第十四話 夢と現(上)
白崎ルカが空っぽの防音室で篝火と出会う、その十分ほど前の出来事である。柏木武とルカの伯父・ドミトリーは、白崎家の豪壮な廊下を並んで歩んでいる。共に長身ながら、片や肩幅の広い体躯のよい黒いスーツ姿の男性、片や針のような痩身の白衣の男性とで、傍目から見る分にはこの二人が並んでいるのは異質である。しかし、今この時、二人の男性の表情には共になにかしら緊迫したものが漂っていた。二人は足早に廊下を過ぎていく。
「すまない、ドミトリー・ドミトリエヴィチ。共犯者に仕立て上げてしまったようだが。事は一刻を争うんだ」
柏木の言葉に、ドミトリーは気難しげに唇を引き結んだ。
「決して勝手な思いから言っているんじゃない。それを分かっていただけると嬉しいのだが」
「いや、わかっているとも。あなたのことを、実は私は高く評価しているんだ。我が姪への態度はいただけないがね」
「その辺りは堪忍していただきたい。あなたの知らないところで、色々あったのだ。彼女とはね」
四階まで階段を上りきるか、きらないかというところで、不意に柏木は足を止め、ドミトリーをも制止した。足音を立てぬように慎重に最後の一段を踏み込むと、柏木は黒い瞳を鋭く赤い絨毯を敷かれた廊の、目の届く範囲に走らせる。曇り空を窓が透かして、まだこの時間には灯りをともしていない廊下は、靄のような白い光でぼんやりと照らし出されている。窓の格子が十字型に白い壁に映り込んで、立ち並ぶ墓標のように見えることに、ドミトリーはその時初めて気づいた。なんだか不吉である。義弟はそういうことに無頓着な男ではなかったはずだが。ドミトリーは唇の上の銀色の髭を撫でた。
「……どうしたんだね?」
ドミトリーが低い声で尋ねると、柏木はスーツの上着の裏側から慎重に銀色に光るものを取り出した。銃弾が装填されるその微かな金属音を、ドミトリーは知っている。母国から母と妹と共に逃れてきたときの、少年時代の思い出のうちに幾度も聞いた。また、この平和な国でその音を聞くなんて。
「敵の気配がする……気をつけてくれ。その場で待っていてほしい。私が防音室を見てくる。もし、万が一のことがあればすぐに逃げてくれ」
「時と場合によってはそうしよう」
柏木は迅速に、かつ静かに、獲物に忍び寄る黒豹のような物腰で防音室へと近づいていくと、徐に扉を開けた。階段の最上段でその後ろ姿を見守っていたドミトリーは、扉が閉まるその直前、確かに銃声を聞いた気がした。ドミトリーはその瞬間、防音室に向かって駆け出していった。
「どうしたんだね?!」
覗きこんだ部屋の中では、扉の真向いの壁にめり込んだ銃弾が煙を立て、チャイコフスキーの交響曲が始まりのアダージョのもの悲しい旋律で、低く唸っていた。床と壁とに赤黒い血が飛び散っていたが、柏木は無傷なようで、寝台の上から玲子を抱きかかえていたところであった。乙女は、まるで眠っているかのように柏木の胸に首を凭せ掛けている。その腕が力なく宙に落ちて揺れている。柏木はドミトリーを認めるなり、急いで駆け寄ってきて玲子を預けると、銃を構えて部屋の四隅を見渡した。その姿勢のまま後退しつつ、柏木は微かな手の動きで、ドミトリーに部屋を出るように指示した。
ドミトリーが玲子を抱えながらもなんとか扉を開け、二人は共に部屋の外に転がり出た。二人は示し合わせたように廊下を駆け抜け、階段を下り、美味しいプリャーニクが出来たと自慢しようと出てきたソーニャを唖然とさせながらその前を通り過ぎて、屋敷の裏口から戸外へと出た。柏木が背後を警戒するなか、ドミトリーは肩に玲子の体を載せて片手で支え、片手で柏木が投げて寄越した車の鍵を受け取ってロックを解除すると、まず後部座席に玲子の亡骸を寝かせた。ドミトリーが助手席でシートベルトを締めている間に、柏木も遂に意を決したらしく、銃をしまって車へと駆けつけ、運転席に身を投げ込んだ。すぐに車は動き出した。白崎家の広大な駐車場を抜けて、車は裏門より桜花の町に飛び出していく。車が門を過ぎるのを待って、ドミトリーは尋ねた。
