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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第一章 現世編―螺鈿の巻―
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第九話 再会(下)

「ありがとうございました」


 菅野先生に向かって母親と二人揃って頭を下げ、それから扉を閉ざして京野 母娘(おやこ)は同時に溜息をついた。と、母親が舞を小突いた。


「なんであなたが溜息ついてるのよ」

「だって、心臓に悪かったから……!」

「それはお母さんの台詞よ!まったくもう。どうやったらあんな点数がとれる訳?やっぱり塾に……」

「いやだ!塾はよしてよー!」

「だったら、もうちょっと勉強しなさい!」


 よかった。明日以降にならなくて。今日でさえこれなのに、あの英語の小テストが返ってきてからだったら、どんなことになっていたか……舞は母親に気付かれぬようにほっと安堵の息を吐いた。廊下を歩き出した母娘の後ろで菅野先生がぴょこんと頭を出す。


「おや、結城さんはまだいらっしゃってませんかねぇ?」

「ゆ、結城……?」

「えぇ、次は結城司君とそのお母様の番なのですが……」


 「結城、司……?」母親がいぶかしげな顔をしてその名を呟くのに、舞は気付かなかった。司の名前を聞いた途端、胸がぞわぞわするような感覚に襲われて、司のいないその場でさえどんな顔をすればよいかわからなくなってしまったためである。今週の月曜日のことだったか。舞と司が下校中に出会って、思わぬ決裂をしたのは。舞はずっと謝りたいと思っていたのだけれど、一人で洋書の世界に耽る司に対してつい声をかけられずにいた。気にしていないのかもしれない……舞の言葉なんて、司を傷つけることもできないのかもしれない。きっと訳がわからなかっただろう。あなたは結城司ではない、なんて言われたところで。しかし、失礼な、不愉快な言葉を投げかけたことは確かなはずだった。だから、謝りたかった。謝ったところできっと、舞が少しすっきりするというそれだけのこと、たかだか自己満足に過ぎないのだけれど。それに、私、取り乱したときに変なことを口走らなかったかな?うっかり司の名前を呼んで、あらぬ誤解を生んだりはしなかっただろうか。


 その時、階段の方から不揃いな足跡が二人分聞えてきた。一人は明らかに、遅れているもう一人の方に無理に歩調をあわせている、というような雰囲気である。やがて、司の美貌が現れて、まず舞を見てその場に固まった。やや苦しげに呼吸をしながら歩いてきた司の母親は、突如凍りついてしまった司を舞の目から庇うように立ち止まり、それから息子の異変に気付いて不思議そうな目を向けた。今日は以前見たときよりもいくらか元気そうに見える。髪をきれいにまとめて、お化粧も前よりくっきりしているせいかもしれない。司の母親は薄地のオリーブ色のセーターの胸を撫でながら、息子に言った。


「司、どうしたの?」

「……未沙みささん!」


 母親の叫び声に、舞は飛び上がった。一体誰のことを呼んだのか、舞にはさっぱりである。しかし、その呼び声に、意外にも司の母が振り向いて、舞の母親の顔をしばし見つめた後、あっと驚いた顔をした。


「あの、もしかして……美禰子みねこさん?」

「やだっ!久しぶりじゃない!」


 母親同士が嬉しげに駆け寄っていくのを、舞と司とは蒼白な顔で見守っていた。これは一体どういうことなのだろう。舞の顔も、司の顔も、共有しきれないうちに同じ問いを抱いていた。衝撃のあまり、舞と司はなにかしらの言葉も感情も見出せぬままに、ただ二人の母親の喜び合う声を聞くばかりであった。


「美禰子さん、元気だった?」

「えぇ。あの、そちらは……?」

「ふふ、元気よ。ごめんなさいね、年賀状もいつしか全然出さなくなっちゃったものね。あぁ、そっか、それじゃあ舞ちゃんって……」


 司の母親は感激に潤んだ瞳を舞に向けて微笑んだ。舞は微笑み返したかったけれど、とてもそんな余裕はない。ただ、恐怖さえこもった瞳で司の母親を見返すばかりである。だが、司の母は少しも動じる気配はない。


「偶然同じ名前だと思ってたわ……まさか、あの舞ちゃんだったなんて。大きくなったわね」

「なんだ、うちの子ともう会ってたの?そう、これが舞よ。ぼんやりしてるのは小さい頃と変わらずだから、安心して。それより、司君ったら、まあ、かっこよくなったわね」

「こっちも一緒よ。背ばかりが大きくなるの」


 母親たちはくすくすと笑い合う。ふと、司の母親は教室から顔を出している菅野先生に気がついて、照れくさそうに頬に手をあてた。


「あら、すみません、先生。私ったら、すっかり……」

「いえいえ、構いませんよ。それよりお二人がお知り合いだったとは。そういえば結城さんは昔この町にいらっしゃったんでしたね?」


 司の母が頷いた。


「えぇ。息子が五歳になるまでこの町におりました。京野さんとは病院で出会いましたの……二人ともこの子たちを妊娠しているときで。ねぇ、京野さん?」

「はい、小さい頃はこの子たちも仲良く遊んでいたんですけどね。まあ、覚えてはいないでしょうが」


 よろめきかけて廊下の壁に寄りかかりながら、舞は司の表情を見遣る。司は見開いた目で宙の一点をじっと見つめてじっと唇を噛みしめていた。舞は体が震えだしそうになるのを抑えるので精一杯だった。母親たちの思い出は、まな板の上を包丁で軽く叩く要領で無邪気に奏でられていく。舞はそれを追うのに精いっぱいで、どうしてもうまく咀嚼することができなかった。こんなものは、絶望よりもなお悪い……とりあえず、落ち着きたい。この場から離れて、ひとまず司の視線の届かぬところで、ゆっくりと母親の話を聞きたい。舞はそんな動作でさえも相当に気力のいることであったが、母親のブラウスの袖を小さく引っ張った。


