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夢から覚めて

私は空を飛んでいる。

 俯瞰する風景には見慣れた学校の敷地、クラスの皆、先生、そして楓。誰もが私を見上げてバカみたいにぽかんと口開けている。

 私はそれを見て得意げになり、さらに高く飛び大きく円を描くように旋回した。


――そう。


 私の背中には大きな羽がある。白くて大きく、綺麗な羽が。

 その羽は私の意のままに動かすことができてもちろん空だって自由に飛ぶことができる。

 皆はただ見上げることしかできない青空のなかに私はいる。

 私は楓のように勉強もスポーツもできるほうじゃないし、人と喋るのだって苦手だ。だけど私にはこの羽がある。それで十分だった。

 どうして皆には羽がないのだろう?

 どうして私にだけ羽があるのだろう?

 そんな疑問は浮かんだ次の瞬間には意識から消え失せ、気に留めることはなかった。

 

――空。


 此処には何もない。空っぽだ。

 人の意志も悪意も善意も何もない。

 私以外は誰もいないし、何もない。

 人とのかかわりも、しがらみも。人の視線や世間への体裁。社会のルール。

 私を縛るあらゆるものから解放してくれる唯一の場所が此処だ。

 此処には私しかこれない。

 だって私にしか羽はないのだから。

 眼下に流れる白い雲を見ながらふわふわと漂っていると私の心まで空っぽになりそうになる。だって何も考える必要がないのだから。

 青い空の向こうには何があるのだろう?

 何処までいけるのだろう?

 ふと、私はそう思った。

 私は羽をはばたかしてさらに上昇した。

 そのうち太陽の光が強すぎて目が開けていられなくなった。

 それでも私は気にせずさらに上へ、上へを羽を動かす。

 そのうち異変に気が付いた。

 どこからか焦げ臭い匂いがする。

 気のせいかと思って飛び続けると段々とその匂いはきつくなってきた。

 我慢して目を開けて背中を見ると白い羽が一部黒く変色し煙が上がっていた。


――やばい!


 そう思った時にはもう遅かった。

 どれだけ念じても羽が動かない。制御がきかない。

 私は頭からまっさかさまに地上へと落ちていった。

 羽は半分以上も黒く焦げていた。回復は絶望的。

 嗚呼、もう駄目だ、と思った。

 雲を突き抜け地上が見えてくる。

 落ちてくる私を見て皆は驚愕の表情を浮かべている。

 そして私は地面にたたきつけられた。

 皆が私の周りに集まっておどおどと顔を見合わせている。


――ごめん、ごめんね。私のせいで……。


 遠のく意識の中、そんな声が聞こえた。

 それは楓の声だった。

 ごめん、ごめん、と何度も楓はそう言った。

 どうして楓が私に謝っているのかわからないまま、私は意識を失った。

 

 そして同時に目を覚ました。


 ゆっくりと瞼を開けた。

 白い天井。

 それが病院のものとはすぐには思い至らなかった。

 頭がぼうっとして思考がうまく働かない。此処が何処なのか、自分が誰なのかさえ最初は分からなかった。

 身体を動かそうにもとても重く、まるで鉛でも詰まっているかのようだった。

 なんとか首だけを動かして周りの様子を窺った。

 椅子に腰かけ眠っている様子の楓の姿が目に入った。

「かえ、で……」

 声もうまくでない。老婆のようにしゃがれていた。

 その微かな声に気が付いたのか楓が目を覚ました。

 そして、目を開けている私を見ては目を丸くして驚いた。

「アスカ! 気が付いたの! 私のこと分かる? 楓だよ」

「……あ、……」

 声が出ない。それに自分が何を言おうとしたのかも分からなかった。

「ちょっと待ってて、すぐに先生呼んでくるから!」

 楓はそう言うと慌てて部屋から出ていった。

 ああ、此処は病院なんだ。と、まだもやがかかったままの頭で私はそう思った。

 そして同時に、よくあの高さから落ちて助かったなあ、ともふと思った。

 ほどなくして楓が先生を引き連れて戻ってきた。

 説明を受けるとどうやら私は半年も眠っていたようだ。

 自分のことが分かるか? 以前の記憶はあるか? などといくつか質問をされたが思考が働かずどれも曖昧に答えた。

 仰向けに寝ていた私は違和感を覚えた。

(仰向け……?)

 仰向けに寝れるということは、背中に何もないということだった。

 はっとなって私は上半身を起こした。

 半年も眠っていた私の体はその瞬間あちこち軋み始めて悲鳴を上げている。

 そんな痛みなどお構いなく私は両手を背中にまわした。

「……ない」

「どうしたの? アスカ?」

 いきなり起き上った私に楓は心配そうな目を向けた。

「ない……、あれ……?」

「背中が痛いの?」

「羽……、私の羽は?」

「え……?」

 楓は私の言っていることが分からず困惑した表情を浮かべた。

「羽だよ! 私の羽……。落ちたときに折れちゃったの? もう治らないの? ねえ!」

 かすれた声で私はヒステリックに叫んだ。

「アスカ、どうしたの? 取りあえずちょっと落ち着いて」

 背中に私の羽がない。手で確かめただけではその事実が信じらず私は来ていた服を脱いだ。そして全身鏡の前で背中を映した。

 何もなかった。

 羽もなければ、折れたような傷跡もない。

 私は泣いて、叫んで、喚き散らした。

 受け入れない事実を否定しようと全てを壊そうとしてそこらじゅうにあるものを手にとっては無造作に投げ捨てた。

 正気に戻ったらまたベッドの上だった。

 暴れまわったせいか全身が筋肉通で上半身を起こすことすらできなかった。

 どのうち暫くは放心状態だった私は何もできなかっただろう。

 退院してからも私は羽を失くしたことを引きずっていた。

 学校に戻ってからも級友たちは長い間入院していた私を心配して声をかけてくれたが、その時の私には羽を失くした私を嘲笑っているようにしか映らなかった。だから私は彼らに冷たい言葉を浴びせ、彼らを遠ざけた。

