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心機炎1


「どうしてわかってくれないの?私はこんなにもあなたを愛しているのに!」


 外の雨の音など、彼らの耳には届いてはいない。女の目からは、小麦の実ほどの雫が、ホロリホロリと落ちていた。彼女の顔下のテーブルにかけられるクロスには、その水滴によってまだら模様が作られており、その話し合いが長い間行われていることを示していた。


「わかっているよ。でも僕は、行かなければならない。もちろん君の事は愛しているけれども、僕にはそれと同じぐらい、大切にしていることがあるんだ。頼む、分かってほしい、フィーレ」


男は女を説得する。しかし恐らくはその言葉の半分も、彼女の耳には入っていないだろう。それほど、男が述べる内容は、彼女にとって始末の悪い話だった。


 二人の前には、一葉の手紙がある。今の、彼らの状況を作り上げたその手紙には、彼のかつての恩師の言葉が綴られていた。


”親愛なる ジェイルへ


君が達者でいることは、誰よりも私が知っているよ。

私も、きっと君ほどではないが、それでも元気にやっている。

今回君に手紙をしたためたのは、食事に誘うためだ。

近々、帝都に君が用で立ち寄ることを知って、良い機会だと思ったんだ。

その場にカラも呼んでいる。かつてアカデミックで語り合ったように、その日も一言一言を各々の心に募らせることを願っている。


記されている事柄だけを観察するなら、彼女は取り乱すことはなかっただろう。彼の、学生の頃のよしみと、話し合うだけなのだから。


「私は…その人のことをなにも知らない」


その言葉は、彼女が自らに襲いかかる不安という猛獣に対して、石のつぶてを投げる他なかったから出た詭弁にすぎないかもしれない。しかし彼女にとって、それは同時に重要なことであった。彼の恩師を知らなければ、彼女は彼を行かせることはできなかった。


「先生は、素晴らしい人だ。君は僕の事を信じてくれているんだろう?…考えてもみてくれ、その僕が信じる人なんだ」


ジェイルはフィーレに真っ直ぐな視線を向ける。しかし彼女はその真っ直ぐな視線に対して、すすり泣きで応じた。


「彼女のことなら、問題はない。なにも起こらない。先生も、邪な気持ちはないだろうし、それに僕だっている。そこには他意のない3人がいるはずだ」

「信じられない!」


ことをややこしくしているのは、”彼女”の存在だ。ジェイルとカラはかつて、恋仲だったのである。いや恋仲とは厳密には間違っている表現だ。かつてジェイルは彼女に好意を寄せていたが、カラは応じなかったのである。しばらく、ジェイルの恋の炎は燃え上がっていたが、カラの持つ湿った空気が彼の炎の勢いを弱めていったのだ。ジェイルはその後、カラとは以前ほど喋らなくなって、アカデミックの卒業っきり、顔を合わせることはなかった。


ジェイルはもう一度、カラと何があったかをフィーレに話した。そうした上で彼は師のことを語った。


「…僕と彼女が決定的に離れてしまった時、先生はその間柄を取り持とうとしてくれたんだ。恋人としてではなく、人間として」


フィーレは頷きも、目を合わせることもしなかった。彼女にとってそれは、史書の美談となんら変わらなかった。(だから?それで?私になんの関係があるの?)そういった言葉がフィーレの喉元まで上がってきているに違いない。ただただ、フィーレは無言で、はらりはらりと涙を流した。


「多分…先生の本心は、そこにあると思う。だから確かめにいかなくちゃならないんだ」


フィーレの悲しみは、段々と憤りに似た感情になっていった。何故、私たちと関係のない人間に、私たちの仲を乱されなければならないのか?”私と貴方は他人でない”彼女の心から沸き上がるこの想いは、自負心と独占欲のキマイラだった。


(私のことを大切に想うのなら)

「…いく必要がないよ」

(私と貴方以外の関係には)

「…意味がないよ」


 フィーレとて、全てを話せないことは、重々承知であった。それを言ってしまえば、取り戻せなくなることが多分にあることを、彼女も知っていた。けれどもジェイルにとっての自分の価値を取り戻すためには、まるで命綱なしの綱渡りのようなこともしないといけないとわかっていた。


「いかないで」

「…ひとついいかい」


しかしそれは、ジェイルも同じことだった。今彼の中では愛と義が天秤で量られ、どちらが重いのかを判断せねばならなかった。そして、ジェイルは自分の愛する人も同様に、天秤を持つべきだと考えた。


「この間の祝祭のことは覚えているね…そこで君は昔の恋人と会ったじゃないか…あのとき僕は、君からその人と会うと伝えられて、僕は苦悩したけれど、会っても良いと、答えたよね?」


フィーレは押し黙る。それは、彼女にとって不都合な真実だ。


「君は、僕が君に対してできたことを、僕には…」

「それを!」


フィーレは椅子から立ち上がり、ジェイルの言葉を遮った。彼女は自覚した。自分の心に、愛と義を量る天秤が現れたことを。


二人は二人の内の天秤と、一葉の手紙を挟んで、向かい合っている。テーブルのクロスのまだら模様は既に乾き消えて、その話し合いがいつから始まったかのかを示す材料足り得なくなってしまった。


「それを言われてしまったら、私はなにも返せないよ…」

「…」


コップに張った水が、溢れまいと表面張力によってなんとかおさまっていたところが、何かしらの衝撃でこぼれてしまう。ジェイルの一言は、フィーレの心の縁から憤りを溢すのに十分な一言であった。


部屋には静寂と悲哀が充満していた。この話し合いの終わりを告げたときには既に、激しく降っていた雨も、止んでいた。


「…帰るね…」


フィーレは上目使いで、ちらとジェイルの顔をみる。ジェイルは顔を伏せて、眉間にシワを寄せていた。フィーレは自分の目をみてくれることを期待したが、ジェイルにはその余裕はなかった。彼女は去り際に、もうひとつの期待もしたが、自分の目をみてくれなかった時には既に、その期待は無駄なものだとわかっていた。


フィーレが去ったあと、ジェイルは沈黙することしかできなかった。


彼は倦怠感で包まれるその身体をベッドに沈めた。眠ろう。眠らなければ。彼はひとつのため息もつかず、むしろ沸き上がる溜飲を押し止めた。


その日は、沈黙によって、夜が更けることになった。



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