第一話 白昼夢(下)
部活の練習のある美佳と別れ、舞が帰宅の道を歩み始めたのは午後三時ごろのことだった。今日は日本舞踊のお稽古もない。その代わり、宿題と取っ組み合わなければならないけれど。春の午後は少し曇り始めて風が強い。でも五月の体育祭の時期にでもなれば、もう暑くてかなわないほどになるだろう。それまであと一月だ。
大通りから外れたちょっとした小さな通りにも、歩道に沿ってツツジの垣根が巡らされ、ピンクや白の蕾をちらつかせていた。街路樹のハナミズキはたおやかな痩身にローブをまとい、木蓮の花は頬の上に春の恵みを受けて嬉しさに顔を綻ばせている。人並み以上に気が利くつもりで結局人並みな人々が庭先に飾り付けているパンジーやペチュニアの鉢植えのけばけばしい色より、舞はこういう優しい色に心惹かれる。こんな些細な彩りが普段は舞の心をときめかせもするのに、この日の午後に限っては夢の涙が後を引いてなんとなく心が弾まない。それに、美佳の言葉も引っかかる。なぜ美香は今更あんな風に煽り立ててくるのだろう。
もし司が他の女の子にとられてしまったら……付き合ってもいない以上とられたもなにもないのだけど――それはあまりにも耐え難い。向けられる微笑みがもしかしたら唯一無二のものかもしれないと密かに期待するからこそ、舞は司を直視できるというのに。
(ずっと一緒にいたんだもの。他の誰よりも)
舞はなんとなく不当な扱いを受けているような憤りと、それが道理にあわないことを知っている小さな理智とのはざまで苦しみながら、胸中呟いた。
(誰よりも司のことを分かってる気がするのに、でもそのくせ司の好きな人すら知らないんじゃない。でも、他に司のことで知らないことがどれぐらいあるっていうの?なんでたったひとつ、わからないことが、それだけが、どうしてこんなにも重要なんだろう。生まれたときからずっと一緒に育ってきて、お互いのことがすっごく大切な存在だってことはよくわかってる。でも、それだけじゃ足りない。私の欲しい椅子はもっと大きいんだ)
溜息が思わず零れる。
(でも、そんな椅子に座ってなにになるの?誰かに譲らなくちゃいけない日だってくるかもしれないのに。一度そこを離れたら、司との大切な絆も消えちゃうかもしれない。どっちがいいんだろう?このままでいれば、少なくとも今の絆はなくならないで済むけど……でも……)
ふと、桜の花びらが舞の頬に触れた。大通りから風にさらわれて、こんな些細な小道に迷い込んだと見える。舞は頬から薄桃色の花弁を指でそっと剥がして、掌の内に置いて見つめた。と、舞の目は一瞬、それを紅の鳥の羽根と見紛えた。美しい金の模様を散らした巨大な鳥の羽根だった。舞はこんな大きな、絢爛な羽根をした鳥を今までに見たことない。舞の胸に鋭い痛みが走った。
「幸せに、なって…………」
舞は夢の中の声を思い出す。あれは女の声だった。知らないはずなのに、どこか懐かしく、そして舞に深い悲しみを呼び起こす。一体誰なのだろう。どうして幸せになってなどと……舞は十分幸せだ。確かに悩みはあるけれど、毎日が平和で家族に恵まれ、友人もたくさんいるし、司が傍にいる。どうして、あの声は息苦しいほどに懐かしく、愛おしいのだろう。あんな声の持ち主を舞は知らないというのに。それに、今、花を鳥の羽根と見間違えて、どうしてあの夢の声など思い出したのだろう。
その時、再び意地悪な風が花弁を連れ去っていってしまった。舞は慌てて手を伸ばしたが、花弁のほのかな桃色は薄曇りの空の白さにたちまち紛れてしまった。「あっ」と力のない声が漏れた。と、背後でその声を打ち消すような明るい笑声がする。
「何してるんだよ」
不思議な、そして曖昧な喪失感に打ちひしがれていた舞は、自分でも知らず知らずのうちに、愛しい声に振り返る仕草にもどことなく気だるげにも見えるもの悲しさを漂わせていた。司は幼馴染の見知らぬ表情に思わずはっとした様子だった。こういう時の舞からは、いつもの可愛らしい天真爛漫な輝きは消え失せて、代わりに高貴な触れがたい印象が漂っていた。
「舞……?」
恐らく舞の正体を見極めようとして司が瞬きをした途端、見知らぬ舞はいなくなった。代わりに、ほのかに顔を赤らめて、恥ずかしさに慌てている年相応の少女の姿があった。どうやらいつもの舞である。
「つ、司……!後ろにいたなら声かけてくれたっていいじゃない!」
「いや、一人で面白そうなことやってるから、邪魔しちゃ悪いかなって」