「なんなのだね?一体何があったのかね?!」
「敵がいた……!狐のような形をした少年だった。咄嗟に頭を狙ったが外れて肩に当たった。まさか死んではいまい。恐らく漆に飼われた妖の類だろう。それもなかなかに性質の悪い……!」
「花魁の次は狐ときたか。受難が絶えぬな、全く。しかし、やはりあなたの読みはあたったな。タイミングも完璧だった」
「読みもなにもあったものじゃない……!敵はルカの奴に気付いて偵察していたんだ。私は防音室の前で見かけた葛の葉は、恐らくあの狐のものだろう。ルカの結界は今まで戦ってきたような敵を想定しているから、あの狐のような奴の術には効かないんだ。だから、敵も新しいのを雇ったりしたんだろう……敵は当然あの部屋に何が隠されているのか気になったはずだ。それで覗いてみれば、四神の少女が眠っている訳じゃないか。それも、我が身を守る事もできないようなお姿で……!敵がお嬢様を狙うと見るのは当然だろう」
柏木は腹立たしさを紛らわせるようにアクセルをいよいよ強く踏み込んだ。仮にも市長の車だぞ、とドミトリーはよっぽど注意してやろうと思ったが、そのハンドル捌きを見るうちに、余計な忠告は不要なように思われたので、やめた。ドミトリーはちらりとバックミラーで後部座席を覗きこみ、一度は前方の信号へと目を戻した後に、もう一度、鏡を見遣った。気のせいだろうか……少女が今、動いたような気がしたのは。ただ車の振動を受けただけであろうか。そうだ。そうに違いない……
眠る少女の頬に、つと涙が伝って、車の座席を濡らす。
「……ひめ、さ、ま…………」
また、だ。また――舞はその内側あるいは外側に業火の存在をほのめかしている闇の中を駆け抜けている。それは暁闇であるのか。それとも濃く成りゆくばかりの宵闇であるのか。将又、永久に解けぬ地獄の闇であるのか……
舞の手を引く人がいる。彼、もしくは彼女の後ろ姿さえ、闇の中ではおぼろげで、舞の目にははっきりとしない。舞は走り続けなければならない気持ちに煽られると同時に、立ち止まらなくてはならないという痛いほどの心の叫びに苛まれていた。しかし、何度足を止めようとしても、先導する人は手を緩めない。足を緩めない。その人の苦しい息遣いが聞こえてくる。
(もういいの……!)
口にのぼせることは出来なかった。舞はまた立ち止まりかけたのを妨げられて、口惜しさのあまり前を行く人の手をきつく握りしめながら、ただ胸の中で叫ぶ。
(もういいの……!戻ろうよ。そうしなきゃ……そうじゃなきゃ…………!)
舞の頬を涙が伝っていく。
「幸せに、なって…………」
目の覚めた舞は、いつも通りの朝の寝室に横たわっていた。窓からは朝の日差しが差し込んで、舞が今朝最初に映し出すものたちを祝福するように照らし出し、左大臣がクローゼットの中で鼾を立てている、そんないつも通りの朝に。携帯電話を見ると、アラームが鳴るちょうど一分前であった。舞はアラームをさっさと解除してしまうと、ひと時ばかりの猶予を、夢のことを思い出す時間に充てた。
同じ夢を見たのは、確か四月十二日――それも、時間が巻戻り、司の性格が豹変してしまう、その日より前の四月十二日のことであった。あの時、舞は授業中の居眠りに紛れてこの夢を見た。そして、国語の教科書の裏でなぜだか涙を一滴だけ零したのである。
舞は頬に手を充ててみる。今日は泣いてはいないようだった。けれども、夢の中の心地を引き摺っているのは、あの国語の授業の時と同じである。どうしてこんなに切ないんだろう。どうしてこんなに寂しいのだろう……あの夢が、前世の記憶であるからなのか。舞は起こした上半身を屈ませて、まだ布団の中に潜ったままのパジャマの両膝の間に顔を挟んでみた。思いだせるだろうか――舞は目を閉じる。舞の手を引いていたのは誰?舞がいたのはどこ?そして、幸せになってと舞に次げたその人は、手を引いていた人と同じだろうか……?
