第五話 井戸底の呪い(上)
「Hello! My name is Tsubasa Aoki! Nice to meet you!」
「Hello! ま……My name is…Mai……」
舞がしゃべり始めたときから肩を震わせていた翼が思わず吹き出した。
「わ、笑わないでよー!」
「こら、京野!日本語でしゃべるな!」
英語教師、鳥居先生の一撃がするどく飛ぶ。舞と翼の会話が聞こえた周囲の生徒たちは、自分たちの会話を進めながら、必死で笑いを堪えていた。
「もう……!」
顔を真っ赤にして起こりながらも、舞は再度翼と向かい合う。翼はまだ笑いながら、両手をあわせて「ごめん」と小声で言った。
「もう……!ま、マイネームイズマイ・キョーノ!ナイストゥミーチュートゥー!」
「えーと、Where are you from?」
「I’m from Tokyo? And you?」
「I’m from Tokyo too. When is your birthday?」
「My birthday is June……えっとー、あっ、……June eleventh……じゃなくて!July eleventh! When is your birthday?」
「My birthday is May seventh!」
「はーい、そこまでー!」
鳥居先生がぱんぱんと手を打って、英会話の練習に励む生徒たちを静かにさせた。鳥居みちる先生は年頃はおおよそ四十歳ほど。細身で長身の先生で、抜群にスタイルがよいのに加えて、美人である。ただ、本人は懸命に教員らしく振舞おうとしているわりにどことなく抜けたところがあって、生徒からは陰で(あるいは公に)「みちるちゃん」と呼ばれて親しまれていた。
「はーい!じゃあペアを変えて!」
鳥居先生の指示で、生徒たちが動き出す。舞と翼は手を振って別れた。さて、どうしよう。美佳はさっそく他の友達に捕まっているし、そういえば今日は女子が一人休んでいるんだっけ。ということは、女子同士でペアを組んだとして誰か余るっていう事か……
何の気なしに傍らを見た舞は、司が移動もせずに自分の席に着いたままであるのを見た。司は、まだ新しいペアも探さずに必死に司に引っ付いてサッカー部への勧誘をしている恭弥に対し、心底嫌だという気持ちを隠そうともせずにいるところだった。あの調子だと、どうせ英会話中も勧誘をしていたのだろう。とうとう鳥居先生がやってきて二人を引きはがし、恭弥を放り投げた。と、友達の誘うのにも気づかずにぼんやりとその光景に見入っていた舞と、鳥居先生の目が合った。
「京野!あんたペアがいないなら、結城とやりなさい!」
「へっ?えぇっ!あっ……!」
「ほら、早く、ここに座って!じゃあ、新しいペアとの会話の練習、スタート!」
舞は戸惑い、おろおろとしながらも、鳥居先生が指した、司の隣の席を借りてそこに腰を下ろす。司は舞の方に体の向きを変えもせずに、眦で舞を睨んだ。軽蔑――ほかになんの感情も見当たらない薄紫の瞳。机に右手で頬杖をつき、左腕を背中の方におろして、どことなく気だるげな様子なのに、なぜかその佇まいには気品がある。その顔に笑顔のないことに舞はもう慣れてきているはずなのだけれども、それでもこうやって近くで見つめると、やはり違う人だなと感じる。遠い人だな、と……転校初日、一緒に怪物から逃げたことをもこの人は忘れてしまったのだろうか。でも、不思議なことに、冷然と構える司の横顔は幼馴染の司のなかには舞が見出せなかった、一種の美しさがある。舞の馴染んだ司は、舞にとっては「かっこいい」人であって、決して「美しい」と形容されるような人ではなかった。目の前にしている司が持ち得ているそれは、氷像の美しさであって、見るにはいいが触れる者の手を傷つける。それでも、綺麗なことには変わりない。司の手足ってこんなに長かったのかと、舞は改めて思い知る。
「おい」
「は、はいっ?!」
舞の返事は甲高かった。
「やるのか、英会話?」
「へっ?そ、そりゃあ勿論!」
「じゃあさっさと始めろよ。こんな非実用的な会話をしたって、少しも生活に役立ちそうにないけどな」
「た、確かに、初対面でいきなり誕生日聞く人ってあまりいないもんね……」
「こら、京野!結城!日本語で喋るなって言ってるでしょ!」
鳥居先生の怒号に舞は飛び上がり、結城少年は忌々しそうに、けれども先生には聞えぬように舌打ちをした。司の舌打ちなんて、聞きたくなかった……舞が悄然とするのもお構いなしに、司は流暢な発音で、けれども抑揚なしに言った。