「なによー、面白そうなことって!人が真剣に……」
舞は口をつぐんだ。真剣に、なんだというのだ?確かに夢からそのまま引きずってきた舞の感情は真摯なものであったけれども。司は少し眉をひそめたが、微笑んだままで肩をすくめると、先を促そうともせずに舞の隣に並んだ。彼にとっては当たり前にも見えるそんな動作が、どんなに幼馴染を喜ばせ、苦しませるかを知らないまま。
しばらくの間、二人は黙っていた。その沈黙が、居心地がよいのか悪いのか、舞には判然としなかった。多分、居心地がよい訳ではなかっただろう。沈黙を、二人にとっては全く似つかわしくない沈黙を守り続けることは、二人の関係のあきらかな変質を示唆していたから。しかし、かといってこれまでのように他愛のないお喋りでこの瞬間をやり過ごしたとして、もはや舞はすなおな気持ちで幸福を感じることはできなくなっている。司との間に交わされるどんな言葉も笑いも、舞がそれを真に求めていないという理由だけで、たちまち偽りになってしまう。どんなに楽しげな微笑みで縁どっても、結局は中になにも詰め込めていないから、振り返ってよく見てみれば後悔の溜息を吹き込む空間ばかりで膨らんでいる。舞は変化を求め、同時に変化を恐れている。先に幸福が保証されていない限り、自分の手ではなにも変えていたくはない。だが、変わらないでいる苦しみも、司を完全に喪失する痛みよりはまだましだというだけである。
舞は段々泣きたくすらなってきた。大好きな司と二人きりで歩いているというのに幸福になることができない自分がひどく憎らしく感じられた。
「久しぶりだな、一緒に帰るの」
話題に窮したように司が言うと、舞はほっとすると同時に沈黙を守ってくれていたほうがまだ二人の間に奥行があったような気がして、司を恨めしくも思った。
「だって、司、いつも部活じゃない」
「まあな」
「また、来月には大会でしょ?」
「あぁ」
「そしたら、また忙しくなるね……」
舞はなるべくそっけなく言い放つように心がけた。だって、司が忙しくなったとして、舞にはなんの関係もないはずなのだ。多分、司のなかでは。しかし、聞き流されると思っていた台詞に、司は思いがけず顔をあげた。舞が慌てて目を逸らしていなければ、なにか問いかけようとする司の口元が見えたことだろう。だが、そのときの舞はもはやなにものも見つめていなかったし、幼馴染の優しい瞳によって勇気づけられさえすれば形を得たかもしれない司の問いかけも言葉になることはなかった。二人はまた沈黙の溝に足をとられかけた。
「こ、今度の大会は応援いけるといいな!」
すかさず放った言葉の意味を舞自身あまり理解していなかった。舞はもう不自然な――それは今までの二人の仲を思えばあまりにも不自然だった――気まずさに陥りたくないゆえに、咄嗟に溝の上に差し出せる板切れをそれがどんなものなのかも吟味せずに突き出したのだ。司には嬉しそうに笑うだけの裁量はあったが、舞がそう言っておいて今更慌てているのにはあきらかに当惑の色を示した。
「そうだな、たまには来てみるといいかもな……」
「この間は、行けなかったもんね」
ちょうど去年の秋の大会の日に、舞は日本舞踊の発表会があったのだ。ずしりと重い鬘と体を締め付ける衣装にのしかかられて吐き気さえも覚えながらも、舞は一人舞台を浴びて、暗闇のなかで時たま沼底の魚の尾びれのようにきらめく人々の無数の目を相手に戦っていた。同じころ、司も必死に戦っていることを信じて。
(あの時の方がずっと司が身近にいるように感じたのに……あんなに離れていたのに。今はこんな近くにいても司のことが分からない)
ふと、二人の指先が触れた。二人ははっと手を引っ込めた――そこで触れ合ったのはなんであっただろう、爪でもなく皮膚でもなく――できることならば、舞は立ち止まりたかった。こんなにはっきりと自分の心を探り当てたというのに、触れ合った指先の甘い痺れのうちに意味も見出さないでいることはもはや不可能だった。世の人はまちがっている、と舞はまだやわらかな心に食い込む痛みに打ち震えて思った。恋なんていうものは、少しもよいものではない。こんなにも苦しくて、こんなにも悲しくて……
「なあ、舞……」
舞は恐ろしくて顔があげられなかった。切り出した司の声は変わらぬ色調を帯びているように見えて、舞のようにごく親しい者にしか聞き取れぬであろう確かなざらつきを含んでいた。
「俺、前からさ……」
