第二十一話 月宮(上)
ああ、まただ。
また誰かが泣いている……だから、これは夢のなか。
暗闇のなかで誰かのすすり泣きだけが聞こえる。小さいころから、時々こういう夢をみる。誰にも話したことはない。芳野にさえも、青龍にも、主上にも。でも、この夢から覚めたときはいつも胸が苦しくなる。また今日も泣いている人を助けられなかった。
何度同じ夢をみても一緒。何度夢のなかでめぐり会っても、私はその人を助けられない。手を伸ばそうとしたし、声をかけようともした。でも暗闇にとけてしまって、伸ばしたはずの手はみえなくて。はりあげたはずの声もすすり泣きにまぎれて聞こえなくて。
「ごめんなさい」ってつぶやいた。届くはずがないって知っていたけれど。
悲しかった。私は京姫なのに、京を、この玉藻の国を守るのが私の仕事なのに、夢のなかで泣いているその人だけはどうしても助けてあげられない。
ねぇ、お願い。泣きやんで。あなたが泣いていると私も悲しくなるの。
もう起きなければいけないから、お願い。お願いだから、泣きやんでよ。
ねぇ、ねぇ、お願い。
…………ごめんなさい、今日も助けてあげられなくて。
ねぇ
あなたは一体誰なの?
「姫さま、まもなく到着いたします。ご準備なされませ」
芳野に耳元でささやかれて、京姫は小さな手で眠そうに目をこすりながら、乳母の肩に預けていた頭をもたげた。「あらまあ」と芳野がつぶやいたのは、せっかく今日のために整えたお髪がうたた寝のために乱れてしまっていたからである。櫛をとった芳野は樺色の長い髪を幾度か梳いたあと、曲がってしまった宝冠の位置をなおしたり、薄桃色の口紅を指で塗りなおしてさしあげたりして、最後に姫の肩に手を置いて遠のけながらその姿を左見右見した。そうされている間、京姫は夢の切なさを引きずったままぼんやりとしていたが、やがて芳野の所作のいちいちが先ほどから非常にやりにくそうにみえる理由が不規則に訪れる揺動のためであるということに気がつくと、ぱっと瞳を輝かせて半ば腰を浮かせかけた。姫君の表情がいちどきに華やいだのにこれこそ一番のお化粧だと密かに感心しながらも、芳野は窓から顔突き出そうとしている姫君を制するのを忘れなかった。
「着いたの?ねぇ、もう北山はみえる?!」
「慌てなさらなくても、お車をお降りになった後にゆっくりと御覧になれますよ」
「でも今すぐ見たいんだもの!」
「なりませぬ!主上に恥をかかされるおつもりですか」
帝のことを持ち出されると聞き分けが多少よくなることを知っている芳野はぴしゃりと言ったが、今日この日の姫君はすっかり舞い上がっている姫君はなかなか諦めようとしなかった。最終的には、車は北山に向かっているのだから車の側面に取りつけられている窓からは覗けるはずがないと諭されて、京姫はがっかりと腰をおろした。それでも窓にちらつく外界の様子には興味をそそられるようで、窓から差し込む木漏れ日に手をかざしてみたり、頬に風を感じて気持ちよさそうに目を細めたりしているさまは、いかにも無邪気でかわいらしかった。まったく、これが五つか六つの娘であれば芳野とて微笑ましくみていられるのだが。
