第二話 覚醒(上)
「舞……舞…………」
いつしか目を瞑っていたらしい。薄目を開けたとき、舞の体を包んで揺蕩っているのは薄淡い桜色の霧であった。どこまでいっても見通せない。だが、そのために懐かしく愛おしい。舞はこのなかであればひどく安堵できた。
「舞……」
どこから聞こえてくるのであろう、この優しい女性の声は。鈴のように可憐な澄んだ声だ。聞き覚えのない声だが、舞はこの声の主になれば身をもたせかけられるような漠然とした信頼を知らず知らずのうちに抱いていた。
「誰?」
ゆったりとした優雅な袖や裾の動きで霧を払って現れたのは、一人の若い女性であった。亜麻色の豊かな髪が腰元まで波打ち、つややかな睫毛の下からやわらかく微笑みかける瞳は舞と同じ翡翠色。結い上げた髷に挿している銀の簪には藤の花房が揺れ、ややもするとさびしげな輪郭の傍らに彩を添えている。女性は藤色の背子から零れるほんのりと桃色に色づいた袖を翻し、銀の糸で藤の文様を夥しく描いた白い裳をしずしずと捌きながら、その立ち振る舞いも雅やかに、舞の目の前にすらりと立った。舞はその面差しに自分に似たものを見取らないでもなかったが、しかし、女性のどんな細やかな仕草や表情にも露を結んでいるその美しさ、その高貴さには到底及ぶ気がしなかった。舞は不思議な親しみを女性に覚えながら、変わらず座り込んだままの姿勢で女性を見上げていた。女性は舞の両肩に手を置いた。女性が肩からかけている領巾から馥郁たる香りが漂って、舞を包んだ。
「舞……ようやく会えましたね」
「あなたは……?」
女性は舞の問いには答えずに、ただ悲しげに微笑んだだけだった。そして、舞が見つめるうちに微笑みは萎み、ただ悲しみと切なさとだけが砂地の上の波の跡のように残された。舞を慈しむ瞳が潤んでいた。
「舞、時間がありません。わたくしは貴女と長いこと一緒にはいられない。だから大切なことだけを……あぁ、舞、思い出して。貴女がなぜ生まれ変わってきたのかを」
「なぜ、生まれ……?」
「あれほどの悲劇の後で、今たった一つの奇跡が起きつつあるのです。貴女はこの奇跡を逃してはいけない。それがどんなにつらく悲しいものであろうとも……今のあなたにはそれを乗り越える力があるのですから。舞……いいえ、京姫よ。もう一度戦うのです。そして、今度こそ幸せになって――わたくしは、いつも貴女を見守って…………」
突然、女性の背後から光が差して優しい面差しを影が遮った。だが、舞はその頬に、温かな雨滴を受けたような気がした。
舞はそこで目を覚ました。携帯電話のアラームがけたたましく鳴り響き、東向きの窓から差し込む日差しがカーテンを透かして壁紙からクッションのようなこまごましたものまで薄いピンクに統一してある部屋を明るく照らし出している。枕元に置かれた古いテディベアのぬいぐるみ、窓辺に並べられたサボテンたち、勉強机に飾られている小学校の遠足の時の集合写真――見慣れた、見飽きるほど親しいものの数数が舞を取り囲んでいる。舞は自宅の寝室のベッドの上で、いつもと同じ朝を迎えたのであった。
「……夢?」
上体を起こした舞は、習慣のせいで反射的にもなっている俊敏な動きで携帯電話のアラームを止めた。そして、初めてそこでほうっと溜息を吐いた。なんだ、全て夢であったのか――もちろんそれに越したことはない。あんな生々しく、長い、そして恐ろしい夢を舞は見たことがなかった。そもそも舞はほとんど夢というものを見ないのだ。それにしても、この疲労感はなんだろう。なんだか全身が重たくだるいし、特に腕のあたりが痺れているような気がする。舞はぼんやりと携帯電話を眺めやって、その待ち受け画面に白黒の子猫が身を寄せ合っている後ろ姿のあることに気づくと、つい携帯電話をぎゅっと抱きしめた。それは、恋が叶うという噂のある待ち受け画面で、友達が教えてくれたものを舞は使っていたのである。もちろん、司との恋のために……ああ、よかった。司は死んでないんだ。全部夢なんだ……!舞は彼女らしからぬ疲労を、喜びが噛みしめていくうちからじわりと胸にひろがって、たちまち追いやってくれる気がした。