「Hello. My name is Tsukasa Yuki. Nice to meet you……」
「は、Hello! マ、My name is……May Kyono!!」
司の目が怪訝そうに一瞬舞の顔をとらえた。舞は司がせめて笑ってくれればと思ったが、司は表情を変えようとしなかった。司は舞を見ようともせずに言った。
「I’m from Tokyo. Where are you from?」
「I’m from Tokyo. Where……」
「When is your Birthday?」
「ま、My Birthday is July eleventh! And you?」
舞は言い終わった瞬間、その質問の答えを予想して途端に胸がどきどきした。そうだ。私は司と同じ誕生日なんだ。だから、きっと、この結城司とも……
「……June eleventh」
「……えっ?」
舞が聞き返すと、司は面倒くさそうに顔の半ばだけをこちらに向けた。
「June eleventh」
「えっ……June……六月?Julyじゃなくて?」
「そうだよ。誰もかもお前と同じ誕生日だと思うな」
舞はもう、鳥居先生の声など耳に入らなかった。
結城司と同じ誕生日ではない――そのことが舞に与えた衝撃はあまりにも大きかった。以前の幼馴染だった司は、舞と同じ七月十一日に生まれたのだ。だから、舞の母・美禰子と、司の母・未沙は、ただ病院で同室同士だったという以上に仲良くなったのだ。「まあ、この子たち、まるで一緒に生まれる約束をしてきたみたいね!」「もしかしたら、前世で恋人同士だったりして!」。母親同士の談笑は、他愛のない冗談に過ぎない。でも、舞にとっては、それが時々重要な意味を持つこともあった。もしかしたら、司にとっても……二人の誕生日が違うということは、舞と司の母親は病院で出会わなかったに違いない。一か月も違いがあるのだもの。どういう理由かはわからない。とにかく二人の誕生日が違ってしまったために、舞と司は幼馴染ではなくなってしまった。漆がどんな策略をめぐらせてそんなことができたのかはわからないけれど、とにかく全てはこのことが原因なのだ。
でも、司が京都にいたことは?それに、司の母親がいつか町で見かけたように弱りきってしまったことは?ただ、二人の誕生日が違うということだけではどうも説明できない気がする。それとも、やっぱり……この世界は舞のいた世界とは別の場所なのだろうか。舞と司の運命が大きく違ってしまっている世界――私はどこに迷い込んでしまったのだろう。
「舞ちゃん、なんか元気ないじゃない。どうしたの?」
「なんでもない……」
昼休み、舞は左大臣と翼と屋上に続く踊場で膝を寄せ合っていた。毎日そこで作戦会議といこうということが、つい昨日決まったばかりなのだ。美佳は昼連で忙しそうにしていたので、舞にとってもちょうどよかった。ただ、今日ばかりは一人になりたい気もしていたけれど。
「なーんでもなくないでしょっ?!給食だって全然食べてなかったし!」
「そうです、普段あれほど召し上がる姫様が!」
「……ちょっと食欲なかっただけ。本当になんでもないの」
舞は自分の膝の中に顔を埋める。翼にはまだ司のことを話していない。なんだかひどく個人的なことに思われたから、夜の公園ではその話をしなかった。それに、舞はたとえ英語のテストで赤点をとろうとも、決して頭が悪い訳ではなかったから、自分が落ち込んでいる理由が、他人にとってはひどくくだらなく見えるだろうということも分かっていた。たかだか、好きだった人と、誕生日が違うというそれだけ。
翼があっと声をあげた。
「わかった!結城司でしょっ!あいつになにか言われたんじゃないの?そういえば、四時間目が終わってから舞ちゃんの様子、おかしいもん!」
「ゆ、結城殿ですか……うーむ……」
事情を知っている左大臣は難しそうな顔をした。こういうときは同性の勘ってちょっと煩わしいかもしれない。司の名誉を守るべく、舞は顔を上げ、一生懸命に頑張って微笑んだ。
「違うよ。まさか。結城君は全然関係ないったら」
「でも、あいつ、結構ひどいこと平気で言うでしょっ?だから……」
「さっきはなにも言わなかったよ。それに結城君って、本当はきっとそんなに悪い人じゃないはずなの……」
そうだ。司はあんな人ではない。司は優しくて、明るくて、かっこよくて。そして、舞の幼馴染で、同じ誕生日で。結城司は道に迷って泣きわめく幼い舞の手を引いてしまった人のことだ。きっと私が取り戻さなければ……
「まあ、姫様のことは姫様ご自身にお任せいたしましょう……それより、翼殿、前世のことはなにか思い出されましたかな?」
