第九話 再会(上)
白崎ルカは、五月の陽気には暑苦しいばかりの学ランの襟を掻き合わせ、アイスグレーの瞳を素早く邸宅の窓の外に走らせる。芙蓉の式神が灯かりにとりつかれた羽虫のように硝子窓に衝突してはいるけれど、案ずることはない。ルカの風が式神の感覚を惑わせているだけで、この場所にとりたてて何かを見つけ出した訳ではないからだ。この場所はまだ敵に気付かれてはいない。
ルカがチェロの練習をしている防音室には誰一人入ることはないから、そこを宛がうことは簡単だった。ただ、誰にも気づかれぬよう彼女を運び込まなければならぬのに少し苦労はしたけれど。連日のように通ってくる老医は、白崎家の家庭医でもあり、ルカにとっては伯父であり親友でもあった。ミーチャおじさんは、母にとっては親代わりに育ててくれた偉大な兄であり、恩人でもあったから、頻繁な訪れを怪しまれないばかりか、却って美味しいお茶とお菓子との接待を受けずには帰宅できぬほどだった。ただし、おじさんはルカが渡そうとする報酬は頑として固辞した。
防音室のある四階の廊下から花々の咲乱れている庭を慎重に窺って、メイドの足音も聞こえぬことを確かめてから、ルカは扉を押し開けた。ひやりとした冷気がまず帽子の鍔に触れてそれから高く通ったルカの鼻先で別れて頬を包み、豊かなプラチナブロンドの髪に覆われた耳朶を冷やす。白衣のミーチャおじさんはルカが入ってくるのを見てやんわりと微笑んだ。丸い老眼用の眼鏡、理智をひらめかせている水色の瞳、唇の上にたくわえられた綺麗にかりこまれた髭と薄れつつある白い髪、針のような痩身。その妹とはさほど似ていないけれども、姪であるルカとはなんとなく通じ合うところがある。優しさに明け渡すこともできるけれども、普段は冷徹な理性に治めさせている表情や佇まいなどが。
「やあ、ルイ」
ドミトリー・ドミトリエヴィチ・パブロフ、通称ミーシャおじさんは、椅子から立ち上がってそう挨拶した。ルカをその名前で呼ぶのは、両親とミーシャおじさんぐらいだ。ルカは白い薔薇の花束をちょっと掲げて挨拶をした。
「こんにちは、おじさん」
「ついさっきまで柏木さんが来ていたがね。入れ替わりで帰ったよ。君とは顔を合わせたくないと言ってね」
「それはよかった」
ルカはほとんど皮肉めいた調子もなくさらりと言い退けると、部屋の中央に置かれた寝台の方へと歩み寄っていく。寝台の上に一人の少女が眠っている。否、彼女は呼吸をしていない。さりとてその体はもう朽ちゆくばかりというのでもない。それでも知らぬ人の目には、やはりいとも清らかな乙女の骸だと見えるであろうから。娘を溺愛するその父親が見れば、ひどく嘆き悲しむことであろうから。ルカは彼女をこの部屋に眠らせている――彼女が再び目覚めるその日まで。
「……玲子」
囁いて、ルカは少女の額に自らの額をあてる。冷え切った額を温めようとして。その頬に触れる度、ルカの胸に鋭い痛みが走る。心臓が凍りついてしまったかのような……自らの影に隠れてしまった美しい寝顔に、何度も問おうとしては舌が麻痺してしまう――ねぇ、玲子。君は一体何をしたの?どんな奇跡を起こそうとしたの?君が受けているその代償を、私にも分かち合わせてくれないか……
「ルイ、君を疑うわけじゃあないんだが」
ミーチャおじさんは言いにくそうに咳を一つしてから言った。
「その少女はその……本当に目覚めるのかね。いや、これまでも何度も言ったけれども、医学的には彼女は死んでいるんだよ。心臓も呼吸も止まっている。こんな状態がかれこれ一月以上も続いて、これで蘇生したとしたら、私は論文を一つ書けるんだがね」
ルカは気分を害した様子もなく、冷たい額から顔を離して、白い薔薇の花束をその鮮血のように流れる髪に添えた。枕元に同じく添えてあった眼鏡を手にとって、ルカは彼女に宛がおうとしてやめる。冷え切った眼鏡のレンズが掌に沁みる。
「それじゃあ、なんだ。私は死体愛好家って訳か?」
「ルイ、私は真面目に言ってるんだよ」
「わかってるさ、すまない……ミーチャおじさん、あなたには分からないかもしれないけれど、私は彼女の霊力をわずかに感じるんだ。彼女はただ、『私の体を頼んだわ』と、それだけ言って消えていった。私にもなにがあったかはわからない。ただ、それが常識では考えられないようなことだということは漠然とわかるんだ。だから、信じてほしい。私は彼女を待たなければならないんだ」
「君が言うなら私は信じるしかないよ、ルイ」
ミーチャおじさんはひとつため息を吐く。
