散文
冬の海の冷たさを、少女はそのとき初めて知った。
耳に響くごうとした音が、波か風かは大切ではなかった。どちらにしたっていつもより大きく感じる。近い。
少女に脚はないはずなのに、その脚が寒さで震えてしまっているようであった。身体で感じる風の強さと、太陽のひとかけらも見えない空があまりに空虚で寒々しい。水が太腿にかかったとき、ツンとした寒さが全身を駆け上り、頭のてっぺんで弾けた。
真っ赤になった手を震わせながら、きぃきぃなる古臭い車椅子を操る。大粒の石や砂や貝や小石が散在した海は、今までのどこより動かしづらいように少女には感じられた。車椅子のタイヤが変な音を立てる。驚く間もなく思いきりずり落ちる感覚がして、少女はがくりと体勢を崩した。心なしか弾んだような気もして、少女は暫く車椅子を掴んだまま動けなくなってしまう。今の感触は岩のようであったと、体勢を直しつつ少女は思った。海に置かれた岩の一つを、少女は越えたのだ。膝あたりの海が、腹にまで上がった。
気を取り直して、前へ。
少女に恐怖心はなかった。ただやるべき事だけを分かっていた。膝にかかったブランケットが海の中に迷い込むのも、町の仕立て屋が彼女のために仕立てた上等なシャツが濡れることも厭わないで。
海に入ったことはないから、勢いよく迫る波が、彼女にぶつかっては水飛沫をとばすたび、その塩気に舌を濡らした。そういえばどこかの本で読んだことがあったわね。上手く車椅子が動かせなくなりながら少女は思った。海には空気がないから、ここと同じように呼吸ができないって。
頭上を、何かの影が横切った。殆ど動かせなくなった首をやっとの思いで起こして、その姿を少女は捉えた。曇天を覆う黒。大きく翼を広げると、その翼から羽が海に落ちていく。無数の鴉であった。この地域にのみ生息するアトヤカラスが、夥しい数で群れを成して、少女の近くに集まり始めたのだった。
自分が沈みに行くのを見に来たということに、少女は気付いていた。彼らは、一人の少女がこれからの自分を捨てるのを。彼らの王が世界のために動くのを見に来たのだ。
気にかけるほどのことでもなかった。どれだけ数が集まろうと、“この手の客”は何もしないのを彼女は知っていたから。
___あゝそう。それで。
それで、だから少女はきっと海が自分にぴったりだということに、幾らか安堵を覚えていた。肺の呼吸がいくらか息苦しく思えたのは、わたしにもともと鰓があったからなんだわと、そう思ったからであった。
震える息を吐きながら、小刻みに揺れる指に力を入れる。細かい動作が出来ないから、関節を大きく振って。寒さを感じぬ義手をメインに動かしながら、少女は水平線を目指した。
早く着く必要もないから、焦ることもないだろう。いつかこの水が、冷たいものではなくなるまで。時間をかけて進んで、向かって。
頭の芯が朧げになる感覚を、彼女は覚えていた。いつしか脇の高さにまで海の水は届いて、呼吸も荒くなっている。車椅子のタイヤが揺れて、浮かび上がり始めた。
「_______っ」
重心が背後に傾きかけていたのが、何かの力で返された。無機質な風や鳥やそういったものではなくて、車椅子の背から感情の伝わる、人がなしたものであった。少女は顔を上に向ける。左右に動かすのが億劫になって、背を反るようにして見上げるほうが楽に感じたからである。
煤やフケや瘡蓋に塗れた、少女の知らぬ少年であった。まだ二桁も生きていない、少女と同じ小さな背をした。くすんだ肌。ぼろぼろの布。ちぢれた髪。汚れに燻んだ髪の最中に赤髪をみつけて、それが彼本来の色なんだろう。そのことに少女は気付いた。茶色くくすんだこの色が、上から被さってあの赤を隠している。勿体ない。が、凍って固まった心から溢れ、少女の胸に満ちた。少年のカサついて皮が剥けた唇から、荒々しい息が吐かれる。本来は感情を表に出さない性格なのだろうか。かちあった瞳の奥にみえる焦りと安堵の感情に、少女は思わず息をついた。
___なんて、きれいな…
海から右の手を出し、震えながらも少年の頬に添えた。その赤い瞳が不思議そうに少女を見つめる。冷たいだろうに、怖いだろうに、少年は少しもそういう感情をみせなかった。海の水に頬を濡らして、少女の瞳を見通して。ただただ少女を心配するように、そっと唇を動かす。
「なに、してたの?」
頬に添えた親指の腹を動かすと、汚れのない綺麗な肌が現れた。少女はそれを焦点の合わない瞳で見つめて、か細く掠れた息を漏らす。
「____ま、ってたの」
視界がじんわりと朧げになり、少女は心の内側から引かれた紐に逆らうことなくゆっくりと瞼を閉じた。これでめでたしめでたしといったように、壇上の幕が閉じられでもするように。右腕の力が抜けて、少女は夢の内側に戻る。間際、少年の瞳に応えるように少女は言葉を発した。
「あなたを」