「お母さん、そろそろ……」

「えっ?あぁ、そうね。舞、なんかあなた顔色悪いわよ。やっぱり調子悪いのね……ごめんなさいね、今日、うちの子、体調くずしちゃったみたいで。未沙さん、また会いましょうね。では、先生、御免ください」


 司の母親が微笑みながら手を振るのになんとか強張った笑みのようなものを浮かべて頭を下げ、恐らく敢えてであろうが視線を逸らしている司のすぐ隣を通り過ぎて、舞は母親と共に階段を下っていった。母親が、舞のあまりに青褪めているのにびっくりして、校門前でタクシーを停めてくれたので、舞はゆっくりと座って鞄を抱えながら、少し心を鎮めることができた。家に着き、着替えて階下に降りると、舞は母親が淹れてくれたハーブティーを一口飲んで、いよいよ切り出した。


「……お母さん、結城君のお母さんと知り合いだって、本当?」


 外出着から部屋着の桃色のワンピースに着替えて、ダイニングキッチンでロールケーキを切り分けていた母親は包丁についていたクリームを指ですくって舐めとると、にこりと笑って振り返った。


「えぇ、本当よ。あなた、やっぱり覚えてないわよね。まあ、しょうがないか」

「病院で知り合ったって……」

「ああ、そうそう。病院の産婦人科の待合室で仲良くなったの。結城君のお母さんって、実はあまり体が丈夫じゃないのよ。その上に妊娠してたでしょ?だから具合が悪くなって、トイレで倒れたのを、お母さんが見つけたの。それからなんとなく待合室で顔を見合わせる度に話すようになってね。それに、出産予定日が一緒だったから、なんかお母さんたち、運命感じちゃって」

「で、でも、結城君の誕生日って……!」


 舞の母親は舞の方に「食べられる?」と聞きながらはちみつのロールケーキの一切れをのせた皿を差し出して、親指についたクリームを舐めた。


「そうそう。よく知ってるわね。結城君のお母さんね、早産だったの。予定より一月も早く生まれちゃってね。大変だったみたいよ。あまりお母さんもよく知らないけど、その時のごたごたで、結城君のお母さんとお父さんって、仲がこじれちゃったみたいね。結局離婚したんじゃなかったかしら。苗字は変わってなかったけど」

「り、離婚?」


 仲睦まじい結城家を知っている舞は思わず聞き返した。母親はロールケーキをフォークでつつきながら頷いた。


「そう。司くんが五歳の時に、確か……あなたと司君って随分仲良かったのよ。いつも一緒に遊んでて。あなたが道に迷ったのを、司君が連れ帰ってきてくれたこともあったわね。まあ、あの時は、目を離したお母さんたちが悪かったんだけど。でもまさか、たかだか五歳の子供があんな遠くまで……そうそう、それで、やっぱりあなたと司君が一緒に遊んでた時に、司君が車に轢かれちゃったのよ。確か野良猫を助けようとしたんだと思うんだけど……それで、まあ、司君のお父さん、司君のお母さんにとっても怒ったのね。子供の管理がなってないって。その前から関係がよくないのはお母さんも知ってたから、一応フォローはしたのよ。でも、駄目だったの……それで、司君のお母さん、御実家に帰ることに決めたのよ。それで、京都に戻っちゃったの」


 と、そこまで言って、舞の母親はロールケーキの味に顔を綻ばせた。


「やっぱり、美味しいわねー、プロムナードのケーキは。でも、どうしてまたこの町に戻ってきたのかしらね?なにかあったのかしら……あら、舞?どうしたの?」


 舞は階段を駆け上って、寝室のベッドに身を投げ出した。涙が溢れてきて止まらなかった。本当に、今日は私、泣きすぎだ……けれども、泣かないではいられない。この涙はきっと、舞が今まで流してきたなかで、もっとも切実な涙であろうから。



 枕に顔を埋め、嗚咽を殺すためにカバーを噛みしめて、その塩辛い味にまた咽ぶ。母親が心配してやってきても、舞は顔を上げることができなかった。「もう、どうしちゃったのよ、舞……」と言って、母が歔欷きょきして上下する舞の肩を均そうとすると、舞はようやく母親の胸に素直に顔を預けることができた。母親はなにがなんだかわからぬままに、娘の頭を撫でてやる。


(司はやっぱり司だったんだ……!)


 舞は母親の体にしがみついて叫ぶ。


(司はただ一月早く生まれてきてしまっただけ……!たったそれだけのことで、運命が大きく変わってしまったの。でも、司は私の手を引いてくれたことがあったんだ。あの時の司の手の温かさは、一緒に育ってきたと思っていたあの日の手の温もりは、消えてしまった訳ではなかったんだ……!この世界でも、あの記憶は真実のままで……)


「舞……」


 母は舞の柔らかな髪を梳いて、その頭に口元を押し付けるようにして優しく言った。


「あなた、お母さんに隠し事してるわね」

「……うん」

「喋ってはくれないの?お母さんには」


 舞は母親の胸から離れないように小さく首を振った。母にはきっとその振動だけ通じたはずであるから。


「そっか。駄目なのか」

「ごめんなさい、お母さん。でも、やっぱり……」

「いいのよ。舞が言えないっていうなら、やっぱりそれは言えないことなんでしょうから。でも、一人で抱え込まないでね。お母さんじゃなくてもいいから、苦しいことは誰かに打ち明けて。そうじゃないと、きっと胸がいっぱいになってパンクしちゃうわよ」