「確かに君の言うとおり、この町では最近おかしなことばかりが起こっている。それがその漆とかいう輩のせいだというのならば、やはりそうなのだろう。最近は殊に火事が多い。冬でもないのに……これも君の戦っている敵の仕業なのかい?」
「私はまだ戦ってはいないよ」
ルカは眼鏡を少女の枕元に返して、自嘲の響きを以って言った。
「私はまだ奴らと戦ってはいない、現世ではね。姫の元に一刻も早く馳せ参じなければならないのは分かっているけど、敵が玲子に気付いてしまっては大変だから……今の玲子は自分の身を守れない。だから玲子を庇っている私の正体にも気付かれる訳にはいかないんだ。そう、火事の件は漆の僕の仕業だよ。花魁井戸に眠っていた女の怨念が蘇ったんだ」
「花魁井戸……ああ、火事で死んだという遊女の話か。しかし、火事で死んだ女の怨念が、火事を起こすのかね?皮肉なものだ。つい昨日も家が一軒焼けたというし、気を付けねばならんな。さて、私はそろそろお暇しよう。ソーニャに捕まることを見越して帰らないとね」
ルカは部屋の扉までミーチャおじさんを見送って礼を言うと、重たい扉をそっと閉めて、温かい廊下の空気を締め出した。これで遂に二人きりになってしまった。ルカは息も忘れるほどに深い夢に打ち込んでしまっている少女の傍に再び寄り添うと、伯父が座っていた椅子を引き寄せて腰かけ、少女の顔を間近で見守った。まるで人形のようだ、とルカは思う。世にも美しい精緻な人形。いつまでも抱えていたいような気にすらさせる彼女の寝顔――いや、目覚めてほしい。声を聞きたい。その瞳がある種の疲れを宿して冷然と世の中を見据えるのを、ただある瞬間にだけはその奥で強く燃えるものがあるのを、見つめていたい。抱き寄せることが許されなくてもいい。彼女の傍らに並んで立って、艶やかな紅の髪を見下ろしていたい。両手で挟んで持ち上げた彼女の手は冷たく、固く、重い。その手に唇を落としてから、ルカは少し躊躇ったのち、耐え切れずに少女の唇に自らの唇を重ねた。
(私は卑怯だ……)
ルカは己を謗る。彼女はまだルカの愛を受け入れてくれた訳ではないのに。
(王子様のキスでは彼女は目覚めないのか……それとも私では王子様にはなれないのか)
「玲子……」
彼女の唇にその名を注ぐように。ルカはそっと呼びかけた。だが、彼女は答えない。
「翼殿、例のあれ、持ってきていただけましたかな?」
「ああ、あれね!はい」
体育委員の美佳が、体育祭の準備だとかなんやらでいないので、久しぶりに昼休みに例の屋上に続く階段の踊り場に集まった舞たちは、翼が床にひろげた一枚の紙をのぞき込んだ。それは桜花市の全体を記した地図であり、ところどころ赤い点がマジックで打たれている。左大臣が飛び上がった。
「いやはや!感謝いたしますぞ、翼殿!」
「なんなのこれ?」
「実はですな、翼殿に頼んで、この町の地図上でここ最近螺鈿が現れた場所や火事の起こった場所に印をつけてもらったのです」
「ほら、あたしのお父さん、警察官でしょ?だから火事が起こった場所とか聞いたらすぐわかるの」
「でも、なんのため……」
左大臣はくるくると地図の周りを飛びまわりながらしばらくなにごとかを吟味していたが、ある瞬間に「おおっ!」と叫んで飛び上がった。不思議そうに見遣る舞と翼に、左大臣は地図を回転させ、西側を真上にして北側が右側にくるようにして、二人に示した。左大臣はひどく興奮しているようだった。
「姫様!翼殿!この形に見覚えはありませんかな?!もしくは、この形に近いものでも!」
二人は目を細めた。町の北側、つまり地図の右側に大きな点が三つ。それぞれが上から、奈々の家の周囲と、十字路脇にあってつい三日ほど前に全焼してしまった民家、そして水仙女学院を指している。それから町の中央部に移って花魁井戸のと、路上の車が突然発火した地点が一つ、町の南東部、つまり地図の左下には七つの点が散らばり、桜花駅のところにもう一つ。合計十二個の点が見える。不思議なことに、舞の家がある町の南西、地図上でいうと左上にあたるブロックには点がない。確かに何かの形を指しているように見えなくもないが…二人は同時に首を振った。
「よく!よく見てくだされ!ほれ!」
「そんなこと言われたって……」
困惑する舞に、左大臣は溜息をつく。
「では、こう致しましょう。姫様、翼殿、筆かなにかをお持ちですかな?」
「えっ?ボールペンならあるけど……」
ボールペンを渡されて、左大臣は全身を使いながら書きにくそうに点と点との間を線で結んでみせた。ただし、なぜか花魁井戸の点だけは他の点と結ばずに。尚も、舞には訳がわからなかったが、翼は「あっ」と言って、なにかを思いついた様子であった。