「うーん……昨日今日とそれっぽい夢は見たけど。でも、あたし、正直前世のことなんてどーでもいいの。それより、漆ってやつを倒したい!」
「早まりなさるな。いずれにしても、姫様と翼殿の力のみでは無理でございます。少なくとも、今のままでは。もっと前世の記憶を思い出されたら、お力も強くなりましょうし、それになんといっても残る三人の四神を見つけなくては」
「そーんなことしてる間に、漆が世界を滅ぼしちゃったらどうするのっ?!」
「だから、急ぐのです!」
はやりたつ翼に左大臣は積み上げた机の上から言い返す。二人はしばし睨み合っていたが、翼の方が相手に分があると判断したらしく、先に肩をすくめて降参した。
「四神ねぇ……つまり前世ではあたしの同僚だったってことでしょ?ぜんっぜん思い出せない。会ったらわかるってほんとなのー?」
「わかるよ……」
ようやく舞が口を開いた。翼と左大臣は、膝の上に腕を載せて突き出した両手を組んだまま指先ばかりを見つめている、やはりまだどこか元気のない舞を見つめる。
「私、わかったもん。翼ちゃんと会ったとき。会ったときっていうか、この間の体育のときだけど……翼ちゃんの姿が青龍の姿に見えたの。だから、きっと翼ちゃんが四神の一人だろうって、左大臣と話してたの」
舞は首から下げた鈴を外してかざした。閉ざされた屋上の扉の上部には、外をのぞくための窓がついていて、そこから入り込む日の光が、音もなく震える鈴に触れてきらきらと拡散された。壁や、頬や、机や、天井に投げかけられ、ゆっくりと旋回する桜の花弁の影を、翼と左大臣はうっとりと眺めた。舞は無限に懐かしいけれども、もう戻ってはこないものたちに囲まれているような気がした。なんだか赤ちゃんをあやすための、あのくるくると回るおもちゃを連想させる。人は、あのきらきらした、ひたすらに愛情に満たされた時期へと帰っていこうとする。それが、もう二度と戻れぬものだと知りながら。人は喪失し続ける。最も美しい清らかな思い出を、生き続けることで濁らせていく。だから、こんな風に、あの時期の思い出が蘇るとたとえ幻想であったとしてもつい見惚れてしまうのだ。そして、人は、やがて過去というところにではなく、未来というところに、このくるくるとまわるおもちゃを見出す。命果てた先に始まる新しい生命の中に、このおもちゃを……そして人は死に、生まれ変わり、また思い出に再会し、また失っていくのだろう。
いつになく、暗い、重たいことを考えたな、と舞は思う。舞は司を失った。司と再会するのは一体いつになるのだろう?そうして再会したとして、また喪失が待ち受けているのだろうか。
「きれい……」
翼も舞にならって首からさげていた鈴をはずして掲げた。部屋の色彩ががらりと変わる。まるで深い海の中にいるかのよう。無数の桜の花弁たちは、ゆったりと泳ぐ魚影のように。左大臣が感嘆の声をあげた。翼は舞に向かってにこりと笑いかけた。
(こんなに美しいものなのかな……私たちの運命って……)
翼に微笑み返しながらも、舞はそんなとりとめのないことを考えていた。
苧環神社の本殿の一部屋で、芙蓉は苦しそうに息を吐きながら、白い夜着の袖に包んだ右肘をしめっぽい畳の上に突き、もう片方の掌で畳を押して、起き上がろうと試みた。しかし、芙蓉の顎はしたたかに床の上に叩き付けられる。夜着の裾が形もなく萎れているせいではない。あの青龍の刀、凍解の気に触れて、芙蓉の体は病魔に毒されていた。それは、人々が世界で悪を払う力だと見なしているものであった。
「芙蓉……」
一人でに隣の部屋との間を仕切っている襖が開いた。芙蓉は返事をしようともがくが、苦しみに声も出ない。その人が畳を擦って歩く足音に、たまらず芙蓉は蝶の姿に変身を遂げる。その人は、紫色の翅を飛ぶこともできぬままにはばたかせている憐れな蝶をそっと掌に載せた。
「苦しいか、芙蓉?」
答える術を知らぬ蝶に、その人の唇は歪んだ微笑みを浮かべる。
「かわいそうな芙蓉。私の大事な芙蓉。でもお前は私に体をくれたことを決して後悔してはいまいね……」
蝶は強くうなずくかのようにゆっくりと翅をくっつけてまた開いた。憐憫の情からかほんの戯れからか。その人はそっと蝶に唇を落とす。紫色の鱗粉が、濡れたような唇に付着して不気味に輝いた。
「ああ、芙蓉。それでこそ私の芙蓉だ……ねぇ、芙蓉。私は考えたんだ。京姫は強い。覚醒してしまっては四神たちにも適わない。もちろん、私たちが元の力を取り戻せば紙切れのようにあやつらを細切れにすることもできる。だが、今は駄目だ。今はまだ……」
