たしかな、やくそく。
何度心を落ち着かせようとしても、鼓動は速まる一方だった。
(もう諦めよう。これは生理現象だと思おう)
頭に響く鼓動を受け入れるように、胸元に手を置いて、深呼吸をする。
効果があったのか、鼓動は変わらずともすっきりしたように思えた。
どうやら緊張しすぎて、酸素が足りていなかったようだ。
もう一度深呼吸をして息を吐ききったところで、視界に影がかかった。
「お待たせいたしました。向かいに座ってもよろしいでしょうか?」
私はゆっくりと視線で影を追いかけた。
影の先には、両手にお盆を持った彼がいた。
窓から差し込む午後のやわらかな光が、彼の輪郭をふわりとなぞっていた。
(…かっこいい)
ここまでくると自分でも、早くこの美しさに慣れたいものだ。
(て、そうじゃない…!)
「っありがとうございます。もちろんです!」
焦ってしまった私は、無意識に声を張っていた。
(変な顔してないといいけど)
このお店に通い始めて日が浅すぎるのか、昨日も今日も感情の起伏が激しい。
社会で培ったポーカフェイスにはそれなりに自信がある。
……はずなのに、今日はボロボロだ。
落ち着ける空間だと感じているからか、張り詰めた感情の反発が強い。
「では、失礼いたします」
左に持っていたお盆を置いてから、もう片方を両手で持ち直して私の前に置いてくれた。
そして向かいの席へ腰かけた。
彼の所作は、どれをとっても心惹かれるものがある。
いくらサービス業といえど、相手を優先しすぎではないかとまで思う。
それでも、そのちょっとしたことでも嬉しくなるのは、きっと私も人生を生き抜いてきたからだと思いたい。
私は、彼を見つめた。
曇りなき眼で少し首を傾げ柔らかい表情で、彼はこう言った。
「いただきましょうか」
この瞬間を味わうかのように目を伏せて、目を開くのと同時に「はい」と返した。
「「いただきます」」
カトラリーに手をかける。
(今日の定食も美味しそう~)
茄子は一度衣揚げされていて、あんかけは輝いて見える。
揚げ茄子は大好きなので、一気にテンションが上がる。
一口食べてみると、茄子の衣はとてもサクサクしていて、中の茄子はトロトロだった。
(昨日も思いましたけど、お料理上手すぎやしませんか…)
感動のあまり手が止まりそうだった。
夢中で食べ進めていたが、そこであることに気づく。
(会話したほうがいいのかな?)
一人で食事をとることに慣れすぎていて、誰かと食べるということを忘れているみたいだ。
「…………」
カチャン…カン…
「…」
(私の心の中は騒がしいけど、)
現実だけ見ると食器たちが当たる音が一番響いていた。
いや、予想はしていた、この状況で自然と会話が弾む可能性は0に近い。
(そもそも何を話せば…?)
今こそ働け私の頭!――
「き、霧峰さんは、どうしてお店を開こうと思ったんですか?」
(あーあ、飲食店の面接の逆質問みたいなこときいちゃったよ…)
反省するほどのことではないが、いかんせん慣れてない場面だと全てを気にしてしまう。
(もう少しあったでしょ、趣味とかありますか?とか昔から料理好きなんですか?とか)
まぁまぁまぁと自分で自分を宥めて、返答を待った。
「これと言った理由はないのですね。…ただ、食べることは生きることに直結するので、大切な人たちに、僕が作った料理をおいしく食べてもらえたら素敵だなと思ったからです」
(…仏?いや神か?どっちがより該当するかわからないけど動機が素晴らしすぎない?)
