尾の気配を探ろうと試みた。そうしていれば少しは不安が紛れそうな気がしたのだ。それから空腹も――月修院で出された昼餐は、やはり育ち盛りの身にはあまりに品がよすぎたのである。早くみんなのところへ帰りたい。芳野と左大臣に叱られたい。ああそうだ、芳野の具合はよくなったのかな。最近なんだか顔色が悪いのが気になってはいたのだけど。
(だめだ、藤尾さんのことに集中しないと)
そうは思っても、藤尾のことに意識を寄せようとするほどに藤尾の絵姿はぼやけて遠のいていく。きれいに切り揃えられていた髪のことは覚えている。でもどんな色であったっけ?どんな瞳をしていたっけ?どんな表情を浮かべていたっけ……?思い出そうとしても、揺れる藤の花房がその顔を隠してしまう。藤棚の向こうにただぼんやりとその影だけが透けている。その腕にかけている花筐から花ばかりはこぼれ落ちるけれども。
……嗅ぎ慣れぬ香りに包まれている。姫の衣裳に焚き染められた香ではない。京姫はいつも甘い香りを好むのだが、儀式の時は芳野がもったいぶって大人びた(姫に言わせれば古臭い)香を使わされるので、姫はそれが嫌だった。それでも今日は香の係りである朱雀を味方につけることに成功して、芳野が渋い顔をする前でいつもの香を焚いてもらったのだ。そのお気に入りの香とはまるで違う。
ああ、そうだ。これは紫蘭さんの移り香だ。きっと馬に乗っていた時に移ったんだ。だって、あんなに傍にいたのだから。そうだ、私、主上以外の殿方に初めて触れて……また胸がひとつ高鳴る。肩にかけられた衣を胸の上で掻き合わせる。薄目を開けてみると、かの人は馬の傍らに立って、ただ京姫を守っている大木の重なる枝と葉の下とで、気休めのような雨宿りに甘んじていた。その人の薄紫の衣を纏った腰の辺りが、姫からは見えるばかりである。なにか小さな声で時々口ずさんでいるのは、馬に語りかける言葉であろうか。さっきはこれしきの雨など大丈夫だとは言っていたけれど、やはり外では寒かろう。かの人の髪もやはり雨に濡れていたのだから。
京姫はそっと洞の入り口へとにじり寄ってかの人の袖を取った。
「ねぇ」
紫蘭の君は驚いたように振り返り、それから濡れた額を拭って洞に合わせて背を屈めた。
「どうかされましたか?」
声音と表情が優しかったのは、京姫に対する態度というよりは、馬に話しかけていたその名残りかもしれなかった。優しい人なのだ、と京姫は思った。お顔は主上とは似ていないけれど、でもこういうところはさすがに主上の弟宮である。
「あなたも入りなよ……そんなところじゃ、寒いじゃない」
「いえ、そんな畏れ多いことは……」
「どうしておそれおおいの?」
「あなたは帝の奥方ですから。先ほどお手を触れました、それだけでも大罪になりかねませぬ」
「大丈夫。もう一人ぐらいならくっつかなくても座れるもの!この中、案外広いんです。と言っても、夕景はちょっと無理かもしれないけど……」
姫君の幼い言いぐさに、紫蘭は何か感情を押し殺すようにして目を細めつつ慇懃に固辞した。
「では、やはりわたくしも遠慮いたしませぬと。馬だけを雨ざらしにしておくのは殺生ですから……」
夕景が一声いなないた。京姫が「あっ」と声を立てたので、紫蘭は急いで愛馬の方を顧みたがそこにはすでに美しい牝馬の姿はなかった。駆けてゆくその蹄の音だけが遠鳴りとなって低く地を震わせていた。
「ゆ、夕景!戻ってこい!」
愛馬に置き去りにされるなどということは今までになかったので、紫蘭はすっかり狼狽してしまった。思わずその後を追おうとするほどには――馬の足には人間では到底敵わぬことも忘れていたのである。くすくすと鈴のように笑いを転がす音が、背後より紫蘭を引きとめた。それと、紫蘭の袖をとる優しい手つきとが。
「ほら、夕景も気を遣ってくれたみたい。ねぇ、このままじゃ本当に風邪引いちゃう……大丈夫。もし誰かが紫蘭さんのことを疑っても、絶対に私が守ってあげるから」
その言葉を決して信じたわけではなかった。ただ、愛馬に対してすまなかっただけだ。それに思いがけず強い力で腕を引かれてしまったから、そうせざるを得なかっただけである。ついでに引っ張られた勢いで木の洞の入り口に頭をぶつけてなんだかくらくらしていたし……そうだ。絶対そのせいである。
「ご、ごめんなさい、紫蘭さん!」
「い、いえ、何ともありませんから……」