嬉しくて、舞はベッドをきちんと整えると(これも祖母仕込みだった)、丁寧に髪を梳り、セーラー服に袖を通して、軽やかな足取りで階下のリビングに向かおうとした。その時、階段の途中で、なにか小さなものがどこからともなく転がり落ちてきて、舞の足を留めさせた。舞が拾い上げてみると、それはピンク色の房のついた桜の花の形の鈴であったが、その鈴が水晶のように透き通っていて、振ってみると、音のない代わりにその中でごく小さな桜の花弁が無数に舞い上がって、その時初めて鈴は桜の色を持ち得るのであった。スノードームを振ると、色とりどりのラメが舞い上がるのによく似ていた。舞は思わず感嘆の声をあげた。
「おはよう、舞。五秒以内にそこをどかないと突き落とすわよ」
背後から降ってきた低い声に、舞は我に返った。恐る恐る振り返ってみると、姉のゆかりが、寝起きならではのすさまじい機嫌の悪さをもはやオーラにまで出してにおわせながら、貞子さながらの形相で妹を睨みつけている。長い前髪がまだ手入れしないままなので、ますます貞子によく似ている。
「お、おはよう、お姉ちゃん……」
「なにしてんのよ、こんな階段の真ん中で」
「えっ?あっ、あのさ、これ見つけたから。これ、お姉ちゃんの?」
舞はやや名残惜しい気がしながらも桜の鈴を姉へと手渡したが、ゆかりは怪訝そうな顔で鈴を自分の前でぶらさげて一振りしてみると、すぐに舞に突き返した。舞はその時、先ほど舞が振ったときのように鈴の内部で桜の花弁が舞い上がらなかったことにすぐ気がついた。
「違うわよ、あたし、お守りとか信じてないし。それは、綺麗だけどさ。さっ、さっさとどいて。こちとら朝練なの」
「お、お疲れ様です……」
舞は鈴をポケットに仕舞い込み、とにかく姉に突き落とされないうちにと階段を駆け下りた。居間では父親がすでに席に着いていて、コーヒーを啜りつつも新聞を広げ、母親が鼻歌をうたいながらテーブルにトーストや目玉焼きや紅茶のポッドなどを甲斐甲斐しく並べていた。母はすぐに娘たちの登場に気がついた。
「あら、おはよう。ゆかり、すごい寝癖がついてるわよ」
「……後でなおす」
低い声で呻きながら、ゆかりは自分の椅子に就くと、自分のマグカップに冷たい牛乳を注ぎ込んだ。舞の方は母親に対してもう少し礼儀正しかった。舞は父と母におはようを言って紅茶を淹れると、ミルクで大分薄めてからそれを小さく一口飲んだ。
「舞、なんか疲れた顔してるわね」
自分も食卓について母親が言う。舞の母親という人はいつも明るい陽気な人で、二人の娘のうちの姉の方がこの母親と見た目はよく似ていたけれど、性格をよく受け継いだのは妹の方だった。見た目でいえば、舞は父親の血筋の方が濃い様子であったが、代々作家やら学者やら難しい職業の精神を継いできて、一族のなかでも久方ぶりに会社員の職業を選んだ父親には人が好い割にどこか気難しい頑固な部分があって、ゆかりの方が、そういう時の苦々しげな父親の表情を真似るのに長けていた。そのせいか、父とゆかりはひどく仲がよかった。
姉の方が中学の時から桜花市内にある私立水仙女学院に通わされていて、舞が公立中学に通わされているという事実があっても、舞はそれを父の贔屓だと思って僻むようなことはしなかった。姉は小学生の頃からとびぬけて優秀で、反面に舞はバレエや日本舞踊といったお稽古ごとに集中しすぎたせいか、座って勉強すること事態が苦痛であった。勉強のできない自分が私立受験をして、運よく水仙学園に入ったとして、楽しくやっていける自信はない。大体自分には姉のように全国模試で十位以内に入るというようなことは無理だ。同じ土俵に立てば、どうしても劣等感に苛まれることになる。そういう訳で、父親は舞の勉強の方はすっかり諦めて、別の方針で可愛がっていた。舞は自分でもたまに恐ろしいほど父親に甘やかされていると感じることがあった。
「……ゆかり、進路希望は出したのか?」
父親がコーヒーカップを持ち上げるついでに新聞の端から目を覗かせて尋ねた。
「一応ね。でも第五希望まで思いつかなかったから、適当にカタカナのめちゃく
ちゃ名前が長い大学書いておいた」
「ねぇ、お姉ちゃん、もしかして、私、その大学にも入れなかったりして……」
「あんたは大学より高校受験の方を心配しなさい」
姉はトーストを口の中いっぱいにしながら言った。その時、舞は夢の中の出来事を思い出した。菅野先生との会話――そうだ、三者面談の日程表!