どうしたって思いだせない。だからこそ、舞には引っかかる。なにかとても大事なことを忘れている気がするのだ。決して忘れまいと心に誓ったようなことを。私、そうだ、とても大事な人のことを忘れている……
舞ははっと顔を上げた。いけない、いけない。思いだそうとしている間につい眠っていたみたいだ。洗面所まで出て顔を洗い、髪を丁寧に梳ってから、夏服に着替えた舞は、クローゼットをこんこんと叩いて左大臣に声をかける。
「おはよう、左大臣!朝ごはん食べにいってくるね!」
「……それで、あの結城っていう男子と、舞はどういう関係なんだ?」
「だから、ただのクラスメートだって!」
先週の金曜日に司が舞を送ってくれたのは、単なる義務感からであろうと舞は考えていたが(舞としてはそれ以上のことを期待しなくもなかったけれど)、「偶然にも」二階の窓から二人の遣り取りを「目撃して」いた父親はすっかり不信感に取り憑かれていて、ここ数日は邪推が服を着て歩いているようなものだった。舞にとってはこんなことは初めてなので、朝食中も不機嫌そうに、いつもの習慣で新聞だけは広げながら、コーヒーとトーストに手を付けるよりまず先に末娘に尋問を開始する父の姿は、意外でもあったしおかしくもあったが、それ以上にうんざりしていた。舞の感情は、京野家の女たちの中ではすっかり共有されていた。姉のゆかりはまた始まったとばかりに呆れた顔をしながらソーセージにフォークを突き刺し、母の方は「いい加減にしてくださいな」と言いながら、舞を積極的に擁護してくれた。
「ですから、何度も言ってるでしょう?あなただって知ってるはずじゃないの。結城君は、舞の幼馴染で……」
「幼馴染だったのは昔の話だろう。お父さんは、今の話をしてるんだ」
「だから、今はただのクラスメートだってば!」
「信用できるか!お父さんは認めないぞ!中学生の不純異性交遊なんて……!」
「ふ、ふじゅ……?」
「どこが不純なんですか?」
「そうそ、家族ぐるみの付き合いじゃん」
不純異性交遊の意味を理解しかねている舞のために、母と姉とが反論してやる。すると、父親は、新聞を投げ捨てて演説を始めた。
「いいや!不純だ!中学生の男女が二人きりで夜道を歩くなど……!いいか?父さんと母さんはな、お互いに出会うまで他の異性とは手もつながなかったんだぞ!そういうことをするのは、結婚すると決めたその人だけだ。それが清く正しい恋愛というものだ!それなのに今日の中高生ときたら……!」
「ちょっと、戦前の人間は黙っててよ」
「誰が戦前だ!」
「考え方が戦前じゃん」
ゆかりは、普段は仲のよい父親に対しても容赦なく言い放って、ジャムのついたトーストをかじった。舞は家族の論争にやや気圧され、父親に軽い反感を抱きながらも、それでも優しい娘の心の常として、父親の意志を尊重することにし、困ったような微笑に全てを包み込もうとする。
「まあまあ、お姉ちゃん。お父さん、わかってるったら。もう男子と二人で夜道を歩いたりしないよ……」
「はあっ?!あんた、何言ってんの?!せっかく共学に通ってるくせに?楽しいこと不意にするわけ?女子校なんかなぁ……!」
「ちょっと、ゆかり、食べながら喋らないの」
なぜか沸点を刺激されて大いに怒り始めたゆかりを、母親が諌める。それに勢いを得たのか、父親はふんと鼻を鳴らすと、再度舞に尋ねた。
「それで、結城という男子とは本当に何でもないんだな?」
「だから、ないっ!」
「それならよろしい」
舞は胸の中でこっそり父親に舌を出した――なにが、よろしい、よ。お父さんの石頭。分からず屋!普段優しいお父さんが、こんな風になるなんて思ってもみなかった。今度から気を付けようっと……そう、ばれないように。
「今日はいいお天気でよかったー!」