その人はくらりと足元を乱れさせると、床の上に膝を突いた。「漆様っ!」蝶は女へと戻り、崩れかけた漆の肩を支えようとする。肩にまわされた手をとると、漆はその甲に、続いてその掌に唇を押し当てた。掌を舐め上げると、芙蓉はびくっと肩を震わせた。舌はそのまま指の方と伝って人差し指に絡む。芙蓉が耐えられずに元々は彼女が支えようとした人に身を預けると、漆は芙蓉を抱きすくめ、爪を食み、指を口に含んだ。生暖かい唾液に温められ、濡れさせられて、芙蓉は苦しげな呼吸をさらに荒げる。
「漆様……っ!」
「芙蓉、こっちを向きなさい」
漆の肩に吐息を零していた芙蓉は、命じられた通りに潤んだ瞳を漆に向ける。漆は口元を歪ませて微笑みながら、芙蓉の人形のように小さな頭を撫ぜ、髪を梳く。絹のようにやわらかなごく淡い紫色の糸は、この部屋の暗闇のなかでは白く見えるほどにきらめいて、まるで張り巡らされた蜘蛛の巣のように見える。
「そう、いい子だ……ねぇ、芙蓉。お前も先の戦いで深く傷ついた。休養が必要だ。それにね、私は最近少し考えを変えたんだ。今は京姫に手を焼いている時ではないよ。私たちは私たちの望みを手繰り寄せねばならないのだから。水辺の機織り女のように、静かに実直に細やかに働かねば、ね。それはとても気の遠くなるような作業なのだから……どう思う?」
「よい、お考えでございますわ……!」
苦痛に紛れかけながらも芙蓉の顔は主の残忍な思い付きを受けて喜びに閃いた。漆はその額に浮かんだ汗を舐めとってやる。芙蓉の呼吸が震える。
「芙蓉、今ひと時だけお前がくれた肉体を返してやろう。お前はこの地に深く沈みこんだ呪いを解き放っておいで。彼らに仕事をさせよう。天つ乙女の娘たちを滅ぼすように」
漆は芙蓉の髪に、そっと真っ赤な櫛を挿した。
五時間目の授業は社会科であった。社会科の小柄でかわいらしい初老の女性、橋爪ほの佳先生は、今日から桜花市にまつわる調査発表をグループで行ってもらうとして、次のように説明した。
「えー、桜花市の歴史にまつわることであれば、テーマは何でも構いません。きっと皆さん、様々にお好きなテーマを見つけられることでしょう。私も楽しみにしています。調査のために、三週間を差し上げます。皆さん、もし時間があったら、授業の時間以外にも、実際に町の史跡を訪ねてみたり、図書館にいってみたりして、勉強なさってくださいね。発表は一つのグループにつき十五分間です。なにか質問はありますか?」
最前列に座っていた女子が、手を挙げた。
「先生、グループ分けはどうするんですかー?」
「ああ、グループ分けね。本当なら皆さんの自由にやっていただきたいのだけど、時間がかかるので私の方で作ってきました。じゃあ、読み上げます……Aグループ……」
舞の名が挙がったのはCグループだった。舞だけではない。美佳も、翼も、恭弥も、そして司までが一緒だった。「では、グループごとに別れてテーマ決めをしてください」と橋爪先生が言うと、舞たちは指定された通りの場所に赴いて顔を寄りつどわせたが、明らかに舞だけが心ここにあらずという様子であった。美佳と翼ははやくも相談をはじめ、恭弥は司にじゃれついていた。
(なんで結城君と……)
舞がそっと司の顔を窺うと、司はすぐに見られていることに気付いたらしく、冷徹な視線を返した。舞はさっと目を逸らした。
(もう嫌……結城君から逃げ出したい……)
「じゃあ、テーマだけど、誰かなにかやりたいのある?」
リーダーということに決まって翼が尋ねるが、案の定誰も提案などしなかった。
「うーん、この町の歴史ねぇ。小学校の時、やったけ、ねぇ舞?」
「えっ、あっ、うん……」
「どうせだったらよ、なんか面白そうなのにしようぜ!俺、堅苦しいのとかやんねぇからな」
「全く、勝手なんだからっ!そういうんだったらなにか提案しなさいよ」
「歴史のことなんてわかるかよ」
「もうっ!あんたなんか無視してやるっ……そういえば、結城はなにかある?」
公平を信条とするのか、翼が黙り込んでいる司に話を振った。司はさあと肩をすくめた。
「僕はこの町に来たばかりだから……」
「そりゃそうだわ。じゃあ、あたしたちで適当に決めちゃわないとねー。舞、なんか思い出さない?小学校のころのとか?」
美佳が頭の後ろで手を組みながら聞いたが、舞はとても小学校の頃の記憶など手繰れそうになく、首を振る。
「なんかないかしらねー。だって、この町、あれでしょ?春以外は何もない」
「じゃあ、あの十字路の桜の歴史とかは?」
と、翼。恭弥が不服そうな声をあげる。
「つまんねぇよ、そんなん。桜だぜ。動かねぇしよ」
「動いたらホラーでしょっ!」