「あっ、おっ、お母さん!あれ!忘れてた、あれ!!」
「落ち着きなさい、舞。制服を汚すわよ」
のんびりと目玉焼きの黄身をフォークでつぶしながら、悠長に母が言う。
「あれ!三者面談の日程表!」
「あら、そういえばそんなものが……でもね、悪いんだけどお母さん、ちょうどあの週がとっても忙しいのよね。ほら、ちょうど展覧会の時期でしょう?お母さん、お手伝いしなきゃいけないし」
「だったら別の日程立てるから、備考欄に書いといてって先生が言ってたよ」
「そう、じゃあ悪いけどお願いしようかしら……」
無事に母親から日程表を受け取って、舞はいつもより少し早い時間に家を出た。少し風の強いけれど、よく晴れた春らしい気候の日であった。住宅街であるからこの辺りはいつも静かであるけど、住み慣れた者にはその表情のうちがよく分かる。すましこんでいる家々の中では、コーヒーを淹れたり、トーストを焼いたり、食器を片づけたり、階段を何度も駆け下りたり、嫌がる子供に服を着せようと奮闘したり、目覚まし時計の音に慌てて飛び起きたり――そんな日本のどんな町のどこの家でも行われるようなことが、やはり繰り広げられているのである。舞は後ろ手で門を閉ざしながら、そうした家々を眺めてみて、思わず微笑んだ。そうした日常はあまりにもごたついていて騒がしくて、抱きしめるのもためらわれるほどだけれど、やはり愛すべきものである。舞がこれから送る日常も、きっとその中で暮らしている分にはつまらないものであろうけれど、失い難いものであるのだ。司への恋にまつわる苦しみも……舞は元気に歩みだそうとした。
と、舞は一歩歩き出したところで足を止めた。一体なにが舞を立ち止まらせたのであろう。舞は思わず振り返ってみたが、そこには先ほど舞が愛おしみを新たにしたいつもの景色しかなかった。なにも変わってはいない。それなのに、なぜ……?
(違う……)
舞はひそかに呟いた。
(違う……なにかが違う……いつもとなにかが違う。でもなにが?)
舞の頬の横を、風が突き抜けていく。舞は髪の乱れぬよう、右耳にはさんで押さえる。
大通りに出た舞を、夥しい桜の花弁が迎えた。それを見ると、舞の心も自然に和んだ。現実に見るものの美しさが根拠の薄弱な不安に勝ったのである。舞はふと、今朝拾った鈴のことを思い出し、ポケットの手を入れて取り出してみた。本物の桜吹雪を背景に鈴を掲げながら振ってみると、やはり音はしないまま、内部に色が満ち満ちた。舞は小さく歓声をあげた。直後に段差につまずいて転んだのは、最早お約束としか言いようがない。ついでに、友の笑い声を浴びせかけられることも。
「美佳!!」
舞は笑い声を咎めながら、こんなことを夢でもやっていたな、正夢になったのかな、それともこんなこともう何度も繰り返しているのかな、などと考えていた。美佳は夢の通りに舞を助け起こしてくれた。
「いやあ、今のは傑作だったわ」
「もう!面白いからって見てないで話しかけてよ!」
「だって、一人で夢中になってるからさ。それ、なんなの?」
美佳は舞の手にぶらさがっている鈴を指さして尋ねる。
「今日、家の中で拾ったの。多分どこかで買ったかもらったお守りだと思う……親戚のおばちゃんにもらってそのままポッケに突っ込んでたのかも。きれいでしょ?」
「へぇ、確かにきれいねー、こんなん初めて見た。縁結びのお守りだったりして」
「そ、そんな訳ないでしょ!親戚のおばちゃんがくれるようなのだもん……!」
舞は美佳が司のことでなにかからかってくるものかと警戒した。だが、美佳は例の明るい笑声を立てただけで、舞を小突きもしなかったので、舞はやや拍子抜けがした。
「そりゃそっか。でも、大切にしときなよ、お守りなんだし。ところで舞さん、今日は早いんじゃない、どうしたの…………」
職員室に着いた舞は、いつもの机にてっきり先生がいるものと思っていたのが、生憎不在であった。極力動かないでいることがモットーであるような先生なのに、お手洗いにでも行ったのかしら。舞は不審に思いつつ待っていたが、なかなか先生は戻ってこない。見かねた隣のクラスの羽山先生が、舞にどうしたのかと尋ねてくれた。菅野先生から日直日誌を受け取りたいのだと答えると、美しく温厚な羽山先生は舞に同情してくれた。
「あら、そうだったの。ごめんね、もっと早く気づいてあげなくて。菅野先生は今日クラスに転校生が来るっていうんで、今その親御さんとお話し中なのよ」
「えっ、転校生ですか……?!」
そんなこと夢で聞いていない――舞は胸をわくわくさせながら自分自身に文句を言った。それと同時に、喜んでいる胸の鼓動がどこか不安を孕んでいるのに気がつかない訳にはいなかった。羽山先生はそうと頷いて、それからあっと言って、ぴかぴかに磨き上げた五本の爪で口元を覆った。
「そうだ、言っちゃいけないって言われてたんだ。先生から発表があるまで、秘密にしてね。多分朝のホームルームまでだから」
「はい、もちろん」
「そうそう、それで日直日誌ね。この机にあるの持っていきなさいな。私から菅野先生に言っておいてあげる」
「ありがとうございます!あっ、そうだ。申し訳ないんですけど、これを菅野先生に私ていただいてもいいですか?三者面談の日程表、すっかり出し忘れてて……」
羽山先生は必ず渡すと約束してくれた。舞は再び礼を言って職員室を離れた。
職員室前にあるクラスのロッカーから出席簿とプリントの束を引っ張り出して抱えると、教室に至るまでの道のりで舞は転校生について想像をめぐらせた。男子だろうか、それとも女子だろうか。舞のクラスの比率は女子の方が少し多いから、他のクラスとの兼ね合いも考えると、男子かもしれない。かっこいいといいけれど……舞はそこまで考えて、自分の浮気心を責めた。
(私には司がいるじゃない……!)
