アスカ
次の日の放課後、ソラはまた図書館に呼び出された。
「お、今日は早いね」
ソラは昨日とは違い、迷うことも寝ることもなく授業が終わると図書館へと向かった。
「今日は何ページだ?」
「えーと……」
楓は読んでいた本をぱらぱらと数ページさかのぼり「九ページ」と答えた。
九ページが何分か分からなかったが、兎に角ソラは早く来たつもりだった。昨日の屋上でのことについて説明を求めるために。
「さて、じゃあ報告を受けようか」
楓は読んでいた本を閉じ、腕を組んで話を聞く姿勢に入った。
「報告も何も……、取りあえずこっちが説明を受けたいね。あの女は誰で、屋上で何をしてたんだよ」
荒々しく席に着いたソラは図書館だということを考慮しつつもいつもより大きな声で言ってしまった。
「彼女は私の幼馴染。名前は落合アスカ。何をしてたかは、私は実際にその場にいなかったからわかんないな」
「フェンスの向こう側に立ってたんだよ」
「へえ、それで?」
楓は驚いた様子は微塵も見せず先を促した。
「危ないからこっちにこさせた」
楓の反応に違和感を覚えながらもソラは言葉をつづけた。
「そのあとは?」
「少々説教じみたことを……」
「なんて?」
「まあ……、命の大切さを」
実際には少し違ったが面倒なのでソラはそう言った。
「そしたら?」
「自殺なんてしようとしてないって」
「自殺じゃなかったらなんだって?」
「空を飛ぶとかなんとか」
「へえ、どうやって」
「自分には羽があるとか……」
「ふむ。なるほどなるほど」
楓はそう言って大きくうなずいた。
一連の話を聞いても楓は驚きも、呆れることもなく平然としていた。まるで昨日の屋上での二人の会話を聞いていたかのように、二人の会話を予想していたかのように。
「何がわかったんだ?」
楓の反応が気に食わず、ソラは憮然として尋ねた。
「君が何の役目も果たしてないってことが」
「何だよ、役目って? 最初に言ってた相談か?」
「あー……、相談っていうより、ただあの子の話を聞いてほしいだけだったんだけどね」
「空想論でもやれって?」
「そんな風には言わないでほしいな。あの子は――アスカはいたって真面目で、真剣なんだ」
珍しく真剣味を帯びた声と顔でそういう楓に対してソラは少しばつが悪くなり居住まいを正した。
「生憎だが、俺は天国も地獄も、天使も悪魔も信じちゃいない」
「無神論者だっていいたいの? まあ、私もそうだけど。信じるものがないってなんか悲しいね」
自嘲気味に楓は呟く。
「……うるさい」
「そう言わずにさ。信じなくてもいい、ただ彼女の話を聞いてほしい。嗤ったり、バカにしたりしないで」
「なんで、俺なんだよ」
ソラの問いに楓は少し考えるそぶりをした。しかし、初めから答えは決まっていたかのようにはっきりとこう言った。
「似てるから」
「似てる? 俺とあいつが? 何処がだよ、何がだよ?」
「そのうちわかるよ」
楓はうっすらと笑みを浮かべ、どこか含みのある言い方をした。
その答えに釈然としないソラはあからさまに顔をしかめた。
「今日もいると思うからさ、行ってみてよ。屋上に」
「……」
ソラは渋々といった様子で腰を上げた。
「ねえ、君は空に何を求めているの?」
アスカをソラの目をまっすぐ見て問う。
ソラは何か言いかけたが、それは言葉にならなかった。
そして逃げるように図書館から出ていった。
本当は青いリボンのカギをつき返すつもりで図書館へと向かったはずだった。そして屋上になんか二度と近づかないつもりだった。
面倒事に巻き込まれるのはもうこれっきりにしてほしい、そう言って、その後はまっすぐに家に帰るつもりだったのだが……。
ソラはまた、昨日と同じように屋上へと続く階段を上っていた。
「はあ……」
屋上のドアを目の前にして大きな溜め息を一つついた。
気乗りしないままドアノブに手をかける。
が、がちゃがちゃと音が鳴るばかりで開く様子はない。
ということは今日はいないのか、じゃあ帰ろうと一旦は踵を返したがもう一度向き直った。