「じゃあ、ほら、戦国時代のこの町の歴史とか。どう?」
と、美佳の提案。
「戦国時代ってこの町なんだったの?」
「えっ?……し、知らない」
「原っぱじゃね?」
「そんなことはないとは思うけどさ……」
「万葉集に詠まれてなかったっけ、この町?」
「あれ、確かこの町だけじゃないよね」
「ああ、じゃあダメか」
真剣に議論している者たちは、困ったように溜息を吐く。舞は残念ながらそのうちには入らなかった。周りのグループの会話に耳を澄ませてみると、Cグループのメンバーたちが思い出せなかったような、この辺り出身の有名な武将の名前や、地層の話、明治時代から続く老舗の料亭の名前、桜花神社の歴史などが挙がってきてくる。しかし、それらはもう使えないのだ。と、恭弥がなにか思いついたように手を打った。
「そういえばよ、さっきお前がホラーっていったから思い出したけど、ほら、市役所の裏にちっちゃい公園みたいなスペースあんだろ?あそこの井戸ってさ……」
「ちょっ、ちょっと待った!東野、それって怖い話じゃないの?!」
美佳が慌てて耳を塞ぐ。
「別に怖くもねーよ。あの井戸ってさ、江戸時代に花魁が身投げしたらしいぜ」
「なによ。花魁井戸のこと?あんなの昔ばなしでしょっ?おじいちゃんがよく聞かせてくれたな、ちっちゃい頃」
「花魁井戸?」
舞は聞く。ようやく授業の方に少し意識が向いてきた。あまり黙り通しているのも、頑張っている美佳や翼や恭弥に対して悪いと思ったのだ。他にも黙り込んでいる人間がもう一人いるのだから。
「知らねぇの?昔、この町の近くに『ゆーかく』があったらしくてよ、『ゆーかく』が大火事になった時に、花魁がこの町まで逃げてきたらしいぜ。で、水を飲もうとして井戸をのぞきこんだ瞬間にそのまま落ちて死んじまったって訳」
「それ、身投げっていわないじゃない」
「べっつにいいだろ。で、それ以来、あの井戸はすっかり干上がって、壊そうとすると祟りが起きるらしいぜ。それで、呪いの井戸って呼ばれてるんだ」
花魁井戸――そんな話聞いたことあったかな。舞は記憶をさぐってみたが、どうも思い出せない。でも、そういえば市役所裏にあるスペースを変なところだと思っていたのは確かだ。公園にしては狭すぎるし、人々が憩うためのベンチや遊具もない。確か、なにか四角い茶色いものがぽつんとあったのは覚えている。では、あれが花魁井戸なのか。
「そ、そーいうのってさぁ、歴史なの?だってさ、史実じゃない訳でしょ?」
美佳が引き攣った笑顔で言う。そういえば美佳は昔から怖い話が苦手だったっけ。
「でも、その花魁の墓って実際に月宗寺にあるんだぜ。なあ、結城だって興味あるだろ?」
「……僕はオカルトに興味はない」
「だから、オカルトじゃねぇって!」
「さっき自分でホラーって言ったじゃないか」
翼が場をまとめるべく、こほんと咳をした。
「じゃ、じゃあ、とりあえず月宗寺の歴史についてにしよっ!それで、恭弥がその花魁の話に興味があるんだったら、調べればいいし」
「さっすが、翼!」
珍しく素直に自分をほめたたえる幼馴染に、翼はまったく調子がいいんだからと呆れてみせる。舞も異存はなく、美佳はやや躊躇いながらも頷き、司はただ「なんでもいい」と素っ気なく言い捨てた。舞にはそんな言葉が無性にさびしかった。
その日の放課後に、恭弥の提案で月宗寺に行くことが決まった。美佳だけは今週末にある女子サッカー部の試合にむけて練習があるので来られないということだったが、なぜだかほっとしているようにも見えた。美佳が残念そうなそぶりをちらりとうかがわせたのは、恭弥が「頑張れよなっ!」と言って、その肩をぱしんと叩いた時だけだった。
「じゃあ、舞、あたしの分までよろしくねー!」
美佳を除く四人は、一度下校してから再度月宗寺の前に集まることとした。帰宅した舞は、制服を着替えようとして、なにを着たものかと迷った。司は舞の予想では九十六パーセントの確立で来ないだろうけれど、恭弥に無理やり引っ張ってこられないものとも限らない。司のことがまさか好きだというのではないけれど、やはりおかしな恰好をする奴だとは思われたくない。これが、司が舞の私服を見る初めてになるのだから。
舞がクローゼットからいちいち引っ張り出しては、これにしたものか、あれにしたものかと迷っていると、左大臣が部屋の扉を叩いた。着替え中、左大臣は自主的に部屋の外へと出ていってくれた。
「姫様!早くなさりませ!約束に遅れますぞ!」
「わ、わかってるったら!」
母親は買い物、父親は会社、姉は部活と誰も家にいないので、舞と左大臣の会話はおのずと大胆になった。