舞は薄曇りとは言えど、久しぶりに日差しを透かしている朝の空を見上げてぐっと腕を伸ばした。町の中央を十字型に巡る大通りは通勤やら通学やらの車で賑わっているが、まだ時間は早いので、通り沿いにある店はシャッターを下ろしたままでいる。そのシャッターに落書きは見られない。桜の木は花盛りをとうの昔に終えて、花の終わりと共にその枝に芽吹きはじめた新緑は、青年らしい闊達さと健康美とに漲って、早くも夏の日差しを待ちわびているようであった――その焼け付くような激しい日差しに耐えうる若さとそれ故の無謀さを誇るかのように。舞は彼らからすればまだ幼い。舞は五月の青葉どころか、まだ四月の花盛りの風情を漂わせているのだから。
木漏れ日の差し込んでくるあたりを見上げていたせいで、舞は地面のちょっとしたくぼみに足をとられて転びかけた。すると、後ろから舞の襟元を掴んで支えてくれた人がある。舞はなんとか体の均衡を立て直すと、くすくすと笑っているその人を振り返る。
「おっはよ、舞。相変わらずで安心したわ」
「美佳!!」
美佳は大抵女子サッカー部の朝練があるので、登校中に美佳と出くわすことはさほどない。今日は舞が早いのか、美佳が遅いのか。舞が早いのである。
「今日は日直?」
「うん!美佳も朝練、大変ね!」
「べっつに。サッカー楽しいもん!」
「そ、そう……それならよかった」
二人がいつも通りの角を曲がって中通りへと入り、校門を潜りかけたところ。と、そこで美佳の肩を叩く人がいる。
「東野!」
朝練に向かう途中らしい東野恭弥は、エナメルバッグを右肩から提げて、あの悪戯少年のような女子をときめかさずにはいられないあの笑顔で、颯爽と舞と美佳の傍らを抜けて、中庭へと入り、少し二人を追い越した地点から後ろ向きになって手を振った。
「おい、佐久間!先に昇降口に着いた方が今日の昼休みに校庭全面使えることにしようぜ!」
「あっ、ずるい!」
ぽかんと恭弥を見つめていた美佳は、恭弥の言葉に我に返ったらしく、突如奮い立ったように跳びはねると、舞に何も言い残すこともなく恭弥を追って駆けはじめた。そんな美佳と恭弥の後ろ姿を微笑ましく思いながら、舞は胸中呟く――美佳は全然変わらないな、と。
すると、舞の肩を両側からそれぞれ叩く人々がいた。
「おはよう、舞!」
「やっほー舞ちゃん!
「あっ、おはよう!」
どこでどう一緒になったのか、仲良く登校してきたらしい翼と奈々に、舞は笑顔を浮かべる。
「今日は早いじゃん!どうしたの?」
舞の鞄の中の左大臣とハイタッチしながら、奈々が尋ねる。
「今日は日直なんです。翼と奈々さんは?」
「あたしは学級委員の集まり。奈々さんは進路面談なんだって」
「進路面談……!そっか、奈々さん、三年生ですもんね!たまに忘れちゃうけど……」
「そうそ、担任の先生がすっごい心配してさー。もっと勉強しないとダメだって。参っちゃったなー」
「奈々さん、頑張って!」
「そういう舞の方こそ、期末テストの勉強してるんでしょうね?」
翼の言葉に、舞はうっと息を詰まらせる。そういえば、期末テストが来月に始まるのだった。えーっと、確か……
「来週であと二週間になるんだっけ?」
「いやだー!」
泣き叫ぶ舞に、翼と左大臣とは呆れかえって溜息をつき、奈々はまあまあと舞を慰めようとする。
「なんでテストばっかりなのー?!遂この間テストやったばっかりじゃない!!」
「仕方ないでしょ、学校なんだから」
「翼は頭がいいからそんなのんきなこと言えるんだよ!!」
「勉強すればいいでしょ。あっ、そうだ、結城に勉強教えてもらったら?」
突っかかる舞の額を片手で抑えながら翼がにやにやと笑いながら言うと、翼に弾かれた舞は、みるみるうちに顔を赤くした。あまりの分かりやすさのためか、色恋沙汰に疎い奈々でさえ、思わず舞の変化を面白がって、感心までして眺めている。舞は顔色がピークになると同時に口を開いたが、言葉らしきものは一向に聞こえてこない。翼はそんな舞を見て、肩を震わせている。
「なに、想像してるの、舞?」
「そ……ソーゾーなんか……!」
「最近仲いいもんね!結城と」
「そ、そんなことは……!」
「えっ、そうなの?」
舞の言葉におっ被せるように訊く奈々に、翼は楽しげに頷いた。
