しずかな、はじまり。
あの日、何の気なしに踏み込んだ小さな路地。
そこで踏み入れた一歩は、気づかぬ間に世界の境界線を越えていた。
「うーん……」
カーテンの隙間から太陽の光が差し込み、起きろと言わんばかりに容赦なく照らしてくる。
私は伸びをしながら起き上がった。
私の名前は瀬梛 翠。
どこにでもいる普通の会社員だ。
朝起きて、仕事へ行き、帰宅して寝る。
退屈でもなく、特別でもない、そんな日々。
今日は休日。予定はなし。
窓の外を見て、ふと思う。
(天気もいいし、ちょっと出かけようかな。カフェのランチでも行こう)
身支度を済ませ、そっと家を出た。
外に出ると、広がる春空。
ついこの前まで蕾だった桜が、もう満開になっていた。
(桜が満開ということは、もうすぐ四月か)
久しぶりの外出だし、のんびり歩きながらカフェでも探してみよう。
気の向くままに歩いていると、いつの間にか見慣れた景色が広がっていた。
少し拍子抜けしつつも良さげなお店がないか探していると、見覚えのない路地を見つけた。
(あれ?こんなところに路地あったっけ?)
疑問に思いながらも路地の周辺を見渡してみる。
すると路地の入口には看板が立っていた。
看板を覗き込むとポップに描かれた二文字が目に入った。
店名らしき「翠雨」という文字と、定食やお茶のメニューが並んでいる。
自分の名前と同じ文字が使われていることに内心かなりテンションが上がった。
(親近感湧いちゃうな)
一緒に書かれていたメニューはどれもおいしそうでカフェのような雰囲気もあり、もう行かない選択肢はなくなっていた。
私は腕時計に目を落とした。
(もう十二時半か。お腹も空いたし、ここにしよう)
普段は同じところに行くことが多く、ひとりだと特に新しい場所に訪れることはかなり少ない。
初めての場所は緊張してしまうからだ。
でも、この日は不思議とそんなことも思わず、ただ空間に引き寄せられるように入っていった。
路地に入ってみると、かなり狭く、人ひとりがやっと通れるくらいだ。
そのため、かなり薄暗い。
(……あれ、音がしない)
さっきまで聞こえていた風の音も、街のざわめきも、どこか遠くに行ってしまった。
風が吹くたび、背筋がひやりとする。
路地は、昼の顔を忘れたかのように、夜の仮面を被っていた。
私は時折振り返り、遠ざかっていく日の光を目で追いながら歩いた。
(心なしか寒くなってきてない?思い込み…かな)
そんなことを考えながら、私は頭の中で文字を繰って気を紛らわせようとしていた。
次第に灯りが見えてくる。
(あ、あとちょっとだ…!)
そう思った瞬間私は駆け出した。
視界がどんどん明るくなり、ふっと開けた。
「はぁ、はぁ…」
息が切れて、手のひらはじっとり汗ばんでいた。体感では軽く一時間は彷徨っていたと思ったのに──
時計の針は、ほとんど動いていなかった。
(……こんなことって、ある?全然進んでないじゃん。怖すぎる)
天を仰ぎながら呼吸を整える。
「ふぅ…」
整ったところでふと目を開けると、不思議な光景が広がっていた。
そこは、まるで隠された庭のようだった。
遥か上へとそびえる壁のどこかから、優しい光がこぼれている。
地面に近い場所にはコケや草木が生い茂り、つるが壁を伝うように伸びていた。
雨に濡れた森にいるかのような匂いと、しずくの滴る音が心地よい。
思うままに辺りを見渡していると、ぽつんと小屋が見えた。
言葉を失うほどの美しさに、私はただ引き寄せられるように足を踏み出していた。
近づいて見ても、草木と調和した佇まいは、どこか神秘的ですらあった。
竹と木で造られていて妖精の隠れ家のような、優しい輪郭の小屋。
大きな窓が三つと、小さな窓がいくつも並んでいる。
窓縁やドアには、波紋や葉っぱのような、繊細な彫刻が施されていた。
(妖精の住処みたい…!)
そこで私はふと看板に書かれていたお店の名前を思い出した。
(翠雨……「翠」と「雨」、この空間そのものにぴったりだな)
自然や調和、落ち着き、美しさなどの意味合いを持つ二つの漢字は体を表しているようだ。
私はしばらくの間、感動で動けなかった。
ここが本当に現実なのだろうか。
(こんな場所が、街中の路地裏に隠れていたなんて…)
看板がなければ、ここが店だとは気づかなかったかもしれない。
そもそも、ここは本当に入ってもいい場所なのだろうか?
そんな疑問すら湧いてくる。
けれど、『OPEN』の文字を見たら、不思議と安心した。
私は躊躇いつつも、そっとドアノブを回す。
カララーン
ドアを開けると同時に、吊り下げられたベルが鳴った。
「…いらっしゃいませ」
その声は、春の雨音のように静かで優しかった。
引き寄せられるように視線を向ける。
そこには、驚いたような表情で微笑む男性が立っていた。
その瞬間、世界の音がふっと止んだ気がした。
光の中に佇む彼は、どこかこの世界の人ではないように見えた。
吸い込まれるような黄玉色の瞳。
窓から差し込む光が彼の青白い肌を淡く照らし、
深い青緑の髪に静かな輝きを宿している。
微笑みには、どこか儚さがあり、
その頬をすべるように──
まるで涙の記憶をなぞるように、一筋の光が流れていた。
……光?
息を呑み、目を見開いたまま、私はただ立ち尽くした。
時間が止まったような静けさ。
空気が、少しだけ変わった気がした。
はっとして、脊椎反射で返答をした。
「こ、こんにちはっ」
(声ひっくり返っちゃった…恥ずかしい…)
私が勝手に赤くなっているというのに、彼はまるで気にするそぶりもなく、ただ穏やかに微笑んでいる。
「お好きなお席へどうぞ」
ふんわりと微笑む彼に、鼓動がうるさいほど鳴っている。
私は静かに、彼を見つめていた。
この出会いが、私の世界を優しく、けれど確かに塗り替えていくことになるなんて──
あの時の私は、知る由もなかった。




