シルビアとご主人様
またやってしまった。
シルビアは床に広がる紅茶のしみと、ティーカップの破片を眺めながら、どうしようと震えた。
ちゃんと入れようと、丁寧に慎重に注いだのに。
手からすべり落ちたカップは、無惨にも割れてしまった。
シルビアは決してふざけているわけではない。
落としてもいいように、机の周りには沢山のクッションを置いていた。
だけど、カップは器用にそれらを避けて、むき出しの床に落ちた。
だがどんなに対策しても、カップは必ず割れてしまう。
手が震えて、上手く注げないのだ。
指先が冷たくて、破片を拾うこともままならない。
――はやく、はやく。はやく片付けなければ。
また、ご主人様に失望されてしまう。
「――おい、何かあったのか」
後ろの部屋から、長身のフードを被った男が居間へやってくる。シルビアの願い虚しく、ご主人様に見つかってしまった。
「はぁ。これで何度目なんだ」
ご主人様は大きなため息を零した。
「ごめ、ごめんな……」
声が震えて、謝罪の言葉が言えない。
シルビアがご主人様の様子を伺おうとした時。すでに、彼は奥の部屋へ引っ込んでしまった。
――私がのろまだから。また、ご主人様に失望されてしまった。
いつから、ご主人様はこうなってしまったのだろう。
以前は、優しく声をかけてくれた。
だけれど、何度も失敗を繰り返すうちに、いつしか彼はシルビアを顧みなくなった。
※※※
初めてティーカップを割った時のことだ。
「ごめんなさい」
「……大丈夫か。」
ご主人様は、熱いから気をつけろと注意してくださったのに。
音を立てて、ティーカップが割れた。
こぼれた紅茶からは、まだ白い湯気が立ち上っている。
「……ご主人様、ごめんなさ」
ご主人様の顔を伺う。
顔は柔らかかったけれど、その目は冷えきっていた。
「あ、あの!すぐ拾います」
慌てて床に散らばった破片を、拾い集めそうとする。
「おい、お前……」
ご主人様は色白の肌をさらに青くして、立ち尽くしていた。
「ご主人様? そんなに青ざめて、どうされたのですか」
そういった後に、ご主人様が魔法使いであったことを思い出した。
ご主人様にかかれば、こんな片付けなんて簡単なのに。
私はなんて愚図なんだろう。
それからというものだ。ご主人様が冷たくなったのは。
あれからシルビアが何かしでかすたびに、ため息を吐き、そして悲しそうな目でシルビアを見つめてくるのだ。
怒鳴られた方が、よっぽどいいのに。
ご主人様は重いため息を吐くばかり。
シルビアには、それが何よりも辛かった。
※※※
珍しく、ご主人様が居間のソファに座っていた。
「ご主人様?」
お声をかけたが、反応がない。
眠っていらっしゃるのかしら。
風邪を引いてはいけないから、毛布でもかけて差し上げよう。
シルビアはそう思い立つと、外に干してあるブランケットをいそいそと持ってきた。
戻ってくると、ご主人様はぼんやりとこちらを見ていた。
「起きていらっしゃったのですか?」
お声をかけようとする。だけど、返された瞳はシルビアのことを見ていなかった。
「王女様……」
「ご主人様?」
彼はシルビアのことをじっと見ていた。いつもの彼と違って、どこか寂しそうな様子だ。
シルビアは、視線につられて、ご主人様の頭を撫でようとした。
その手が頭に触れかかった時、ものすごい勢いで振り払われた。
「やめてくれ!」
「……あ、あの」
「お願いだから、もうなにもしないでくれ。気が狂いそうなんだ!」
ご主人様は、叫んだ。
あまりの剣幕に、シルビアは彼の顔を見上げることしか出来なかった。
「その顔で、僕を見るな。……まがい物のくせに」
そう言うと、ご主人様は奥の書斎へと消えていった。
「次こそは、ちゃんとしますから」
だから、クビにしないでくださいまし。
そう口にするのが、やっとだった。だが、その言葉は居間に虚しく響くだけだった。
※※※
「シルビア、この前は……」
彼は何かいいかけて、それから激しく咳き込んだ。
「ご主人様、お身体は大丈夫ですか?」
このところご主人様は、お身体が弱い。この前なんて、一日中咳をされていた。
その時はさすがに、シルビアもいいつけを破って看病しようとした。
だが、部屋に近づくなと命令されているシルビアは、何もすることができない。
それに、ご主人様の部屋の近くには結界が貼られていて、誰かが近づけばわかるようになっている。――そう、昔彼に教えられた。
基本ご主人様は書斎にこもりきりだ。
世話をすることも出来ず、シルビアはただやるせなさを抱えていた。
それでも、その晩は居間に響くほどの咳が書斎から聞こえていた。
シルビアは、いてもたってもいられず、奥の書斎へ向かった。
シルビアが部屋の前に近づいた途端。
びりりと、空気が震える感覚がした。ご主人様の結界に、引っかかったのだ。
「お願いだから、何もしないでくれ」
扉の奥から、彼の悲しそうに言いつける声が聞こえた。
弱りきっているのに、そう跳ね除けられては、黙り込むしか無かった。
※※※
とある朝。いつもご主人様が起床する時間なのに、いつまで経っても居間に姿が見えなかった。
書斎には入るなと言われていたので、リビングにて朝食の準備をする。
卵をぱかりと二つに割って、フライパンの上に落とす。真ん中の黄身がつやつやと、光に照らされている。
今日は一段と綺麗に卵が落とせた。殻も黄身が割れてもいない、完璧な姿。
「……ご主人様は、喜んでくださるかしら」
シルビアは、久々に嬉しくなる心地で、朝食を作った。