先ほどから京姫は謝りどうしであったが、相手の身分のことがなくとも紫蘭はとても怒る気にはなれなかっただろう。京姫はあまりにも幼すぎた。紫蘭が想像していたよりもずっと純真で、無垢で、いとけない。今年で十四になったとは聞いていたが、十やそこらの童女とも大した変わりはなさそうである。こんな少女に「女」を感じていた自分が情けなくなるほどだ。容貌だけは人並以上には優れているのだが……
紫蘭は両の掌をあわせて頭を下げ続けている姫君を品定めするように見据えつつ、内心呆れかえっていた。まったく、神というものもいかにもそれにふさわしい容れものを選んだものだ。きれいで、空っぽで、まるでお人形のような。いや、紫蘭の知っている人形はこんなにうるさくはないし、人の腕を引っ張った拍子に怪我をさせたりはしないが。
「い、痛くない?」
「えぇ、大丈夫です。ご心配なく」
「本当に?」
「えぇ」
京姫は紫蘭が泣きわめかないのが不満だとでも言いたげに唇をすぼめつつしばし視線を紫蘭の額のあたりにさまよわせていたが、ふと何かに気がついたように身を乗り出して紫蘭の肩のあたりに手を伸ばした。
「紫蘭さん、しずくが……」
よけるのも手を払いのけるのも無礼であろうかと逡巡している間に、まるで作り物のような小さな指が紫蘭のつややかな髪の上でなにかを捉えたのを紫蘭は感じた。だがそれは雫ではないはずだ。小さく透き通ってはいても、硬く、実体を持っている。京姫は大きく見開かれた瞳の間近にそれを寄せて、二三度まばたきをした。
「あれ?髪飾り?」
「えぇ、髪留めの飾りの水晶です」
なぜそんなことをする気になったのだかは紫蘭自身にもわからなかったが、紫蘭はぬばたまの黒髪を結っている髪留めをほどいて、姫に手渡した。髪留めをほどこうとする紫蘭の指先が水晶の珠をつまんでいた姫の指先にわずかに触れた。紫蘭はまるで砂糖菓子に触れたかのように思った。女の指のやわらかさは拭いたくなるほどしっとりと紫蘭の人差し指に残った。
京姫は渡された髪飾りを、雨の淡い影が、靄がかった乳白色の光のなかに埃のようにゆれているあたりにかかげていた。紫色の紐の両端に水晶の珠を垂らした髪飾り――水晶の珠は姫の爪に弾かれて光のなかで小さく震えた。
「とってもきれい……!」
「母の形見です」
「えっ、あっ……ごめんなさい」
慌てて髪飾りを返そうとする京姫に、紫蘭はその必要はないという意味でどこか皮肉に笑った。そんな紫蘭を京姫は髪飾りを宙に浮かせたまま、なぜだかぼんやりと見つめている。
「別に構いません。母といっても私はまるで覚えていないのです。母は私を産んで間もなく身罷りましたから」
「……それなら私と同じです。私も母のこと覚えていないんです。元々は月修院の巫女だったとか、どういう風にして私が生まれたのかとか、そういうことは乳母や女房も話してくれるんですけど。でも、どんなひとだったのかはみんな知らなくって。私も今までちゃんと考えたこともなかったし。実の母親のことなのに……」
京姫は髪飾りを膝の上で握りしめて紫蘭から目を逸らした。まるで自分の母親の形見に縋っているようだった。思いがけず、紫蘭はこの幼い姫君の抱えるさびしさと出くわしたのである。
……だが、それは所詮ままごとにすぎないのだ。さびしさの波が人生を侵し得ないかぎりは。紫蘭と京姫は少しも「同じ」ではない。
「私のお母さまも何か遺してくださればよかったのに。そうしたら、お母さまのことをもっと身近に思えたかもしれないもの。こんなきれいなものでなくても、お母さまが生きていたころのことを感じられるなにかが私も欲しかったな……」
「もしよろしければ、その髪飾り、差し上げましょうか」
優越と反目が成したわざに紫蘭は自分自身でも驚いた。しかし、後悔は目を丸くしている京姫が言葉を発せられるようになっているのを待っているあいだにも、ついに訪れなかった。
「だ、だめですよ!だってこれは……!」
「よいのです。取り立てて思い入れがあるわけでもありませんから。それに私は母に対して特別懐かしいとも思っていないのです。姫さまとはちがって。私はもう大人ですし、男ですから」
「でも、だめですよ!これは紫蘭さんのお母さまのもので、私のお母さまのものではないんですから。私が持っていても意味がないもの……ほらっ、はい!お返しします!見せてくれてありがとうございました。た、大切にしてくださいね……!」
まるで急に恐ろしくなったとでもいうように京姫が髪飾りを突きかえすので、紫蘭は肩をすくめて受け取った。ほどかれた紫蘭の黒髪がみるみるうちに夜の川のようにひろがって、その毛先が袖や胸のあたりにはらはらとこぼれかかっているのは、言いようもなく艶やかで心乱されるさまであったが、秀でた鼻をうつむけた紫蘭は惜しむでもなく無造作な手つきで髪をまとめると、いつもと同じうなじの後ろのあたりで器用に結った。水晶の珠が雨に濡れた髪の上に二つ並んで、京姫はようやくどこかほっとしたような顔つきになった。