「やめて!」咄嗟に叫んだつもりだった。舞は大きく目を見開いている自分の姿に、もっとも喜ばしい結果でさえ拒むつもりであった己の臆病さを認めてしばし呆然とした。私は幸せになることすら、怖いのだろうか。冷えゆくばかりのぬるま湯に浸かっている方が、寒いかも暑いかもわからない外に飛び出すよりはよほどましだと言うのだろうか……舞は司の驚いたような顔から、きっと自分は司の言葉を――もしかしたら気まぐれな、他愛もない話題だったかもしれないものを――遮ってしまったのだろうと思った。だが、それは間違いであった。
「舞……」
舞の名前を呼びながら、司の目は明らかに舞の肩越しにあるなにかを見つめていた。司の顔がみるみるうちに蒼白になっていく。からかってるのかしら。なんの悪戯なの?――そこまでひそかに言い切る前に、舞はたちまち背筋におぞましいほどの寒気を覚えた。司が舞の肩越しに見つめているものは、そして舞が背中に感じているものは、あのうたた寝の夢に見た暗闇のなかの悪意にも劣らない。振り返ろうとしたところを、司が舞の手首を掴んで留めた。司はそのまま走り始めた。
「つ、司……?!」
「逃げるぞ!後ろは見るな!!」
叫びながら舞が振り返るのを防ぐかのように、司はますます強く舞の手首を握り締め、より前の方へ、自分の方へと引き寄せようとした。舞は決して運動神経の悪い方ではなかったけれど、それでも普段テニス部で走り回っている司と同じ速度で走れるわけもないので、つい足がもつれがちになる。だが、逃げ切らなければならないほどの悪意が間近に迫ってきていることだけはわかる。それは追ってきているのだ。
司は追ってきているものを撒こうとするためか、曲がり角や裏道を見つけ次第そちらの方へ飛び込んでいく。気付けば舞たちは大通りを遠く離れて住宅街を外れつつあった。花が消え、人の気配は失せた。車の音も小さくなっていった。両脇をブロック塀に挟まれた細くて舗装されていない、陰気な民家の裏にある道を抜けると、舞たちは突如として、急カーブのある比較的大きな道路にぶつかった。司は一度そこで立ち止まった。舞は膝に片手をついて息を整えた。カーブに沿って弧線を描いているガードレールの下は急斜面になっていて、一面畑と野原とがひろがっているのが見える。広野の中央を鉄色の川面が仕切り、その上に渡された白い鉄橋を見覚えのない色をした電車が音もなく通り過ぎて行った。電車は広野の終わりに群がっている小さな山々の向こうからきたらしい。のどかそうな景色に見えるが、しかし、この町にもこんなうら寂しい景色があるのかと舞が意外に思ったほど、ひろがる見知らぬ土地は殺伐としていた。曝け出された畑の土の色は乾き、白々しくくすんだ空の色と遠いところで手を結んでいた。舞は吐き出される自分の吐息の音すら他人のそれに聞こえるほど、自分を囲む風景に対して疎外感を覚え始めた。舞にとって懐かしく親しいものはただ司だけだ。手首をつかんでいる司の手がゆるんだことをよいことに、舞は司の掌に掌で以って返した。そこに生まれた温度は舞を安堵させた。
「大丈夫か?」
「う、うん……でも……」
不意に、二人は薄い日の光を一点に集めていかにも不機嫌そうに反射しているカーブミラーの隣に、朽ちかかった看板のあるのを見つけた――苧環神社――よくよく見てみれば、その看板の傍らの部分だけ不自然にガードレールが途切れていて、下り斜面に古い石段が突き出しているのが見える。二人は顔を見合わせて道路を横切って近づいてみた。春の木々とは思えないほど暗鬱な緑を寄せ合う森の中、じめついた落ち葉の合間を縫って、崩れたりひびが入ったりしながらも白い石の階段が続いていく。その行き着く先こそ木々の葉によって隠されているが、それは、崖下にある廃神社へのたったひとつの参道であった。曲がりなりにも都内の一市町村としての賑わいを誇っている桜花町が、時代の趨勢に取り残されたための限界を示し始める町のはずれの方には、舞は滅多に寄り付かなかったし、特にこの町の南東部には足を運ぶほどの理由もなかった。苧環神社のことは名前だけを知っていて、それは怪物が住んでいて成敗されただとか、幽霊が目撃されただとか、そんな気味悪い話を聞いたせいだった。舞は見知らぬ世界へつれていかれそうな気がして寒気をおぼえた。舞はその一瞬だけ、己の置かれている状況を忘れていられた。
司が振り返るのを見て、舞は我に返った。追ってくるものは、どうやら舞たちを見失ったらしかったが、司はまだすっかり安堵していないようだった。
