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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第一章 現世編―螺鈿の巻―
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第八話 少女たち(上)

 ぱしん、という乾いた音と、パーンという華やかな音とが、同時に響いた。翼はなにがなんだかわからぬまま、玄関に腰をついて茫然としていたが、クラッカーのテープを頭の上から浴びせられて我に返る。打たれた頬に手を宛がいながら立ちはだかる人影を見上げると、三角帽を被り、鳴らしたばかりのクラッカーを持って怒り狂った母親と、その背景に同じく三角帽を被り、クラッカーを手にあきれ返った様子の、祖父、祖母、姉二人の姿が見えた。翼はどうやらビンタと祝福とを同時に受けたらしい。


「えっ……?なに?」

「つ、翼、誕生日、おめでとう……!」


 後ろの四人がそろわぬ声で言うと、続いて降ってきたのは母親の怒号だった。母親は容赦なく襟首を掴んで娘を引っ立てた。その剣幕たるや。さすが犯罪者相手に張り合っていただけのことはある。


「てめぇの誕生日だっていうのにこんな遅くまでどこほっつき歩いてたの、このバカ娘が!」


 と言ってから、母親は急に涙ぐんで翼の肩を抱き寄せる。


「お、お母さん……?」

「翼、お母さんは心配してたんだよ。駅の方でなにやら事故があって、怪我人が出たっていうし、六丁目の方では何軒も火事に遭った家があるっていうし。それに連絡もとれないから」


 祖母が説明すると、母親はますます翼を抱きしめる腕に力を込めた。抱きしめるというよりは、しがみつくに近い。翼はその愛が嬉しかったし、非常に申し訳なくも思ったが、いい加減離してほしくもあった。


「お母さんだけじゃないぞ、翼。わしらも随分心配したんじゃぞ」

「ごめんなさい、おじいちゃん、おばあちゃん……とっても大事な用があったの。あのね、駅前の事故に巻き込まれた男の子を家まで送り届けてたの。それで……」

「だとしたって、連絡ぐらい寄越しなさいよっ!」

「お、お母さん、耳元で怒鳴るのやめ……痛い、痛い、痛い!つねらないで!!」


 青木家の末娘への祝福は、例年より少々手荒かった。しかし、かくして、翼は十四歳となったのである。





 苧環おだまき神社の拝殿の一室に、その人は憩っていた。長い眠りから目覚めるべく。長い眠りを以てしてもついに癒しえなかった傷を癒すべく。部屋の中には白いその人の口元の輪郭ばかりが浮かび上がり、あとは、その人が着る黒い直衣が色こそ紛れども、悪鬼、悪霊、その他つまらぬ落ちぶれた神どものざらついた呼吸を溜めたざらついた闇の中に唯一違う質感を示して艶やかに流れているのが、触れればそれとわかるだけ。そして、その衣にすら触れられる人はただ一人であった。


 漆は天井を仰いだ。慣れた目には、長い間放置されている間に湿り気を帯びて膨らんだ梁と、そこを伝っていていた鼠どもの足跡も見えるかもしれないけれど、今見上げる人の眼はいまだに煙に焚かれたような濁りを帯びている。ただその瞳は、憎悪と、人々が恒久と呼ぶところに含まれているあまりにも長い年月の間にそれすらも弄ぶことできるようになった残忍さとを、映すことはできる。彼は脇息にもたれ掛かったらその後、自らの力では容易に起き上がることすらできない己への憐れみを、己への蔑みを、ただ一人の少女への殺意の薪としてべ続ける。その炎はやがて、この世界全てをも燃やし尽くすのであろう。かつてその人は確かにそれをし遂げたのだから。終末は、彼が見届けぬところで訪れたのだけれども。


「漆様……」


 襖の奥に衣擦れの音がする。入るように命ずると、芙蓉の薄色の髪と人形のそれのような面とが、その上に被せていた布を取り払ったかのように現れた。芙蓉は恭しく頭を下げる。


「どうした?」

「螺鈿の奴がなにごとかを企んでおります」

「企んでいるとは?」

「仔細はわかりかねます。ただ、新たに見つけた四神の鈴を奪い取ったのちに行方を眩ませました。わたくしの式神に追わせているからには、すぐに見つかりましょうけれど……始末いたしますか?」