「もしかして、星座の形じゃない……?わかった!蠍座!蠍座に似てる!」
「ご名答!」と叫んで、左大臣は舞の手に抱えられていた和綴じ本を受け取ると、慎重に開いて、頁を捲った。舞には、それが江戸時代末期の書物で、舞の読めない字で書いてあることだけはわかったが、内容に関してはまるで理解できず、左大臣がどうしてもと頼むので水仙女学院から借りてきたのだった。しかし、左大臣が示したところに描かれた図はわかる。白い丸がちょうど地図上の点とほとんど似た形で書かれている。その脇に書かれている字を、舞なんとか字の形だけで捉える――熒惑守心の術。
「なんとか、わく……まもるこころのじゅつ?」
「熒惑守心の術でございます」
左大臣がもったいぶって言った。
「なにそれ?」
と舞と翼。
「ここに書かれていることをお読みになればおわかりになりますでしょうに!」
「だって、読めないもん!」
舞はくずし字を指で突きながら抗議する。左大臣は溜息をついた。
「仕方ありませんな。では、簡単に……『いにしへより唐国にては、熒惑星の心宿に近づくことを熒惑守心と呼びて、凶事のしるしとしたり。熒惑星これすなはち夏日星なり。史記始皇本紀に曰く……』えー、つまり、古くから唐国では夏日星が心宿に近づくことを熒惑守心と呼んで……」
「ちょっと待って!全然わからない!」
「あっ、そうだ!電子辞書!」
翼がぱたぱたと教室まで戻って電子辞書を持ってきてくれたので、二人はそれぞれ夏日星と心宿の意味を調べた。結果、夏日星は火星のこと意味する古語で、心宿は蠍座の恒星のひとつである一等星アンタレスを指すのだとわかった。蠍座のちょうど中心部に明るく輝く星である。和名では中子星とも呼ばれるらしい。そして心宿とは、古い中国においては青龍の心臓を指していたらしいこともわかった。ここまで知って、二人は再び左大臣の話を聞く準備が出来た。
「えー、それでですな、つまり火星があんたれすとやらに近づくことを、古い唐の国では熒惑守心と呼んで、不吉と見なしたそうです。実際にこうしたことがあった後でどんな凶事があったかが述べてありますが、そこはともかく……肝心なのはここからでして、ここに描かれたのは、熒惑守心の図でございます。ここにありますのは、心宿を含めて天より星を、四と九をあわせた数字、すなわち十三選び取ったものだそうで、それが現代の蠍座と同じ形をとっているのですな」
「現代の星座なんて、よく左大臣知ってるね」
「私の雑誌読んでるから。占いコーナー好きだし」
話の腰を折られて、左大臣は咳をして二人の注目を引き戻した。
「よろしいですかな?そして、ここにあります、この赤い丸印、これが心宿に近づく熒惑星でございます。こちらは日本の話ですが、千年ほど前――まあ、この本で千年ほど前ですからそれ以前の話ですが――このような星の並びがあった年、ひどい大火で京が焼き尽くされたとあります。熒惑守心の術とは、この星の並びを悪しき炎によって地上に描き、ひとつの町をまるまる焼き尽くすという恐ろしい術でございます」
「じゃあ、螺鈿は……」
舞の言葉に、左大臣はこくりと頷いてみせた。
「恐らく、この術を行おうとしているものかと考えられます」
ようよう真面目になって、舞と翼は顔を見合わせる。地図と、古書とを見比べて、二人は戦慄した。おぞましいほどに酷似した星の並びと、地図上の印。本の中で赤く記された火星は、ちょうど花魁井戸を示す印と同じところにあった。ふと、舞は二つを見比べて気付く。
「待って、左大臣。数があわないよ。地図の印と、この本の星の数。二つ足りない」
「一つはここ」
と、翼は図の中の心宿を突いた。
「地図だと、ちょうど町の中心だから……桜花神社のところだ。もう一つは……」
翼の指が、町の南西部のほとんどはずれの方を彷徨う。星の並びを当てるとしたら大体この辺りかというところに翼の指が止まると、舞ははっとした。そうだ。この辺りだ。ちょうど苧環神社があるところ。舞と司との運命が豹変してしまった場所――
「舞ちゃん、どうしたの?」
青ざめた舞を見て、翼が尋ねる。翼には既に司とのことを話していたが、今再びその話を取り出す気力はなかった。舞は首を振る。
「ううん、なんでもない」
「螺鈿の奴が狙ってくるのは、次はこの二点のどちらかでしょう。しかし、私が推測しますに、この心宿というのは星の並びにおいても要。最初に持ってこなかったということは最後に持ってくるのではないかと思われます。ですから、恐らく」
左大臣は苧環神社のある辺りをぬいぐるみの手で叩いた。小さな廃神社の名を地図はさすがに記していない。そこにはただ、等高線によって急斜面のあることばかりが表されている。