「ねぇ」
舞はたまらず言った。
「ねぇ、一体どうしたっていうの?なにから逃げてるの、私たち……」
「知らない方がいい」
司は舞の顔を見ようともせず、目の前の階段を見て思案しているようだった。
「言っても信じないだろうし、見ないと信じられないならいっそ見ない方がいい」
「どういうことなの?私たち……危ないの?」
司はようよう顔をあげて舞を見たが、その目にはまるで初めて舞の存在に気付いたような訝しげな面持ちがあった。これからどうすべきか思案するその表情がそのまま残っていたせいかもしれない。けれど……舞は急に不安になった。なんだか司が別の人間に変わってしまったような気がして。舞のなかでは、恐怖よりも困惑が先に立った。一体なにが起こっているのか。どうして司はこうも自分に追ってくるものを見せまいとするのか。司はどうしようというのか――どんな世界の変質が起きて、舞をこんな見知らぬ土地にまで押しやったのか――馴染みあるのはつないだままにしている掌の温度だけだ。幼い日に道に迷った舞の手を引いてくれたあの日から、たった一つ変わらないもの……
「とりあえず、ここを降りるぞ」
司はまるで人に聞かれることを憚るように静かに言葉を区切りながら言って、手を離すと、舞の左肘のあたりをそっと押して先に進むよう促した。舞は従うしかなかった。どんなに普段と違っているとはいえ、司は司なのだから。舞は崩れかけている石段から足を踏み外さないように慎重に、けれども足早に降りていった。途中であやうく足が滑りかけたときなどは、司が思わず声をあげそうになる口元を片手で抑え、もう片方の手で舞を支えてくれた。濡れたような照葉樹の葉は斜面をくだるごとにその照り返しのなかにすら陰気な色を募らせた。舞は時々、はためくセーラー服の隙間から風に撫でられたというのでもなしに、背中に悪寒を覚えたが、次第に目に見えて焦りを浮かべてくる司の、いつもならば震えてしまうほど間近にある体から発せられる熱気が、そんな寒気を断ち、薙いだ。まるで舞が振り返ることを制止しているかのようでもあった。木漏れ日が二人の頬に落とす模様はめまぐるしく変化していた。息をはずませながら懸命に足を動かす舞は、延々と続いていく石段と森の景色のなかにもはやなにものをも見出せなくなっていった。
黒く塗られた古い鳥居が立ちはだかって、ようやく階段は終わった。舞は一息つこうとしたが、司はそれを許さなかった。舞を後ろから抱えるようにして走り出すと、鳥居をくぐってすぐ左脇、参道をはさんで手水舎の向かい側にぽつねんと置き去りにされた社務所の裏側へとまわり、扉をこじ開けようとした。廃神社に誰かがいたずらすることを恐れてか、扉は内側から閉ざされているようだったが、もう大分古いこと放置されているようなので、舞が介添えするとガタンと大きな音をさせて開いた。舞と司はしばし音の大きさに固まった。椨の木に囲まれた境内のひらけた空に、音は吸い込まれてそこから雨のように地上にばらまかれていくようだった。遠くで鳥たちがざわつきながら飛び立つような音が、聞こえたような気もした。
司は舞を社務所の中に引きいれた。薄暗い社務所の隅に、舞はしゃがんでいるように言われた。中はがらんどうで、床板が剥がれかかっているうえに埃を被って白くなっているのが、格子窓から差し入る日の光に照らされて見えた。多少じめついて、古びたにおいがしたけれども、長い間放置されていた割には清潔な部類だろう。少なくともこの緊急時にあたって制服のスカートで腰をおろすのを躊躇うほどではなかった。舞は格子窓の真下、参道を臨む方の隅に座らされたが、司が自身は腰をおろさないでどこかへ行こうとする素振りを見せると、慌ててその袖に取りすがった。
「待って!どこいくの、司?!」
司はしっと指を口にあてた。司は腰をかがめて外から格子窓越しに姿が見えないように注意していたが、直後に素早く顔をあげて外を確かめ、また身を縮めた。
「舞、静かにしてろ。絶対大丈夫だから」
「大丈夫ってなにが?……どうしろっていうの?!教えてよ、ほんとに、なにが起きてるの?司はどうするの?置いていかないで……!」
「舞……」