 漆は冷たく微笑んで、芙蓉を嗜める。そんな風に戯れるとき彼らはいつも、猫が獲物をいたぶるときのように、無邪気な心のうちに、その爪先の鋭さを、爪先にこびり付いた血の香りを、ひけらかさずにはいられないようだった。


「これこれ、芙蓉。せっかくお前が苦労して蘇らせたものを、もう始末しようというのか?お前もつくづく殺生なやつだ」

「でも、漆様……!」


 漆の戯れに絆されて、芙蓉の口調には媚びるような柔い音が加わった。漆が手を伸べると、芙蓉は膝をいざり寄せて主人の元に身を寄せた。髪を梳かれ、耳朶に触れられ、芙蓉は息を零しながら目を閉じる。


「漆様……」

「案ずることはない。あんなはしために一体なにができるというのだ?泳がせておいても危ないことはなかろう。いよいよという時にはお前が手を下せばいい。お前が私についている限り、遅すぎるということにはなるまいよ……ところで、芙蓉、傷は治ったか?」


 長い芙蓉の髪を滑って、腰のあたりへ、それから更に腿へと滑っていこうとする漆の手を、芙蓉は抑えて咎めるような視線を主へ向けた。


「よくなりましたわ。もうお返ししてもよろしいのですけれど……この体」

「……無理をするな」

「漆様こそ……」


 芙蓉はそう呟いた唇を漆の肩に押し付けた。それが彼女の出来るせめてもの抗議であったから。しかし、螺鈿のやつ、あれだけ手をかけさせておいて、もし漆様に歯向かうような素振りを見せでもしたら……芙蓉は立ちのぼってくるものを堪えるべく両腕で漆の肩に縋った。それは怒りばかりではなかった。




 舞、美佳、恭弥、司の四人は、机を寄せて集まって、今週木曜日の社会の時間に行われる中間発表のために準備を進めていた。舞はついこの間見にいった「恋合阿古屋心中」のあらすじの載った歌舞伎の筋書きを持ってきていて、それを回してはみたが、美佳と恭弥はきらびやかな舞台の写真だけには興味を示して、あらすじの頁を開くと、もう訳がわからないという風に冊子を閉ざしてしまった。司だけは、どういう感情を示しているのかは不明だが、怪訝な顔をしながらもきちんと筋を読み通していた。現段階で、きちんと調べ学習を行っているのは、舞と翼だけのようである。恭弥と美佳は舞がまとめてきた話を聞いてひたすら感心しているだけだった。


「さっすが、舞!きちんとやってるわねー。これで安心だわー」

「美佳、ほんっとになんにも調べてないの?」

「だーって、ついこの間まで試合だったのよ?とーっても無理だって」

「ゴールデンウィークがあったじゃない……」

「ところで、翼のやつはどうしたんだよ?サボりか?」


 恭弥がきょろきょろ周囲を見回して翼の姿がないことを確かめてから言う。


「つ、翼ちゃんはちょっと用事があって……」

「なんだよ、それ」

「ほ、ほら、学級委員だったり、なんなりで……!」

「でも佐々木も学級委員じゃねぇかよ。あそこにいるぞ」

「え、ええっと……」


 同じく二年A組の学級委員である佐々木という少年を指さして恭弥が言うと、舞はすっかり慌ててしまう。どう言い訳したものか。その時、はからずも美佳が声をひそめて助け船を出してくれた。


「そういえばさ、聞いた?先週の金曜日に、駅前で事故があったでしょ?佐々木のやつ、本当に見たんだって」

「……見たって何を?」


 珍しく司が反応してみせたので、美佳は一瞬意外そうな顔をみせた。一方で、舞は話の行き先がどんどん怪しくなっていることに、焦燥を隠し得なかった。舞は慌てて桜花図書館から借りてきた本を引っ掴み、逆さまになっていることも気づかずにそれを掲げた。


「ええっと、それで、この本のことなんだけど……!」

「ほら、ネットにあがってたじゃない、バカでかい蜘蛛の写真!あれ、合成だのなんだの騒がれてたけど、佐々木のやつ、本当に見たんだってさ」

「そーいえば、あの蜘蛛の写真撮ったの加東の兄ちゃんらしいぜ」

「蜘蛛……?」


 恭弥と美佳が盛り上がっているその間を横切るようにして、司は舞に視線を投げかける。舞は本に集中しているふりをしようとしたが、なにせ表紙が逆さまになっているために全く無意味であった。

