第5話 姫は拒む
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伝説……この伝説を知ったのは、書物からではなく、生きた人間との会話からでした。伝説を元に創作した物語をここに謹んでお届けします。
大内殿の館の奥。
幾重にも重なる廊を抜けるたび、外のざわめきは遠のいていく。廊の柱は丹塗りに近く、磨き上げられた板の間には灯火がゆらぎ、その光が幾重にも重なって、まるで別の世界へと誘うようだった。中庭には池が設えられ、石組の間を水が静かに流れている。白砂には熊笹の影が落ち、風が渡るたびにかすかな音を立てた。
ここは、ただの館ではない。
京から下った公家や連歌師、僧たちが集い、言葉と音が交わる場所――「西の京」と呼ばれる山口、その中心である。
奥まった一室に、小夜は与えられていた。
障子の向こうでは、低く連歌の声が響いている。宗祇の名を口にする者があり、また別の声が和歌を詠む。かすかに混じるのは、唐渡りの香木を焚く匂い。沈香と白檀、それに異国の香料が重なり、甘く、深く、どこか逃げ場のない空気をつくっていた。
遠く、琴の音がひとすじ。
それは途切れ、また寄せてくる。まるで水のように。
その中央、薄絹の帳の内に、小夜は座していた。
重ねられた衣は、淡い紅と白を基に、唐草や鳳凰の刺繍が細やかに施されている。袖は長く、畳に流れ、わずかな呼吸の揺れにも絹がささやく。髪は高く結い上げられ、黒髪は油を含んで光を返す。簪が幾つも差され、その一つ、金の鳳凰が灯りを受けて静かに羽を震わせた。
脇には女たちが控えている。
ある者は盃を持ち、ある者は温めた酒を静かに注ぐ。別の者は京から取り寄せた菓子を小皿に整えた。高坏には山口の清水で冷やした水菓子が載せられている。茶は宇治からのものだと囁く声がする。
ここでは、何もかもが整えられている。
衣も、食も、香も、言葉さえも。
――だが。
その整いすぎた世界が、小夜には牢のように感じられた。
「……苦しくはないか」
帳の向こうから、やわらかな声が届く。
小夜は顔を上げた。
そこにいるのは、大内義隆。
文に遊び、和歌を愛し、京の文化をこの地に移した男。昨夜、広間で見たときは多くの人々に囲まれ、まるで別の気配をまとっていたが、今はひとり、静かな衣をまとっている。その姿は、公家のようでもあり、武の主のようでもあった。
「何か不足があれば、遠慮なく申せ。衣でも、食でも、望むものはすべて整えよう。この館にあるものは、そなたのためにもある」
命ではない。
願いに近い声音だった。
「……十分にございます」
小夜は静かに答える。声は澄んでいたが、その胸の内は、乱れた水面のように揺れていた。
「ならばよい」
義隆は、ほっと息を落としたように微笑み、一歩、帳へと近づく。香の煙が、その動きに合わせてたゆたう。
「そなたのことは、よく聞いておる」
その声は、夢を語る者のようだった。
「この国に、これほどの美があったとはな。京にも劣らぬ――いや、京にはないものが、ここにはある。余は……それを手にしたかった」
小夜は何も言わない。
ただ、視線を落とし、重ねた衣の色だけを見つめている。
外では、誰かが一句を結び、静かな笑いが起きた。
この館は今も、言葉と美で満ちている。
「余のそばにおれ」
義隆の声が、わずかに低くなる。
「この館で、余とともに生きよ。和歌も、香も、音も、すべてをそなたと分かち合おう。何も憂うことはない。そなたを傷つける者は、この山口にはおらぬ」
琴の音が、ふと止まる。
風が庭を渡り、白砂をかすめる。
香の煙が、ゆらりと揺れた。
まるで、この館そのものが――
この言葉の行方を、静かに見守っているかのように。
小夜は胸元に忍ばせた髪飾りに手を当てた。
父をはじめ、長者館の者たちの命が案じられ、小夜はひとまずこの館へと身を寄せた。だが、磨き上げられた調度に囲まれ、身に余る衣をまとっているこの暮らしは、どこか現実味がなかった。これでよいのだろうか、と胸の内で何度も問いかける。贅沢な暮らし――だが、その代わりに、あのお方にはもう会えない。