「こちらの方ではありますまいか」
「よーし!こうなったら、待ち伏せといこう、舞ちゃん!」
翼が舞の肩に手を乗せて言った。舞はぼんやりしていることを悟られぬよう、翼を見返す。
「待ち伏せ?」
「今まではあっちが出てきたところに駆けつけるしかなかったけど、今度は待ち伏せして襲い掛かってやるの!もぐら叩きみたいに!あっちだって、まさかあたしたちがこのなんとかって術に気付いてるなんて思わないだろうから。もちろん四六時中張り込んでる訳にはいかないけど、できる限りはさ。きっとうまくいくと思うなっ!」
「名案ですな。では、今日の放課後から早速!」
(また、行くのか、苧環神社に……)
チャイムに追い立てられて、舞は教室へ向かいながらつぶやく。
(今度行ったら、また恐ろしいことが起きるんじゃないかって、思っちゃう。できれば行きたくないな。あそこは司が……)
死んだ場所だから、とまで心は言いかけた。途端に舞の頭の中に横切る光景がある。椿の花弁の如く赤いもの、滴るもの。手水舎に振り落されてきた司の体。朽ちかけた柄杓ひとつ、傷ついた体ひとつで怪物に立ち向かい、無残にも突き飛ばされる司。舞の声に応えぬ司……
「舞ちゃん?!」
突如、激しい吐き気が込み上げてきて、舞は教室の床に膝を突き、両手で口元を覆った。なんで今まで忘れていられたのだろう。そうだ、司は死んだんだ。血を流して、ボロボロになって。翼をはじめとして女子たちが舞の周囲に群がってきて、舞を解放しようとする。慌てて洗面器をとりに向かおうとする者もある。けれども、舞の目にはどれもが無意味なものとして映る――どうしてこの人たちは、司を失ったのに平気でいられるの?
音のない、涙でぼやけた世界で、舞は司の遺体と向き合っていた。司の体は地面に伏せられ、その周囲の土がひろがる血を吸ってどす黒く濡れていた。司の唇は著しく歪んでその隙間から真っ赤に染まった口内とその中でただ一顆、光る白い前歯とを晒している。その目は目尻の裂けるのでは、眼球の零れ出るのではないかと危ぶまれるほどに大きく見開かれ、舞に向けられている。まるで、舞を恨むかのように……
「まい……」
司の体が震えだす。絞り出された声が彼のものだとは到底認めたくはないけれど、舞にはそれと分かった。彼の口が動いて、その前歯が喉奥から吐き出される夥しい血に押し流されて地面に転がり落ちるのを見ないでも。
「ま……い……おいで、よ……おれは……こ、こ……」
「いやああああああああ!!!!!!!」
舞は耳を塞いだ。しかし、必死に伏せようとする目はなぜだか司の上に釘付けになって、瞑ることさえできないまま。司が赤黒い地面に手を付いて立ち上がろうとしている。その腹の傷口から濁流のように血が溢れ出し、遂に土の吸収できる容量を超えて地表を滑り、舞の方まで流れてくる。舞の膝に司の血液が触れると、生まれたての仔馬のように不自然に関節を折り曲げながら立ち上がっていた司の顔がにやりと笑った。その広げた口からまたもや血と歯とが零れだす。目はいまだ大きく見開かれたまま、左右の眼球がそれぞれ全く異なる方向を見つめている。だが、その眼球がぐるりと一回転すると再び舞を捉えた。舞は悲鳴をあげた。
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだっ!!」
「まい……あいして、るよ……だから、こっちに…………」
司が歩んでくる。舞の腰元がその血に浸りきってしまうほど血を流しながら。一度朽ちた体は、もはや元の筋肉の使い方を忘れ去ってしまったかのように、爪先立ちになって、指先が後ろを向くほどに内股になり、ふらつき、よろめきながら。舞はただ拒絶の言葉を喚き続けるだけだった。逃げようと思っても体が動かないのである。とうとう司が舞の正面までやってきて、がくんと膝から崩れ落ちた。司はそのまま均衡を失って地面に倒れ込んだ。だが、その手だけはしっかりと舞の手首を掴んだ。
「舞……おいで……」
「いやああああああああああああああっ!!!!!!!」
「舞ちゃん、落ち着いて!」
正体なく泣き叫ぶ舞を、クラスメート全員が蒼白になって見守っている。舞は穏やかな生徒だった。こんな風にヒステリックな素振りをみせたことは今までない。ただ、それは舞に限らず、このクラスのどの生徒に関してもあてはまることであろうが。叫び、床の上に頭を抱えこんで何かを追い払うかのように腕を激しく振る舞の様子に、女子たち数名が後ずさった。単に恐ろしかったばかりではなく、物理的な危険を感じたためであった。と、その手で舞は両耳を塞ぐ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!許して!許して!!司っ!!!」