苦い顔をしている芳野の胸中などまるで知らず、京姫は喜びと興奮とで胸をいっぱいにして、車輪が轍を作る軽やかな音に心地よく聴き入っていた。花の月の十二日、今日は月宮参りの日だ。七年に一度、帝と京姫とが北山の麓にある月修院を訪れて死後の世界を司る月の女神を奉る日――京姫にとっては生まれて初めて桜陵殿の外に、京の外へと出られる日――この日をどれほど心待ちにしていたことか。それこそ、何日も、何か月も、何年も前からずっと。
月修院は姫にとってもゆかりのない土地ではなかった。先代の京姫、藤枝の御方も、京姫の生母にあたる女性もまた月修院の巫女であったからである。藤枝の御方が亡くなったまさのその夜、京姫は生まれた。月修院の巫女であったその母親、天つ乙女に見出されておのずから子を身ごもり、冷たい雨の降る夜のこと、自ら京へと赴いて内裏に至りつきこう言った――次の京姫となる乙女が我が腹のなかにいると。
人々は女を狂女とみて冷たくあしらったが、ちょうど同じころ、長いこと瞼を閉ざされていた藤枝の御方が目を覚まされて、今まさに南門の前に子を身ごもった女が訪ねてきているはずだから、その女をここまで連れてくるようにと申し渡した。戸惑いながらも女房たちが従うと、確かに言われた通りに女がひとり立っている。その容姿はきわめて麗美しく、降りしきる雨に身をすくめる様子もなく、物腰は高貴な方のように悠然としていた。女房たちがその女を連れて桜陵殿に戻ってみると、まさに御臨終かと思われていた藤枝の御方が再び目を覚まされて、周りの者の制止をきかずに女の濡れた手を握りしめながら、「この方の御腹にこそ、次の京姫となる乙女がいます」と周囲の者どもにのたまった。女ははらはらと涙を流しながら「その通りでございます」と言った。その直後に藤枝の御方は儚くなり、女の方は俄かに産気づいて玉のような姫君を産んだ。そして、女もまたそれきり亡くなったのであった。
その時より、七年もの間、京姫は生まれた場所であるその桜陵殿の一室を離れたことはなかった。庭の景色さえ間遠な部屋だった。一度そこから離れてからは、その部屋に立ち入るのはなんとなく気が引けた。また閉じ込められてしまうような気がして。懐かしい思い出もたくさんあるとはいえ……芳野が乳を与えてくれたのも、青龍と初めて出会ったのも、共にお人形遊びをしたのも、そこであったのだし。懐かしい思い出もたくさんあるとはいえ……芳野が乳を与えてくれたのも、青龍と初めて出会ったのも、共にお人形遊びをしたのも、そこであったのだし。
七つになって即位してからも姫の暮らしはやはり内裏のなかに限られていた。自分が守らねばならないのだという玉藻の国の全貌どころか、京のことさえも姫は知らなかった。それは何たる矛盾であろう。姫にしてみれば、それはどんなに歯がゆいことであろう。
とはいえ、外の世界に出てみたい、外の世界をみてみたいとの思いは、必ずしも京姫としての責務から芽生えたものではなかった。その面影さえ覚えていない母への思慕もあまり手伝ってはいなかった。ただ純粋なる好奇心と憧れこそが、姫を絶えず揺さぶりつづけるものの正体であった。よく物語には聞くけれど、川の流れるさまってどんな様子なのだろう。日と月はどこへ沈んで消えていくの?京にはどれだけの人が暮しているの?どんな服を着て、どんな顔をして、どんなことをして生きているのだろう。草原を思うがままに駆けてみたい。きれいな色の鳥をどこまでも追いかけてみたい。馬にも乗ってみたいし、桜陵殿のお庭にはない花も摘んでみたいし、そうだ、それから……!