念のため、いないことを確かめるために鍵穴へと青いリボンのカギを差し込んだ。
「……」
ソラは今さっきの行為をいきなり後悔した。
施錠されていた時点でいあにと決めつけて帰ればよかった。そう思ったがもう遅かった。
面前には昨日と同じ光景が広がっている。
すなわちフェンスの向こうに少女がいる屋上の光景。
少女――アスカは屋上に入ってきたソラに気付いたようで振り返り、ソラと一瞬目があった。が、すぐに目をそらし、視線を斜め上へと向けた。
ソラはアスカがいるフェンスへと歩み寄った。
昨日とは違い、慌てることも、変なジェスチャーをすることも、こっちにこいとも言わなかった。ただ、
「話をしようか」
と淡々と言い放った。
アスカは昨日のことを根に持っていたのか、首だけで振り返り、睨みつけるようにソラを見た。
「別にそこでも構わないけど、どうせなら面と向かって話さないか? まるで鉄格子の向こうにいる囚人と面談してる気分だ」
自分を囚人扱いされたことに腹が立ち、眉をひそめた。そして、
「……あっち向いてて」
と昨日と同じセリフを口にした。
ソラは素直に踵を返した。
がしゃがしゃ、とフェンスをよじ登る音をまた、肝を冷やしながら聴いていた。
「で、何?」
振り向くと片手を腰に当て毅然とした立ち姿でアスカはそこにいた。
「さっき言った通り、話をしようと思ってね」
「なんで? てか、あんた誰?」
飛鳥の言葉は明らかに嫌悪感が籠っていた。
「あれ、小町から聞いてない?」
「小町……楓? あんた、楓とどういう関係?」
「ただの同級生だ」
正確に言うなら中学での三年間も同級生だった。
「そのただの同級生のあんたが、楓に何を言われて此処にきたの?」
「いや、なんか話しをしてこいって」
そういえば目の前のこの少女にたいして詳しいプロフィールを一切聞かされていなことにソラは今更ながら気が付いた。
知っているのは今日聞かされた落合アスカという名前だけである。
「話って……、私は別にあんたなんかと話すことなんてない」
「なあ、落合。その『あんた』ってのやめないか? そんな風に呼ばれたら仲良くできそうにないぜ」
「別に仲良くしたくない……、てかなんで私の名前――」
「だから、小町に聞いたんだって」
アスカは見ず知らずの少年に自分の名前が知れ渡っていたこが気に食わない様子だった。
「じゃあ、なんて呼べばいいの? お前? 貴様?」
「なんでそんな好戦的なんだよ」
ソラは少しうんざりしてきた。
「あんたのことなんて何も聞いてないわよ」
「ん? ああ、そうか。そっちも何も聞かされてなかったってわけか。俺は四組の広川空也。広川とでも、空也とでも、……『ソラ』とでも好きに呼んでくれ」
「ソラ?」
最後の『ソラ』という単語にアスカは疑問符を返した?
「ああ、なんかクラスの連中からはそう呼ばれてる」
名前の空也の空から取ったのか、いつも空ばかり見上げていて上の空だからそこから来たのかは定かではない。ただ始めに『ソラ』と呼び始めたのは楓だった。それも確か中学一年のときからだった。それからソラと楓は中学三年間一緒のクラスだったのでクラスでの呼び名は『ソラ』に固定されていた。
高校に入ってからは楓とクラスが分かれたものの同じ中学から来た生徒がクラスで彼のことを『ソラ』と呼び、またしてもクラス中に『ソラ』という渾名が広まってしまった。
「じゃあソラって呼ぶ」
「わかったよ落合」
「アスカでいい」
「……なんで?」
いきなり女子のことを名前で呼ぶことは抵抗があった。
「名字で呼ばれるのは好きじゃない」
「……なんで?」
ソラはしつこく質問を繰り返した。
「なんだっていいでしょ!」
「わかった。わかったよアスカ」
これ以上いくと本格的に怒りだしそうだったのでソラは首を縦に振った。
立ったまま、というのもなんだったのでソラとアスカは二人してフェンスに背中を預けて座っていた。無意識なのか二人の視線は自然とまだ青い空へと向けられていた。
「で、話って何するの?」
呟くようにアスカが言った。
「……」