その時、騒ぎを聞きつけた担任の菅野先生がやってきた。舞は叫ぶことをやめてひたすらにすすり泣きに徹し、翼がその肩に触れる。菅野先生はいつもの飄々とした様子はどこへやら、すばやく舞を抱きかかえると、保健室へと駆けだした。翼もその後を追う。残されたクラスメートたちは目線を交わすだけでも精一杯で、言葉も出ない有様であった。ようようひそひそ声で女子たちが話し出す。
「どうしちゃったの、舞ったら?」
「いつも騒いだりしないのにね。珍しいっていうか、あんなの見たことないわよ」
「ごめんなさい、って叫んでたけど」
「うん。『許して、司』って……」
ちょうど菅野先生と階段ですれ違い、一体何事かと慌てて教室に戻ってきた恭弥は女子たちのささやきにはっとした。司だって?その名前を持つ人が、このクラスにたった一人……恭弥が机に座っているその人の横顔を見遣ると、その人の目はいつものように洋書の中に注がれながらも、その顔は紙のように白くなっていた。
「本当に、ごめんなさい……」
保健室の椅子に腰かけて、舞は涙で汚れた顔をハンカチでぬぐいながら菅野先生に呟いた。舞の隣には翼が腰かけ、舞の手をしっかりと握りしめている。パイプ椅子に腰かけて菅野先生は舞と正面から向き合い、小さく何度も頷いてみせた。
「謝ることはなにもありませんよ。少しは落ち着きましたか?」
「はい……私、どうしちゃったんでしょう。ついさっきまで何にもなかったんです。急に何が何だかわからなくなって……」
養護教諭の里見先生と菅野先生はちらりと顔を見合わせた。みんな、私のこと、きっと頭がおかしいと思ったに違いない。そう考えると、舞は気分が滅入った。おぞましい幻覚はとうに消え失せてはいた。あの幻覚が残した心証よりも、これからクラスメートになんと思われるか、それから先生方が自分をどう考えているか、そのことの方がよっぽど舞を落ち込ませた。舞はちらりと壁の時計を見上げる。もう授業が始まってから十分近く経つ。今日の社会科の授業は例の調べ学習の中間発表だ。中心メンバーである舞と翼がいなくてはきっとろくろく発表もできまい。よし。
「先生、私、授業に出てもいいでしょうか……?」
「いけません!次の授業はおやすみして、少しここでゆっくりなさい」
「でも……」
「京野さん、お水飲む?」
養護教諭の里見先生が、冷たい水をコップに注いできてくれた。
「大丈夫だと思うけど、次の授業はお休みした方がいいよ。きっと疲れてるんじゃない?お母さん、今日おうちにいらっしゃるかな?」
「いやです!帰りません!」
いつになくきっぱりと舞が言ったので、先生方も翼も驚いた。
「お願いです。せめて、六時間目だけでも……もう元気になりましたから、本当に大丈夫です。ありがとうございます」
「……青木さん」
菅野先生が言った。
「青木さん、京野さんは大丈夫みたいですから、授業に戻ってください。どうも付き添いありがとうございました。それから里見先生、少し京野さんとお話ししたいのですが、外していただいてもかまいませんか?」
里見先生はさらりと引き下がったが、翼の方はまだ後ろ髪引かれる様子だったので、舞は「発表お願い」と頼むことで、翼をなんとか解放してやった。後に残った舞と菅野先生は、里見先生が職員室から持ってきてくれた温かい紅茶を飲みつつ、しばらく無言のままでいた。
「……そういえば、以前お貸しした本はお読みになりましたか?」
菅野先生が急に言ったので、舞は拍子抜けした。
「えっ?……あっ、はい!読みました!」
「面白かったですか?」
「はい。あの、ちょっと難しかったんですけど……」
菅野先生はいつものからからと心地よい笑い方をした。その声を聞いていると、舞もなんだか安心できる。舞は翼ともう一人、自分の正気を疑っていない人間を見つけることができた気がした。先生が私を信じてくれるなら、大丈夫。舞は両手で包んだマグカップから紅茶をすすった。涙で冷えた体がじんわりと温まっていく。
「あれを中学生で読み込めたら、大したものですよ。面白いですねぇ、螺鈿伝説は。あれは作られた物語だということがお分かりになったでしょう?」
「はい。歌舞伎からとってきちゃったんですよね、螺鈿って花魁の話」