「うん……」

「司君のことが好きなの?」


 問われて、舞はしゃくりあげた。涙が母のワンピースに滲んで色を曇らせる。舞は、それを赤ん坊が母の乳房を吸い尽くすときにつける小さな印のように思った。母親への甘えの印であるように。鼻をすすって舞は言う。


「よくわからない……でも、私、司のこと覚えたよ……」

「そう」

「だから、私……私、うれしかったの……!」


 全てが消えてしまった訳ではなかったのだ――結城司は結城司であった。そのことにまた悩む時がきたとしても、今の舞にはそのことさえも闇の中に見えたひとすじの光のように感じられたのである。





 お手洗いに行くために会場を離れて携帯電話を開いたとき、奈々は初めて着信履歴に気がついた。町の北部にある桜花銀座商店街のとあるビルの一階を占める明海あけみギャラリーは、オーナーの人柄と尽力のおかげで賑わいを見せていた。いくつかの作品のなかには既に値段の交渉が始まっているものもあった。しかし、その着信履歴には、飛び上がりたいような奈々の気持ちをも一掃させかねないものがあった。それは喜ばしい一掃ではあったけれども。


 電話を駆けなおす。明海ビルの非常階段に立ち尽くす奈々は、緊張で胸が高鳴るのを耳に押し付けた携帯電話が響かせるのを鬱陶しく思った。カチャっと微かな音がする。相手が出る――


「もしもし?」

「もしもし……お、お兄ちゃん?」


 上ずる奈々の声に、兄は電話越しにも聞こえるように優しく微笑んだ様子だった。


「そうだよ。元気だったかい?」

「う、うん……!でも、どうして……」

「奈々に問題があるんだ。さて、僕は今、どこにいるでしょう?」

「えっ?だって、スコットランド……」


 ビルの非常階段の澱んだ空気を、パトカーのサイレンの音が震わせていく。同じように、電話の奥でも。奈々の顔がぱっと驚きと歓喜とに輝いた。


「お兄ちゃん!お兄ちゃん、今、近くにいるんだ!」

「そうだよ。今出てこられるかい?本当は中に入りたいけれど、お母さんが受け付けにいるからね。そうだ、二軒先にあるカフェに入ってるからそこにおいで。ケーキをご馳走してあげるよ」

「わかった!すぐ行く!」


 奈々は階段をいっきに飛び降りたいような気持で駆け下りると、ビルの裏口からそっと抜け出して、兄の待つ場所へと向かった。何年ぶりだろう――多分、三年ぶりだろうか。たまにメールは交わしていたけれど、声を聞くのは久しぶりだった。なにせ、兄はスコットランドに留学してしまっていたから。


 お茶の時間もやや過ぎて、大分客の入りもおさまってきた人気店・プロムナードに飛び込んだ奈々を、店員が一番奥の座席へと案内してくれた。丸テーブルの手前側の座席に腰かけて、兄は待っていた。奈々の兄、黒葛原つづらはら君人きみとは、少し癖のある栗色の髪に、穏やかな草食動物を思わせる、少し垂れ目気味な、黒目がちな瞳を持った青年だった。背は高いが、奈々と同様に痩せているために年齢より幾分幼く見える。奈々が知っている限り、その口元には常に柔和な微笑が浮かんでいて、それは奈々に気付いて振り返ったこの瞬間さえも変わらなかった。いくら気候がよいといっても、まだ夜分は冷え込む五月だというのに、兄は紺色のポロシャツ姿で、真夏のような装いをしていた。


「やあ、奈々。日本は暑いね」

「お兄ちゃん!いつ帰ってきたの?」


 奈々は満面の笑顔で兄に飛びついて頭を撫でてもらうと、くるくるとバレリーナのように回りながら上機嫌で席に着いた。兄はくすくすと笑いながら、まあひとまずと言ってメニューを差し出した。


「つい昨日だよ。日本でどうしても見たい資料があるって教授がいうから、案内がてら付いてきたんだよ。旅費も出してもらえるしね。本当は来る前に連絡したかったんだけど、奈々も忙しくしてると思って。それに、奈々と会えるような時間を作れるかもわからなかったし」

「いつまで日本にいるの?」

「実は一週間で帰らなきゃいけないんだ。でも、ひとまず奈々に会えてよかったよ。とっても元気そうだしね。ケーキ、決めたかい?」


 兄は奈々が甘いものを嫌いなことをすっかり忘れているらしかったが、奈々は唯一ケーキの中で大好きと言えるレアチーズケーキがあったのでそれを頼んだ。兄はコーヒーだけだった。


「ごめんね、ケーキに付き合いたいんだけど、この後に教授と食事だから」

「ううん!ありがとう!」


 ケーキと飲み物が来たところで、兄と妹はそれぞれの近況を語り合って盛り上がった。奈々の母親が父親と離婚したのが五年前。黒葛原つづらはら新造しんぞうが黒田さやかと結婚したとき――無論、その時には奈々はまだ生まれていなかったが――新造には離婚した前妻との連れ子があって、それが兄の君人であった。奈々は腹違いの兄に可愛がられ、二人は睦まじい兄妹として育ったが、やがて両親の仲がしっくりいかなくなった。とうとう離婚ということが決まって、奈々は母親の元へ、君人は父親の元へとそれぞれ引き取られることとなった。それからも、奈々は時々父や兄と会う事を許されていたが、三年前に母が、妻を病で失って以来一人で三人の子供を養っていた男性と恋に落ち、結婚という運びになると、奈々も兄もつい会いづらくなってしまった。新しい父親が親切な愛情深い人であるだけに、奈々は実の父への思慕を口にすることが難しく感じられたのだ。まるで、現状に満足していないようであったし。兄のことも同じだった。母は、血のつながっていない兄を可愛がってはいたけれど、こうして縁が切れてしまった以上は所詮他人の子であるから、これといって気にかける素振りを見せなかった。それよりも、母は、同じく他人の子ではあるけれど、新しい夫が連れて来た三人の子供に夢中だった。それが、美々と音々、そして悠太であった。最後に兄に会ったとき、奈々は見知らぬ子供たちの姉になる不安をぽろりと口にして、兄の励ましを受けたのだった。その直後に、兄はスコットランドの大学へと発ってしまった。


