fly
「まーた、お前は!」
ソラはフェンスの向こう側にいるアスカに向かって叫んだ。
「いい加減そこに行くのはやめろ!」
何度言ってもフェンスの向こう側に行くアスカに対しソラは腹が立った。
「うるさいなあ」
口うるさい母親に対してするようにアスカはそう言って振り返ると、うんざりした顔のソラが腕を組みながら立っていた。
「今日は風が強い。はやくこっちにこい」
「大丈夫、いざとなれば飛べるから」
今日は本当に風が強い。標高の高い屋上ではなおさらだった。
ときおり強い風が吹いてはアスカの細い体を危なげに揺らしていた。
「おい、本当に危ないって!」
ソラは叫んだ。しかしアスカはまるで聴こえていないように何の反応も示さない。
アスカは両手を広げた。
「おい……」
アスカのそのしぐさにソラは彼女が今にも飛び立つのではないかという錯覚にとらわれた。あの細い腕に風を受けて、揚力によって軽やかに浮き上がる。
――そんなわけないだろ。
空はフェンスに駆け寄りよじ登った。そしてアスカと同じ場所に立った。一歩踏み出せばそこは空中――フェンスの向こう側へ。
「な、何?」
いきなりフェンスを乗り越えてきたソラに対し、アスカは驚きを隠せないでいた。
「……お前の気持ちが少しは分かると思ってな」
「わからないよ」
いつのまにかアスカの両手は腰の横に落ち着いていた。
「鳥は好きか?」
「は? ……好きだけど」
突拍子もない質問にアスカは眉を広めた。
「俺は嫌いだ」
「あっそ、なんで?」
さして興味は無かったがアスカは気まぐれでそう尋ねた。
「羨ましいから。羨ましすぎて憎いほどだ。つまりは嫉妬」
「羨ましい?」
「そう思わないか? だって、あいつらは空を飛べるんだぜ。俺達には決してできないことをやってる」
「私は飛べる」
「……そうか。でも俺は飛べなかった。昔は色いろいろとバカやったよ。自分は飛べると信じて公園の滑り台の上から飛び降りて失敗し、助走をつければ大丈夫と車庫の上から飛び降りては失敗し……。傘を持って、風呂敷でむささびみたいなものを作って、悪あがきもたくさんした。ねんざして、骨折して、親に怒られて……ほんと、馬鹿だった」
アスカはソラの意外な過去を聴いて心底驚いた表情をつった。
「……馬鹿じゃない。でもどうして?」
「ん?」
「どうしてそんなに空を飛びたいって……?」
「ああ、大した理由じゃない。パイロットになりたいとか、そんな理由じゃなかった。なぜか分からないけど、子供のころの俺は何かと不自由を感じていた。親に、学校に、友達に、今となってはよく思い出せないけど、取りあえず不自由だったんだ。そこで空だ。何もなく、ただっ広い空は自由の象徴だった。俺は、空に自由を求めていたんだ」
以前、楓に空に何を求めていると訊かれたことをソラは思い出した。
あのときは気づかなかったけど、自分はいまだによく空を見上げている、空に思いをはせている。ソラ葉は思った。
ああ、意地を張っていたんだな。空を飛べないと分かっていても空を見続け、だけどそんな恰好悪い自分を認められないでいた。
「自由……」
アスカはそう呟いて眼前に広がる空を見つめた。
こいつも、ただ意地を張っているだけなんだ。ふとソラは思った。そして決意した。
「なあ、空を飛べるんだよな」
「そ、そうだ」
改まってのソラの質問にアスカは少したじろいだ。
「じゃあ、俺も飛べるかな」
「え……」ソラの体が前方にゆっくり傾いていく。「ちょっと!」
ソラの体は宙に投げ出された。
アスカは必死に手を伸ばし自由落下を始める前のソラの腕を掴んだ
「くうっ!」
アスカは片方の腕でソラを掴み、もう片方の腕でフェンスに必死でしがみついた。
「やっぱ俺には無理か」
「何やってんだよ! 馬鹿かよ!」
「なあ、お前飛べるんだろ? 俺と違って。だったら早く羽をはやして持ち上げてくれよ」
「うるさい!」
ソラを掴む腕にも、フェンスを掴む腕にも青白い欠陥が浮かびあがり、そしてぷるぷると震えている。そう長くは持ちそうになかった。
「こんなときに出し惜しみするなよ」
「……うるさい! わかってる、羽なんかない。羽なんて始めからないんだ!」
アスカは悲痛な声で叫んだ。
「そうか」
ソラはアスカのその言葉を聴いて安心した顔をした。次に現状の危機を思い出し心中で眉をひそめた。
(このままじゃ二人とも)
ソラはゆっくりとアスカの手をほどこうとした。
「な、何やって――」
「何やってんのあんた達!」
ソラとアスカは同時に顔をあげた。二人の目には楓の青ざめた表情が映った。
「まったく、あんた達は、何やって……」
そう二人を責める楓の息は切れ切れでうまく言葉になっていなかった。
「助かった」
ソラは命の恩人に対して短くそう言った。
「せめてもうちょっと感情を込めろ」
「ご迷惑かけました。感謝してます」
文面は変わっても声の抑揚に変わりはなかった。
二人がやり取りをする中、アスカはずっと押し黙って俯いていた。
「アスカ、大丈夫?」
楓が心配して声をかけるとアスカの口から小さな嗚咽が漏れた。
アスカは声を殺して泣いていた。
「怖かったんだね」
楓はアスカを優しく抱きよせた。
「違う、違うの……」
「うん?」
「私に羽なんてない」
「え?」
楓は信じられないものを聴いたというように瞠目した。そして何があったのかと、ソラの方を振り向き説明を求める視線を送った。
しかしソラはその視線に何も答えなかった。
「ごめん、楓。ごめん。私が変な意地張って、楓にいっぱい迷惑かけて、心配掛けて……」
アスカは泣きじゃくりながら言葉を絞り出していた。
「私は、ずっと自分が嫌だった。楓みたいになりたかった。夢の中では私にだけ羽があって楓が、皆が私を崇めるように見上げていて。そこの私は本当の自分とは正反対で何でも思い通りになって……。意識が戻ったとときも分かってた。ああ、夢だったんだって。だけど認めたくなかった。羽がない自分を認めたくなかった。だから、だから……」
楓は慈しむような視線を向けて、黙ってアスカの言葉を聴いていた。
アスカは何度も、何度も謝罪の言葉を口にした。
「いいかわ、もういいから」
楓はそう言ってより一層津余暇アスカを抱きしめた。
堰を切ったようにアスカは声をあげて泣き始めた。
今は二人きりにさせておこうと、ソラはそっと屋上から立ち去った。