「そうなのです。町は一応、あの場所で死んだのは螺鈿ということでやっていきたいみたいですから、不都合な真実という訳ですね。しかし、何事も真実を正しく見据える目というのが大切なのですよ。風情というものは大切ですし、物事をそのまま曝け出すのは野暮ですがね。でも、風情というものだって、なにか存在するものを飾りたてる上でようやく成り立つものなのですから、その基礎を無視するのはいかがなものかと思われます。どうでしょうねぇ?」
「わ、私もそう思います!」
「ですよねぇ。まあ、私たちが歌舞伎の世界で楽しむぐらいにはいいでしょうが。螺鈿ということにして祀っていられたら、大往生を遂げたかもしれない現実の螺鈿さんにも失礼ですし、あの場所で死んでしまった女性が浮かばれませんものね」
でも、あの場所で死んだのは確かに螺鈿に違いない。だって本人がそう言っているのだから……先生はやはり違うと思っているみたいだけれど。舞はふと思いついて聞く。
「あの、先生は、本当にあの場所で死んでしまったのは誰だと思いますか?」
先生が苦笑した。
「困りましたねぇ。実は考えてはいるのですが、あまり中学生に聞かせるような話では……それにこんなところで二人きりで話したとなると、セクハラだと訴えられかねませんからね」
「えぇっ?そ、そんな話なんですか……?!」
菅野先生は困ったように笑っていたが、まあ、と言って切り出した。
「じゃあ、誰にも言わないでくださいよ。僕の考えではね、あの場所で死んだのはこの辺りの宿屋の飯盛り女です。飯盛り女については詳しいことは、僕は言えませんからね。調べたければご自分で調べてくださいな。簡単に言えば、言葉の通り、飯を盛る女、宿屋で働いていた女性ですね。この辺りは宿場町でしたから。まあ、そういう女性というのは、遊女まがいなこともしたわけです。おわかりかしら?」
舞は赤らむ顔を隠すために懸命に頷いた。
「ところで、伝説では遊郭が火事になり、遊女がここまで逃げてきたとのことですが、まあ現実的に距離からしてありえないでしょう。花魁ならばなおさらです。だから、僕は、この町のかわいそうな飯盛り女の一人が火事から逃れてきて死んでしまい、それを憐れんだ人々が話を残しただけのことだと思うのです。だけといっては失礼ですがね。ただ、水辺で死ぬ女性の伝説というのは世界各地にもたくさんありましてね。元の話などまるきりなかった可能性もありますが。宿屋が火事になった記録もいくつか残っていますし……」
そこで、先生は言葉を切った。紅茶をいっきに飲み干した。舞はきっと、先生は喋りすぎて喉が渇いたのだろうと思い、自分もまた紅茶をすすったが、実はそれが話題を変えるための先生の巧みな操作であったことに、舞はあとから気付いた。
「元気が出たようですね、京野さん」
先生がにこにこと笑いながら言ったので、舞は思わず「はい!」と言った。
「よろしい。僕の見立てではあなたは正常です。なにも心配しなくてよいですよ、京野さん。しかし、やはりもう少し休んでいらっしゃい。疲れが出た可能性もありますからね、もし気が進めば、寝かせてもらうといいでしょう。ところで、今日は三者面談でしたが、できれば別の日程を……」
「ああっ!ダメです!今日やります!!」
舞は慌てて言った。
「しかしね、京野さん……」
「だって、明日以降は英語の小テスト返ってきちゃうんですもの!そしたら、うちの母、きっと面倒なことになりますから!」
先生はかなり迷ったようであったが、考えたのちに唸って言った。
「よろしい。お母様と今から電話で相談してまいります。もしお母様がよいということでしたら、今日やりましょう。しかし、京野さん、交換条件です。お母様がいらっしゃるまでは、保健室で過ごすことです。確か三時でしたね?それまでここにいられるというならば、今から電話して参ります」
「わかりました」
舞は素直に言った。もう自分は大丈夫だと自信があったし、前回のテストに関しても全く出来ていないという自信があったので。
「では、少し横になりなさい。僕は行ってきますから。あとで鞄を届けさせます……」
六時間目の授業が終わり、清掃の時間になると、保健室の外が急に騒がしくなった気がした。しかし、舞は約束通りベッドに横たわってじっとしていた。もう幻覚のことはほとんど思い出せなくなっていた。それでよかったのだ。この退屈な時間中、あのおぞましい白昼夢に苛まれ続けていたら、舞はいよいよ気が狂ってしまったにちがいないのだから。白昼夢――司と過ごしたあの懐かしい日々は、今となっては白昼夢のように……