「ほら、やっぱり紫蘭さんによく似合ってる!」
そう言い切ったあとの京姫の笑顔には屈託がなかった。
長いこと沈黙が続いた。紫蘭は寡黙さを美徳とみなしていたから気まずいとも思わずに、却って安らぐような心地になって、雨が小降りにならないものかと見守っていた。夕景はどこまで行ったのだろう。賢い馬だからいずれは戻ってくるだろうが、知らない森のなかで道に迷わないかが少し心配である。紫蘭は時おり居ずまいをなおしては濡れた衣服を肌から引き剥がして、不快さとかすかな不安を紛らわせようとしていた。
ところで、京姫は黙って何をしているのだろう。紫蘭が盗み見ると、京姫は両膝を抱えて、重ねた手の上に左頬を預けてじっと目をつぶっていた。その姿は木の洞の巣の中で、羽の下に顔をうずめて眠っている雛鳥を思わせた。眠っているのだろうか。暢気なものだ。
紫蘭に見られているのを感じたのか、京姫は視線だけをこちらに向けてから微笑みつつ形のよい頤をずらして手の甲の上に置いた。またすぐに目を瞑って、姫君は歌でも口ずさむように言った。
「雨の音を聴いていたの。雨が葉っぱを打つ音と、雷が遠のいていく音、しずくが滴る音……濡れた土や木のにおいってすてきだね。それにこのなか、とっても暖かい。なんだか木に守られてるみたいで安心する……ありがとう、紫蘭さん」
「なぜわたくしに礼を?」
「だって、紫蘭さんが連れてきてくれたから……私ね、外の世界に出たらやりたいと思っていたことがたくさんあったんです。でも、こんな風に雨宿りをすることは思いつかなかったな。きっと、世界にはまだまだ私の知らないことがたくさんあるんですよね。いいものも、悪いものも。楽しいことも、悲しいことも……」
その通りだ、と紫蘭は胸中でこそつぶやきはしたが黙っていた。確かに憐れな姫君ではある。その異様な出生譚のために生まれてこの方内裏を離れたことがないというのだから。
(しかし、彼女は幸せだ。鳥籠のなかの鳥は大空を知らないが、飢え死にすることはない。鷹に追われる苦しみも、巣に帰りつけぬまま夜に襲われるときの恐怖も、知ることはない。人々に愛され、甘やかされ、守られて一生を終える……)
もっとも――紫蘭はわずかに目を細めた――巣から転げ落ちるようなことがあれば話は別だが。
姫は語り続ける。
「私はもっといろいろなことを知りたい。京姫として知らなきゃいけないことがたくさんあるのに。神話とか、歴史とか、書物で学べることだけじゃなくって。私ね、今日初めて京には食べるものも住むところもない子供たちがいるんだって知ったの。変ですよね?京からはるか離れた月修院で、そんなこと知るなんて……でも、外に出られるのは今日だけなんだ。帰ったら、あと七年後まで桜陵殿に閉じ込められっぱなし……」
「……姫さまは、自由になりたいとお思いですか?」
言葉の意味を取りかねて、京姫は怪訝な顔をしてみせる。
「じゆう?」
「えぇ。つまり、自由に外に出られるようになりたいとお思いですか?」
途端に、京姫はきらきらと瞳を輝かせた。
「もちろん!」
「京姫としての地位を捨てることになっても?」
紫蘭は低い声で尋ねたが、京姫は笑って首を振った。
「そんなこと絶対にないもの!だって、京姫は『しゅーしんせい』なんだって、左大臣が言ってたから。私が死なないと、次の京姫は現れないんですって。京姫も外に出られるようにしてくれればいいのに。でも、だめなんですって。京や主上を悪しき者から守るためには、どうしても京姫は内裏にいなければならないから……そう、だから仕方ないのかな。みんなのためだから……」
姫君の瞳から輝きが失せた。紫蘭はその後もしばらく京姫の表情を観察していたが、叱られた子供のような表情には、神の無慈悲に対する悲しみこそ見出せても、怒りや反抗心の類が存在をほのめかすことはついになかった。それきり神懸かりの少女に対する紫蘭の興味は尽きた。相手に対する興味が尽きたあとに残るのは紫蘭の場合、大抵は軽蔑であった。この場合も例に漏れなかった。まったく愚かな娘だ。先ほど自分で「食べるものも住むところもない子供たち」のことを口にしたではないか。結局閉じこもっていたところで何者をも守れていないことに、何者をも救えていないことに気づいていないのだ。
(やはりただの子供ではないか……!)