「時間に遅れる女性は悪印象だと、姫様のお読みになっているご本にも書いてあったではござりませぬか?!」
「ちょっと、なんで私の雑誌読んでるの?!」
白いワンピース……は汚れる危険性があるし。このピンクのカーディガン、少しかわいすぎるよね。
「とにかく急ぎなされ!」
「もう、急かさないでよ!って、うわっ、もうこんな時間なの?しょうがないなあ……」
舞は結局目をつぶって指さしたものを選ぶことにし、白いブラウスにカナリアイエローの薄地のセーター、それからごく淡い、ややグレーがかった水色のスカートに決めた。左大臣に急かされるまま、舞は自転車に跨り、左大臣を自転車の籠に乗せて月宗寺へと向かう。舞の家が、桜並木のある巨大な十字路が四つに仕切った区分のうちの左下、すなわち町の南西部にあることは既に述べた。月宗寺はその真上の区分、四つに仕切られたうちの左上の地域に所属している。この地域には他にも桜花市役所があり、かくして花魁井戸もそこにあるという訳だ。
月宗寺は、戦国時代の終末期に建てられた寺である。元はこの地方をおさめていた戦国武将、杣谷勝忠の奥方・お清の方すなわち斎礼院が建てられたものである。お清の方には、夫が旅路で病に伏していることを聞いて自ら青馬を駆けさせて馳せ参じ、夫の病を治したのだという伝説がある。そこから、江戸時代後期には、宿場町であったこの町にあって、旅の無事を祈る人の参詣が絶えず、『延喜式』神名帳に名のある桜花神社にも劣らぬ賑わいであったのだ。一方で、この寺の尼であり、斎礼院の御妹の血を引かれる方が、心根の優しい真に徳の高い人であったとみえ、行く先のない人々のお骨を受け入れて、墓を建て、丁重に供養したという美談も伝わっている。しかし、明治時代になると廃仏毀釈の憂き目にあい、大切に崇めていた仏像も、女流絵師の細やかな絵筆の使い方で名高かった月宗寺縁起絵巻も、紛失してしまったという。そういうなんとなく拠り所のない心細さのせいなのだろうか。歴史がある場所にも関わらず、月宗寺にはなにか白々しいほどに真新しい感じが漂っていて(確かに二年前に改築工事をしたけれども)、それがどことなく母に連れられて参詣する舞の心を和ませぬ理由なのだが、中学生の舞は当然そんな寺の歴史を知ろうともしなかったので、その正体をついに見極められずにいた。
月宗寺の前では、すでに司が待っていた。舞は意外に思った。翼と恭弥はまだ来ていないということは、別段誰に引っ張られもせずに来たのだろう。舞は自転車を降りると、どうしたものかと困惑しながら、でもやはりそうしなければおかしいだろうと思って、司に向かって小さく手を振った。司は目線をちらりと舞に向けて「あぁ」と低く言っただけだった。
(ああ、やっぱりこの調子なんだから……)
「は、早いね、結城君!」
「別に……」
「場所、すぐわかった?」
「ああ。母親に聞いたから」
「そっか。お母さんも昔、この町に住んでたんだよね……」
と言ってから、舞は司の表情の変化を見まいとしてそっと目を逸らした。司とはまだそんなに話していないけれども、初めて一緒に帰った時の様子といい、偶然町で出会ってしまったときの様子といい、どことなく昔のことに触れてもらいたくないという雰囲気を、舞は既に感じ取っていた。司は案の定何も言わなかった。やはり触れられたくなかったのかもしれない。
沈黙を紛らわすため、舞は自転車を停めにいった。月宗寺には南門がない。平たい、幅の広い石段を少しあがると右手に月宗寺と刻まれた石碑があり、石垣によって境内は囲まれている。石段をのぼってまっすぐ参道が続いており、やがて妙に真新しい風情の本堂へと至る。悲劇の花魁は、恐らくその裏に連なる墓石のうちの一つの足元で眠っているのだろう。しかし、本当なのだろうか。花魁井戸の噂というのは。
ふと振り返ると、司の姿がなかったので、舞は慌てた。一人で帰ってしまったのだろうかと思ったが、入り口のところまで戻ってきょろきょろしていると境内の中に司の姿を見出すことができた。司はその目の前に立っている、月宗寺の由縁を書いた看板には目もくれず、境内いっぱいに咲きさざめいている紫色の花の一つを見つめていた。司がその花弁に指で触れている。舞は今度こそ、なんの悲しみも痛みもなくその横顔に見とれていた。司の瞳が花の色を映し込み、花の色が司の瞳を浴びて、両者は互いに色を補い深め合う。司の瞳の色がこんな風に見開かれたのを見たことがあっただろうか。司の唇がこんな風に切なげに開かれたのを見たことがあっただろうか。
あの花の名前なんだっけ……舞が記憶を手繰っているとき、司の唇は確かにその花の名を呟いた。だが、そのつぶやきはついに舞の耳には届かなかった。