いや、贅沢は言わない。だって、今日はずっと夢にみてきたことが叶うのだもの。もうすぐ車の扉が開かれる。そうしたら芳野に手を取られる間もなく、私は外に飛び出そう。だって、生まれてはじめて外の世界の土を踏むのだもの。
車の速度がゆるまっていく。帝と京姫の到着を知らせる鉦の音が二度三度と響き、斌が低くうなりをあげる。しかし、京姫の喜びはその荘重な音にも押し潰されるはずがなかった。胸の高鳴り、小鳥の歌う声、馬のひずめが地を蹴る音、これこそが今ひと時、京姫にとって、この世の音楽の全てであった。
車が停まった。ちょうどその時、袖で咳を隠していた芳野は京姫をついに留めそこねた。馬車の扉が開かれ、屋形の床を四角く区切られた真昼の陽射しが照らし出すと、京姫は立ち上がり、ひらりと軽やかに草の上に降り立った。
ああ!見上げた空はどこまでも続いている。屋根にも樹々にも石垣にも遮られることなく。白い薄雲が春の風にそよいでいる。はるか遠くより渡ってきた風が袖を膨らませる。その清涼さたるや、固く閉じた襟元の内にまで吹き込むようだ。京姫は思わず胸いっぱいに息を吸った。小鳥が二羽戯れさえずりあいながら飛んでいく。真上から日差しが照るからその腹の部分のやわらかな羽毛さえ翳りを帯びて色を失ってはいたけれども、鳥影を目で追いかけてもついに行きあたる先はない。鳥たちの影は遠のき、形をなくし、ついには空の色に溶け入ってしまう。その下には丘が連なっており、なだらかなその丘陵こそが今この場より望める地平線であった。鳥たちはその彼方へと向かったのだ。
「姫」
優しいなじみある声が京姫の意識を地平線の彼方より引き戻した。はっと正面を振り仰いだ京姫の翡翠色の瞳は、降り注ぐ春の陽光にも似た、帝の穏やかな微笑みに触れられて歓喜にきらめいた。
「主上!」
「貴女はさっそくおてんばぶりをご披露なさいましたね。いえ、お元気なのはよいことです。でも、わたくしの手も借りてほしかったな」
京姫はにっこりと笑って、差し出された手を京姫は遅まきながらに取った。無邪気で幼い姫君は少しもためらうそぶりを見せなかった。自らと帝とのことを妹背であるとは知っていても、一対の女と男であるとはまるで意識していないのだ。お若く美しい二人が睦まじく手を取りあったさまに、遠巻きに眺めていた群衆よりは感動のどよめきが沸き上がった。姫は初めてそのとき、自分たちを取り巻く大勢の人々を認めた。
帝に従って馬を進めてきた京の人々から少し離れて、見慣れぬ格好をした一団が立っているのは出迎えにきた月修院の者どもであろう。男は頭を剃り上げての鳩羽色の直綴に薄墨色の袈裟を着込み、女はいずれも髪を腰の辺りまで長く垂れ、月を表す銀の小さな冠を頭にいただいて、青藤色の衣を纏っていた。京姫がそちらに物珍しげな目線を向けると老いも若きも入りまじった集団は皆揃って深々と頭を下げた。京姫は一瞬あっけにとられ、それから急いで返礼した。
並び立つお二人のそばに四神がやってきた。青龍と白虎とは刀剣を佩き顔をさらして、玄武と朱雀とは被衣で顔を覆い隠して、お二人に向かって相変わらぬ恭順の意を示した。帝は優しい笑みでそれに応えられ、ふと視線を遠方に投じて、
「姫、月修院さまがいらっしゃいましたよ」
とおっしゃった。
まるで風に薙がれた草のように一同の目がそろって注がれた先を姫も見遣った。姫はそのとき初めて、汚れひとつない純白の壁の翼のように伸ばして紺色の屋根瓦を被った山門が、すらりと品よくそびえているのに気が付いた。そして、姫が見つめるそばから門が開き、そのうちから紫紺色の僧衣を身にまとった男性が姿をあらわした。