「お前も見たのか?」

「……」

「京野、お前に聞いてるんだ」


 恭弥と美佳が急に口を閉ざして舞を見遣る。舞はまだ本を下ろしきれないまま口元だけを覆い隠して、口の中でなにか言葉にはなりきらないものをもごもごと呟いた。


「なによ、舞、あんたも見たの?」

「えっと……」

「お前が教えてくれたんだろう、怪物が現れたから帰れって」

「あっ、あれは、その……」


 司の詰問に舞はたじたじになる。どう返せばいいのだろう。舞としては、漆のことや怪物たちのことはできる限りは伏せておきたいのだ。そんなことが世間に知れ渡ったら、大混乱になるだろうし、なによりも自分が京姫としてそれらと戦っているという事実を誰にも知られなくないのだ。しかし、よくよく考えてみれば、助けを求めることの方がはるかに容易なのだ。なにもたった数人で世界の命運など背負う必要はない。もし、誰かに、もっと力を持った賢い大人に助けてもらえれば……


(信じてもらえっこない……)


 舞は即座にそう思って、それから、そう思い込むことで人に打ち明けることから逃れようとしている自分に気付き、愕然とした。舞はその心の機構を解きあかそうとして胸の中をかき回し、ただ心の底に溜まった砂を、掴んでいくうちから零れ落ちていく砂を、拾い上げただけであった。自分はなぜ人を遠ざけようとしているのだろう。他人を戦いに巻き込みたくないからか。土足で、前世の記憶のなかに踏み込んでほしくないからか。違う、前世の記憶など……舞にとって大切なのは、司との記憶である。今、舞を見つめている人ではなく、幼いころ一緒に笑い合い、泣き合い、泥だらけになって駆け回った人との。誰かの介入が、舞一人ならば漆との戦いによって得られるかもしれない――あるいは取り戻せるかもしれない――なにかを、ぐしゃぐしゃに踏みつぶしてしまいそうで、舞はそれが怖いのだ。


(ああ、私やっぱり信じてるんだ……司とまた会えるって。少なくとも、それをちゃんと願ってたんだね、まだ……)


 そう気付いた瞬間、舞は司の前にいることが急にいたたまれなくなってきた。目の前にいる結城司という少年を紛い物のように感じている自分自身になにかしら後ろめたいものを覚えて。舞はわざとらしい声をあげて立ち上がる。本が床に落ちた。舞の声に驚いて、美佳が飛び上がる。


「な、なによ、急に?!」

「わ、忘れてた!私、その、菅野先生に呼び出されてたんだった!ちょっと行ってくるね!」


 舞のお粗末な言い訳に騙された者は誰一人としていなかったが、舞が飛び出していった理由を追求しようという者もいなかった。美佳は「なーんだか」といって肩をすくめて見せたし、恭弥はすでに司をサッカー部に勧誘することに集中しはじめていた。ただ、司だけは、舞の消え去った後になおも鋭い視線を留めていた。




「あの、黒田さんってどちらにいるかご存じですか?」


 翼が尋ねると、三年B組の教室の入り口付近で喋っていた先輩たちは顔を見合わせた。


「黒田さんねぇ、そういえば昼休みはいっつも教室にいないよね」

「あっ、美術室じゃない?よく絵描いてるから。あの子、画家なんでしょう?よく知らないけど……」


 翼は先輩二人に礼を言って、三階の廊下をまっすぐ進んだところにある美術室へと歩んでいく。しかし、嫌だな、と翼は思った。今の会話だけで、奈々がクラスでどんな立ち位置にあるのかが大体わかったような気がした。


 けれども、もっと憂鬱なのは……翼は溜息をつく。これから奈々をなんとかして説得しにいかなければならないことだ。十四歳になった翼の最初の試練とも言えよう。奈々は、翼の顔を見て、どうするだろうか。逃げ出すだろうか、拒むだろうか。それが怖くて仕方がない。でも、なにもしないでいるのはとても耐えられない。奈々は突然のことに驚いただけで、きっと説得すれば話は通じるはずなのだ。だって、力が与えられているんだもの。世界を、自分の愛する町を守ることのできる力が。これほど喜ばしい、名誉なことはないだろう。


(大丈夫。奈々さんだって、世界が滅びていくのをみすみす見ていられるような人間ではないはずだもの)