司は舞の両肩に手をかけた。舞の翡翠色の瞳がその色をぼやかしながらも司の瞳にぶつかった。司の顔は変わらず蒼白で、その意識は今明らかに舞の上から離れていた。それでも、今この一瞬、舞が唇を噛みしめたその一瞬、司の目の中に確かに舞が映り込んだ。そしてその輪郭には、切ないほどの強くこまやかな愛情が隠し切れないほどに明瞭に滲み出ていた。もしこんな状況下でなければ、舞は確かにそこに、ここ数年来の悩みに対するひとつの終着点を確かめ得たはずだった。喜ぶことも悲しむこともできない舞は、司の指が痙攣したように震えるのをセーラー服越しに感じて、そっと持ち上げた手を司の二の腕にあてるだけだった。
「司……」
「……絶対に外を見るな。このまま座ってるんだ。たとえなにが聞こえても、動くんじゃない。物音もたてるな……なにが起きてるかわからなくて怖いだろうけど、終わったら全部説明するし、舞が心配するようなことはなにもない……いいな?」
「でも……!」
司は舞の額の上からそっと自分の掌をかぶせて瞼をやさしく閉じさせた。司の手はそのまま滑って舞の雛人形のような精緻で小さな鼻先をこすり、薄い唇に触れた。舞の顔から手が離れる最後の時、司の人差し指はなごり惜しげに舞の下唇の上で逡巡していた。舞がうっすらと唇を開くと、ようよう離れかけた指先にあたたかな力が添えられてきて、下唇を押し上げた。舞はその感触はきっと唇と唇で触れ合うよりも甘美だろうと思った。
「耳を塞いでろ。そう、それでいい。じゃあ、いい子で待ってろよ」
私、子供じゃないったら――もし、あの清らかな接吻の感触に舞がこれほど感動し、それをこれほどまでに愛おしんでいなければ、そんな言葉もついこぼれたかもしれない。舞は恐怖と不安と困惑の頂点に見つけた愛が、春のように舞に慈雨を注ぎ込みはじめたの見て(あるいは聞いて)、埃っぽい廃神社の社務所には全く似つかわしからぬ幸福に酔いしれていた。そうすることができたのだ、司のおかげで――司が扉をそっと開き、そっと社務所を出ていくのを薄く白い掌を透かして聞こえる音と気配とで感じたときも、舞は手に入れた幸福を疑おうとはしなかった。司を信じよう。司を待とう。司の言う通り、なにも危ないことなんてない――これらのことを信じて待つことはどんなに楽しいことか。二人の関係の変化を嘆き、拒もうとした十数分前までの舞はどこにいったのか。どこかへいってしまって、本当によかった!舞は司の言いつけどおりに耳を塞ぎ、目を閉ざして座り込みながら、もう身の危険などということをほとんど案じもせずに、桜色の未来を描き続けた。私は幸福になれるんだ……!司が戻ってきさえすれば……
しかし、そう長いこと暢気に夢見ていられるほど、舞はロマンチストでもなければ愚かでもなかった。確かに乙女のロマンと俗に称されているものはやはり舞の中にもあって、ややもすれば命が危険にさらされていることにさえもときめきを感じかねないほどのロマンティシズムに、舞は十三歳の少女らしく浸っていたのである。しかし、五分と経たないうちに、幸福も陶酔もたちまち消え失せた。現状を省みようとする冷静な理智と不安とが再び萌してきた。あれからなにかが変わった様子はない。司はどうしてこんな人気のない場所に舞を一人で置いていくような真似をしたのだろう。どんな危険が後ろから迫っていたとして、少女一人を廃神社に放置する方が――それも目も耳も使わないようにさせて――よっぽど危ないと思うのだけれど。大体司はなにから逃れ、なにに立ち向かっているのか。どうしてなにひとつ舞に教えようとしないのだろうか。
舞の手は剥がれ落ちた。なにも聞こえない。恐ろしいほど静かだ。いや、鳥の声がしているかもしれない。木々の枝先を風が撫でているかもしれない……舞はこの神社に伝わる噂話をにわかに思い出した。廃神社にはよくないものが寄り集まるという。この場所だって例外ではないのだ。もちろん、こんな昼間にとは思うけど。
(このまま司が戻ってこなかったらどうしよう……)
舞は目を閉ざし続けることで、恐怖と戦おうとしていた。目を開けてしまえば、司が指先で残していった庇護のしるしのようなものがなんだか解けて消えてしまいそうな気がしたのだ。
(このまま夕方になったら?暗い中一人で待つことになったら?そんなこと耐えきれない!なにより司は大丈夫なの?危ないようなことをしていないよね……せめて司が事情を説明してくれれば、私にだってどうやって行動すればいいのか考えられたはず。それとも私はばかだから無理だっていうの?司、はやく帰ってきて。こんな風に考え続けなければならないなんていや。お願いだから、はやく帰ってきてよ。まさか、司、死んじゃったりしないよね……?)