しかし、「私には」と言えるほど司の存在は確実なものだろうか。舞はそれを考えた途端、急に世の中の色が一度に灰色になってしまった気がした。胸のあたりが針でつつかれたように感じた。今朝はあんなにも自分の幸福を信じられたのに、乙女心はなんと移ろいやすいことか。秋の空と性質が違うだけに、その移ろいやすさは一層乙女の胸に堪えるのである。
(でも、どんなに辛くったって、司をなくすよりましなんだから……!)
舞は慌てておぞましい怪物の影を頭から振り払った。自分の戒めるためとはいえ、あの悪夢だけは思い出したくなかった。司の死など、一度見れば十分だ。あんなものを、いくら無意識下とはいえども想像できた自分が憎らしい。人間というのはなんと不吉なことを平気で考え付くのだろう……
教室には誰もいなかったので、舞はちょっとだけがっかりした。司と入れ違いになることを望んでいたのだが、なにもかも期待通りにはいかないだろう。事実、夢は今朝の美佳との邂逅こそ見せてくれたものの、転校生の来訪のことは知らせてくれなかったではないか。舞は拗ねた様子で、出席簿とプリントを教卓に叩き付け――それから大反省してもう一回そっと置きなおした。なんだか今は亡き祖母に怒られたような気がしたのだ。
「舞、幸せになってね。おばあちゃん、舞のこと見てるからね。舞が幸せになるのだけが、おばあちゃんの楽しみなのよ」
ふと思い出した祖母の最期の言葉は、連鎖的に舞の頭の中に次々と違う声の、しかし全く同じ意味の言葉を呼び起こした。今朝見た夢の美しい女性の声――今度こそ幸せになって――そして夢のなかの夢(なんと不思議な表現だろう)で聞いた、悲痛な女の声――幸せに、なって……どうしてこうも人々は舞の幸せを願ってくれるのだろう。舞は嬉しくも切なくも感じて、静かに首を振った。
「おばあちゃん、私は幸せよ……」
舞は声に出して呟く。
(幸せなの。幸せに浸りきってて、わからないだけで……ねぇ、おばあちゃん、幸せでいると、不安になるものなのかな?)
後の言葉は祖母だけに聞こえるよう、そっと胸の中で。
次第にクラスメイトたちが集まってきて、舞に挨拶をしたが、舞はどことなく落ち着かない心地であった。転校生が来ることをまさか舞は約束した手前漏らさなかったけれども、耳ざとい女子たちはとうに聞いていて、しかもそれがかっこいい男子だったと言って大騒ぎをしていた。男子たちは呆れたような顔をする者もいれば、そんなことも無頓着にプロレスごっこかボクシングごっこに夢中になっている者もあり、女子たちほどには関心をそそられない様子だ。これがかわいい女子が転校してくるという段だったら、どんなにそわそわしてみせたことやら。舞はそっちの方がよっぽど面白かったのになと思った。
時計の針が進んでいく。教室はどんどん賑やかになっていく。舞はその賑やかさのなかに溶け込めない心の内に、次第に自分の不安の正体を探りだしたような気がしていた。司がいないのだ。優等生の司だから、遅刻なんて在り得ないのに始業五分前になっても、美佳が慌ただしく教室に駆け込んできてもなお、やって来ない。舞の席の右隣の列、一番後ろに設えられた(つまりは、背が高くて、先生が目を離していても信用できる生徒のみに許されている特等席である)司の席はがらんと空いている。まるで――そうだ、まるで、誰の席でもないみたいに。どうしたのだろう。具合でも悪いのかな。美佳に司のことでからかわれない一種の気味悪さのようなものに耐えかねて、舞はついに美佳に言ってしまった。こんなことを言えば、美佳がここぞとばかりに舞の恋心をはやしたてると知りながら。
「ねぇ、美佳、司はお休みなのかな?」
「翼?翼ならいるじゃない」
美佳は怪訝な顔で、クラスメイトの女子を指さした。
「違う、翼ちゃんじゃなくて……もういじめないでよ!」
「何言ってんの?一体誰のことよ?」
「だっ、だからっ……!つ、司だってば!結城司!!」
美佳の顔は当惑を示した後で、急に真面目になった。反対に真面目な顔から当惑を浮かべはじめたのは舞だった。二人の親友は――こんなこと二人の友情が始まって以来初めてなのだが――お互いのことが理解できない苦しさだけを突き合わせて、しばらく見つめ合っていた。チャイムが鳴っても尚、二人はしばらくそうしていた。
「……あんた、さっき転んだときに頭でも打ったんじゃないの?」
美佳はそう言って冗談に紛らわせてしまうと、早いところこの場を切り抜けたいとでも言うように席に着いてしまった。そんな冷たい態度をとられたことは今までなかったし、なによりも美佳が司を知らないふりをするということにショックを受けて、舞が愕然としていると、美佳は一度着いた席からもう一度舞のところに戻ってきて、舞の頭をぽんと軽く撫でた。そうして償いをしているつもりなのであろうが、肝心のところはまだなにも解決していない。だが、舞が協議を持ちかけようとしたところに、菅野先生が来てしまった。
「おはようございます、みなさん」
起立と礼の後で、菅野先生は禿げ頭を群青色のハンカチで拭きながら、明るく間延びした声で言った。
「今日もとっておきの小噺を覚えてきたのですがね……」
「先生、転校生は?!」
最前列に座っていた栗木という小柄で気の強い女子が先生を遮った。先生は楽しそうに笑った。
「おやおや、もう知っているのですか。さすがに女性の地獄耳にはかないませんな、なんていうと女性に失礼ですかね。まあ、よろしい。知っているものなら焦らさずに紹介しましょう。今日からみなさんのクラスメイトになる、結城君です……」
(ゆ、う、き?)