「舞ちゃーん!おまたせー!」
舞は振り向いた。翼と恭弥とが自転車を連ねてこちらに滑ってくるところであった。翼がハンドルから右手を離して手を振ったので、舞も肩のあたりで振り返した。
「ごめんねっ、待った?」
「ううん。二人は一緒に来たんだね」
「たまたま会っただけ、家の前で。隣の家だから」
「えっ、隣の家に住んでるの?」
「おい、京野、もしかして結城のやつ……!」
「あっ、大丈夫。結城君ならちゃんと来てるよ」
司は舞たちの想像の世界で現実の世界に無理やり引き戻されたらしく、いつもの軽蔑に染まった顔を石段の上から投げかけていたが、そんなことお構いなしの恭弥は、司が来たことに舞以上に感激してみせた。特になにを調べるとも決めていない四人は、最初は境内をふらふら回って看板の内容を読んでみたり、本堂で拝んでみたりしてみたが、結局目的は半分以上が、花魁の墓の方にあるので、十分も経たぬうちに皆、本堂の裏へと廻りこんでいた。二年前に改修工事をしたといっても、まさか墓地まで改修していないので、積み上げた歴史通りの姿をしている墓石たちを見ると、舞は却って心が和んだほどだった。この寺の墓には不思議と不気味な印象がない。それはきっと、この町で生まれこの町で死んでいった人たちのもの、知らないけれどその心根はよく馴染んでいる人たちのものだからだろう。この町とはなんのゆかりのない、ただこの地で死んだというだけの憐れな人々でさえ、ここではこの町の人々に温かく囲まれて、のどかな眠りの時間を楽しんでいるように見える。井戸で溺れ死んだ花魁だって、生きている人を呪うことなんか思い付きもせずに、死後の日々を過ごしているのではないかと舞には思われた。
「それで、花魁の墓ってどれなの?」
日差しが、立ち並ぶ墓石の色や角をぼやけさせているのを見渡しながら、翼が言った。
「確かもっと奥の方だったと思うぜ。俺のばあちゃんの墓より奥だったから。っていっても、俺も見たことねぇんだけど」
「なによ、それ」
「いや、母ちゃんがあっちの方に花魁の墓があるって言ってただけだからよ。まっ、とりあえず行ってみようぜ」
墓石にはあまねく日差しが注ぎ込んでいるものだと一同は思い込んでいた。だから、恭弥の祖母の墓を更に通り過ぎたあたりから、遠目に眺めているうちは敷地外にあるものと思っていた木々の群れが墓石を覆い始めたときには、なんだか意外な気がして、少し不安になってきた。実はそうして木々が覆い始めたところからが、無縁仏の集められているところであったのだ。心なしか空気もじめついてきたように思われた。木々の根元の土は雨に濡らされた後のように濃く黒ずんでいる。土の色の目を落としていると、飢える者の腕のごとく差し延べられた痩せた枝の上で烏がしわがれた声で叫び、驚いて目を上げた中学生たちをあざ笑うかのように飛び去っていく。飛び去る鳥影に束の間に重る墓石の表面はところどころ白い糞で汚されていた。
「ねぇ、あれ……」
翼が舞の袖を急に引っ張ったので、舞は危うく悲鳴をあげるところであった。道が狭いので、恭弥、司、舞、翼の順で縦に並んでいた一行だったが、翼が足を止めると、前を歩いていた男子二人も振り返った。翼が指すのは、道端に落ちていたとしてただの岩と見過ごされるであろう、粗末な崩れかけた墓石であった。
「なんか、かわいそう……」
首筋になにものかの視線を感じて舞がさっとそちらを見てみると、小さな石の仏像のようなものが、こちらも崩れた墓石の周りに群がっていて、横倒しになったり、下半身を失ったりしながら夥しく積み上がっていた。舞は気味悪くなって、翼にもろくに返事をしないまま、先に進み始めた司の後を追いかけるべく足を速めた。
「ちょっと、恭弥、本当にこの奥にあるの?」
「だから知らねぇったら。でもさっき寺の案内図見たときにはあったぞ」
「もう……!ねぇ、やっぱりやめない?花魁井戸なんて、くだらない作り話に決まってるんだから……」
「なーんだ、怖いのか?」
「怖くない!」
と、恭弥が立ち止まった。司も続いて止まったが、舞と司は周囲を見回しながら進んでいたので、舞は司の背中に、翼は舞の背中に頭をぶつけた。舞は急いで謝ったがきっと司に嫌な顔をされるだろうと思っていたのに、司はまるで気にもせず、目の前の光景に気を取られている。どうやら男子たちは目の前の光景に絶句しているようであった。そんな雰囲気の伝わってこない最後尾の翼だけが怒って言う。
「ちょっと!急に立ち止まらないでよ!」
「おい、これ……」