「そうなんですよ!昨日もね、一緒に帰ってたもんね?ねー、舞?」
「あっ、あれはたまたま……!」
「それに、最近の結城、舞に『だけ』はなんとなく優しいし。英語の教科書まで見せてくれたんだもんね?よかったねっ、舞?」
「もう!翼だって東野君と一昨日……!」
「言うな!言うなったら!」
中庭の真ん中で追いかけっこを始める舞と翼とを、奈々とその腕の中に避難した左大臣とは眺める。「いやはや……」左大臣が呟く。本当にお変わりのないお二人だ。それはそれでよいけれど、もう少し成長してほしい気もするのであるが……奈々が指先でつんつんと左大臣の頬のあたりを突いたので、左大臣はテディベアの顔を上げる。奈々がその指で示した先に、校門を潜ってくる黒髪の少年の姿があった。少年は、遠目にも朝日に煌めいて見える宵闇のような薄紫色の瞳で舞と翼の追いかけっこを認め、小さく肩をすくめてからふっと笑ったようだった。ただ、それは、雲を透かしてわずかに薄氷のような光線を投げかけてくる太陽が地上に投げかけた、一つの奇蹟の形の幻であったかもしれなかった。左大臣の目には判然としない。
「ねぇ、結城って、あれ……?」
奈々が問う。そのおかげで、左大臣は奈々が結城司を知らなかったことに気付くことができた。
「おお、左様でございます。奈々殿、よくお気づきで……!」
腕の中から見上げた奈々の目は、結城司を捉えつつ、まるでその奥の景色を見つめているかのようだった。確かにその時、奈々は司の影を見つめていたのであるが。
「だって、あの人のこと、見たことあるもん……前世の夢の中で…………」
昼休みになった。一緒にお昼ご飯を食べようと誘ってくる少女たちを振り払って、ルカは一人になれる場所に腰を落ち着けた。生徒会室ならば、生徒会役員以外は誰も入ってこない。今日の昼には生徒会の集まりがないから、つまり、ルカは誰にも邪魔されることはない。帽子を机の上に置き、長い金色の髪を手櫛で軽く梳いてから、ルカは学ランの内側のポケットから携帯電話を取り出した。ルカの唇がわずかに白んだ。
彼女がルカの部屋から連れ出されたこと、そして今は町の最南端にある彼女の自宅でしっかりと護衛され、また看護されていることは、伯父の口から聞いた。伯父の憂慮をよそに、ルカは少しも驚かず、また怒りもしなかった。柏木の奴が無断で略奪に及んだことより、もっと大切なニュースに気をとられていたからだ――彼女が、玲子が、目を覚ました。その翌日、ドミトリーは白崎家に立ち寄って、妹と姪とのお茶の時間を楽しみ、ソーニャがプリャーニクを温めなおすために席を外した隙に、玲子の容態について語ってくれた――ごく順調。意識もはっきりしており、ドミトリーの質問にも言葉少なながらに答え、またドミトリーに質問を返すこともあった。何よりも、父親と対面したことが患者にとってはよかったようで、父親はもう一生会えぬかと思っていた娘との再会に涙を流して喜び、娘は「お父様……」とその一言に感動を押し込めて、父親の胸にひしと縋った。行方不明になった娘が、この二か月もの間どうしていたか、どのようにして家に戻る運びとなったかについては、柏木が上手く市長に説明してくれた。あの人は、市長の秘書として、そしてその娘のボディーガードとしても珍重されているだけあって、やはり伊達ではないのだと、ドミトリーが褒めたのは、いくらか彼を庇おうとする意識もあったかもしれなかった。
ただ、玲子の体は長い眠りの中でいくらか衰弱していて、自分の足で歩くことは難しいとのことだった。それもしばらく訓練すればじきに戻るだろうとのことではあったが。彼女は今、車椅子で生活をしているらしい。学校に復帰させるのは二学期からだと、その父親は決めていた。