月修院さまがどんなに優れた僧侶であり、またいかほどの人格者であるかという話をこれまで散々に語り聞かされていたはずではあったけれど、生まれてはじめて外の世界へ出た興奮ですっかり忘れ去っていた京姫の目にも、その風格は明らかであった。姫にとっての驚きは、勝手に老翁のように想像していた月修院さまがまだ若々しいことである。第十七代月修院宗主、俗名を二条楷と仰る方は九つの時に月修院に入り、以後三十余年間を門内において過ごされてきた。すなわち、まだ四十をようよう踏み越えたばかりの御歳なのであって、本来であればきっとお髪も黒々と生えていらっしゃるのだろう、それを青々と剃り上げたお姿はいかにもすがすがしく清らかである。背丈は高く、動作にはゆったりとした落ち着きがあり、威厳を感じさせる一方で、歩み寄ってくるその表情は穏やかで、姫に緊張を強いるものは何もなかった。三日月を象った銀の飾りを首から提げていらっしゃる。
京姫が大きな翡翠の目を瞠って見守るうちに、月修院さまは帝と京姫の前で静かに膝を折り、身を低くして頭を垂れ、両手を額の前で結んだ。帝が同じ姿勢をとってすぐに返礼なさったのをみて、姫も慌てて従った。
「主上、京姫さま、お待ち申し上げておりました」
低く静かな声である。殿方というものにあまり接する機会のない京姫にはなじみのない響きだ。こういう大人の男性の声を聞くのは決して不快ではない。でも、なんだか胸がぞわりとするような……応えられる帝の声はまだ軽くさわやかである。
「月修院さま、お会いできて光栄です」
「天満月媛命の導きあって、皆さまが無事に御到着なさったことを心より嬉しく思います。主上、姫さま、御身は天つ乙女に仕える身。命輝ける美しき世界を司る方々。しかし、どうぞ今日この日だけは我らが月の女神に捧げてくださりますように。天つ乙女の言葉ひとつに傷つき、み顔を隠しなさったその恥じらいを讃え、慰めてくださりますように。さすれば慎ましき乙女も憩える死者のために心を砕かれ、月光はこの玉藻の国をあまねく照らし出し、百姓の上に降り注がれることでしょう。すでに来たる者にも、これより至り来る者にも」
そこで月修院さまと帝とは顔を上げられたが、京姫は白虎にそっとつつかれてようやく遅れて姿勢を戻した。結んだ小さな手を取り除けると、月修院さまと視線がぶつかって、京姫は慌てて目を逸らした。普段は見知った者ばかりに囲まれているせいか誰に対してもまるで物怖じしないというのに、今日ばかりはさすがに緊張しているらしいようすの京姫に、帝はかすかに笑みを浮かべられた。月修院さまもまたすぐに姫のはにかみを見取ったらしい。小柄な姫にあわせてまた少し背を屈めて、やわらかなお声で、
「姫さま、ようこそ月修院へ。ここは俗界を離れた者たちの住まい。京のようなきらびやかなところではございませんが、それでも少しは姫さまにも珍しがっていただけるものがあると思います。さあ、ご案内いたしましょう」
温厚ながらに理智の勝った月修院さまの灰色の瞳が、恥ずかしげに微笑みを返した京姫を映し出す。不快な感触ではないはずであったが、やはり姫はぞくりとした。でも、月修院さまはお優しい方だ……気難しい方でなくてよかった。
帝に手をとられ、京から参じた一行の先頭に立って月修院の門をくぐられた。門の先にはひとすじの道がつと続いており、その先に、北山とその麓にひろがる森とを背景に本堂がそびえ立っている。門から入って左手には男僧たちの住まいが、右手には巫女たちの住まいが道を隔てて配置されており、帝と姫とはまず男僧たちの住まいの方に案内された。
月修院さまは普段僧侶たちがどのような暮らしを送っているかを、姫君が興味を持てるように面白みを添えながらも説明し、時には僧侶たちに命じてその信仰生活の一部を再現させたりもした。多くの僧侶たちが集い、天満月媛命のご神体である鏡に祈祷を捧げるさまを、京姫は少し物怖じしながらもそれでも帝の腕に縋りながら熱心に見物していた。
「我々は毎日朝夕の二度必ずこのように祈りを捧げます。我々の生活は祈りに始まり、祈りに終わるのです。天満月媛さまがみ顔を隠しなさる新月の夜には日の入りから日の出まで眠らずに祈りを行う決まりです。新月の日は食事をとることも避けております」
「しょ、食事なしでっ?!」