 翼は深く息を吸い、半開きになった美術室の中を覗いてみた。廊下のざわめきとは対照的に、美術室は静かでどことなくひんやりとしている。壁に飾られた名画のレプリカは、その原物たちならば惜しみなく浴びせかけられるであろう人々の賛美を集めることはとうに諦めており、その色彩もしおらしく白い壁の中に溶け込んでいる。黒板脇には石膏の胸像がならんでおり、いずれも険しい顔のうちに疲れたように薄青い影を湛えていた。翼はそっと見渡してみると、奈々は一番入り口側から離れた窓辺の席に腰かけ、こちらに背を向けて、時折遠目にスケッチブックを掲げて確かめながら、絵の具で慎重に着色作業に取り組んでいる。翼は勇気を出して美術室の中に足を踏み入れた。近づいても奈々は翼に気付かぬ様子であったが、翼はこほんと咳をして、それから呼びかけた。まさか故意に無視されている訳ではないだろうと信じて。


「な、奈々さん……っ!」


 振り返った奈々は、意外にも嬉しそうにぱっと顔を綻ばせた。


「翼ちゃん!」

「あの、少しいいですか?」

「いいよ。そこ座んなよ」

「あっ、はい」


 翼は奈々に指示された場所に腰をおろし、それから初めて奈々が着色しているのが、他ならぬ自分をモデルにした絵であることに気がついた。奈々はこうして、絵の中の翼と向き合っていたのだ。そう思うと、なぜだか急に恥ずかしくなって頬が火照ってくる。知らぬ間に、あたしは奈々さんと会話をしていたのだ。


「翼ちゃんの絵、むっずかしいの。いろんなアイディアが浮かんできちゃってね、どれもいいような気もするしどれもだめなような気もするし。上手くまとまんない。でも、大丈夫!絶対完成させるからね!プレゼントだもん」

「そんな。でも、ありがとうございます……!…………あのっ、奈々さん、あたしがなんで来たかわかります?」

「あたしと話したかったからじゃないの?」

「それはもちろんそうですけど、なんの話をしたかったか……」


 と、奈々が急に翼の顎を捉えて間近に顔を寄せた。翼は一瞬状況が呑みこめないでいたが、自分の睫毛が奈々の眼鏡のレンズに触れかけていることに驚いて、思わず身をのけぞらせようとした。だが、奈々の手は緩まなかった。


「な、奈々さん……っ?!」

「翼ちゃんの目って、すっごく綺麗な色してるんだね」


 奈々の手が離れてもしばらく、翼はどきどきと高鳴る鼓動を抑えられないでいた。あんなに間近に顔を寄せられたことは今までになかった。女性が相手であっても……奈々の吐息が唇をくすぐっていった感触を思い出して、翼は思わずそこにくちづけられた後のように口元に触れた。そして、ますます赤面する。こんな時に限って、奈々は翼の反応に敏感だ。


「あれっ?どうしたの?」

「き、急になにするんですかっ?!」

「なにって、ただ目の色どうしようかなあと思って。その青が出せるといいんだけどなぁ」


 暢気な奈々に、翼は自分が動揺していることすら腹立たしくなる。翼はそっぽを向きながら言った。


「奈々さん、あたしのことすっかり嫌いになってると思ってました!」

「どうして?あたし、翼ちゃんのこと好きだよ」

「……っ!す、好きとか、軽々しく口にしないでください!女同士でもっ!」


 と、奈々は、今度は翼の髪へと触れた。水色のリボンで結んだツインテールの房をさらさらと指で梳く。翼は椅子の上から飛び上がった。


「今日はあたしのカチューシャつけてくれてないんだね」


 そういえば、今日はいつもの習慣で髪を結んできてしまった。奈々を説得するのであれば、カチューシャをつけてきた方がよかったのかもしれない。翼は奈々に触れられていない方の髪を梳いて思う。そうだ、説得……危うく奈々のペースに呑みこまれていたが、ようやく落ち着きを取り戻した翼は、奈々の方に向き直った。奈々はこちらに横顔を向けて、ゆっくりと細やかに絵筆を動かしている。その筆が止まったときをみはからって、翼は言った。


「奈々さん、あたし、奈々さんのこと説得しにきたんです!一緒に戦ってもらえませんか?同じ四神として」


 奈々がなにも言わないのは、拒絶の意味なのか、それともどう色をつけたらいいものか迷っているだけか、翼には判然としない。しかし、答えは決まっていたのだろう。やがて奈々は唇を薄く開いた。