美佳がちらりとこちらに一瞥を寄越したのに、舞は気付かなかった。心臓が早鐘のように脈打ちはじめた。クラス中が息をひそめているなかで、扉が開き、一人の少年が開け放たれた扉からすっと現れて教卓へと歩きだす。青く透けて見えるほど艶やかな黒い髪、整った横顔、すらりと均整の取れた体つき、そして、宵闇のような薄紫の瞳――舞は声をあげそうになるのを必死で抑えた。だって、こんなの、自分を驚かせるための冗談に決まっている……
(司……!)
少年は菅野先生からやや距離を置いたところで立ち止まり、興味津々な目線を投げかけてくる新たなクラスメイトたちの方を向いた。期待に胸を膨らませていた女子たちはある意味は報われ、別の意味では裏切られた。確かに少年は稀な美貌を持っていた。彼が元々生まれ持ってきたものは、女子ならば魅了されずにはいられないような類のものだった。しかし、彼が生まれた後で身に着けてきたものが、彼の完璧すぎる美点を冴えわたらせるとともに台無しにしていた。その目つきの冷やかさに、思わず誰しもが凍りついた。微塵も物怖じしていない、目に映る誰しもを見下し切ったような態度にも。動じていないのは、菅野先生だけだった。
「では、結城君、お手数ですが自己紹介をどうぞ」
「……結城司です。よろしくお願いします」
硬く、尖った声だった。菅野先生が名前を黒板に記す間もないほど、簡潔な自己紹介だ。ぞんざいにならない程度に少年が頭を下げると、慄いた生徒たちのなかからぱらぱらと疎らな拍手があがった。
「結城君、せっかくですから、御出身なども……」
先生が黒板にチョークを置いたまま振り返って言った。
「……京都出身です」
「前の中学は?」
「嵯峨野第三中学です」
「この町は初めていらっしゃったのですか?」
と先生が尋ねると、少年は考えたのちに、
「生まれはこの町みたいですが……」
と、やや歯切れが悪い返事をした。しかし、名前を書き終えてしまった以上、菅野先生もそれ以上のことは聞き出せなかった。先ほどまでの活気が嘘のように白けきった教室の空気に気付いてか気付かずにか、先生はとびきり陽気な声で歌うように言った。
「では、みなさんとご同郷ということですね。みなさん、どうぞ親切にしてさしあげるように。それで、席は、あの一番後ろにご用意いたしました」
「……ありがとうございます」
少年が歩いてくる。舞の傍らを通り過ぎようとしている。舞は少年と目を合わせないよう咄嗟に俯き、両手の震えを必死で隠そうとして机の中に突っ込んだ。たまたま忘れていたのか、机の中に入っていたシャーペンに舞の震える指があたって、それがころころと床に転がって落ちて、少年の足元を遮った。舞は慌てて謝り、拾い上げようとしたが、少年は冷やかな、蔑むような目つきで舞を見遣ったのち、シャーペンを避けようともせずに上履きで踏みつけて、舞の横を通り過ぎていった。
(嘘……!)
舞はシャーペンを拾い上げることすら忘れて顔を覆った。
(これは嘘よ……!なにかの冗談か、さもなければまた夢に決まってる……!あんなのは、あんなのは、司じゃない……)
教室移動のためにクラスメイトたちが立ち上がりはじめても、舞はそのままでいた。一体いつ、誰かがこれは冗談だと宣言してくれるのかと待ち構えて。美佳が動かない舞を見かねて来てくれた。美佳はシャーペンを拾って、机に置かれている舞の肘と肘の間に置いた。
「舞、行こうよ……」
「冗談じゃないの……?」
「なにが?」
舞はゆっくりと掌の間から顔をあげた。押し付けられていたせいで額に張り付いている前髪からのぞいている舞の顔は、いつものかわいらしい赤らみはどこへやらすっかり青ざめ、瞳だけが異様なほどに輝いていて表情はない。美佳はぎょっとした。舞の変貌の理由がすっかり分からないせいもあって。
「ま、舞……?あ、あんたどうしたの?!」
「私がどうかしちゃったの?それとも、みんなが……司が……」
司の名を聞いた途端、美佳が眼鏡の奥で目を細めた。
「舞、あんた転校生と知り合いなの?名前知ってたよね?あいつが自己紹介する前から」
「……知らない」
「でも……」
「知らない。あれは私の知ってる司じゃないもん……!」
「舞?」
(司はどこなの?どこにいったの?私の知ってる司はどこ……?!)