紫蘭はなぜだか失望している自分も、腹立たしい気持ちでいる自分も徹底的に無視することに決めた。四神の無体を目撃してしまったあの時と同じ感情が紫蘭のうちに燻っていたが、それは恥ずべき感情であった。
紫蘭が不機嫌に黙り込んでも、京姫は一向にかまわぬようすで、雨が葉っぱを打つ音や、雷が遠のいていく音や、しずくが滴る音に聴き入っていた。もはや遠雷の音は途絶え、雨の音も弱まりつつあった。あたりが明るくなってきたようにも思う。もう少ししたらやむのかもしれない。
「……ところで」
京姫がふと口を開いた。紫蘭は目線だけで応えることにした。
「紫蘭さんはどうして一人で森にいたの?」
京姫の問いかけは冴えはじめていた紫蘭の心をまごつかせた。姫はただ好奇心だけをもって、まっすぐにこちらを見つめていた。単純な問いだが、紫蘭には恐ろしく答えにくい問いである。煩雑ともいえるこの心の動きまでいちいち説明せねばならないのに、この少女には絶対に伝わりそうにないし、第一伝えたくもないからだ。紫蘭の当惑を何とみたのか、姫はぱっと手を叩いて付け足した。
「そうだ、一人じゃなかった!夕景も一緒だったね」
「えっ。あっ……」
「それで、なんで森のなかに?確かまだ宴の時間でしたよね?」
「いえ、その……よ、酔いをさまそうと思いまして……」
「酔ってるときにお馬に乗っても平気なんですか?」
「あまり平気ではありませんが、私はそこまで酔っていたわけありませんから……それに、夕景は賢い馬なので」
「ふーん……そういえば、夕景ってきれいな名前ですね。紫蘭さんが付けたんですか?」
「まあ……」
「すごい!どうして夕景って名前にしたの?」
この娘、黙るということを知らないのだろうか。今後七年先まで聞けないというのなら、おとなしく森と雨の音に聴き入っていてくれればいいものを。紫蘭はきりきりとしながらも礼儀正しく受け答える。
「あの馬は元々三条家の馬でした。めずらしい双子の馬で、姉妹で飼われていたのですが、それを牡丹の大后さまが主上とわたくしとに一頭ずつくださったのです。主上には姉の馬を、わたくしには妹の馬をといった具合に。主上はご自分の馬に夕凪という名をつけられました。ですから私も同じ『夕』の字がつく夕景と……」
「せっかく姉妹なのだもの。揃いの名前をつけてやらないと」
美しい仔馬を前にひとしきり感心したあとで、そう主上は言って笑われたのだっけ。すでに即位したとはいえまだ少年であったはずの帝は、弟君である紫蘭の目にはすでに大人びてみえた。
「馬の双子というのはなかなかめずらしいのですよ。さて、どんな名前がふさわしいでしょうか。ねぇ、紫蘭、もう少しこの子たちが大きくなって私たちを乗せてくれるようになったら、いつか駆けくらべをしましょうね……」
(いまだに約束ははたされていない。主上はとうに忘れてしまわれただろう。あの夕凪は一体どうしているんだろうか)
紫蘭のなかでは、いとおしそうに目を細めてご自分の馬を撫でていらっしゃった少年期の帝と、宴の場でゆるりとくつろがれていた帝の姿とが重なっていて、どちらがいずれとも見定めがたい。
(こんな風に思われるのは、僕にとっての主上があの頃からずっと変わらないからだ。そうだ……主上は僕にとってずっと前から手の届かないお人なのだ。主上は僕の欲するものを全て持っていらっしゃる。その聡明さ、ゆるがなさ、お優しさ。人目を惹くような華やかな御方ではないが、たおやかで、みやびで、なよやかで、それでいてしなやかな強さをお持ちなのだ。主上は誰からも愛され尊敬される方だ。まさに帝になられるために生まれてきたかのようだ。いや、事実そうなのだ!だから、主上は大后さまの元に生まれたのだ……大后さまに愛され、三条家の力に庇護され、そして、そうだ、それから……!)