それよりも、小夜の心に浮かぶのは、母のように生きる日々だった。人や鶏の声に満ちた田舎の館で、泥のついた野菜を洗い、子どもを追いかけて笑う。そんな暮らしこそ、自分にふさわしいのではないか。そしてそこに龍一郎がいて、ともに笑ってくれるなら――それ以上の幸せはない。
「京から取り寄せた菓子にございます」
お付きの女が差し出す。衣からはむせるような香が漂っていた。小夜はその菓子を、静かに断った。
どこどこの何にございます――そんなもったいぶった言い方も、もう聞き飽きていた。贅を尽くした暮らしは十分すぎるほど与えられている。それでも、小夜にとってのご馳走は、梅干しのおにぎりひとつでよかった。
もしこの贅沢と引き換えに、身も心も主君に差し出さねばならぬのなら――。
その覚悟を迫られるくらいなら、早くここを去りたい。
小夜は長く考え、そして、心を決めた。
「殿様……何と申し上げればよいか……小夜は、お受けできませぬ」
声は小さい。それでも、はっきりと告げた。
義隆の表情が固まる。
「……なに?」
「小夜は、ここには居られませぬ」
小夜は顔を上げた。瞳には恐れがあった。だがそれ以上に、揺るがぬ意志が宿っていた。
「どうしてだ。余が嫌か」
「……そうではございません」
「ならばなぜだ」
胸の奥が痛む。それでも、小夜は言葉を絞り出す。
「わたしには……心に決めた人がおります」
空気が凍りついた。灯りの揺れさえ、止まったように感じられる。
「……ほう」
義隆は笑った。だがその笑みは冷たい。
「それが、何だと言うのだ」
「その方と、生きたいのです」
静かに言い切る。義隆の指が、わずかに震えた。
「そなたは……自分が何を言っているのか、わかっておるのか。余の命に背くということだぞ」
「それでも」
小夜は目を逸らさない。
「わたしは、従えません」
重く、冷たい沈黙が場を満たす。香の匂いが、急に息苦しく感じられた。
やがて義隆は、ゆっくりと背を向ける。
「……今日は休め」
その声には、何の感情も残っていなかった。
襖が閉じられると、空気が変わった。
「――やはり、こうなったか」
柱の影から現れたのは、陶晴賢だった。最初からそこにいた。すべてを見ていたのだ。
陶は主君の後を追い、静かに頭を下げる。
「殿。ご覧の通りでございます」
義隆は何も言わない。ただ背を向けたまま立っている。
「女ひとりに、ここまで侮られてはなりませぬ」
その声は低く、静かだった。だが奥底には、燃え上がる怒りがあった。
「処分を」
空気が張り詰める。
「……待て」
義隆が言う。
「まだだ」
「しかし――」
「まだ、だ」
強く言い切る。陶は目を細め、ゆっくりと笑った。
「……承知いたしました」
だがその目は、まったく笑っていなかった。
それからというもの、殿の渡りを幾度も拒んだ結果、小夜に仕える女はひとりだけとなっていた。
「そろそろ覚悟をお決めなさい。殿様の命ですよ。姫の強情には呆れます」
女は何度もそう言った。
月のない夜。小夜はひとり、暗い部屋に座していた。灯りは落とされ、香の残りだけが漂っている。外はしんと静まり返っていた。
手の中には、髪飾り。龍一郎から贈られたもの。
――これがあるから、生きていける。
――龍一郎さまに、会いたい。
涙がこぼれそうになる。
そのとき――
ガラリ。
戸が乱暴に開いた。
小夜は顔を上げる。
そこに立っていたのは、陶晴賢だった。
その目は、怒りに燃えている。
「随分と、気が強い姫だな。主君の命をことごとく拒むとは」
逃げ場はない。
小夜は何も言わず、ただまっすぐに見返す。その視線が、さらに火をつけた。
「……よい」
陶は笑う。
「ならば、思い知らせてやる。この世が、そなたの思うようにはできておらぬということをな」
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