あれほど目覚めの顔を乞うた人に会いにいくことは叶わなかった。敵がルカの後を付けて、玲子のことを探り出そうとするとも限らないからだ。敵が、玲子が場所を移したことを知っているかどうかは定かではないが、現時点ではなんの襲撃も赤星家を訪っていないのである。赤星家は以前より玲子自身の手によって結界が張ってあるからいくらか安心ではあるといえども、とにかく玲子の居場所を敵にわざわざ教えてやるようなことはしたくない。玲子はまだ戦いの時ではない。
それでも、電話ぐらいならよいだろうということで、ルカは今、玲子が目覚めてから初めて、彼女へ電話をかけるのである。誰にも邪魔されたくないのはそのためだった。指が震える――彼女の声を聞くことが出来ると言う昂奮に胸が高鳴っている。どうか落ち着いてくれ。震えた声を、上ずった声を、彼女に聞かせたくはないのだから。
赤星玲子――連絡先の最初に現れた名前を選択して、その電話番号を押す。呼び出し音がもどかしい。けれども、呼び出し音のおかげで少し落ち着くことができそうだ。四度目が鳴り終わった時、カチャっと電話の奥でルカに応じようとする音がした。
「……ルカ?」
もしもし、とも言わずいきなり名を呼びかける彼女。ルカはどうしたって、震えを抑えることができなかった。
「玲子……」
「久しぶりね。調子はどう?」
滅多なことで微笑まぬ彼女の声は、久しぶりの会話にも少しも調子を乱すことない。そっけなくもあるけれど、それでいてルカの耳を飽きさせはしないのである。ルカは答えるのに少しだけ間を要した。
「……どうかして?」
「いや、なんでもない。ただ、君が目覚めたんだって……たった今、実感が湧いたから……」
「随分とお世話になったようね、貴女には」
「そんなこともなかったけれど……」
「感謝するわ。私の体を守ってくれたことに」
私の体、玲子の体――ルカの脳裏に瞬時に浮かんだのは、首を捩じ切られ、体を二つに切り裂かれたかの幻想の風景であった。ルカを見つめる虚空の瞳、血だまりと見紛うばかりの紅の髪が床に流れて、鎖に吊り下げられた彼女の腕と胸乳からは血が滴って……あの光景は悪夢となってルカの枕元へと夜ごとにやってくる。その度に、ルカは激しい吐き気を覚えて目が覚める。今もまた、ルカは思わず口元を手で覆った。そんな異変を、電話越しの人は感じ取ったようであった。
「ルカ?」
(私は守れなかった……!)
ルカは唇に押し当てた指を噛みながら、自らを責めたてる。
(もし仮にあれが本物の玲子だったとしたら……!ああ、やはり私は無力だ。玲子を失わなかったのは、ただ幸運なだけだった。本当に玲子を守ったのは柏木だ。私は柏木にいつも敵わない……!私は、いつも先を越されてばかりで……)
「……辛かった、でしょうね」
呟くような玲子の言葉が、少しも同情を反映していない静かな彼女の言葉が、ルカの歯からその指を解き放つ。見透かされたのだろうか。この惨めな思いを。けれども、玲子が触れたのはルカの別の傷口であった。
「姫様の元に参上したかったでしょうに……すまなかったわ。それとも、もう参上したのかしら?」
「いや、その……まだなんだ」
「姫様とはもうお会いしたのではなくって?」
「会ったさ。でも、白崎ルカとして。白虎としてはまだだ」
「そう。でも、もう何も案ずることはないわね。私もいずれ、この足さえ治ればね。玄武の手を借りようかと思ったのだけれど、怪我でも病気でもないから、治療のしようがないのよ。おとなしくリハビリに励むしかないわ。お父様ったら。せめて電動車椅子にしてほしかったわ。私を軟禁するには不要だとお考えなのよ」
「それは君なりの冗談かい?」
笑うルカに、玲子はただ溜息をついた。玲子が父親の不満を漏らすなんて珍しい。玲子はそれきりしばらく黙り込んでいたが、ルカもまた何も言葉を見つけられぬうちに沈黙に帰してしまうと、ようやく初めてその言葉の端にさざ波のような感情らしきものをほのめかせながら、躊躇いさえも響かせつつ、そっと切り出す。
「……姫様は、お元気?」
分かってしまった。そう尋ねられた瞬間――最初から彼女の知りたかったのはそのひとつことばかりであったのだと。ルカの電話をとったのも、ルカの調子を伺ったのもきっと。否、それは穿ちすぎというものか。けれども、姫を想う気持ちはルカとて玲子に劣らない。そういう自負を以って、ルカは答える。