保健室の扉が開いた音がした。里見先生となにやら話す数人の声が聞こえて、先生がベッドを囲っているカーテンから顔を覗かせる。と、待ちきれなかったのか、クラスメートたちが里見先生の脇を通り過ぎて舞の周りを囲み始めた。翼、美佳、間島さんに、優美ちゃんに、楓ちゃんに、理沙。それに、なぜか恭弥と佐々木君に、矢嶋君。
「舞!」
美佳がまっさきに舞に飛びついてきた。里見先生の制止など、もはや聞き入れられなかった。
「もう、どうしちゃったのよ!心配したんだから!」
「美佳……」
「京野、お前、疲れてんじゃねぇの?顔色わりぃぞ」
「それは美佳が締め付けてるからだと思うけど。おーい、美佳、離れなさい」
理沙が言うと、翼が美佳を引きはがした。
「でも、元気になってよかったね!菅野先生がね、お見舞い行ってもいいってさっきホームルーム中に言ってたから、押しかけちゃった」
と、これは優美。美香と同じ女子サッカー部の少女だ。
「菅野先生が?」
「ああ。僕も学級委員として、一応……」
「そんなこと言って、佐々木、舞のこと好きなんでしょ!」
「バ、バカなこと言わないでくれたまえ!僕は……!」
「おっ、なんだって、僕は?」
「ほらよ、京野、鞄」
学級委員の佐々木を女子たちがからかい出す中で、恭弥が舞の鞄を手渡してくれた。舞はその鞄のファスナーの隙間の奥に舞との再会に狂喜し、無言のうちによよと感涙する左大臣の姿を見た。舞の頬をつと涙が伝った。
「ちょっ、ちょっ、舞!まさか、あんた、また……!」
「こ、こら、あなたたちが騒ぐから……!」
「違うの」
手の甲で涙を拭いながら、舞は微笑む。佐々木をからかっていた一団も、今は戦闘態勢をそのままに舞を見つめている。舞は鞄をぎゅっと抱きしめた。
「違うの。あのね、嬉しかっただけ……みんな来てくれたから。ありがとう……ほんとに……!」
美佳が舞の頭を胸元に寄せて、ぽんぽんと叩いた。きっと変な子だと思われると心配していた。あんな風に取り乱したのだもの。もう受け入れてもらえないかもしれないと思っていたのに……全て杞憂で済んだなんて。ああ、菅野先生、本当にありがとうございます……
「じゃあ、結城のこと……ごめん、あたしが……」
「違うよ。翼ちゃんのせいじゃない」
一同が解散したあとで、翼だけはこっそり戻ってきてくれた。翼は左大臣と共にベッドの傍らで舞の話を聞いて、まるで我が事のように悄然としている。却って舞が翼を元気づけなければならないほどだった。
「いえ、わたくしのせいでございます。わたくしがなんの配慮もなく……」
「もう!みんな自分のこと責めるの禁止!誰のせいでもないよ。ぜーんぶ偶然でしょ?次の螺鈿のねらいが苧環神社だったなんて。強いて言うなら螺鈿のせい!さっ、この話はおしまい。とにかく私は大丈夫だよ。翼ちゃん、何度も来てくれてほんとにありがとう。今日は三者面談して、お母さんと帰るだけだから、本当に大丈夫」
「そう……じゃあ、あたし、そろそろ帰ろっかな。待ち伏せ作戦は延期っと。舞ちゃん、ゆっくり休んでね」
「うん。気を付けて帰ってね」
「あっ、そうだ!鈴が鳴っても出てきちゃ駄目だからねっ!あたしが一人で……」
その時、保健室の扉が開いた。舞はさきほど出かけていった里見先生が戻ってきたものかと思って特に気にしなかったが、翼がカーテンから顔を出してみてはっと息を呑む音が聞こえた。舞と左大臣はきょとんとして翼のツインテールが揺れているあたりを見遣る。
「……奈々さん」
「あっれー、翼ちゃん。やっほー!」
翼はちらりと舞の方を見て、やや躊躇していたが、やがて舞が猛烈な勢いで頷くのに促されて、カーテンの外へと出ていった。舞と左大臣はぴんと身を起こして耳を欹てた。
「どうしたんですか?」
「んー?いや、さっき階段ですッころんじゃってさぁ、一応バンドエイドだけもらおうと思って。今日持ってきてなかったんだよねー。翼ちゃんは?」
「別に大した用じゃありません……あの、バンドエイド、あげましょうか?いくらか持ってますけど」
「ほんとー?!ラッキー!ありがとう!!」
がさごそと音が聞こえるのは、翼が鞄からバンドエイドを出す音だろうか。それを受け取ったらしい奈々の感謝の言葉がもう一度。それからきちんと膝に貼れたと見えて、満足そうな奈々の声。
「よかったー、助かったー!あたし、これからすぐ出かけなきゃいけなくってさぁ。でも膝の上に擦り傷あったらみっともないもんね」
「あっ、そういえば今日、個展……」
「そう!今日からなんだ!翼ちゃん、今日暇?一緒に来ない?!」
行け、行け、行け、と舞は必死で念じた。行きなさい、翼。お願いだから、一緒に行って。そうしたら、もしかしたら奈々を説得できるチャンスが生まれるかもしれない。さあ、翼、行くのよ!