中庭に面した廊下を渡る途中で月修院さまがそう説明すると京姫はつい叫んだ。京姫の声に驚いたのか、池の岩場で日光浴をしていた蛙が池の面へと飛び込み、花の蜜をついばんでいたメジロのつがいが飛び立っていった。軽い笑いが一行の間に伝わって、長い廊下を春風のように駆け抜けていく。
「姫さまには考えられぬかもしれませんね。私たちは死者の世界に安寧をもたらすべく生活しておりますから、食に執着を持ってはいけないという決まりを持っております。毎日二度の食事もごく質素なものです」
「で、でも、それでお腹が空きませんの?」
京姫は赤くなって尋ねた。
「そうですね。もう慣れてしまいましたから……でも最初のころはとても苦労をしました。私は食べ盛りの子供のときに月修院に入ったものですから、お腹が空いて眠れなくて、ようやく寝入ったと思ったらすぐに起こされて。お祈りの最中に居眠りをして叱られたこともありました」
月修院さまは笑いながらそう語った。京姫がつい思い出すのは七年前の神饗祭の夜のことである。あの夜は眠ってはならないと言われながらも、結局は帝のお優しさに甘えてつい眠ってしまったが、神に仕えるということは本来苦しく大変なことなのである。月の女神にお仕えする人々がこんなに頑張っているというのだから、天つ乙女に仕える私ももっと頑張らなければならないのではないかしら。そうした疑問がふと芽差してくる。
しかし、それはそれとして食事の話をしたらお腹が空いてきたのだけど……
その時、鐘の音が低く境内を震わせた。月修院さまは細めた目を庭の外、紺色の屋根瓦が日を宿してきらめいているあたりに向けた。
「……そろそろ昼餉の時刻ですね。女たちに食事を用意させております。粗末なものですが召し上がってください。恥ずかしながら、皆さまに揃って並んでいただける場所がございませんので、姫さまをはじめ女人の方々には女たちのところでお食事をとっていただきます。恐れながら主上には立ち入りをご遠慮いただきますが、姫さまはどうぞそのまま見物なさってください」
「主上も入れないところを見られるんですの?」
京姫の声には嬉しさと興奮とがにじみ出ていた。
「えぇ、潭月寮は男子禁制の場所なのです。主上といえども出入りを許す訳には参りますまい」
「おや、それは残念だ。姫、あなたは楽しんでいらっしゃいね。そしてどんな様子だったか後でこっそり教えてください」
瞳を輝かせる姫に、帝は快活におっしゃった。
「先代さまや姫さまのお母上が過ごされた場所です。きっと姫さまにもお懐かしい場所だろうと思われます。ごゆるりとご覧くださいませ。では、主上はわたくしと一緒に。そろそろ院もご到着されるでしょう。姫さまには別の案内の者をつけさせます。四神の皆さまもそちらに」
男僧たちの住まいである清月寮の外で、若い巫女がひとり立って京姫を待ち受けていた。銀の冠を被っていることや青藤色の衣を纏っていることは他の巫女たちと変わらないが、ごく淡く玉虫色の光沢を帯びた羅を冠の下から髪を覆い隠すように靡かせた女性で、月修院さまの説明によると潭月寮の巫女たちを統べる月当という役割を負っているのだという。京姫と四神たちの前で、月当の女はしとやかに頭を下げた。
「これからはこの者が皆さまを案内いたします。ではよろしく頼みましたよ」
「はい」と女は慎ましやかに返事をして、京姫に微笑みかけた。その笑みの形に沿って、羅と同じ玉虫色の光が美しい女の唇を輝かせる。傍らで帝が身じろぎをされたことに、京姫は気づかないでいた。
採れたての山菜やくだものを使った質素ながらに大変美味な昼餐でもてなされ、京姫はどこか物足りない気がしながらもひとまずは満足して、潭月寮を見学させてもらった。青龍と玄武とが京姫のお供をすることとなった。芳野は少し旅疲れが出た気配であったので青龍に留められ、白虎と朱雀もすでに以前見て回ったことがあるからと言って食事をした部屋に残った。