「ああ、とてもお元気だ」
「ご記憶は取り戻されたのかしら?」
「わからないが、まだだと思う。前世のことはあまり触れられなかったし、思い出されていたとしても、その……戦いのことはまだなのではないかと……」
電話越しにも、相手の人の顔が翳ったのがルカには分かった。
「……玲子、私は常々思うんだが」
「……なにを?」
「どうしても思い出さなければならないだろうか。前世のことを。四神である私たちはともかくとして、姫様は辛い記憶を思い出されないほうがいいような気がするんだ。辛いという言葉で言い尽くせる次元ではない。なあ、玲子……姫様はとてもお優しいお方なんだ。前世と何らお変わりない。私たちがあんなにも愛し、尊んだ可憐なお姿もそのままなんだ。姫様は……姫様はきっと耐えられない。あまりにも苛酷だよ。あんな戦い、あんな最期――姫様は何一つ罪を犯していないというのに。ただ、姫様は人間としてごく当たり前のことを求められただけなのに……!」
「それでもやはり思い出さなくてはならないわ」
玲子は迷う素振りすらなくそう言い切った。
「そうでなければ、姫様はきっと前に進めないでしょうから。ルカ、忘れないで。苛酷すぎるほどの前世があって、現世があるのよ。姫様はきっと耐えられることよ。姫様は、傍から見るよりずっと気高くお強いお方だから」
「君の目が覚めたら聞きたいと思っていたことがある」
玲子の力強い口調を受けて、ルカはそのまま話題を転じた。転じられながらもその実、話は一点で結ばれていたのだが。玲子の言葉の端々にまで滲み出ている京姫への想い、すなわち尊敬と愛情と忠誠とを、ルカは話題としただけであったから。その想い故の行動を。
「君は一体何をしたんだ?日本時間の4月12日……玲子、君は人生の二か月を犠牲にしてまで、姫様のためになにをしようとしたんだ。そして君は一体どんな奇跡を……!」
「奇蹟など起こしていないわ」
まるでそう言いながら自分を見捨てるかのように、玲子は静かな口調で答えた。
「いずれ分かるでしょう。私がとったのが最悪な手段だったと。でも今はまだ話せない……悪いわね、食事の時間みたい。またいつか」
「待ってくれ、玲子!」
通話は途切れた。ルカは玲子の声の代わりに聞こえるむなしく腹立たしい音に、思わず電話を机の上に叩き付ける。それでも、玲子に対してはなんら怒りを抱けないところに、ルカの優しさがあり、限界があった。またいつか、と彼女は言った。またいつか、それはいつなのか?私はいつも同じ問いばかり繰り返している……それはいつなのか?これまではずっと玲子が目覚める時を知りたくて、その問いを。今度は玲子に会えるその時が知りたくて、その問いを。
(玲子……君はなぜ私が近づくほどに遠ざかってしまうんだ?)
「会長……?」
ルカははっと顔を上げた。生徒会室の入口に立っているのは、薄色の髪を三つ編みにして左肩の上に流している、柔らかな美貌にしとやかな仕草とが香しい少女、生徒会副会長の北条院香苗である。香苗は苛つくルカの様子に動揺しているようであった。
「会長……あの、今……」
「すまない。また今度話そう、香苗」
立ち上がり、香苗の傍を通り過ぎながら、「今は一人にしてくれ」と囁くルカ。ルカはきっと、香苗ならば、ルカの心を汲んでくれるだろうと思っていた。今、この学園の中でルカを最も深く理解しているのは、この香苗であるから。
薄紫色の蝶が生徒会室の窓辺をひらひらと飛んでいるのを見たのは、香苗一人であった。ただ、香苗はさほどそれに注意を払った訳ではない。すぐさま生徒会室の鍵を閉めると、悄然として教室に戻ってしまったからである。