舞は司の肘のあたりからぴょこりと顔を出してみて、男子たちと同じように唖然とした。素っ気ないほど真新しい白い墓石に、螺鈿之墓とこれまた仰々しい字で刻み付けられているのはともかくとして、その傍らに「遊女 螺鈿の墓」と書かれた看板が立てられているのもともかくとして、納骨室の蓋が外され、台座に叩き付けられたとみえてその破片が散乱しており、供えられていたと思しき花も無残に踏みにじられていたのだ。舞はそれを見た瞬間、一瞬気が遠くなった。翼が舞の様子に気付いて慌てて支えてくれた。そうして、翼自身も状況を確認して声を失った。
「これって……あれだよな?墓荒らし……」
「寺の人に伝えるんだ」
司が静かに言った。
「なんで……?誰かが盗んだってこと?その……」
「でも、なんのために?」
舞は震える手を翼に包んでもらいながら、そっと言った。どうしてこんなにも自分がショックを受けているのか、舞はわからなかった。だが、眠れる死者に対してあまりの冒涜だと思った。もう、あの、日が普く照らしていた死の園の幻影はとうに消え、陰惨な死とそれに勝る生者の横暴を目の当たりにして、舞は一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
「寺の人に伝えるんだ」
司は再度呟いて、くるりと踝をかえすと、無縁仏の森を抜けて明るく日の差す方へ歩いていった。残された三人は、ただ黙ってその場に立ち尽くす他なかった。恭弥でさえいつものおちゃらけた様子を失っていた。手を結び合っている少女たちに、恭弥は例の白けた看板を眺めながらぽつんと言った。
「螺鈿っていうんだな、この遊女……」
舞の頭の中でなにかが疼いた。螺鈿、螺鈿――どこかで見たような。否、単に細工の話ではなくて。
「舞ちゃん、大丈夫?」
翼が問うと、舞は蒼白な顔で頷いた。
「うん。大丈夫。ありがとう……」
「ここ、なんか寒いよね……」
「おい、お前ら先に戻ってろよ。俺がここにいるから。ここの寺のやつ、知り合いなんだ。婆ちゃんの墓参りのときよく合ってるから。俺から話しとく」
この時ばかりは翼も素直になって、舞の手を引いて今来た道を引き返した。その途中で、司に連れられた寺の人間と思しき剃髪の女性とすれ違った。司は舞と翼に対してなにも話しかけなかった。ただ、その目には焦りのようなものが浮かんでいた。
「誰がやったんだろ……!」
咲乱れる紫色の花をなんともなしに見つめているなかで、翼がつぶやいた。翼は場の気味悪さに押されていたのが、ようやく明るいところに出られたので段々と義憤が湧いてくるらしかった。舞の方はいまだに悄然としていた。
「ほんと、ゆるせないっ!」
「姫様、翼殿」
舞のポーチからもぐらのようにテディベアが顔を出した。翼は飛び上がった。翼の声で、二人の足元で餌をついばんでいた鳩たちが数羽飛びのいた。
「どうもあやしいですぞ」
「どういう意味?」
舞が訊く。
「はっきりとはわかりませぬが……よからぬことが企まれているような気がいたします。先ほどの墓荒らしは単にその前兆かと」
「もしかして、漆の奴が関わってるのっ?!」
「かもしれませぬ。もちろん、まだわからぬのですが。先ほどあの墓の近くで、奴のいた痕跡が感じられたような気がするのです。姫様、あの墓に行って以来お顔色が優れませぬな。翼殿も、先ほど『寒い』とおっしゃっていましたが。お二人ももしかすると、あやつめの気配を知らず知らずのうちに感じ取られたのかもしれませぬ」
「でも、お墓なんて荒らして、一体なにを……」
ちょうどその時、男子たちの姿が本道の裏から現れたので、舞は左大臣の頭を無理にポーチのうちに押し込んだ。恭弥の話では、とりあえず寺の人間には伝えた。寺は警察に届け出ると言っている。教えてくれてありがとうと感謝された、との話であった。そんなお礼を言われても、いまいち気持ちの盛り上がらぬ四人は、今日はもう調査はやめにしようという翼の提案に乗った。
司は変わらず黙したままでいたが、舞が司とすれ違った折に見た焦燥のようなものの名残は、まだ司の瞳から消えていなかった。舞は非常に傷つきやすい司の本性を垣間見たような気がした。司は本当に冷酷という訳ではないのだ。舞と怪物から逃げていたとき、町の人を騒動に巻き込むまいとしていたことからもわかる。彼自身がとても傷つきやすいから、他人が傷つくことを恐れているのかもしれない……それは、舞自身はまるで意識していなかったけど、舞にもあてはまることだった。
「ほんともう、あんたがろくでもないこと言いだすから」
翼と恭弥の痴話げんかをよそに、舞は決して報われぬことのない視線をじっと司の横顔に注いでいた。