しかし、お昼をすぎても、夜になっても。
ご主人様が居間に現れることはなかった。
目玉焼きはすっかり乾燥しきって、ぱさぱさになっている。
……もしかして、お部屋で何かあったのかしら。
心配になって、シルビアはご主人様の部屋に前へ向かった。
ドアノブに触れようとして、この前のことを思い出す。
また、ご主人様に拒絶されたりでもしたら――。
今度こそ、家を追い出されてしまうかもしれない。
もしかして、とうの昔に、見捨てられてしまったのかもしれない。でも、ご主人様はシルビアを屋敷から追い出すことなく、メイドとして置いてくれている。
だから、ご主人様に追い出されるまで、シルビアは御恩に報いようと決めたのだ。
ご主人様、目玉焼きが上手く焼けたんです。
シルビアは、彼が来るまで、ずっと居間で待ち続けた。
そうして、いくつかの昼と夜がすぎた。
ご主人様がお見えになったら、すぐにお茶を入れよう。
そうシルビアが考えていた時。
突然玄関口の方から、けたたましい音が聞こえた。
どん、どん、という衝撃が、屋敷を左右に揺らす。
「ご主人様!ご主人様!起きてください!」
シルビアは約束を破って、ご主人様を呼びに行った。
書斎のドアを思い切り叩こうとして、一瞬手が止まった。
ぴりりとした、あの結界の痛みを思い出したからだ。
だけど、すんなり扉に触れることができた。
揺れはどんどん大きくなるばかりだ。
「ご主人様!大変です!」
書斎の入口を必死にノックする。
でも、いくらシルビアが呼びかけても、彼が答えることはなかった。
やがて、凄まじい轟音と共に、玄関の扉が打ち破られた。
騎士たちが扉を破り、屋敷にずかずか押し入った。
その内のひとりが、シルビアを一瞥して叫んだ。
「早く――王女様の遺体を回収しろ!」
「ですがこいつ、動いて……」
ああ、きっと、ご主人様に愛想を尽かされたのだ。
だから役に立たないメイドを捕まえるために、騎士様をお呼びしたのだろう。
だって、シルビアは人間じゃないから。
「あれは――アンデッドか!?」
「まさか、あの魔術師め」
騎士たちが、何かを言い合っていたが、やがてシルビアを取り囲んだ。
でも、抵抗する気は全く起きなかった。
シルビアはそのまま大人しく囚われ、両手を金具で繋がれて、上から袋を被せられた。
そうして荷台に詰め込まれ、どこかへ運ばれていった。
シルビアはただただ悲しかった。
シルビアの役目はご主人様のお役に立つことだけなのに、それすらも出来なかったのだ。
※※※
つれられた場所は、暗くてひんやりとした場所だった。まるで、ご主人様がいなくなってしまったリビングのようだった。
シルビアは、あまり目が良くない。周囲の景色はよく分からなかったが、ここが家じゃないことは分かった。
もしかして、これから新しい雇い主の人の元へ売られてしまうのかしら。
「あれは、本当に王女様なのか」
「あんなおぞましい姿……」
ひそひそと、シルビアのことを話す声が聞こえた。
次第にそんな声も聞こえなくなって、シルビアの周りは静かになってしまった。
……ご主人様は、どうされたのだろう。
メイドがいなくなって、清々したのかな。
※※※
ある日、お日さまみたいな髪の毛をした男の人がやって来た。鉄格子の向こうで、陽だまりのような笑顔をしていた。
「やあ、久しぶりだね。私のことがわかるかい?」
「……ど、なたですか?」
そう返すと、いつかのご主人様のように、悲しそうな顔をした。
「…………まあ、分からないよね。」
彼は言葉を続けて、右手を軽く持ち上げた。
「このままじゃ、君は長い事ここに閉じ込められてしまう。……そうなる前に私が――」
淡い光が、その人の右手に灯る。その光は朝の光のように、柔く暗い地下牢を照らす。
優しそうな人だ。この人なら、きっとお願いすればご主人様の家に帰してくれるかもしれない。
「あの、私。お屋敷に帰りたいです。」
そう言うと、その人の動きが止まった。しばらく押し黙ったあと、その人はシルビアに尋ねた。
「君は……家に帰りたいのかい?」
※
シルビアはまた、追い出されてしまった。
新しい雇い主の人が、どこでも行っていいよとシルビアを解放してくれたのだ。
だが、シルビアにとってはまたしても「お役御免」を言われたのと同じことであった。
でも、シルビアにとってそれは些細な事であった。
シルビアは迷う事なく、ご主人様の家に帰ってきた。
厚手の扉は見るも無惨に粉々になって、屋敷の中はひどく荒れ果てていた。
ずっと固く閉ざされていた書斎の扉は、今は開け放たれていた。
かつて、扉の隙間からひっそり覗いた時。部屋の左右には、山ほどの書類と薬品の山が積み上げられていた。
そして、その奥にはご主人様の姿が見えた。
だが今あるのは、小さな研究机だけ。
部屋はほとんどもぬけの殻であった。
屋敷のどこを探しても、ご主人様の姿は見つからなかった。
それでも、シルビアのやることは変わらない。
ご主人様が戻ってくる前に、部屋のお手入れをしなくては。
いつかご主人が帰ってくるその日まで、シルビアはお茶をいれる練習をすることに決めた。
ご主人様の研究机の奥で見つけた、綺麗な白いティーカップ。
それは、まだそこにしまったままだ。
これは、ご主人様の大切なティーカップだから。
いつかあの茶器に、紅茶を入れるのを夢みながら。
シルビアは今日も、ずっとご主人様の帰りを待ち続ける。
2021年に書いた話を手直しして投稿しました。