蝶はそのまま高く空へとのぼって、水仙女学院高等部の敷地一体を見下ろしたかと思うと、風になびく薄雲に翅をかすめるように町の西へと飛んでいき、桜花市西部の一画を占める白崎邸の広大な敷地の真上にしばし留まった。それから蝶は、触覚をぴくりと動かして、意を決したように少しずつ白崎邸に向かって降下していく。だが、白崎邸の屋根にいよいよその六つの足を降ろせるかという段になって、突如獣の咆哮が鳴り響くとともに荒々しい風が吹き抜けて、蝶の体を無残にも吹き飛ばしていく。蝶はダンテが旅した地獄で責め苦を受ける、肉欲の罪を犯した人々の魂のように、激しい風に翻弄され、やがて、町の南西を慎ましく流れる篠川のほとり、橋の欄干に身を打ち付けて、叢の上に転がった。橋の影の下で蝶は素早く身を立て直すと、川面に身を寄せて、その硬そうな口吻で清らかな水を吸い上げた。その間、薄紫色の翅は神経質そうに一定のリズムを刻んで開いたり閉じたりを繰り返していた。腹を空かせた蟷螂が一匹、獲物を見つけてその背後から忍び寄ってきているほかは、よもや水を吸う蝶の水面に映る姿を覗きこむ者はいない。水面にはどことなく能面を思わすような、美しいと同時にどこか恐ろしくもある白い女の顔を映し出している。
蝶は水を飲み終えると、口吻をゆるゆると優雅な仕草で巻いた。
「漆様、つまらない悪戯はおよしくださいまし」
「気付かれたか」
途端に蝶の背後の蟷螂は振りかざしていた鎌を下ろした。蝶はまたもや飛び立った。
「殿方は退屈するとつまらぬことばかりお考えになる」
「こんな寂しい島では、つまらない虫が畜生を操って遊ぶぐらいがせいぜいの娯楽だ。一人飛び立てるからといって、私を置いて行ってしまうのはずるいではないか芙蓉」
「漆様、一世一代のわたくしの復讐なのですもの。堪忍してくださいましな」
ある時、ふと気づいて、川の中に我が身を見つけた蟷螂はもはや溺れてゆくしかない。橋の欄干の上からそんな景色をせめてもの慰みにと見守りながら、蝶はまた薄紫の翅を動かした。鱗粉が辺りにほのかに飛び散った。
「それで、お前はどうするのだ?子狐は猟銃で撃たれたが痛さに忠義も忘れて逃げ出し、お前は重ねられた恥辱もまだ冷めやらぬときた。これから一体どうするというのだ、芙蓉?」
「無論、白虎を殺すのですわ」
蝶はその瞬間だけ、まるで電流でもその小さな身を駆け抜けるかのように、花弁のような翅を引き攣らせた。その翅の珍しい色彩に心惹かれていた小鳥は、まさに得ようとしたご馳走のその動きを見るなりくるりと身を旋回させて逃げていった。
「殺すのです。もう狐の幻術などには頼りませんわ。わたくしの手で、ずたずたに引き裂いてやるのです。それがわたくしの復讐……でも、子狐だって、ちょっとは役に立ちますのよ。漆様、誤解されてはいけませんわ。わたくしはちゃんとあの狐を手なずけていると申し上げたではありませんか」
見えない手によって川に投げ込まれた石がなかなかに飛沫を立てぬのを不思議がる人が、まさかその場にいたとは思われないけれども、その理由を述べておくとするならば、水面に映りこんだ小さな手がその石を受け取ったからである。せせらぎを立てる穏やかな、澄み切った川面に、白い狐の耳を生やした少年の影だけが映り込んでいる。少年は石を抱えて満足そうににこりと笑うと、頭の後ろに手を組んで、昼寝でも嗜みそうな姿勢をとった。水面にみるその姿は、水に浮いてくつろいでいるようにも見える。
「呼びましたか、芙蓉様?」
「この恥知らず。のこのことまた姿を現せたものね」
「だって、芙蓉お姉ちゃんが呼んだんじゃないか。それにねぇ、あの時ボクに何ができたっていうのさ?敵は三体、ボクは一人。幻術を複数人に見せるのは骨が折れるんだよ。それにあっちには京姫がいる。いやなんだよね、ボク。あの京姫って、気に入らないんだ。ボクの知り合いに似てるんだもの」
「御託はいいわ。それより、石を受け取ったからにはまた協力してもらってよ。さもなければわたくしの持っている石は全て海の底に沈めてしまうから、よく覚えておくことですわね」
「はいはいっと」
篝火は少しも怖気づく素振りも見せずにただ不遜にならぬ程度に笑っただけであった。