「奈々の絵が見たかったんだけど、やっぱりお母さんとは顔を合わせられないな……」


 兄はとりたてて深い意味はなさそうにさらりと言ってのけた。


「あたしもお兄ちゃんに絵を見てもらいたかったなあ。せっかく来てくれたんだもんね。あっ、そうだ!携帯で写真撮ったのがあるはず!」


 奈々は携帯電話の写真フォルダから直近で撮ったものを見つけて兄の方に画面を向けた。奈々はそうして、出来上がった自分の作品を一つ一つ写真に撮っておくのである。いつでも自分の作品と一緒にいられる感じがして、それが奈々には湯に浸かっているように心地よい。奈々はさすがにこの歳で世に認められているというほどであるから、厳しい批評家としての鋭い視線も持っていて、自分の手を決して甘やかそうとはしなかったけれど、一度描きあげた作品に対しては深い愛着を抱いた。奈々が見せたのは、つい昨夜仕上がったばかりの翼の絵であった。兄は携帯電話を受け取ると、目を細めて画面に見入った。


「……いい絵だね。モデルは誰なの?」

「あのね、友達!同じ中学の子!翼ちゃんっていうんだけどね……!」

「そうか、奈々にも友達ができたのか」


 君人は携帯電話を奈々に返しながら、いかにも嬉しそうに言う。


「うん!とってもかわいい子なの!それにね、とってもいい子!」


(そうだ、翼はいい子だ……)


 かくも楽しい時間なのに、低い声でささやいて奈々に冷水を浴びせかけようとする者がある。奈々は思わず開きかけていた口を閉ざす。


(翼は世界を守るために戦っているもの。でもお前は?お前はなにもしないで、他人任せ。他人の上澄みを啜って生きようとしている。お前は翼の友達なんかじゃない。友達が命がけで戦っているのに平気でいるやつがあるか)


「奈々?」


 兄が奈々の表情の変わったのに気づいて呼びかける。奈々はすぐに声を掻き消して笑う。


「ううん、なんでもない……」


 奈々はチーズケーキの上に屈みこんで、フォークで小さくケーキを一かけらに切りわけると、それを兄の方に突き出して、「一口!」と言った。兄はきょとんとした顔をしてから微笑んでぱくりとフォークをくわえた。兄と妹とは笑う。奈々はそんな幸福に身を委ねようとした。今が幸福なら、もう全てを投げ出しても構わないのだと言い聞かせようとした。





「本当に行くのですか?」

「うん。でも舞ちゃんには内緒にしてよ」


 左大臣を京野家へと送っていく道で、翼はどうしても苧環神社に寄りたいと言いだした。左大臣は反対する訳ではなかったけれど、どことなく不安そうな表情で躊躇っていた。その間にも、左大臣を鞄に抱えて、翼は苧環神社へむかって進み続けている。ちょうど、舞と司が思わぬ真実と顔合わせをしているころのことであった。


「もし敵が現れたら……」

「そしたら一人で倒す!舞ちゃんには休んでもらわないと!大丈夫よ、あたし舞ちゃんより強いもの」

「その自信はどこから……」

「だって、この間だってあたしの方が一秒早かったもの。あのまま青海波を決めてたら、あたしが勝ってたんだから」

「いやはや。兎にも角にも、もう二度とあのようなことはされませぬように!」

「あんなのただの喧嘩じゃないのよ。もう……!」


 翼は地図をひろげながら、蠍の尾がちょうど上に向かって跳ね上がっていくところ、さそり座θ星のあるべき町のはずれの一体を指でくるくると囲ってみた。苧環神社だなんて、翼は聞いたことすらない。ああ、でも確か、この辺りに心霊スポットがあったっけ。それって、確か廃神社だったような……翼は背中がぞくっとするのを感じた。


「どういたしましたかな、翼殿?」

「なっ、なんでもないっ!」


 今更怖いだなんて言いだせる訳もない。それに、敵を恐れているのならまだしも幽霊だなんて。翼はちょうど町の南東部だけが見られるように、地図を丁寧に折り込んで持ちやすくした。


「さっ、さっさと行こう!」


 翼は歩調を早めた。遮るもののない陽射しが髪をじりじりと焼いているのが分かる。日焼け止めをしてきてよかったと、翼は思った。どうせ今週末の体育祭で真っ黒になるのは目に見えているけれど。体育祭が終わったら、その後は中間テストだ。翼は肩をすくめる。勉強は苦手でも嫌いでもなかったけれど、いつも通りによい点をとらなければと思うと少し気が滅入るのは確かだった。夜中だろうがなんだろうがお構いなしに現れる敵を相手にしていて、落ち着いて勉強ができるのだろうか。万が一テスト中に敵が現れた場合は?