「…………もっとご一緒にいて、父上……お願い、こっちを見て……」
紫蘭が京姫の方を見遣ったとき、その翡翠色の瞳はうつろであったが、紫蘭の瞳とぶつかると共にそのなかで爆ぜるものがあった。京姫はたちまち羞恥のあまり蒼白になって顔を背け、一方、紫蘭は殴られたような衝撃と困惑にしばし思考を失った。開いたまま閉ざせぬ口のなかが乾いてゆくのを感じる。だが、なぜこれほど衝撃を受けているのかがわからない。今のは一体なんなのだ?今の声は誰のものなのだ?少女の口から漏れ出た言葉は少女の声ではなかった。では、今の言葉は、一体誰の……?
「ごめんなさい……」
今にも消え入りそうな声で京姫はつぶやいた。泣いているのだろうか。どことなく声の調子がおかしい気がする。だが、姫君は紫蘭から必死に顔を背け、やわらかな樺色の髪で頬のあたりを覆い隠してしまっているから、紫蘭には確かめようがない。紫蘭は困惑して尋ねた。
「どうして謝られるのです?」
「だって、私、今紫蘭さんの心を……」
京姫の言葉はいよいよ聞き取りにくい。そんな話し方もできるんだな、と呟いている自分がいた。その言葉の意味はさっぱりわからなかったが。
「……ごめんなさい。私、人の心がわかっちゃうんです……人の心の声が勝手に聞こえるの、生まれつき。最近はやっと聞こえなくなってきたんです。なのに……」
人の心がわかる?先ほどの言葉が僕の心の言葉だと?姫はなんと言ったっけ――もっとご一緒にいて、父上……お願い、こっちを見て……
さざめく心の水面が凪ぐのを、苦いものを飲みこむときのように、痛いものを堪える時のように、静かに待って、紫蘭の口の端に微笑みをひらめかせる。それは冷笑であったが、真珠のように澄んだ涙の粒を光らせる京姫のゆがんだ視界には正しい形には映らなかったはずだ。紫蘭はそのことを知っていた。
「紫蘭さん……?」
「心配ありません、姫さま。今のは私の心ではありませんから」
「えっ?でも……」
その時紫蘭を突き動かしたものははたして何であっただろうか。紫蘭はただ、自らの理性からも感情からも離れた場所から、京姫の頬に触れている自分を――頬のやわらかさや涙の熱さや、白い皮膚の脆そうで破れないなめらかな感触そのものではなく、姫君の頬に手をあてて親指で涙を拭ってやっている自分自身を感じていただけである。触れられたところから京姫の頬はぱっと赤らんだ。その刹那にだけ、紫蘭は、こわばりと名づけてはいかにも情緒のない、姫の身体のなかに起こった一種のたかぶりのようなものを、小さな雷を掌に浴びるように感じ取った。そしてまた、遠巻きに自分を眺めている紫蘭に戻った。
「姫さまはだいぶお疲れのようですね」
なんて甘い、優しい声だろう。これではまるで偽善である。
「慣れない旅でお疲れなのでしょう……今起こったことは気にしないで、忘れてください。疲れて混乱されているだけですよ。大丈夫、もうすぐ月修院に戻れますから。みんなのもとに」
「紫蘭さん……」
京姫はまたひとつ涙をこぼしたあとで、そっと紫蘭の手に触れた。指先はかすかに震えている。伏した目を飾る長い睫毛もまた。
「ありがとうございます。紫蘭さんは、とってもお優しいんですね。やっぱり主上に似ています……」
微笑を返しながら京姫の頬から手を離した紫蘭は、急に自らの一連の行動が許しがたくなり、偽りの感情を洗い流すべく雲の切れ間より差しこみ始めた日の光の方に顔をかかげたが、なぜ自分がかくも傷ついているのかはわからなかった。
どこかから、蹄の音がする。