「……無理だよ、翼ちゃん。あたしには翼ちゃんたちみたいに戦えない。そんな力、ないもん」

「そんなことありません!鈴を取り返せば、絶対に奈々さんも四神として覚醒できるはずなんです!」

「無理だよ。だって、あたし、現に今、怖いもん。戦うことが」

「それはあたしだって……!」


 奈々はとうとう色を決めかねたと見えて筆を置いて、溜息を吐く。そして翼の方を見て微笑んだ……あの夜と同じ微笑みだった。


「翼ちゃんは強いんだよ。自覚してないだけで。だから、他人のためにも命がけで戦うことができるんだよ。でも、あたしには無理だよ。怖いと思ったら、弟のためにすら命を投げ出せない。それでも、あたしは自分自身を恥じたりしないし、自分を責めもしないけれど……ねぇ、翼ちゃん。大切なもののために戦うって、翼ちゃんが気付いていないだけですごく勇気がいることだと思うんだ、あたし。だから、あたしは翼ちゃんを尊敬してるの。舞ちゃんこともね。でも、翼ちゃんみたいになるのは無理」

「無理なんかじゃありません……!あたしだって、本当は怖くて……」

「怖いけれど、それと向き合えるならやっぱり翼ちゃんはあたしと違うよ」

「……だって、それじゃあ、世界がどうなってもいいっていうんですかっ?!」

「あたし一人が戦わないことで滅びる世界に、守る意味なんてあるの?」


 奈々の口元には変わらずやわらかな微笑みが浮かんでいる。眼鏡をはずして、レンズの汚れを袖でぬぐいながら、奈々は畳みかけた。


「あたし一人が戦わないだけで滅びる世界なら、あたしが守らなくったって簡単なことで滅びるんじゃないの?あたし一人の命が、この世の中の全ての人間の命に見合う訳がない。それなのに、あたし一人が、この世界の、ううん、この町でもいいよ。この町の人々を救えるって、本気で信じてる?」


 翼は言葉を失った。奈々の口調は優しすぎる。もし、言葉はその意味さえわからなければ、ただの優しい慰めにさえも聞こえるのに。その言葉は翼の心を切りつけた。翼はただ正義感と使命感のために戦いの道を選んだ。自分の命ひとつで他人の命をも救えると信じて疑わなかった。守る力を与えられたからには当然成し得るものだと……そうだ、奈々は力の存在を忘れている。もちろん、命の価値だけならば、翼ひとりの命と、この町の人々のすべての命の価値が見合う訳はないけれど、四神としての力は強大だ。あの力を以ってして、はじめて翼は怪物と戦うことができるのだから。


「でも、でも……!四神としての力さえあれば……」

「あたしには、その力を使う勇気さえ、ないっていうのに?」


 奈々は立ち上がった。腕を伸ばし、腰を回して肩を大きく上下させると、散らかった道具を片づけ始める。翼は椅子に座ったまま、ただ茫然と、そんな奈々の姿を見遣っていた。どうすればいいの?どうしたらこの人は一緒に戦ってくれるの?……悔し涙が込み上げてくる。こうしている間にも、螺鈿がなんらかの秘術を弄し、漆が力を蓄えて、翼の愛する者たちを地獄の釜の中に突き落とそうとしているかもしれぬというのに。


「じゃっ、翼ちゃん、また会おうね!個展来てよね、明日からだから……」

「奈々さんは……っ!」


 翼は涙を隠すべく、俯いたままで言った。膝の上で爪が掌に食い込むほどに拳を固く握りしめて。


「奈々さんは、この町の誰かを見殺しにしたことで責められても、平気だって言えますかっ……?!この町が滅びた後で、なにもしなかったことを、責められても……!」

「……その時は、あたしもとっくに死んでるはずだよ」


 奈々は翼の頭にぽんと手を置いて去っていく。翼はもうあふれ出る涙を止めることはできなかった。一緒に戦いたかったのに。隣に立っていてほしかったのに。あの人は、なぜだかとっても懐かしかったから。とっても優しいから。仲良くしたかったのに。たとえ奈々が青木翼としての翼ならば受け入れてくれるといったって、翼の良心や正義感は、奈々と笑い合うことを許さないだろう。あの人は、この町を見殺しにしようとしている……そうだ、あたしのことさえも。