「わたくしたちの生活もやはり祈りによって始まります。殿方は朝夕の二度ですが、わたくしたちは朝昼夕夜の四度。朝起きて祈りを捧げたのちは漿を少しばかりいただいて、殿方と一緒にこの月修院のなかをきれいに掃き清めます。それから昼のお祈りがあって、昼餉には汁粥と果物を少々。夕の祈りまでは銘々の勤めをはたします。たとえば……」
月当がとある部屋の襖を開くと、そこでは七八歳ほどの少女たちが集まって文机に向かっている。少女たちは京姫に気がつくと一様に深く頭を垂れたが、またすぐに己が務めに戻ってしまった。若き乙女たちは筆をとって一心に何かを書きつけている様子であり、きれいに列をなす文机の間を年嵩の女たち数名がゆるりと歩いて見回り、時折誰かしらの影に屈みこんでは何事かをささやきかけていた。そうされると、少女たちは上気した頬にさらに血をのぼらせて桃色にしながら、その話に耳をかたむけている。一生懸命にうなずくせいで、時折文机ががたりと揺れてその拍子に墨が跳ねるのも、硯のなかに垂髪の先が触れるのもおかまいなしだ。姫たちが普段暮らす京の御殿とは違って、潭月寮には庇の間がなく人目を恐れぬ造りになっているから、たった今月当が開け放したばかりの襖と簀子の方と両側から光が入り込んで、少女たちの輪郭や黒髪に金色の斑が散りばめられるさまが、彼女たちの懸命な静謐になにか楽しげなさざめきのようなものを添えていた。
月当は襖をそっと閉めて京姫たちに向き直った。
「こちらでは読み書きを教えているのです。姫さまが今ご覧になりました少女たちは、皆身寄りがなく、いまだかつて読み書きを習ったことがないのですわ。ですから、年上の者が教えてやっているのです」
「あんなに小さな子たちがいるなんて……!」
高貴なる姫君のすなおな驚きに、玄武ははっと胸を衝かれて思わず聞いた。
「あの、差し支えなければうかがいたいのですが、あの子たちはどうして月修院に……?」
「えぇ。中には親が連れてきた者もあります。それはさまざまな理由から……家が貧しくてとても育てられなかったり、またはどうしても表に出せぬ子であったり、本当に色々ですわ。でも多くはわたくしたちが京で見つけた行き場のない孤児たちです」
「京の?行き場のない孤児って……?」
当惑する京姫を見下ろして、月当は憐れむようにかすかに笑った。
「ふふ、姫さまにとっては縁のない世界ですわね。姫さまはご存知ないかと思われますが、世のなかには貧しく、その日の食事にも事欠く者どもがいるのです。雨風をしのぐ家もなく、眠るところを求めて京をさまよい歩き、汚い身なりをしているからと人々に罵られ、それでも今日その日を生きるために泥の上を這い廻らなければならない……そうした者どもがいるのですわ。あの子たちの多くは、病や、あるいはもっと忌まわしいできごとによって身よりをなくし、ひとり泥だらけになって食べものを漁り歩いていたものばかりです。かく言うわたくしも、かつてはそうした子の一人でした」
「そんな……」
言葉を失っている京姫をよそに、月当の女は廊下をすっと歩み始める。姫は玄武と青龍に両横から助けられてようやく歩き出すことができた。しかし、まだ心は月当の言葉がもたらした凄惨な世界のうちから抜け出せていない。
知らなかった、私……京姫なのに、京のことをみたことがないから。そんな悲しい人たちが京にいるだなんて。誰もがこの世のどこより美しい場所だと讃える京、天つ乙女の恩寵が満ちる玉藻の国の京、代々の京姫たちによって守られてきたはずの京に。
また誰かが泣いている……
青龍と玄武は顔を見合わせる。京姫は今の話に心を痛めているようだが、どう慰めてよいものか見当がつかない。まさか今の話が嘘だとは言えないし、変に場を盛り立てるのも不謹慎なようで気が引ける。しかし、姫さまにはどうしても元気を出していただかなければならない。午後には姫さまが月の女神に捧げるべく舞と歌とを披露される予定なのであるから。青龍と玄武の思惑をよそに、京姫はぼんやりと羅の端からのぞく月当の薄色の髪が揺れるさまを見つめるばかりである。
「……姫さま、ご心配には及びませぬ」
月当が振り返らぬままにつぶやく言葉に、姫は瞳を上げられた。