(そりゃ、その時は仕方ないよね。人の命がかかわってるんだもん)


 翼はちょうど大通りを横切っているところである。


(でも、誰かにきちんとあたしのやってること、知ってもらいたいような気もするけど。誰かが助けて、理解してくれればなってつい思っちゃう。別に褒めてくれなくってもいいんだけど)


「翼殿は、姫様のことをどう思われますか?」


 左大臣が突如重々しいトーンで尋ねたので、翼は自分の悩みから引き離された。翼は鞄の中を見下ろす。


「どうって……?」

「姫様は時々思い悩んでおいでなのです。恐らく司殿のことで……無理もありませぬ。愛する人の死を目の前で見られたのですから。それも、無残に怪物に殺されて……」


 愛する人の死を目の前で……もしそれが自分と恭弥のことだったらと思うと、翼は無限の奈落の前に立ち尽くしたような途方もなく恐ろしい気分になる。覚醒していない舞には司を守ることはできなかった。ただ、守られ、身をすくめ、司が惨殺されるのを見守るほかなかったのだ。勝ち目のない敵を前にして、それでも司は舞を守るために、傷ついた体で怪物に立ち向かったのだという。今の結城司からは到底考えられないけれど。恭弥はどうだろう。恭弥もそんな風に自分を守ろうとしてくれるだろうか。


「……わたくしにはわかりませぬ。姫様の言う事が真実なのかもわたくしには分からぬのです。ただ、先代の京姫様が、藤枝ふじがえ御方おんかたが、姫様の前に現れなさった。藤枝の御方が姫様と司殿をお守りになるために、時間を巻き戻されたとすれば、筋は通るのです。それでも、やはりわからないのは司殿のこと。なぜ、姫様の幼馴染であったはずの司殿が、突然全く知らない人間として姫様の前に現れたのか」

「漆の仕業じゃないの?」


 左大臣はゆっくりと首を振った。


「それがわたくしにも分からないのでございます。一体どのような術をして、漆がそのようなことをしたのか。なぜ、漆がそのようなことをするのか。わたくしには説明できないのです。しかし、翼殿、わたくしは罪深くも、この悲劇を利用して姫様を焚き付けたのでございます。もちろん嘘を言った訳ではありませぬが……漆を倒せば、司殿が元のように戻るかもしれぬと」


 翼は沈黙によって先を促した。その沈黙は非難でもあり、理解の印でもあり、そして当惑の証でもあったのだが。左大臣はそれを悟ったらしく再び口を開いた。


「姫様の望みは、偏に元の司殿を取り戻すこと。けれども、それが叶うという保証はありませぬ。明るい笑顔の裏で悩んでいらっしゃる姫様をみると、あまりにもおいたわしくて。今日のことも、そうしたご心労が祟ったのかもしれませぬな」

「……左大臣、あたしも信じたい。元の結城が戻ってくるって」


 翼は決して他人事へのそれでない深い情感を込めて言った。


「でも、舞ちゃんも心のどこかで分かってるんじゃないかな。もう元の結城には会えないんだって。多分、そういう予感の方が真実に近いんだって」

「翼殿……!」

「だって……だって、結城は、死んだんでしょ……?!」


 胸を詰まらせた翼は立ち止まってようやくその言葉を言い遂げた。風が道路の両脇に続く家々の庭を渡って、木々の葉のこすれあう音がさやさやと鳴って流れていく。まるで木々もまた、翼の言葉にざわめいたかのようだった。


「あたしにだってわからないけれど、多分ね、これだけは真実な気がするの。死んだ人は、蘇らない……」

「ああ……」


 左大臣は額に手をあてて嘆声をあげた。


「それを分かってるから、舞ちゃんは今日あんな幻覚を見たんだよ。舞ちゃんの心が、一生懸命結城の死を受け入れようとしてるんだよ。結城の死と、新しい運命とを……それが今はできないから、舞ちゃんは、あんなに苦しんでるの……左大臣……!」


 翼は鞄から左大臣を抱き上げると、胸の中にぎゅっと抱きしめた。


「あたしだったら耐えられない……!あたしだったら、戦う事すらできない。恭弥がいなくなっちゃったら……!でも舞ちゃん、戦ってるのね。あたし、全然知らなかった。舞ちゃんが打ち明けてくれるまで……」

「翼殿……」

「大切な人との思い出も、絆も、全部否定されて、なかったことにされるなんて、そんなひどいことってない……っ!……ねぇ、左大臣、もし漆と戦うことが、今考え付くなかでたった一つの解決法なんだとしたら、それが確かなものじゃなくても、やる価値はあると思うの。だから、あたし、やっぱり戦わなきゃ。あたし、四神だもの……姫を守るのが、あたしの役目だったもの」


 再び翼が歩き出して、鞄の中に再び収まってから、左大臣はようよう翼の言葉の意味に気がついた。前世のためには戦わぬ、町のために戦うのだと言った翼は、今、四神としての己に目覚め始めているのだ。少しずつではあるが、彼女のなかで四神としての記憶がよみがえりつつあるのかもしれない。それは喜ばしいことであった。だが、同時に左大臣のなかでは危惧も生まれつつある。先の世の記憶は、決して美しく懐かしいばかりのものではなかったから――




「ねぇ、こっちであってる?」


 二十分ほども歩き続けただろうか。段々と見知らぬ風景が広がり始めて来たせいか、翼は不安そうに足を止めた。大分人気がなくなってきたし、どうやら辺りの民家も人が住んでいるのやらひっそりと静かであるので、鞄から堂々と飛び出てきて地図を除く。電線の上で、烏が一羽、けたたましく鳴いて、二人の上に影を落として飛び去っていく。翼がそれを不安げに見上げている間に、左大臣は地図を点検した。