「いえ、あの……ごめんなさい、今日は用事があるから」
な、ん、でっ!!!!舞は口の形だけで叫んだ。声が出るまであと一歩というところだ。舞の形相に、左大臣がいささか青ざめている。
「そっかー、残念。じゃあ、また今度来てね!一週間ぐらいはやってるはずだから」
「はい……そのうちに」
「今度またうちに遊びにきてね!悠太がまたヒーローのお姉ちゃんに会いたいってさ。そうだ、この間描いた絵も渡さなきゃね。誕生日プレゼントなのに遅れちゃう。じゃっ!」
奈々が部屋を出ていく音がする。舞は思わずベッドから飛び降り、一言物申そうと翼の方に歩んでいこうとカーテンを開けて、開けた瞬間に翼と正面衝突した。二人は同時に「痛っ!」と叫び、額を抑えて屈みこんだ。左大臣がおろおろと叫ぶ。
「まったく、なにをしてらっしゃるのですか、姫様も翼殿も!」
「だって、翼ちゃんがせっかくのチャンスを……!」
「チャ、チャンスってなにっ?!」
「だって、一緒に行けば奈々さんのこと説得できたかもしれないじゃない!」
「あのねぇ!二人で戦うって決めたでしょっ!もう奈々さんのことはいいって、舞ちゃんの方が言ったんじゃない!」
「そりゃそうだけど、別に完全に諦めるって意味じゃなくて……!」
再び扉が開いたので、舞は奈々が戻ってきたものかと期待したが、残念ながらそれは違う人間だった。ただし、舞が全く予期していない人物ではあったが。長い髪をいつも以上にきれいに結い上げて、ラベンダー色のブラウスにロングスカートという出で立ちの舞の母親が、恐らくは保健室の中から聞こえるすさまじい騒音に呆れかえりながらも入ってきたのである。掴み合う姿勢であった舞と翼はぱっと離れると、舞はベッドの中に戻り、翼はその場に直立不動になった。左大臣はベッドの下に身を隠した。
「ちょっと、舞……あなた、何してるの?」
「えっ?なにって、つ、翼ちゃんとおしゃべりだよ」
「こ、こんにちは!」
九十度の角度で頭を下げた翼に、舞の母親もにこやかに挨拶を返す。互いの自己紹介が終わると、母親は舞のベッドの脇までエナメルのベージュのハイヒールの靴音を軽やかに響かせてやってきて、その額に手をあてる。
「熱はないみたいねぇ……大体、あなた、随分元気そうじゃない」
「う、うん!だから大丈夫だって、先生に言ったんだよ」
「そう。なーんだ、心配して損したわ。どうしちゃったのかと思ったわよ、もう。じゃあ、少し早いけど、とりあえず教室にいきましょうか。菅野先生にも随分御迷惑おかけしたみたいだし。そうだ、保健室の先生にもご挨拶しなくっちゃ……翼ちゃん、どうもありがとうね。よかったら、今度うちに遊びにきてね」
「あっ、はい!ありがとうございます!」
母親に付き添われて舞が出ていくと、翼はふうっと溜息をついた。と、翼は一人取り残された左大臣がベッドの下から這い出てきた光景にぶつかった。左大臣は「姫様ー!」と叫びながら、よたよたと保健室のドアの方へと走っていく。振られた女か、と翼は胸中呟いた。左大臣は扉に張り付いて、扉をばんばんと叩いた。仕草が大仰なだけで、ぬいぐるみなので音はしなかったが。
「ひ、姫様……!」
「もう、ぼんやりしてるから……しょうがないなぁ。じゃ、先に帰ってようよ。送ってってあげるから、案内してよね」
「お、おお!ありがたや!感謝いたしますぞ、翼殿!」
翼はしゃがみこみ、自分の鞄の中に左大臣を招き入れて立ち上がる。と、立ち上がった翼はすぐには歩き出さずに、その場に立ち尽くしたままでいた。「翼殿?」と左大臣が尋ねると、翼は青い瞳を心の迷いのために川面のように揺らしながら、左大臣の頭の上に落とす。
「ねぇ、左大臣……やっぱり言わなくてよかったよね?」
「なんのことでございましょう?」
翼は肩にかけた鞄の紐に両手を添えて抑えた。
「結城のこと。結城、多分聞いてたの。舞ちゃんが『許して、司』って呼ぶの。五時間目の発表の時、あいつ、真っ青だった……」