立ち上がった舞は、そのままふらふらと二三歩進んで崩れ落ちた。美佳の声に気付いて、のんびり行動する主義のクラスメイトたちや、たまたま廊下を歩いていた羽山先生が駆けつけてくれた。舞がなにも訴えないうちから、皆は、舞は保健室に行けねばならないものだと見なし、美佳と先生が保健室まで付き添ってくれた。舞はそこで、一人で落ち着いて考えられる時間を得られたのだった。
嘘甘い色で病人を落ち着かせようとしている桃色のカーテンに囲まれて、舞はベッドの上に腰をおろし――寝るほどではないと舞は考えた――指先が思い出したように震えだしたり、あるいは乾ききってスカートの上に打ち伏したりする様をまるで他人事のように見つめながら、先ほどの転校生の様子を思い出すのであった。なぜ人は己の傷口に触れたくなるのだろう。そうでもしなければ痛みというものを覚えられないからか。それとも、そうすることで必死に麻痺しようとしているのかもしれない。いずれにしても、舞があの少年を、結城司と同姓同名の、顔かたちも瓜二つのあの少年を、元の結城司だと見なすことは難しかった。しかし、転校生である彼がいる以上、元の司の居場所をこの世の中に想定することは難しかった。彼らはあまりにも似すぎていた。
(違う……!あんなのは司じゃない!)
舞が必死に否定してみたところで、理性と判断力は渋面を変えなかった。彼らは舞の愛が涙を流して必死に訴えれば訴えるほど、舞が変わらず透き通ったままだと信じ込んでいるその心の中に苦い液体を流し込み、澱を凝らせた。あの冷酷な司の瞳の色の液体を――舞は自らの両肩を抱いた。とても寒い。そうして打ち負かされてみると、恐ろしい問いが舞を訪うのである。
(司はどこにいったの……?)
舞は天井を見上げた。カーテンに囲われているからここはほのかに暗いけれど、校庭向きに大窓のある保健室には日差しがよく入り込むから、桃色の仕切りの外では光が自在に影を描いて遊んでいる。古典的ながら、舞は頬をつねってみる。目は醒めない。これは醒めない悪夢なのだろうか。舞ひとりだけが、桃色のカーテンが正しく象徴しているかのように眠りの仕切りで囲われていて、現実の世界では本物の司と本物の舞が今日も楽しく日々を送っているのであろうか。そうした場合、舞にとってこの悪夢はなんであろう。覚醒というものが望めないのであれば、これはまさしく舞にとっては現実ではないか。
(悪夢のなかで、悪夢を重ねているのかな……)
最初は司の死んだ悪夢を見て、そして次に司が消えてしまった夢を見て。その次にはどんな夢を……?なによりも大切なものを、それをそうだと見なしはじめた瞬間から失って、おぞましい考えの迷路のうちを彷徨する舞は、まるで皮膚の庇護もなく壁に手を突くような痛みに悶えていた。剥き出しになった神経が疼くにつれて、舞はそもそも司の存在すら怪しく思い始めている自分に気付いた。自分はただ、長い夢を見ていただけではないだろうか。すなわち、こちらが現実で……今朝の夢のうちに、舞は信じてしまったのだ。理想の幼馴染の存在を。
(私、どうしちゃったの……)
舞はようよう矛先を自分に向けて、すすり泣きはじめた。自分の精神がどうにかしてしまったと認めることは、周囲がどうにかしてしまったと思い込むより一層難しく、耐え難いことであった。舞は――たとえそれが悪夢であったとしても――打ち砕けぬ現実の壁の頑強さを前に泣いていたのだ。
「何泣いてんだよ」
舞は遠い日の、自分の嗚咽を聞いた気がした。
「だ、だって……おうち、わがんない……ひっ……」
涙のせいで何もかもがぼやけて見える。怖いほど真っ赤な夕焼けも、しゃがみこんでしまった小さな自分の手の形も、泥まみれ汗まみれの顔で呆れている司の姿も。
「だーから言っただろ、こっちに来るのはよそうって」
「うっ……えっ……」
「お前が猫さん追いかけようっていうから、ついてきてやったんだぜ」
「も、もう……かえれな……おがあさんと、おどうさんに……あえな……いっ……ひっ……」
「……そんな訳ないだろうが」
司はぐずぐず泣き続けている舞がそうでもすれば事がおさまるとでもいうように必死に目元に押し付けている小さな拳を解いた。舞は涙でにごった瞳で司を見上げ、幼馴染のひたむきな顔を間近に見て、初めてなにかに気がついた。それがなにかは幼い心にはよくわからない。舞は司の顔をいつまでも眺めていられるような気がしたのだ。それと同時に、なぜだか司にこんな風にじっと見つめられていることが急に恥ずかしくなって、舞はさっと顔を背けた。司は舞の顔が赤いのを、泣きこすったせいか夕日のせいだと思ったに違いない。
「ほら、帰るぞ」
「えっ、でも……」
「ばーか。家の方向ぐらい知ってるよ」
司が舞の手を引いて歩き出す。半ズボンから突き出した日焼けした脚に、今日の大冒険の勲章がたくさん付いていた。二人は相当に無茶をした。垣根を抜けて、勝手に民家の庭を通けて、池に落ちそうになって……舞は水溜りの中に映った自分のワンピースの裾のレースがほとんど汚れていないのを見て、その時ようやく司の傷痕がなにを示すのかをおぼろげながらに掴んだ気がした。舞は司の手をぎゅっと握りしめて、その肩にまだ濡れている頬を預けた。舞は司ならばきっと自分を救ってくれると信じたのである……
「司……」
舞はそっと呼びかけた。口に出してそんな風にささやいてみたとき、舞はたった三音の言葉が誰を示しているかをはっきりと悟った。
(司……司は絶対にいた。いいや、いるんだ!司の存在は、私一人の夢なんかじゃない……!)