「この道を通ってきましたから……えぇ、恐らくは」

「なんか変な感じ……こっちの方って、こんな寂れてるんだって」


 と、翼は口を噤んで民家を囲っている塀の方へと身を寄せた。自転車が一台現れて、翼たちの傍を通り過ぎていった。錆びたペダルの音を響かせて、陰気そうな目をした老人は、こんな夏のような日だというのに目深に被ったニット帽の下から翼をじろりと見て、粘ついた舌打ちのようなものを口の中で響かせた。たったそれだけのことで、翼は勇気が挫きかけるのを感じた。ここは自分の知っている町ではない。桜花町ではないのかもしれないと、ふと感じて。


「翼殿、大丈夫ですかな?」

「……平気」


 翼はもたれかかっていた塀を掌でぐいと押して歩き出した。尚も進み続けると、左手に並んでいた民家が途絶えて、木々をもつれさせた林を頂く急斜面となった。その木々の先端をかすめて見遣れば、東雲川の流れと、その妙に白けた潤いのない水面との間を埋める荒涼とした畑の乾いた土との色をのぞむことができた。東雲川は北部に於いてはきららかな水の帯で町の土を浅く浸しているけれども、南部に向かうにつれて次第に町から離れていき、深さも増していく。翼は仲の良い友人の思わぬ一面を見たかのように、鉄橋に影を落とされて倦んだようなくすんだ色を渦巻かせている川面に目を見張った。川幅にも、畑の土にも、土地の疲労というべきものだろうか、人に愛想を尽かし続けてくたびれたといった顔色が見て取れた。


「翼殿!」


 左大臣が翼の袖を引っ張ったので、翼はようよう遠い景色から目を離した。急カーブの先のところ、左大臣がぬいぐるみの腕で指しているのは、苧環神社と書かれた朽ちかけた看板であった。翼は気付くなり、はっとして、看板が逃げ出すのを恐れるかのようにぱたぱたと駆けよっていった。その時、翼は鈴が小さく振動したのを鎖骨の辺りに感じた。


「翼殿!こっちに来てみなされ!」


 翼の腕から飛び降りた左大臣が、ガードレールの不自然な切れ目から斜面を見下ろして叫んだ。見てみると、そこから石段が暗鬱な木々の艶めきと降り積もった落ち葉の黒ずんだ色とに埋もれかけながらも、点々と続いている。鈴は、今度は微かながらに音を立てて鳴った。左大臣にもそれは聞こえたようであった。翼を仰ぎ見た左大臣に、翼はこくんと頷いて言った。


「敵がいる……気を付けて」


 翼は鈴を高く宙に向かって放り投げた。鈴から零れ落ちた水滴が翼の足元に水面を立てる。清らかな水柱に身を沈めてより後、閉ざした瞳を開いてゆらめく太陽を仰いだ翼は、水を纏って地表へと躍り出た。


 腰元におさめた凍解いてどけが微かに震えているのがわかる。青龍は左大臣を先頭に石段を軽やかに駆け下りた。下っていくごとに愛刀の鳴動は激しくなる。同時に、青龍は後頭部でなにかがどよむような、不快な耳鳴りと頭痛とを覚えた。螺鈿や芙蓉を前にしてもこんな不愉快な感覚はなかった。もしや、漆がいるのだろうか。


 漆――それまで不用心にかざしていた名前が、不意におぞましく思われた。前世での宿敵、前世で京姫の命を奪い、世界を滅ぼした男。今、その男と対峙しなければならぬときが来たというのだろうか。青龍は足を速めながらも、立ち止まりたがっている自分自身に気付いた。あたしは漆が怖いというの?恐怖をぶつけるべき相手ではない。奴には、憎しみと、義憤とを……


 黒い鳥居が見えてきたところで、青龍は勢いよく石段を飛び下りた。引き返せなくするためでもあった。自分が逃げ出さないように。土に膝をついた瞬間に、青龍は凍解を抜いた。その刃が青く光って、その柄を掴む掌が熱くなるほどに低く唸っている。青龍に続いて、左大臣もその隣に降り立った。二人は用心深く境内を見渡したが、廃神社のなかに人気はなかった。


「青龍殿……!」

「分かってる」


 青龍は鳥居を潜って本殿の正面に立つ。左大臣がその背後を守った。手水舎の水は涸れ、地面に落ちた椿の花が踏みにじられた後のように茶色く褪せて、腐りかけた身を寄せあっている。境内を囲む椨の木は見通そうとする限り暗い葉影を連ね、その目で真上を見上げると、瞳がそのまま影を帯びたせいか青空までも翳って見える。青龍は凍解を本殿の方へと向けた。


 青龍は草履で土を一度軽く踏むと、ひらりと躍り出て本殿に切りかかった。と、本殿から三、四メートルほど離れたところで凍解がぴたりと止まり、その刃が触れたところから、空気が灰色に澱んで、本殿を円形に包む結界が姿を現した。青龍が尚も切り込んでいくと、結界に黒くひびが入り、粉々に砕け散った。その刹那、本殿の扉を内側から打ち破って、夥しい数の怪物が飛び出してきた。予期していない事態に、さすがに青龍も慌てる。


「さ、左大臣!」

「いやはや、これは……!」


 魑魅魍魎ちみもうりょうの群れである。双頭のもの、眼球をいくつも持ったもの、虫のようなもの、四足のもの、二つ足のもの、被毛を持ったもの、鱗を持ったもの、羽毛を持ったもの。いずれもが、眼球だけを異様に光らせて、黒雲のように群れて青龍に襲い掛かってくる。それらの怪物たちを、青龍は近くに寄ってきた順から断ち切った。変身の出来ない左大臣は、すぐさま近くの木の枝にのぼると、礫を投げて怪物の頭を手あたり次第に襲撃する。蜻蛉のような虫の化け物は翅を破かれて地に落ち、赤黒い猿のような獣の足に踏みにじられて、青い血を流しながら気味の悪い声をあげた。怪物たちが左大臣に気付いて幹を引き倒そうとすると、左大臣はその枝の一つを手折って拝借しながら隣の木へと飛び移り、礫を角のある狼に似た怪物の片目に目がけて放ち、それから即席の枝の剣でもう片方の目を突き刺した。


