こぼれる、いと。
「あ、ありがとうございます」
私がお辞儀すると、彼は、微笑んで厨房へ入っていった。。
返事は…なんとかできた。
けれど、心だけが置き去りにされたようで、足は床に縫い留められたみたいに動けなかった。
店内の澄んだ空気が、緊張をさらに際立たせる。
とにかく席を探そうと、ぎこちなく視線を巡らせて――ふと気づく。
(あれ…? 誰もいない…)
まだ開店したばかりなのか、店内には私ひとりしかいないようだ。
(見つけにくそうだもんね、ここ)
そう自分を納得させながら、私は足を踏み入れる。
店に入った瞬間、緑の気配がふわりと肌をなでた。
天井からは細い蔓が垂れ、しっとりとした焦げ茶の木肌が空間を優しく包み込む。
まるで、森の静けさをそのまま持ち込んだような店だった。
少しその空気に浸り、窓際の席へ向かった。
コツ、コツ――
足音だけが妙に大きく響く。
窓際や天井には、草や小さな花が生き生きと咲いている。
(室内なのに、外に生えてるより元気そう…)
つい気になって、天井から垂れていた枝の葉をツンツンと突いてみた。
(…ここ、やばい。こんなお店、理想すぎる…。でも、どうしてこんなに心臓がバクバクしてるんだろう?)
普通の人なら、きっとこの空間で心がほっとするだろう。
でも、私にとってはむしろ、心臓がさらに忙しくなってしまった。
(落ち着け私、慣れ親しんだカフェだと思え…そう、ここは初めましてじゃない……!)
そう思わせようと必死に言い聞かせた。
(………いや、無理だ)
眉間にしわを寄せながら、ぎこちなく椅子の背もたれに手をかける。
やっとの思いで席に腰を下ろした。
(なんでこんなに緊張…してるんだろう?)
波のように引いては返すざわつきの中、深呼吸さえうまくできなかった。
「…ふっ」
(ん?)
何か聞こえたなと思いながら振り返ると、お冷を持ってきてくれた先ほどの男性が笑いを堪えている。
(いや、そんな笑う要素あったかな?)
百面相でもしていたのだろうか。
予想外のラフさに戸惑いながらもポーカーフェイスに努める。
コホン…
「…失礼いたしました。こちらお冷とメニューになります。お決まりになりましたら、お声がけくださいませ」
一礼して厨房の方へ帰っていった。
切り替えの速さについて行けず、再び硬直する。
(うん、フランクな方なのかな?イケっ…じゃなかった、タイプじゃなかったら警戒心跳ね上がっちゃうところだよ)
信じたくなるほど美しいビジュアルと雰囲気の男性。
表情は平静を保っていたと思う。たぶん。
でも、心の中ではすでに五回くらい小さく飛び跳ねていた。
人は美しいものに弱いと思うが、その中でもちょろいほうだという自覚はある。
もう抗いようがない。綺麗なものに出会ってしまったとき、私のガードはいつだって真っ先に白旗を上げる。
驚きで見過ごしていたけれど、笑ったその姿は――あまりにも、尊かった。
立ち絵で描いてくれたらいくら出してでも買いたいほどだ。
気を取り直し、メニューへ目を落とす。
「定食は三種類。お茶はなんと十種類。
(お茶だけで十種類って珍しい…)
迷った末に、オーソドックスな煎茶を選んだ。
「すみません」
「はい、お伺いします」
柔らかな声が返ってくる。
そう言って、彼は穏やかな足取りでこちらへ向かってきた。
テーブルの脇まで来たところで「ご注文をお伺いいたします」と言った。
「Aセットと煎茶をお願いします」
メニューを盾にして目を逸らす。
思考停止寸前だったけど、なんとか乗り切った。
「かしこまりました。少々お待ちください」
彼が厨房の方へ入っていくのを確認して一息つく。
(とはいえ全く緊張しないのは無理があるな、あんなに整った顔立ちでスタイルも良くて長身な人見たら誰だって緊張しちゃうよ…)
心は、初恋みたいに浮いたり沈んだり――。
しばらく経つと、店内に香ばしいにおいが漂い始める。
(美味しそうな香り、楽しみだな)
心を躍らせながら待っていると、注文した品が運ばれてきた。
「お待たせいたしました。Aセットと煎茶になります」
目の前に置かれた定食は小鉢などもいくつかついていて中々豪華だった。
「ありがとうございます!」
美味しそうな定食を前に、緊張は一気に吹き飛んだ。
喜びのままに、お礼の言葉が口をついて出てしまう。
「ごゆっくりどうぞ」
にこっと笑い、そのまま振り返って、彼は厨房の奥へと去っていった。
(素敵な笑顔)
あまりの完璧さに、思考の歩みが止まりしばらく厨房の方から目をそらせなかった。
視線を定食に戻し、食事に手を付ける。
「いただきます」
Aセットのメインであるサバ焼きをひとくち。
サバの旨さに思わず顔が緩む。
ふわっとほどける食感に、箸を止めるのがもったいなくなった。
香ばしさがふわりと鼻をくすぐり、脂ののった身はまるで春の雪みたいに、ふわっと舌の上でほどけていく。
思わず笑みがこぼれた。
爽やかな煎茶もサバ焼きによく合う。
(この時期にサバなんて珍しいな、しかもすごくおいしいし)
ご機嫌のまま、箸が止まらなかった。
食事を終え、レジへ向かった。
「ごちそうさまです」
「ありがとうございます」
そういった彼の表情は少し悲しそうに感じた。
(…気のせいだよね、初対面なのに何考えているんだろう、私)
「胸の奥に、言葉にできないざわつきが広がっている。
会計を済ませ、この後何をしようか考えていると、
「あの、」
足が止まる。
ふいに振り返った彼の目が、まっすぐこちらを捉えていた。
その静かな視線に、心臓が小さく跳ねる。
「僕は、霧峰 時雨と申します」
彼は、言葉を探り選ぶように、ゆっくりと続ける。
「よろしければ、お名前を教えていただけませんか」
え――
想定外の言葉に驚きと戸惑いが入り混じる。
「えっと…私は、瀬梛…翠、です」
自分の声が、意思より早く店内に響く。
普段であれば確実に流すところを、気づいたときには返答し終えていた。
頭と感情、意志でさえも自分のものではないようだ。
現実にそんなこと起こるのかと自分のことながら思う。
(まぁ言っちゃったものは仕方ないか)
彼に好印象を抱いていたこともあり、開き直る。
「瀬梛、翠さん…素敵な名前ですね。教えてくれてありがとうございます」
その言葉に、息を呑んだ。
(言葉が丁寧すぎて、照れるというかなんというか)
くすぐったい感覚と、少しの気まずさで何とも言えない。
そんな私を脇に、彼は目を細めて微笑んでいた。
「…またのご来店をお待ちしております」
一瞬、何かを言いかけて言葉を飲み込んだようだった。
違和感を抱きながらも、つられて笑みがこぼれる。
「ありがとうございます」
そのままドアへと歩き出した。
背中に視線を感じた気がしたけれど、振り返ることはしなかった。
近いうちにまた訪れようと心に決め、軽い足取りで帰路につく。
気づけば、時間の存在さえも霞んでいた――