舞はとうとう耐え切れずに薄目を開けた。それから、思い切って全部の目を開けてみた。先ほどとなにも変わらない、白けた廃神社の社務所の内部。よくよく見ていると、天井の隅にはクモがたくさん巣を張っている。それが風にかすかに揺られている。クモの巣というものが、理想通りに完全な形で柱や桟や天井に渡されているのをみると、あの冷やかな糸で拵えられた平面はそこだけ空間を切り取ろうとしている刃のように見える。羽虫や蝶の世界はたしかにそこで切り取られている。
舞は空いた手で膝を抱えた。目を瞑っているより目を開いている方がましだということがわかった。なにもわからないのは耐えられない。たとえ社務所の中だけであったとしても、見えている方がいい。しかし、何かが起こっているという気配がまるでないのはなぜだろう。司はどこに行ったんだろう?舞をからかっている訳ではなさそうなのに。
(からかわれててもいい。その方がずっといい!私を笑いたいんなら好きなだけ笑ってほしい。こんな風に司の言いつけを守っておびえている私を今この瞬間は笑っててもいいから、この次の瞬間にはでてきて!みんなで顔を出してよ!司、美佳……他の友達が一緒でもかまわない。ほら、今!ほら、今!……さあ、次の瞬間には、みんな笑いながら出てくるはず)
しかし、楽しげな笑い声はついに起こり得なかった。舞は床に直に座っているせいでお尻のあたりが痛くなりはじめたのを覚えた。正座には慣れているけれど、段々と足も痺れはじめてきた。つまりは、もう全てがほとんど限界を指し示していたのである。
舞はなにも考えずに膝をたててみて、瞳の端になにか閃いたのに気づいてから司の警告を思い出した。舞は慌てて身を屈めたが、外から舞をうかがっているものはなにもないようであった。それに、何も分からないままでいるのは嫌だ。司を探しにいこう。もし民家があれば、そこで事情を話して助けてもらおう。電話も借りられるから、家にも連絡がつく。よく考えれば始めからそうすればよかったのに、なんで司はそうしなかったのだろうか……
舞は完全に慎重さを捨てきれないままでいながらも、少しずつ格子窓から頭をのぞかせていくようにして外の景色を窺った。砂利のない、剥き出しの土の参道。舞が見て左手の奥にもうほとんど壊れかかっているはずの拝殿、右手側に鳥居と石段。ちょうど参道の奥に手水舎が見える。屋根は朽ちていて木製の骨組みだけが残っているがそれさえもすでに傾きかけ、竹の柄杓だったと思しきものがたった一つだけ、転がっている。石の水盆は黒ずんでいて半ば苔が生え、元々あった水なのかそれとも雨水が溜まったのか、水面が揺れて日差しが描く模様を遊ばせているのが見える。先ほど閃いて見えたのはこれだったのだ。その水面に、すぐ隣に植えてある椿の花弁が零れていて、その色がなんともない水を匂い立たせるかのように舞の目には見えた。舞は椿の花に目を移した。真紅の椿の彩だけが、この陰鬱な緑に噎せかえりそうな神社のなかでたった一つ、舞の目を楽しませるものであった。舞は咢ごと落ちてその根本に輪を描いて散り積もっている花の死骸から生きた花へ、艶やかな緑の合間に点在する花の色を追って、目線を椿の木の上へ上へと伸ばしていった。
椿の木は朽ちかかった手水舎の屋根の柱とほとんど同じ背丈であった。ふと、舞は椿の木に手を差し伸べかけているような隣の椨の枝へと目をやって、そこにも紅の影が揺れていたので驚いた。椨の枝に椿が咲いているだなんて。舞の耳が水滴の固い葉の面に弾ける静かな音に目覚めるとともに、舞はその紅が上枝から滴り落ちてきて供給されるものだということに気付き始めた。
突如、あの悪寒が戻ってきた。
どさっという鈍い、重たい音がして、椿の木に何かが落ちてきた。椿はその重みに抗って激しく花を散らしながら、枝をしならせ軋ませながら、そのなんだか全体的には白っぽいものを、手水舎めがけて振り落した。小さく水しぶきがあがり、水盆から水が溢れだした。まるで、つい先ほどまで停滞していた運命の残酷な力が、今この時、再びほとばしり出たかのように。
「あっ……」
格子窓が、舞の顔に縦縞模様を作っている。大きく見開いた瞳にも細長い橋のような影が渡されている。司の手でやさしく閉ざされたときは桜色に色づいていた唇は、今は無残に、まるでこの廃屋の色にそそのかされたかのように色を失い、歪んでいた。舞は喘ぎ、後ずさった。壁にたてかけていた鞄が倒れた。舞は後ろに倒れるのが嫌さにほとんど無意識のうちに格子窓の方にもたれかかったが、そのためにそれまでならばどうにか見間違いだとして否定できた現実をはっきりと認めざるをえなくなってしまった。
「つ、つか……?」