「そうなんですね。霧峰さんの作る料理がこんなにも美味しいのはそれに相応しい理由があったからなんですね」
彼は、驚いたような表情をした。
けれどすぐに、照れたのか右手を首の後ろ辺りに持っていきそっぽを向いた。
(それは…その反応はちょっと、え、かわいい)
「えっと、ありがとうございます…」
声がだんだんと小さくなっていったお礼の言葉に少しの愛しさを覚える。
「これまでかなり色々試されたんですか?」
美味しい料理と、彼の反応のおかげで絡まっていた緊張はほどけていた。
「そうですね。たとえば、旨味の分子構造を研究してみたり、単純に様々な組み合わせを試してみたり、長い時間を楽しく過ごせました」
そう言って笑った彼は、確かに楽しそうで嬉しそうでもあったけれど、それ以外にも何か思うところがあるかのように思えた。
少し胸のあたりがチクっとする。
楽しそうにしていてほしいと思い、続ける。
「それだけ手をかけていたら美味しいはずですよね。やっぱり料理は好きですか?」
「そうですね、好きだと思います」
そう言い切った彼は、朗らかに笑みを浮かべた。
ますで慈しむように視線を下げる。
(すごく思い入れがあるんだろうな)
その後も料理についてたくさん質問をしてみる。
私が質問をするたびに、楽しそうに答える姿はこれから先、長い間忘れることはないだろう。
そう思うほどに、煌びやかな時間を過ごした。
壁につるしてある時計が、ふと視界に入る。
思いのほか話し込んでしまっていたようだ。
(あれ、思ってるより経ってない…)
時計は十五時半を指していた。
店内は変わらず静かで、さっきより少しだけ陽射しが傾いているように見えた。
(体内時計ずれたかな?)
体感では一時間だ。
時計があっているのであれば、まだ二十分ほどしか経っていないことになる。
(えぇ、そんなに経ってないのかな?)
あまりの感覚の誤差に戸惑い、念のため彼に聞いてみる。
「霧峰さん、今何時ですか?」
「…十五時半ですね」
彼は腕時計をちらりと確認し、微かに口角を緩めた。
「ありがとうございます…」
(実り濃い時間すぎて一時間くらい裕に超えてると思ってた)
違和感はぬぐい切れなかったが急ぎの用事があるわけでもなければ、体感の問題だろうと、頭の隅に追いやった。
「…そろそろ帰られますか?」
「そうですね~…」
(まだ十五時半なら話したいけど、霧峰さんも仕事があるだろうし…)
「今日はこれで…また近いうちに来ますね。もし明日、仕事が早く終わったら…」
「いつでもお待ちしております」
本日何度目のキュンだろうかと思いながら、瞼を下した。
(頑張って慣れよう)
そして一緒にレジまで向かった。
「提案なのですが、僕の苗字は少し言いにくいと思うので、名前で呼んでくれませんか?」
会計を進めながら、呟くように彼は言った。
予想外の提案に心がざわつく。
提案というよりも、お願いのように聞こえたのは自意識過剰だろうか。
「…なら、私のことも、名前で呼んでください」
自分でもなぜそう言ったのかわからない。
もしかしたら、彼にもっと近づきたいと思っている自分がいるのかもしれない。
そう思うと、恥ずかしくて今すぐ駆け出したい衝動にかられた。
「ありがとうございます、入口までお送りします」
「あ、ありがとうございます」
ドアの前まで来て、向かい合ったところで私はハッとする。
「あ!お店って何時まで営業してますか?」
勢いで声を発したほうが難なく話せることが今日証明された。
「あ!」の声が大きすぎたのか彼は小さくビクッとする。
「すみません、驚かせちゃいました」
「いえ、問題ないですよ。お店は…ずっと開いてますよ」
(ずっと?)
「二十四時間ってことですか?本当に?」
私の持っている常識がおかしいのか不安になってくる。
見たところ従業員の方もいない。
そんな中で二十四時間営業だとすると、ハードすぎる。
「僕は、いつもここにいるのでいつ来られても問題ないですよ。もともとあまり眠らないので」
割とハードなことを爽やかに、にこっと言ってのけた。
「…だからいつでも好きな時にお越しください」
彼がそういうなら大丈夫なのだろうと半ば強引に納得させた。
「では、明日の十九時ごろにまた来ますね」
「はい、お待ちしております」
お互いに軽く会釈をして、私はまた、来る約束を胸に外へ出た。