だって、あの思い出まで夢だとしたら、嘘だとしたら、この手が今も大事に抱えている温もりは一体なんだというのだろう――
「……京野さん」
カーテンの向こうから声がした。舞は見られる前にと慌てて指で涙を払った。
「今、お母様に電話したんだけど、お母様いらっしゃらないみたい。もしもう無理そうなら携帯の方にも連絡して、お迎えに来ていただくけど、どうする?」
「あっ……わ、わたし、平気です……」
養護教諭の里見先生がカーテンの隙間から顔を覗かせたとき、舞は顔を枕の方に向けてシーツの上に手を突き、たった今起き上がろうとしていたというようなふりをした。心配性なわりにどこかとぼけたところのある里見先生は、舞が上履きを履きっぱなしでいることに気づかなかった。
「あの、元気になりましたから……次の授業でます……!」
「えっ、でも次の授業、体育だけど……」
「だ、大丈夫です!」
結局舞の説得は上手くいって、舞は次の授業からの復帰が決まった。それ以上保健室にこもっていたところで、あるいは家に帰ったところで、舞は悶々とするだけなのだ。あの一瞬の司の瞳の鋭さを思い出して、延々と反芻しつづけるだけなのだ。ならば、多少のかすり傷を負うことになっても、現実を正視していたい。舞は自分がこれ以上深く傷つくことはないと思っていた。
更衣室に姿を現した舞を見て、友人たちは大いに驚いたが、舞は明るい笑顔でみんなを安心させ、それから体操着を教室に忘れたことに気づいて更衣室を飛び出し、みんなを笑わせた。体育の授業は、女子は体育館でバレーボール、男子は校庭でサッカーであった。美佳は男子だけがサッカーであることに文句を言っていたが、多くの女子は日に焼けるからという理由で校庭に出なくてすむことを喜んでいた。舞はどちらともつかずに微笑みながら、しかし意識は心の奥深く、日のあたらぬ水底を深海魚のようにさまよい続けていた。あの少年の姿が見えないことは、舞にとっては安堵の材料にもなったし、片や苦痛を長引かせるだけの不要な麻酔のようにも思われて、なんだかじれったくも感じられた。それでも体を動かしていれば、少しは気がまぎれるかと思ったのだ。
(大丈夫よ、司は絶対いたんだから……私の夢なんかじゃない……)
準備体操、ウォーミングアップのミニゲームがあったあと、試合が始まるころになって、舞は自分の体が相変わらず冷え切ったままであることに気がついた。別に動いていなかった訳ではないのに、体が温まらない。汗が出てこないのだ。却って動こうとするほど指先が重くなっていくような気がする。他の者の目には舞の動きに変わったところがあるようには見えないらしいのだが。心の竃がさめてしまった以上、いくら火を煽り立てようとしたところで、むなしい風が灰を散らすだけなのだろうか。舞は途端に、鉛の扉が心を押しつぶしながら愛と喜びにまつわるあらゆる感情を締め出してしまったのを感じた。それが喪失感であった。
「舞!舞!」
美佳の声ではっと立ち返った舞は、ボールがこちらに向かって跳ね上げられたのを見た。どうにかしなければ――でもどうすれば?自分が今体育の授業中であることすら忘れかけていた舞は、咄嗟にボールを右掌で強く打った。それは舞が思っていた以上に鋭い攻撃になった――ボールにとって。ボールは激しく回転しながら、ものすごい速さと勢いでネットの上を、相手チームのコートを突き抜け、さらには体育館の窓ガラスまで突き破って飛んでいった。どこかで誰かの悲鳴のようなものが聞こえた気もした。
「ちょっ……舞……」
しばしは誰もがぽかんと口を開けたまま無残に突き破られた窓ガラスを眺めていたが、やがてクラスメイトたちの視線が舞の方に集まり始めた。誰より目の前のことが信じられなかったのは舞自身であったにも関わらず。舞は膝の上に手をついたまま、口元を引き攣らせて、この世の終わりの目撃者にでも選ばれたかのような表情をしていた。
「き、きょうの!!」
体育の長谷先生が職務中である手前、生徒たちより早く我を取り戻した。舞は長谷先生には叱られ、そして友人たちにはくすくすと笑われながら、とにかく窓ガラスが割れたことを知らせるために用務員を呼んできなさいと命じられ、体育館を出ていった。
「信じられない……」
舞は半泣きになって思わず呟きながら、体育館と本棟をつなぐ渡り廊下をぱたぱたと駆けていった。