 彼らは痛々しい目で私を見て話しかけてくることはなくなった。

 楓以外は。

 どんなにひどい言葉を浴びせても次の日には忘れたかのように明るい口調挨拶をしてきた。

 それは中学に上がってからも変わらなかった。

 私には羽があった、なんて言う私の言葉には誰も耳を貸さず、やがて皆は遠巻きに観察するように私を見るようになった。それでも楓だけは同じように接してくれた。クラスが離れていても昼休みには毎日会いに来てくれた。

 何処のグループにも属さない私を目ざわりと思ったのか、それとも恰好のターゲットが私だったのか、または両方か、そのうちいじめがはじまった。

 中学生の、それも女子という生き物は残酷なものでひどいことを平然とやってのけた。

 先生は見て見ぬふり、男子は便乗する者もいた。

 当てつけに自殺してやろうかと本気で思ったが屋上への扉は堅く閉ざされていた。

 そのうち私は学校に行かなくなった。

 家では何をしていたっけ。思い出せないくらい何もしていなかった。

 ただ、やはり楓だけは私が不登校になった後も変わらなかった。よく私の家に来てはノートやプリントを渡してくれて勉強を教えてくれたりした。

 最初はうざったく思ったが、そのうち申しわけない気持ちがこみ上げてきた。

 もう来なくていい、そう何度言っても楓は何度も家に来た。

 中学生活はそうやって味気なく流れていった。

 卒業式にも出なかった。

 楓がいつものように届けてくれて『卒業おめでとう』と言ってくれた。

 私は複雑な思いでそれを受け取った。

 家ではすることがなく、せめて勉強ぐらいはしようと、勉強ばかりしていたせいか私のそれなりのものだったらしい。

 ただ学校に言ってなかったので内申評価は低かっただろう。

 それでも県立のそれなりの高校に進学できた。

 後に楓も同じ高校を受けていたことを知った。

 楓と同じ高校へ通えると聞いて嬉しかった。

 だけど、楓ならもっといい高校へ通えただろうに、私のことを心配して同じ高校を選んだとしたら悲しかった。

 そして、私は楓の人生を台無しにしているんじゃないかと自責の念にかられた。

 今まで私は楓の多くの自由を奪っていただろう。

 それは羽を失うのと同じように思えた。楓の羽を奪ったのは私だった。

 私の羽は帰ってこない、だけど、楓には羽を返してあげたかった。

 だから、高校ではもう羽があっただの、空が飛べるなどと人前で言わないように努めた。

 できるだけ誰とも話さず、だけど話しかけたら一応は話し返す。無視なんかしたら中学の頃の二も枚だ。

 当たり障りのない答えを返す。決して話を広げようとか、盛り上げようとかはしない。何かに誘われたら適当な理由を付けて断る。

 そのうち皆は私のことをつまらないやつだと、とっつきにくいやつだと感じて関わろうとしなくなる。

 空気になる。

 羽のない私にはもうそれぐらいしかできない。

 一向に誰とも関わらず、またいじめにあっているんじゃないかと楓はよく様子を見に来てくれた。

 その度に私は「独りが好きなだけ、楓ももう心配しなくていいんだよ。大丈夫だから。それに、こんなにしょっちゅう違うクラスに来てたら楓のほうこそ友達できないよ」なんて言ってやんわりと楓を追い返した。

「……わかった。これだけ、受け取って」

 楓はそう言って一つの鍵を私に渡した。

 なんの鍵かと訊くと、屋上の鍵らしい。

 そして、それを最後に楓が私のクラスを訪れることはなくなった。

 暇さえあると私は楓から受け取った鍵を利用させてもらい屋上へと上がった。

 そこには誰もいない。見上げれば一面の空。まるで空の中にいるようで羽があったときのことを思い出した。

 屋上への鍵は独りが好きと言った私への気遣いなのかもしれない。

 だけど、そんなのはただの言い訳で実際、独りは寂しかった。

 何気なくフェンスの向こう側へ行ってみた。

 目の前に遮るものは何もない。

 今はなき羽がうずく。

 一歩踏み出せば宙に舞うだろう。そして羽のない今の私はまっさかさまに落下していくだろう。

 それでも、踏み出せば飛べるような気がした。

 踏み出したらその瞬間に羽が戻ってくるんじゃないかと何度も夢想した。

 だけど踏み出せない。

 屋上に上がり、フェンスの向こう側へ来ては何度も飛んでいる私をイメージした。

 何度も。

 何度も。

 来る日も。

 来る日も。

 空を見上げては青い空に羽の生えた私を描いた。

 そしてある日、この場所に闖入者が現れた。

 屋上のドアを開き入ってきた少年と目があった。だけどすぐに目をそらして無視した。

 嗚呼、先生を呼ばれたら私は停学かなあ。はたから見たらいかにも自殺しようとしてるように見えるし……、面倒なことになったなあ。

 少年はすぐに踵を返して誰かを呼びに行くものだと思っていたが、以外にもこちらに歩み寄ってきた。

 そして、私の中にずかずかと踏み込んできたのだ。


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