司は右腕を水盆の内に浸して、その苔の蒸した縁に頭をもたせかけていた。左腕は力なくぶらさがり、足は椿の花の溜まっているあたりに投げ出されている。開いた目が今はほとんどなにも映さずにこちらに向けられていたが、目線をもたげるほどの力もないのか、社務所までは行き着かないで、参道の乾いた土の上を見つめている。あふれ出る水盆の水が最初は花のために、それからやがては司の袖口から流れ出るもののために赤く染まっていくのを見て、舞は、司の腹の真下あたり、ちょうど司の体と石盆との影が重なっているところにも滴り落ちているものがあるのに気づいた。それは次第に花の色に紛れていったけれども……
「つ……つかさっ!!!!」
司の背中が呼吸をしようとして微かに動いた。その瞳が舞を見た。弱り切った体にはふさわしからぬ激しい感情の輝きを宿していた。乾いた唇が舞の名を呼ぶ。途切れた言葉だけが舞の耳に届いた。それを聞いたときから、舞の眼差しは、なにかおぞましいグロテスクなものを眺めるものから、愛しい人の悲劇を悼むものへと立ち返った。舞は司の元に駆けつけようと、身を翻しかけた。
「や……めろ……!」
司の言葉にというよりは、司が地面の上に転がり落ちた音に気付いて、舞は振り返った。司は土の上に倒れ込み、激しく咳き込みながらも驚くべき精神力で立ち上がろうとしていた。舞が見かねて再び向かおうとすると、司は渾身の力を振り絞ったかのように鋭い声で叫んだ。
「来るなッ!!」
しかし、舞はもうじっとしていられなかった。忍耐の時は過ぎた。もう限界だ。立ち上がろうとしている司のワイシャツの腹の辺りが真っ赤に染まっているのを見た後では。舞は社務所を飛び出すと、もう無駄だと知りながらも舞を留めようとして必死にこちらに向かおうとしている司の元に駆け寄った。司はようやくのことで右膝を突き、震える右腕で地面を突き放そうとしていた。舞は再び倒れ込んだ司の体を抱きとめた。司の背中にまわされた舞の両手は濡れていた。
「司、しっかりして!動いちゃ駄目!!」
「逃げろ、はやく……!」
「一体どうしたっていうのよ?!……司、いやっ!ねぇ、お願い、駄目よ!司!!司ぁっ!!!!」
興奮し、怯えきって、舞は司の名を呼び続けた。司がわずかに残ったその力を消耗してまで舞に伝えたい言葉を――あるいはそれを言いたいがために奇跡的なまでの精神力を保ち得ている言葉を――掻き消すほどに、舞は司の名を叫び、そして泣き、司の体をきつく抱いた。なにが起こったのかわからないために、舞はいよいよ理性を失ってしまった。今目の前で起きている出来事がわからない。わからないけれど、とにかく認めたくない。司が死んでしまう……!そんなことは嫌だ。絶対に嫌だ。そんなこと起こる訳がない。この平和な、退屈なほどに平凡なこの町の日常で。今まであんなに満ち足りていたのだ。絶えず水面をゆすぶられてはいたけれど、舞の中には愛すべき生活の精神のようなものがあった。どうしてここで全てあふれだして、涸れはててしまうのだろう。
(ありえない……こんなことありえない……)
舞は司の頬に頬を寄せて、司の体をますます強く抱きしめた。
(死なないで、司……こんなことは夢よ!)
「舞……」
どさりという音がした。なんだか聞き覚えのある――舞は途端に心と体とを包んでいた狂気の熱が冷水を浴びせかけられたかのように突如さめゆくのを感じた。それは舞の背後にいた。二人を追い、司を襲い、かくも傷つけたそれは。司が低く呻いた。
「舞……」
司が再び呟いて、舞の頬に手を当てた。乱れた、か細い呼吸をしながら、そんな些細な行為さえも辛そうに舞を見上げる司の顔に、物狂おしい夕日が宵闇に遠く押しやられるときの空の色にも似た、絶望と諦めとそして舞への愛情とが入り混じった表情を、舞は見た。
「逃げろって……言ったのに……」
「……司を置いて逃げられなかったの…………」
舞の声はたちまち司の言葉からそっくり受け継いで哀調を帯びた。その眼差しも。舞は司の言葉に、全ての終わりを悟ったのだ。司は死ぬ。舞も死ぬのだ。悩み笑い揺蕩い続けてきた短い人生が終わる……
司は舞の後頭部に左手を伸ばして、自分の肩へと押し付けた。きっと、舞が振り返らないように。舞はこれまでとは違う性質の涙をこぼしながら、死の恐怖をこらえるべく必死に歯を食いしばった。体が震えた。逃げ出せることなら逃げ出したい。でも司が一緒でなければ無理だ。一人で逃げるなんてありえない。でも、司は起き上がることすらできない。司の命はすでに尽きかけている。素人目に見たって、司の傷が深すぎることぐらいはわかる。だから、舞もまたここで死ぬのだ。
(こわい……司が一緒なのに。まだ死にたくない。まだやってないことが沢山あるのに……お父さんやお母さん……お姉ちゃん……美佳……みんなにもう二度と会えないっていうの?つい一時間前まで、なんともなかったじゃない……いや、死にたくない……!)