「いつもは全然飛ばないから怒られるぐらいなのに……」
しかし、不幸はたった一つよいことをもたらした。あんまり驚いたおかげでどうやら心に火は戻ってきたようだ。二階の廊下を抜けて、一階の用務員室のすぐ目の前に降りられる中央階段の方へ向かっていた舞は、校庭で砂を巻き上げながらサッカーに興じる男子たちの楽しそうな声を素直に羨ましいと思った。そして、ふと足を止めたところで、結城司の姿を認めた。
ちょうど今、結城少年は相手側からボールを奪い、巧みなドリブルでゴールに向かっていたところであった。舞は思わず声をあげたくなった。「頑張れ、司!」――司の専門はテニスであったけれど、運動神経は優れていた。小学校の頃、一年ほどサッカーチームに参加していたこともあって、サッカーも得意であった。単に技術がすごいというだけでなく、状況判断力にも秀で、思いやりがあり、フェアプレイの精神が強かったので、チームメイトにも相手チームにも好かれる稀な逸材であったのだ。中学でサッカー部に入らなかったのは、技術の点では今までサッカーチームを続けてきた他の男子たちにかなわないと悟ったことと、テニスへの愛情があったためと考えられる。でも、司は体育や昼休みのゲームでは常に優秀な選手であり続けた。
司は一人、黒豹が鈍重な狩人たちを交わすように相手チームの守備を潜り抜け、味方の手助けもまるで必要としないまま、鮮やかなシュートを決めた。「やった!」舞は思わず叫びそうになって、口を両手で覆い、なんで授業中であるはずの生徒がこんなところで暢気にサッカー観戦をしているのかと訝る教頭先生に愛想笑いを向けた。教頭先生が職員室に消えてしまうのを待って、舞は再び校庭に目を戻しながら、その時にはすでに喜びに一滴の墨が零されていることに気づいた。それは教頭先生のせいではない。日差しが急に陰ったためでもない。舞は応援していたその人が、元の司でないことを一度は舞を喜ばせた光景の中にまざまざと実感したのであった。
走っている結城少年は、まるで以前の司のように舞には見えた。だが、本当に元の司だったら、誰にもパスを送らず、たったひとりでゴールに向かうようなことをしただろうか。司はいつだって試合に真剣だったし、たとえ体育の試合といえども手を抜くなんて絶対にしなかっただろうが、でも常に周りの人々への心遣いを忘れなかった。ゴールへ向かおうとする彼の傍にはここぞとばかりに活躍を望んでいるチームメイトたちもいたのだ。それなのに結城少年は脇目もふらず一人でゴールしてしまった……
それが道徳的によいこととか悪いことだとか、サッカーの戦略としてよいとか悪いとかそういうことではなく、さらには結城少年が前の司と違うという事に幻滅したということでもなく、舞は、自分が容易に幻に騙されて、結城少年を元の司だと思い込んでいたことにささやかな怒りと悲しみを抱かずにはいられなかった。シュートを決めた結城少年に誰も駆け寄ってこないのを――いや、たった一人、サッカー部のキャプテンの東野恭弥だけが迷惑そうな少年の肩をばんばん叩いていたが――見てもわかる。あれは、舞の知っている司ではない……
ふと、結城少年の目と舞の目とが行き合った。舞は宵闇のような彼の目に奥行がまるでないことに気づいた。以前の司の瞳は、凝視するのをためらわれるほどそこに深みがあった。見つめていれば、星々のきらめきや月の神秘を、夜半のしじまを、そしてその後に来る暁の輝きまで窺わせてくれるような、見つめている者をやわらかく包んで一つの宇宙にいざなってくれるような豊かな諧調があった。それは、司が目の前にしている者をどこまでも抱擁しようとする姿勢をそのままに映し出していたのだ。しかし、今向き合っている目は……少年は振り捨てるかのように舞の視線を払った。その目の中に、彼が誰に対しても潜在的に抱いているのであろう軽蔑と無関心さ以上のものはなにひとつ認められなかった。舞は窓枠に置いていた手を取り落とした。
結城司が転校生として現れたことと、結城司の性格が豹変してしまったこと、一体どちらの方が自分にとってより衝撃的であったのか、舞には判然としなかった。湯を素手でかきまぜているとその温度がわからなくなるように、舞はこの温度に手を浸しすぎたのである。舞は唇を噛み、用務員室に向かって歩きはじめた。
(一体なにが起こったというの……?)