過去
「私とアスカがまだ小学六年生だった。その日は快晴で雲ひとつなかった。内容は忘れたけど理科の授業でクラスの皆は屋上に上がっていたの。……屋上って言ってもここみたいに立派なとこじゃなくて人が十人ぐらい入れるかどうかのベランダみたいものだったけど。
私達は普段は出られない屋上に上がれたことで高揚していた。授業が終わっても休み時間が終わるまでいていいって先生がいったから皆屋上に残った。
少しして先生が用事を思い出したみたいで屋上から出ていった。
監視役がいなくなったら子供ってのはやんちゃでしょ? 柵を乗り越えて屋根に上がったりするのよ。
――先陣を切っていたのは私だったけど。
数人しかいないクラスメートはアスカ以外全員私に続いて柵を越えて屋根に移ってはしゃいでいた。
『アスカもおいでよ』
って、屋上の柵をしっかり掴んでこっちを羨ましそうに見ていたアスカに私は言った。
アスカは怖がって無言で首を振るだけだった。
それで私は歩み寄って手を差し伸べたの。アスカは恐る恐るだけど私の手を取って柵を越えて屋根に移った。震えていたけど、皆と同じ場所に来れて嬉しそうに笑ってた。
短い休み時間がやがて終わって先生が戻ってきた。
屋上から屋根に移っている私達を見ては早く戻ってこいって怒鳴った。
私達は慌てて屋上に戻った。
私はまた先陣をきって先生に怒られにいった。そしてアスカは最後尾にいた。だからだれもアスカに気を配っていなかった。
一足先に屋上に戻り先生にげんこつをもらっていた私の耳に、
『あっ……』
誰かが小さくもらした声が聴こえて、振り向いた私の目に飛び込んでいたのは足を滑らせ屋根から落ちていくアスカの姿だった。
女子の一人の金切り声が響いた。
先生は慌てて下に降りていった。
男子生徒は泣きそうな顔をしながら動揺していた。
そんな中、私は息をするのも忘れてただ呆然と固まっていた。
目の前で起きたことが理解できず、いや、理解することを拒んで思考を停止させていた。ただ網膜にはアスカが落ちていった瞬間が鮮明に焼き付いていた。今でも目をつむれば浮かんでくるよ」
楓は一旦言葉を切って再度ポケットから煙草を取り出した。
「また吸うのか? ペース速いな」
「嫌な過去を話してるんだから、そりゃあストレスもたまるよ」
力のない声で楓はそう言ってゆっくりと煙草を吸った。
手持無沙汰になったソラは故意に視線を上にあげた。今の楓の姿はどこか痛々しく見ているのが少し辛かった。
ソラは楓が吸い終わるまで黙って待っていた。
楓のほうも吸っている間は口を開かず、黙々を紫煙を吐きだしていた。
フィルターぎりぎりまで吸い終わった楓は話を再開した。
「……屋上から落ちたアスカはすぐに救急車で病院に運ばれた。外傷はほとんどなかったけど、頭を強く打ったみたいで意識不明だった。
そして、意識が戻らないまま半年が過ぎた。
雪の降っていたある日、アスカは何の前触れもなく意識を取り戻した。
罪の意識で潰れそうになっていた私は泣いて喜んだよ。
その後の検査でも異常は見つからず、何の後遺症もなかった。ただ……」
「ただ?」
ソラは口を閉ざしてしまったアスカに先を促した。
一呼吸置いてアスカは言葉を続けた。
「ただ、意識を取り戻して数日後、アスカは言った。いたって真剣で、そして泣きそうな顔で」
『私の羽は何処?』
「自分で背中のほうを触って、そして何か気付いたみたいにはっとした表情をして。
その場にいた私も医者もアスカが何を言っているのかわからなくてきょとんとした顔をしていたよ。
何のことか尋ねてもアスカはただ、羽、羽って……。
そのうち上半身を抜き出して全身鏡の前に立って背を向けた。
自分の背中に何もないことを知ると愕然とした表情をして、その後は錯乱状態になって大変だったよ。
地元の公立中学校に進学してからもアスカの狂言は続いた。
当然信じる生徒なんているはずもないし、皆はアスカはおかしい奴だと遠ざけた。だからアスカはいつも一人ぼっちで、いつもただ空を眺めてた」
「ちょと待て、じゃあ俺とも一緒の中学だったのか? クラスは違ったとしても、そんな奇異な言動してたら噂で聴こえてきてもいいはずだけど」
アスカが同じ中学だったことに今更聴かされてソラは驚いた。
「……アスカが学校に来てたのは一年の夏休みが始まるまでだからね。その後は一回も学校に来なかった。
でも私はちょくちょくアスカの家に行って、勉強教えたり、説得……というか、羽なんて最初からなかったって、意識を失っている間に見た夢だって言い聞かせたけど、結果は現状の通り受け入れてもらえないまま」
「なるほどね……」
一連の話を聞いてソラはようやく自分が置かれている状況、アスカの奇怪な行動のわけが理解できた。
アスカを変な奴だと思っていたが、この経緯を聞いては少し同情を覚え、アスカのことをずっと心配している楓に対しての見方も変わった。
なんとかしてやりたいという思いもあるが、何をすればいいんだという思いもある。
「で、結局俺にどうしろと? 現実を思い知らせてやれって?」
「まあ、できればね。でも、前にも言ったけどただ話を聞いてあげるだけでもいい。あの子が話をする同年代の子ってわたしぐらいだから。そんなのって寂しいでしょ? だから友達に、話し相手になってあげてほしい」
まるで実の娘を嫁に出す父親のように楓は言った。
「わかったよ」
こんな身の上話を聞かされ、ましてやこんな真摯に頼まれては断れるわけがなかった。
そして始めから順を追って話してほしかったとソラは思った。