「つ、翼ちゃん?!」


 様子でも伺いにきたのだろうか。舞の声がしたかと思うと、ぱたぱたとこちらへ駆けつけてくる音が聞こえて、翼は舞の小さな手に両肩を包まれた。


「翼ちゃん、どうしたの?!な、なんで泣いてるの……?」


 翼は顔をあげようとはしなかった。


「……ごめんね、舞ちゃん」


 翼は塩辛い舌でつぶやいた。その指すべきところを読み取れずに、舞は戸惑う。


「えっ?」

「説得できなかった、奈々さんのこと……!」

「翼ちゃん……」

「奈々さん、怖いって……戦うのは、無理だって……あたしたち、どうすればいいの……?」


 舞はポケットから綺麗なハンカチを取り出すと、それを渡して、しばし翼が涙だけは流れるままにしながら舞のハンカチをかたく握りしめてすすり泣くのを見守っていた。幼いころ、祖母がよくそうしてくれていたように。当時はまだ厳格だった祖母は、舞がぐすぐすと泣いていると、苦虫を噛み潰したような顔をしつつ、何も言わないで真新しいハンカチを取り出して渡してくれた。ちょうど母が流産をして、祖母の元に預けられていたときのことだ。「泣いている人間は喋ると余計ひどくなりますからね、じっと見守ってやるのがよろしいのです」――確か、祖母はそんなことを言っていた。


 翼が少し落ち着いたのを見計らって、舞は切り出した。


「翼ちゃん、あのね……奈々さんのこと、無理しないでいいと思うの」

「無理しないでいいって、どういうこと?」


 翼の言葉が傷口のざらつきを示しているのに気付いて、舞はゆっくりと言葉を選んでいく。


「戦いたくないっていう人に、無理に一緒に戦ってもらうことはできないよ。戦うってとっても辛いことだし……怖いって思うことって、なんていうか、その、当たり前っていうか、当然だと思うの。だから……」

「舞ちゃんまでそんなこと言うの?!じゃあ、この町や世界がどうなってもいいって訳……っ?!」

「そ、そんなことは言ってないけど……!でも、私たちには……」


 日常の生活があるし、と言いかけた言葉は、憤って机に叩き付けた翼の掌の音にかき消された。


「自分一人が戦わないだけで滅びる世界なら、どうせ滅びる?!バカ言わないでよ!世界は滅びないわよ、そんな簡単に!もっと自分に与えられた力を信じてよ!その力が、世界を守れるほどに強大なものだってだけ!単に怖いって気持ちだけで、よくもみんなを見殺しにできるわねっ……!あたしには出来ない!それでみんなと一緒に殺されながら、ああ、もしかしたら自分だったらこんな結果を食い止められたかもしれないって後悔するの?!そんなの耐えられると思うっ?!」

「つ、翼ちゃん、落ち着いて……!」

「みんな腰抜けよ!責任とることから逃げてばっかり……!舞ちゃんは、大体京姫じゃないのよ!みんなを率いて戦っていく存在なのに、どうしてそんな生ぬるいことを言っていられる訳?!舞ちゃん……本当に、世界を守る気あるの?」

「そんな!私は……っ!」


 世界を守るために戦っている?舞は自問して答えに行き詰まる。舞が戦っているのは、なんのためであろう。もちろん、なんらかの正義感が働いていないとは言えないけれど、舞の戦いに身を投じる要因は、ほとんど結城司という一人の少年にある。そのことはつい先ほど自覚してしまったではないか。痛いほどに――


 嘘が下手だと前に翼に言われたことがある。自分ではそうは思っていなかったけれど、翼の前ではこんなにも嘘をつくことが難しくなるとは思わなかった。黙り込んでしまった舞の答えを察して、翼は一瞬躊躇いを見せながらも、つとハンカチを舞の手に突き返した。舞は力のない手でくしゃくしゃになったハンカチを受け取った。


「……あたし、先に戻るから」


 翼は通り過ぎざまに舞の耳にそう囁いて美術室を出ていった。扉が閉ざされる音を聞いて、舞の瞳からぽろぽろと涙が零れていく。自分が不甲斐なく思われて仕方がない。なんて情けないんだろう。翼の言う通りだ。私は京姫なのに、四神を率いて戦わなければならないのは私なのに。私は個人的な、感傷的な問題ばかりにとらわれている。私に四神を率いる資格なんてない。翼が言ったような、与えられた力を、世界を守れるほど強大な力を行使する資格なんてない。あるのは責任だけ……涙する舞を近くで見守ってくれる人は、ここにはいない。





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