すさまじい力で地面に投げ倒され、叩き付けられたのはきっと「それ」の仕業なのだろうと、舞は思った。舞は額を土の上に打ち付けた。世界が旋回した。視界が白と黒に激しく移り変わり、頭ががんがんと疼いた。
「逃げろッ!!!!」
視界も定まらぬなかで聞いた司の声はかすれ、それ故に鬼気迫るものがあった。その時、舞はようやく自分を投げ飛ばしたのが他ならぬ司であったことを知った。舞は二人が抱き合っていたところから拝殿の方へと数メートルほど近づいたところに、自分の姿を見出した。そして、元いた場所では、司がおぞましい怪物と対峙していた。おぞましい怪物――全くそうとしか説明のしようがない。
「それ」は、濃い灰色の被毛に覆われた生き物で、全体的には狼によく似ている。ただ、狼を含む自然界の生き物たちがまだしも持ち合わせている愛らしさや頼もしさのようなものは皆無であり、自然界の倫理を大きく外れすぎた悪意の化身に他ならない。大きく裂けた両耳のすぐ下から羊のように渦を巻いた黒い角が猛々しくも宙に突き出ていて、小さな凶悪そうな目は赤く燃え、口元には鋭い牙が剥き出しになっていた。
舞は声を失い、その場に竦みあがってしまった。かくも恐ろしい怪物に対して司が持ち得る武器といえば、先ほど舞を突き飛ばしたすきに咄嗟に拾ったらしい朽ちかけた柄杓ひとつであった。舞の目には、その柄杓が司自身の姿のように見えた。傷つき、命尽きかけ、それでも怪物に立ち向かわなければならない、司の姿に。
「……駄目っ!!!!」
舞が立ち上がったとき、すでに全ては遅かった。司の体は怪物の角に突かれて撥ね飛ばされ、大きく宙を飛んで、手水舎の裏に落ちた。しかし、司もただで転んだ訳ではなかった。柄杓の柄が朽ちかかっているためにその尖端が錐のようにとがっていたのを、司は怪物の目に突き刺したのだ。怪物は恐ろしいうなり声をあげながらもだえ苦しみ、土の上を転がった。だが、たとえ怪物が舞に向かっていようとも、舞はたまらず司の元に駆け寄っただろう。
司は椨の木陰に静かに横たわっていた。静かに――そう、もう何の音もなく――舞はそれを認めるまで、司の名前を呼び、体を揺すぶり、胸に耳をあて、水盆の水を手で掬ってその頬にかけ……甲斐のない努力を、すなわち司の生を確かめようとする努力を続けた。しかし、制服が血と水に濡れて重たくなるころに、ようやく自分の行為に果てのないほどの意味のなさを見出した。それは永久に意味のない行為であった。司は死んだ。舞を救おうとして。否、司は舞を救った。怪物はまだ舞に向かってはこない。逃げようと思えば舞は逃げられたのだ。
「……司を置いて逃げられなかったの…………」
舞は同じ言葉を繰り返し、司の隣に膝を落とした。舞は司の頬に手をあててその顔の上に屈みこんだ。土と血に汚れた顔を、舞は必死に水で洗い流したのだ。それでも司は目を覚まさなかった。目を閉ざした司の顔は疲れ果てて眠っているかのようだ。世にも信じがたい悪意との邂逅のために、命を落としたとはとても思えない。
(ああ、司……死んでしまったんだ……)
涙も出なかった。世の中が突如として沈黙と空白とに立ち返った気がした。耳を塞ぎたいほどの沈黙と、目を瞑りたくなるような空白とに。多分この世というものは、舞と司の間を隔てているわずかな空間に凝縮されてしまったのだ――だって、それ以外のものがあったとして、なんだというの?
舞は司の手をとった。重ね合わせた掌は確かに温度を作ったけれど、それは舞は確かめたいと思っていたものとは異なりすぎていた。幼い日の思い出がもはや生の残骸としか思われないほど、虚しくちらばってしまったのと同じように、その温もりももはやなんの意味も持たなかったのだ。舞は、この手のために生きてきたというのに。この手が冷めないように、ただそれだけのために、二人の関係が変質することさえも恐れていた。それなのに、こんなにも無遠慮に手を重ね合わせられる、今となっては……
うなり声が舞を振り向かせた。痛みからようやく立ち直ったらしい怪物は、右目に柄杓の柄の残骸を突き刺したまま、血をしたたらせ、凄まじい憎悪で舞を睨みつけていた。怪物が身を屈めた。恐らく、舞に飛びかからんとするがために。しかし、舞はもう逃げようという気力さえ起らなかった。
(死ぬのはいや。それは変わらない……でも生きようと思えない……司を失ってしまっては…………)
舞の脳裏にひとつの言葉が響く。うたた寝の中で聞いた言葉。あの夢を見たのは、今日の昼間だった。なのに、遠い昔のことのように感じられる。そうだわ、だって、あの夢の中の出来事は遠い遠い出来事だったんだもの。
「幸せに、なって…………」
舞は大きく目を見開いた。涙が一つ頬を伝った。
「私……!」
その時、手の甲に零れ落ちた涙の雫が俄かに光り始めた。懐かしく、愛おしい色。司との思い出が詰まったこの町の象徴である桜の花の色に。そうして、全てが桜色の光に包まれた。