自分から話をしようと屋上に乗り出したはいいが、ソラは肝心な話の内容をまったく考えていなかった。むしろ気に留めていなかった。
「い、いい天気だな」
「そうだね。透き通るような青空で。なんで空は青いのかな? 宇宙は黒いのに。」
苦し紛れに口にした言葉にちゃんとした返答が帰ってきてソラは内心驚いていた。
「えーと、確かあれだよ。光の散乱がどうとか、青色の波長が短いからとか、そんな理由だったような気がする」
「……つまんない」
「何がだよ!」
せっかく理科の授業の記憶を呼び起こして導き出した答えに「つまんない」との評価を受けソラは憤慨した。
「波長とか散乱とか……、そんな、ありふれた答えを聞きたいんじゃないんだよ」
「じゃあ、どんな答えを望んでんだよ」
「それがわからないから訊いてんじゃない」
そうは言われても、ソラにはこの青空を他に説明のしようがなかった。なのでソラは話題を変えた。
「昨日言ってた、羽がどうとかって……、何段だよ」
その話題を切り出したとたん、アスカは嫌そうな顔をした。
「……なんでもない」
「そうか」
じゃあこの話は終わり、とばかりにソラは短くそう締めくくった。
「……」
「……」
意外な切り返し方をされ、会話が途切れてしまったことにアスカはどこか納得できないようだった。
「私には、羽があるんだ。いや、あったんだ――」
「話すのかよ」
とソラは冷静につっこんだ。
「――くっ。うるさいな! もういいよ、何も話すことなんかない!」
アスカは顔を赤らめながらそう言って立ち上がり、その場を去ろうとした。
「悪い、冗談だって。話せよ、な?」
去ろうとするアスカをソラは急いで引き留めた。スカートの裾をつかんで。
「どっ――、何処つかんでんだ。変態!」
少しずり落ちたスカートを直しながら飛鳥はそう罵った。
「悪い、つい手頃な場所にあったから」
「いいから離せ!」
ソラの右手はまだスカートの裾をしかとつかんでいた。
「いいから座れって」
「わかったよ。わかったから離して!」
そこでようやくソラはスカートを離した。そしてアスカは「変態!」と罵りながらも元の位置に腰を下ろした。
「はあぁ……」
アスカはどんよりした顔で大きな溜め息をついた。
「で、羽が何だって?」
今しがたの自分の行為には何ら悪びれる様子もなく、しれっとした顔でソラは先ほどの話を再開した。
「羽があったんだ。確かに、私の背中には……」
渋々といった様子だが、それでも誰かに聞いてもらいたい。信じてもらいたい。そんな感情を醸しながらアスカは訥々と話し始めた。
「白い、大きな一対の羽が確かにあったんだ」
「天使みたいな?」
「そう、そうだよ。大きな二枚の羽が。それで私は自由にこの空を飛びまわっていた」
「で、今はその羽は?」
ソラは率直な疑問をぶつけた。
「今は、もうない」
アスカは自分を抱くようにして両手を背中にまわし、肩甲骨の近くの羽があってであろう場所を撫でた。
「どうして?」
「昔、飛ぶのに失敗した。そして背中から落ちて私の羽は折れてしまった。それから私は飛ぶことができずに地べたに這いつくばって……、いつもすぐ近くにあった青い空が今はとても遠くに感じる」
アスカの口調はあくまで真剣だった。物語でも、妄想を話す風ではなく、ただ自分の過去を語っている。
しかしソラにはやはり人の背中に羽があるなんて信じられるわけがなく絵空事にしか聞こえない。それでも楓の言いつけを守り真摯に答えた。
「そうか、辛かったんだな。陸上選手が足を失ったようなものか」
「信じるの? 私の話を」
アスカは目を見開いてソラを見た。
「正直、半信半疑、というより疑のほうの割合が大きいかな。それでも俺は、アスカの過去を知らない。本当に羽があったのか、無かったのか、それを判断する材料は今のアスカの言葉だけだ。だから、取りあえずは信じるよ」
「……ありがとう」
呟くようにそう言ってアスカは俯いた。
いつのまにか空の色は青から茜色に変わろうとしていた。
ソラも徐に視線を落とした。
まるで青い空以外には興味がないというように。