「京の孤児たちはわたくしどもが救っております。ひとり京をさまよっていたわたくしは確かに不幸でした。けれども月修院さまに救われて、今はこうして満ち足りた日々を送っておりますわ。ですから姫さまが案ずることはなにもございませぬ」
「でも……」
「そういえば先代の藤枝の御方も身寄りのない孤児であったところを拾われて巫女となったのですよ。姫様はご存知でしたか?もちろん滅多にございませんけれど、でも、このような幸福な例もございます。孤児だからといって不幸とはかぎりません。わたくしたちが救い続けるかぎりは。そして、何があってもわたくしたちは救い続けますから、姫さま、ご安心なさいませ」
「そ、そうですよ、姫!」
青龍と玄武はこの機に勇んで加勢した。
「大丈夫ですよ!姫さまが心配なさることは何もありません」
「それより姫さまもさっきの子たちを見習って、少しはまじめに勉強していただかないと。今日遊んだ分、帰ったら厳しくいきますからねっ!」
「……うん」
作戦は上手くいかなかったようだった。こうまでされたらお手上げである。再び顔を見合わせて、青龍と玄武とは小さく溜息をついた。かくなる上はひたすら祈るより他にない。これより先、姫さまの心をわきたたせるような出来事がどうぞ起こりますように……空からお菓子が降ってくるとか。
大勢が忙しく立ち働く厨を覗いてみても、女たちが一心に機を織ったり縫物をしたりしているところを通り過ぎても一同の心は晴れぬままであったが、月当の巫女はまるで気にかけぬように涼しい顔で庭園の方へと導いた。あるいは月当がそしらぬ顔をしていたのは、庭園のすばらしさが京姫たちの憂いをもかき消してしまうことをあらかじめ確信していたためかもしれない。殿方が住まう清月寮は中庭を囲った構造になっていて、その中庭にも池をこしらえたり砂利を敷いたりとさまざまに意匠をこらしてはいるけれど、女たちの暮らす潭月寮の庭園にはとても敵わない。
庭園は、北山と遠くにほのかに瓦屋根の色をひらめかせている本堂とその間の森を遠景に、なだらかな丘をなしてどこまでも続いていくかのごとく思われた。しかし、それは庭園というよりは農園と呼んだ方が正しかっただろう。春の花々が彩りを添える一方で、まだ花をつけていない果樹が連ねられ、巫女たちはその傍らに立って枝に鋏を入れたり、水を撒いたりとこまやかに世話をしてやっている。巫女たちが交わす言葉は極めて控えめであったが、樹々を見上げる女たちの顔はさわやかで、植物への情愛と労働の喜びに満ちている。清らかな巫女たちはさながら庭園の一部であり、青々とした葉に添えられる女たちのよく日に焼けた手は熟した果実のようで、その手が枝々を揺さぶっても小鳥たちは構う様子なくその果樹の上でさえずりを続けている。それは誠にのどかな美しい光景であった。
果樹園の手前ではたくさんのきれいな色の暁鳥が放し飼いにされていて、クツクツと喉を震わせながら土の上をつついている。十二三歳ほどのかわいらしい少女が二人ほど箒を持ってそのなかにまざっているのは気まぐれな鳥たちの面倒をみてやっているらしい。京姫たちがみていることにも気づかずに、少女たちは暁鳥とおしゃべりをしたり、少女たち同士で何かささやきあってくすくす笑い合ったりしていた。
「ここは庭ですわ。きっと姫さまのお住まいのお庭とくらべたら見劣りがすることでしょうけれど、お許しくださいまし。わたくしたちの庭は眺めて楽しむためのものではなく、生きる糧を生み出すためのものなのですわ」
京姫たちに気がついて、少女たちは慌てておしゃべりをやめて静かに膝を折った。ぎこちないながらになかなかに優雅な仕草であった。京姫もまた同じように挨拶を返したのだが、青龍は顔を上げたときの京姫の瞳が仔犬のそれのように輝きだしたのをみてひそかに安堵した。
「花も少しはありますけれど。月修院では桜の花は禁じられておりますの。天つ乙女の好まれた花ですから、桜を見ると満月媛さまがまた一層恥じ入ってしまわれるというので。京の方々にはきっと物足りないでしょう」