『青海波ッ!』


 青龍は五体の怪物を波で薙ぐと、続いて後ろから襲ってきた怪物の頭を左肘で打ち、右腕の方に飛びかかってきた怪物の頭の片方を切り落として、その喉を刀で突いた。怪物たちはぎゃあぎゃあと巣を襲われた鳥の群れのように騒ぐ声もかしましく、本殿のうちから姿を現すので、全く以ってきりがない。左大臣は怪物どもの足の下に潜り込んで、その踵を鋭く尖らせた枝の先で切り付けながら、器用に走り抜けていたが、こうも数が多くては地道な攻撃では焼け石に水というものだ。噛みつこうとしてきた怪物の頭を避けて、左大臣はその頬に思い切り跳び蹴りを食らわせ、百足の背に飛び乗って、剣をえいと突き刺す。


「青龍殿!どうやら罠にはまったようですな」

「そうみたい……!」


 囲まれた青龍は、目の届く範囲だけその異形の頭を見回して、羽織の袖で額の汗を拭う。「もう……っ!」と呟いて、青龍は凍解の刃を胸の前に渡すようにして構えた。


走井はしりゐッ!』


 青龍の叫び声と共に、濁流が青龍の周囲を巡って怪物たちを押し流す。怪物たちを集めた水は、そのまま流れに巻き込まれたものたち諸とも土に吸いこまれて消え去った。


「青龍殿!やはり、ここは緊急事態です!わたくしめが、姫様を呼んでまいります」

「ダメっ!」


 青龍は怒鳴るようにして言った。ちょうど、鉤爪を避けてその後ろから猿の化け物の体を袈裟懸けにしたところであったので。


「舞ちゃんは、今日は到底戦える状態じゃない!」

「しかし、わたくしも姫様の力がなければ元の体に戻ることができませぬっ!この姿のわたくしと、青龍殿だけではこの数は無理がありますぞ。まだ何十頭といるではありませぬか!」

「わかってる……!でもこっちから呼ぶんじゃダメなの」


 青龍は凍解で敵を払いながら言った。


「こっちから呼ぶのは……どうしたって、この場所には。あっちから来るんじゃなくっちゃ……」

「青龍、左大臣、お待たせ!!」


 鈴のような、明るい声が響いた。石段から飛び降りて、黒々とした森の鬱然とした空気の中に桜色の衣装を靡かせながら舞い上がり、空中で飛びかかってきた敵をいずれも仗で弾きかえして、着地と共に桜の花弁を巻き込んだ嵐で敵を薙ぎ倒したのは、かの待ち焦がれた人、京姫であった。


「遅くなって、ごめんね!」

「来るなっていったでしょ!」


 青龍が怒って言った。怒りのとばっちりを食らって、頭と胴体を切り離されたものもある。京姫はごめん、とでも言うように頭に手をやりながらてへっと舌を出した。


「だって、ほっとけなかったんだもん。それに結構これ、ピンチでしょ?」

「一人でも戦えたったら!」

「また強がっちゃって……」

「強がってなんかないっ!!」

「姫様、青龍殿!口喧嘩などしている場合ではありませんぞ!わたくしが敵を食い止めますから、お二人はあの本殿を攻撃しなされ!悪鬼どもはあの本殿から湧いてくるのです!湧き出てくるものを片っ端から相手していたら、いつまで経ってもきりがありませぬぞ!」


 翁の体に戻った左大臣の忠告を受けて、京姫と青龍とは本殿に向かって並んで立った。二人に襲い掛かる怪物どもは左大臣が刀で蹴散らした。本殿は戸や屋根を破られて見るも無残な姿に代わりはて、孕んだ醜悪な生き物たちを節操もなくこの世に送り出し続けることの余念のない。そこに祀られていた神は恐らくもうこの場所を見捨てたのだろう。京姫と青龍とは仗と刀とを構えた。


 京姫が仗の先で地を打ったのが、合図であった。


『桜花……っ!』

『青海……っ!』


 二人の調和を、激しい轟音が遮った。京姫と青龍は同時に後ろに吹き飛ばされて地面に腰を打ち付けた。なにかぎらぎらと燃え盛るものに照らし出されたように思って、顔をあげると、先ほどまで本殿のあった場所に巨大な火柱があがっていた。唖然として見つめているうちに、炎の内になにやら黒いものが蠢いて、それが火柱の外に姿を現した。蜘蛛たちは、皆、焼け焦げたなにものかをくわえて現れた。その光景と臭気とが吐き気をもたらすが、京姫は堪えて立ち上がった。この蜘蛛といい、悪しき炎といい、これは間違いがない――


「螺鈿!」

「呼んだかえ?」


 本殿の奥の椨の木陰に、螺鈿は木の幹にもたれかかって立っていた。打掛が地面にひろがって、椨の木の暗い影を落とされているために、なにか陰惨なきらめきを放っている。衣装の絢爛さに比べてやや寂しくもみえるその細面の色の白ささは、薄闇に紛れているからこそ一層目立って見えた。螺鈿は片腕にもう片方の肘を載せるようにして、煙管を一口吸い、紫煙をゆっくりと吐き出しながら、どこか気だるげそうな目で京姫を見遣った。そんな些細な動きに揺られて、螺鈿の髪を飾りたてている夥しい簪やらが音をたてた。


