めぶく、よかん。
「はぁ…はぁ…」
私は今、学生時代の持久走よりも全力で走っている。
それもそのはず。
今日こそ行こうと思っていた時間は、とっくに過ぎてしまっている。
遡ること三時間前―――
カタカタ…カタ…
(よし、この調子なら十八時には終われる!)
時計を見ながら、やった!と思っていると、後ろの気配に気づく。
(…まずい、視線を感じる)
気配と視線を感じた時点で、この先の未来は私でも予測できる。
もう、これは、確定演出だ。
「すまん瀬梛、この資料を作成を頼む」
(ですよね~あの視線、そわそわし出したら残業の合図って、もう決まってるんだよなあ…)
嫌だからと言って避けられるものではないので、差し出された資料を受け取る。
「…かしこまりました」
資料に目を通し、スンとなる。
(頑張って全力で進めても一時間かかる…パパっと終わらせよ)
気を持ち直してパソコンとの共同作業に戻った。
その後も、後輩の手伝いや上司からのお願い対応で、現在の時刻はなんと二十一時を回っている。
(あれはもう帰らせる気なかったよね)
約束があると、急ぎのものだけ終わらせ、私は今、全力でお店を目指している。
(また行くと伝えたからには行かないとね………というか、むしろ行きたくて仕方ないんだよね)
連絡を取る手段がなく、行かないという選択肢はなかった。
それに加えて、今日もお店に行けるということを一日中楽しみにしていたのだ。
行けないほうが精神治安上よろしくない。
たった二日、それだけの関わりなのに、あの場所を思い浮かべると心が落ち着くから不思議だ。
とにかく私は走り続けた。
「はぁ、はぁ…はぁ」
裏道を駆使して最短ルートで、路地にたどり着いた。
そこで一度膝に手をつく。
(さ、酸素が…足りてない)
軽く息を整えて、一瞬走るか歩くか迷う。
(…いやいや遅刻してるんだし、とにかく急がないと)
田んぼで駆けているように重い足を前に押し出す。
無我夢中で走っているおかげで暗い路地も怖くない。
(あとちょっと…!)
灯りが路地のゴールを示してくれている。
最後の力を振り絞ってスピードを上げ路地を抜けた。
「はぁ、はぁ…」
(ここに来るとき高確率で何か起きてない?もうそういう運命?)
フルマラソンをしている人たちに脱帽である。
きっとこんな無茶苦茶な走り方はしていないだろうけど、とにかく尊敬である。
膝に手をついたまま、腕を上げる余裕すらない。
ふぅ――
(体力つけなきゃ)
カラン…
唐突に聞きなれた音がして、反射的に視線を向けた。
そこには、ドアからひょこっと顔を出している時雨がいる。
「翠さん、来てくれたんですね」
「!?っすみません!遅くなってしまって…」
膝についていた手を置きなおし、深々と頭を下げた。
「いえ、来てくださってとても嬉しいです」
「っ…」
この上ないくらいに穏やかな笑みは、昼間とは違った優しい光に包まれ一枚絵のように輝いて見える。
「遅くまで働かれたんですね、お疲れ様です。…夜はまだ冷えますね。中にどうぞ」
「…はい」
歩き出した瞬間、風がそっと頬をなでた。
まるで私を歓迎してくれているかのように――
そう思えるほどに、優しく吹いた。
カラーン
ドアが閉まり、ベルの音が静寂の中に響き渡る。
「カモミールティをご用意しますので、お掛けになってお待ちください」
「あ、そんないつも通りお水で問題ないですよ…!」
(もう遅いのに、ごちそうになるわけにはいかない)
「僕がそうしたいだけなので受け取ってもらえると嬉しいです。カモミールティは苦手ですか?」
吸い込まれそうに優しい表情だ。
自然と心が緩んでしまう。
(……惚れないほうが、むしろ無理かもしれない)
「に、がてじゃないです。いただきます」
魅了の不可避スキルでも持っているのだろうか。
そう思うほどに、言葉の端々や表情さえも、特別扱いされているように勘違いしそうになる。
「それならよかったです。少々お待ちください」
「ありがとうございます!」
(厚意を無下にする方が失礼だよね、今度何かお菓子でも持ってこよう)
二十時間営業と言えど、彼への申し訳なさは消えなかったが、感謝の気持ちも同じくらい湧いてきた。
椅子に腰かけながら、彼の厚意を勘違いしてしまいそうになる自分を諫める。
(そんなはず…ないもんね)
窓の外に目を向けると、いつもよりやわらかな灯りが、夜の静けさを包み込むように降り注いでいた。
まるで、道しるべのような光を私はただ見つめていた。
心のどこかが、少しだけあたたかくなった気がした。