「いえ、とってもすてきなお庭です……あっ、あの!あれは何の樹ですの?」
月当が説明している間にも京姫は庭にぜひ降りてみたいという気持ちを隠そうとはしなかった。できることなら果樹園で仕事をしている巫女たちを手伝ってみたい。私のお母さまも、先代さまも、あんな風に庭の樹々の世話をしていたに違いないのだもの――姫のなかにはそうした思慕までもが湧いていたのである。
だが、その望みは叶えられなかった。非情な鐘が次の儀式のために本堂へと向かう時間であることを告げたためである。名残り惜しく庭園を振り返りながら立ち去る姫の背中を青龍と玄武とは無理やり押すようにして引き立てたが、京姫の足がふと止まってしまった一瞬があった。玄武と青龍とは姫の視線の先を見遣ったが、二人はなにも捉えられなかった。
「姫様、どうしました?もう行かないと。主上と月修院さまがお待ちですよ」
庭園の藤棚に女の影がひとつたたずんでいる。天から注がれて溢れかえったように咲きこぼれる藤の花房の奥、その横顔は花の色に紛れて定かではないけれども、青藤色の袖と白い袴の裾が藤の尾の端より覗いている。服装からみて月修院の巫女のようではあるが、あんな風にぽつねんと一人立ちつくすばかりで他の女たちのように立ち働いていないのが不思議である。あの女性は一体何をしているのだろう……
怪訝な顔で振り向いた月当は姫が立ち止まってしまった原因を見出したらしい。簀子の端に寄って、白い砂利に隔てられている藤棚の方へ呼びかけた。
「藤尾」
藤尾と呼ばれた女は二度目に呼びかけられてようやく藤の花から顔をくぐらせた。若い女が白い右手の甲で藤の花をよけ、心持ち首をかしげてこちらを仰ぐさまはなんとも風情ある光景であったが、女の顔に京姫たちはなにかしら戸惑いのようなものを覚えなくもなかった。一体なぜなのか、京姫にはすぐにわからなかった。
腰の辺りで綺麗に切りそろえられた黒い髪、前髪から透けてみえる柳眉、切れ長の紫紺色の瞳、清涼な線を描く鼻梁と薄い唇――化粧をほとんど施していないにも関わらず、それは極めて精緻に造られた、麗しき貌であった。しかし、なにかが足りない……なにか。そうだ、表情が。心の動きがその麗しさに伴っていないのだ。京姫が心づいたとき、女の目が姫の方に向けられた。女の双眸が見開かれた。
「やえ……ふじ……?」
女の声は低くかすれていて、京姫にははっきりと聞き取れなかった。「えっ?」と小さく姫が聞き返すそばより、月当の言葉が響いた。
「藤尾、何をしていますの?お前は今日まだ一度もお祈りをしていないでしょう。本当に悪い子ですわね。みんなの手伝いをしていらっしゃい。今日は主上と京姫がいらっしゃっているのですから、悪戯をしてはいけませんよ」
月当の言葉に、京姫を見据える藤尾の瞳は色褪せた。なおも京姫を見つめながら、藤尾は小さく口のなかでうなったようであったが、やがて月当の視線と行き合って、ひらりと身を翻して果樹園の方へと駆けていった。
藤の花がまだ揺れているなかで、当惑する京姫たちに月当は軽やかに言いのけた。
「今のは藤尾と申しますの。えぇ、見ての通り体は立派な大人ですけれども、心はまだ子供なのですわ。元はああではなかったのですけれど、数年前にちょっとした事故があってからあんな風になってしまって……することも言うことも七つの子にも及ばないのですから困ったものですわ。それでもあの娘の居場所は月修院しかありません。ですから、わたくしたちで面倒をみておりますの」
ちょうどその時、月修院さまに遣わされた巫女がひとり廊下を駆けてきて、本堂の方へ向かってほしいと告げた。松枝上皇もご到着し、間もなく午後の儀式が始まる予定なのだという。帝はすでに本堂で姫を待たれているとのことであった。
「あら、それは大変。では姫さまはお駕籠で参りましょう。急いで男衆にお駕籠を用意させなさい」
「はい、芙蓉さま」と使いの巫女は返事をして、慌ただしく廊下を引きかえした。