「どうやら、一杯食わされたようだねぇ。逃げ足だけは早い奴らだ。まあいいさ。奴らがどこにいようと、あちきの炎は奴らを焼き尽くすには違いないんだから。あちきを見くびっているようなのが、癪に障るっちゃあ障るけどね。まさか、この町から逃げればいいと思ってるんじゃないだろうねぇ」

「螺鈿!あんたのしようとしてることはお見通しよっ!覚悟しなさい!」


 青龍の言葉に螺鈿は煙管の灰を落として、はんっと失笑した。


「そうかい。それはよかったねぇ。褒めてやるさ。でも、もうあちきを止めることはできないよ」

「できるわよ!今ここで、あんたを倒すっ!」


 青龍が勇ましく吼えるそばで、京姫と左大臣とは上空を見上げた。先ほどまであれほど美しく冴えわたっていた空は俄かに曇り始め、稲光を孕んだ黒い雲が低い声をたてながら群れつどっていることに気がついたためであった。日の光が完全に覆いつくされたのを見て取ると、螺鈿は空に浮かび上がった。怪物どもの残党が螺鈿に食らいつこうとして、蜘蛛の糸に絡めとられ、毒牙にかかった。たった一匹、目立たぬように螺鈿の体を這いあがって、その首筋に食らいつこうとした蛇を、螺鈿は煙管の頭で叩いて焼き殺してしまった。


「こいつら、仲間じゃないの……?」


 青龍が小声で尋ねたのに京姫はわからないという印で首を振った。螺鈿は唇に塗った紅の色を、雲の隙間より漏れ来る稲妻の白い光のために失いながら、能面めいた蒼白な顔でにたりと笑った。そこには今までの螺鈿にも認められなかった一種の凄味があった。


「……あちきの計画は既に完成さ」


 その時、何かを打ち破るような、天がその鉄槌をあらゆる暴力的な衝動と欲求とを込めて地上に放った音を、京姫は背中の後ろ、遠くに聞いた。雷光は聳え立つ炎をも一瞬間、凝らせた。京姫は己の影が消し飛ばされるのを目撃した。大地が震え、足元が痺れた。後ろから突きのけられたような感覚があった。


 耳鳴りと衝撃とによろめきかけながら、振り返った京姫の頬は赤々と照らし出された。姫の翡翠の瞳に映し出されたのは、低く垂れこめた雲を焦がすがごとく、あるいは本来あるはずの夕陽の緋色を天が大地に注ぎ込むがごとく、彼方に高くそそり立つほむらであった。崖下から町を見上げる京姫と青龍には、その焔の天に接するがごとく聳えるその頂きばかりが見えるだけであったが、その火が根を下ろしている場所は嫌でもわかった。この町の中心部、十字路のちょうど交わるところ……


 どこからともなくけたたましく鐘の音が鳴り響いて、京姫と青龍とは我に返った。その音を、二人は身近にしていた訳ではないけれど、半鐘の音色には人々を慄然とさせるだけのものがあるものだ。この町からはとうに取り払われたたはずの音が、なぜか現代のこの町に鳴り響いているのである。咄嗟に見上げた先で、螺鈿は再び煙管をのみながら、満足げに遠い焔を眺めやっていた。


「やるじゃあないか。これでほぼ全てが済んだようなものだ」

「あんた、なにを……っ?!」


 青龍の問いかけにも、螺鈿はわざわざ目線を下げようとすらしない。白い素足を宙に伸ばして、足の甲をもう片方の足の裏で踏み、紫煙を吐くばかりだ。


「さあてと、姫さん、遊びはもう終わりだよ。あちきをほんとに止めたいっていうんなら待っててやってもいいけれど。それとも競走といくかい?あちきがあの炎のところに着くまでにあんたたちがあちきに追いつけたら、もしかしたらこの町は無事で済むかもしれないけどね。だが、万が一あちきの方が早ければ、焼き滅ぶのはこの町だけじゃあ済まないよ」


 と言って、螺鈿はやはり地上には目もくれぬまま、黒い鈴を掲げて見せびらかした。


「あちきにはこれがあるからねぇ」


『桜吹雪っ!』


 京姫の急襲を交わすと、螺鈿は声をたてて笑いながら、焔の方へとするりと消えていった。京姫と青龍、左大臣とは顔を見合わせる。


「追うよ!」


 京姫が叫んだところに、その背後から蜘蛛が襲い掛かってくる。京姫が仗でその足を受け止めるより早く、左大臣が動いて蜘蛛の体を一刀両断にした。


「ここはわたくしに任せてくだされ!姫様と青龍は一刻も早く螺鈿の元に!」

「……わかった!」


 二人の少女は走り出す。この町を守るべく。大切な人を守るべく。この世界を守るべく。だが、黒い鳥居をくぐったところで、京姫はふと足を止めた。青龍が構わず先に行くのを知っていても、寧ろ知っていればこそかもしれないが、京姫は手水舎の方を振り向くのをやめられなかった。


 その刹那は半鐘の音が止んだ。司がいた。水盆の影に……水面に微笑みを宿して、彼は力強く頷いた。


「舞、頑張って……」

「司……ッ!」


 舞は走り寄りたい衝動を必死に堪えて、そしてやっとのことで頷き返す。瞬きをした瞬間、司の姿はふっと掻き消えた。ただ左大臣と蜘蛛との血なまぐさい死闘が、枯れ果てた水盆の底を震わせるばかりである。

 再び走り出した京姫の目が燃えていたのは、はるかな焔を映しているためだけではなかった。






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