秘密の小箱 「ESN大賞4」
秘密の小箱
(一)
父の年表
私の持ち運んでいる箱根の寄木細工みたいなからくり箱は、不思議な箱である。
大きさは幅が二十センチ高さが十センチ奥行きが十二センチの、宝石箱の形になっている。私は宝石などない。冠婚葬祭に使える真珠のネックレスとブレスレットとイヤリング・そのほか銀細工のブローチなど、誰も欲しいとは思わないものばかりだから安心箱でもある。
宝石箱の蓋は誰でも開けられるが、正面に寄木を施した四つの抽斗がある。そんな仕掛けがあるとは誰も思わない。開けるには持ち主の声紋と指紋と両方が必要である。抽斗を開けたからと言って何かが出てくるのではない。決まった小さなラベルに、文字が滲み出たタイトルだけピラリと一枚入っているだけである。タイトルを読み上げたら・・・その開けた引き出しに向かって私が何年も前に吐露した事柄を、その箱がその時の私の声で話すのである。どうしてそんなことができるのか不思議なのでからくり箱であり、どうしてその箱が私の手元にあるか・・・後でゆっくり考えなければ思い出せない。
ともかく、四つの抽斗は左から、(喜)(怒)(哀)(楽)(驚)と寄木で表し並んでいる。私が吐露した・・・その事柄が何年か経って、考えが変わりあまりにもかけ離れていたら、その時に自然に消えてしまう。それが不思議である。今やスマホは録音ができて映像も調べることも電話をすることもできるけれど・・・私の頭の中を整理してくれることはできない。ましてや、必要ないとか変更したとかを、その箱が判断してくれる、かといって命令するわけでもないし、意見を言ってくれるわけでもない。つまり、あるのは自然の時間の流れのみである。
今日はどれにしようかなどと逡巡することもできない。その箱に吸い寄せられるほどの感情なりの高まりがあるか、散々悩んだ挙句に冷静になった時か、そのどっちでもなく言葉が出てくる瞬間が来た時に作動する。
だから、何時かは分からない。そしてその時、一人でなければ作動しない。それも安心の一つである。
私達の家は職住接近を希み札幌と小樽の真ん中あたりを、三年の時間を費やして探した小高い丘の上・・・南側は高速道路のすぐ傍で、間に雑木林がこんもりで夏は影の中で、北側の窓からは一階も二階からも、ほんの小さくお椀のように石狩湾を望むことができる。
六百坪は手に負えないので、独身貴族の女友達と半分ずつ所有し、ギャラリーを挟んで棟続きで建てた。
仕事も一緒に私の母も取り込んで、連れ合いと三人で住み始めて、犬が増えて17年が過ぎて・・・今は、私と犬だけになった。だから、安心宝箱はすぐ手の届く、二階の階段の一段目の左棚に置いてあり、一階から上がって十三段目に腰掛けて、夜なら一階の電気を消して暗闇に向かって、日中なら左からの南の光を受けて、のんびり・・・話したり聞いたりできる。
今年はコロナのためにじっと家にいることが多くなり、家で階段上り下りの運動がてらの休憩と気分転換に・・・ここ二年くらいの間の自分の吐露を無性に聴きたくなった。すぐ私の手は(驚)をタッチし、ため息が出た。ため息でも抽斗はいつもよりゆっくり開いた。ため息でも声紋なのだろうか?
(驚)この抽斗には三枚のタイトルが入っている。
タイトルの結婚した訳を選んだ。ちょっと暗い声の私・・・。
『これは言わないでおこうと思ったけどね~。もう悲しい思いはしたくないって言ったから結婚した。』そんなことを四十年も、たってからぽそりと言われた。開いた口が塞がらないという感覚を初めて味わったのだわ・・・。
そんなことで結婚決めたの? え~~~私は、何時も一緒にいたいと思ったから結婚したのに・・・男性が結婚する理由・・・切っ掛けは何なの?
私の女友達は、大胆にも『発情よ! 』と、言ってのけた。まあ発情という言い方は無粋だけれど、それもあると思う健康な若者なら・・・しかし私は『発情』という言葉は使わないし、気恥ずかしくて言えないな。
だけど~私は三十歳迄の間の、どのボーイフレンドよりも自由になれたし、趣味が合い考えも近いし家庭環境も似ていた。彼の父上はすでに無くなっていたが・・・周りの友達も大いに賛成してくれた。何人かの友達は『三年もつかな? 』と云つたのを覚えている。
私の両親にすんなり認めてもらえる人柄だったし、二人とも場所にこだわらない根無し草で、お互いの家族の中でもブラックシープ的存在で、貧乏だったけど・・・何よりも毎日が自由だった。
あの心に引っかかるフレーズを吐露した時は、彼が癌になって四年・・・闘病してからだったろうか? 死を覚悟して吐露してしまいたいことの一つだったのかもしれない。でも、本当に真面目なその人の人間性からくる告白なのかもしれない。
その言葉を聞いた時『えっ? 』と、思ったけど不思議と冷静だった。そして、昔のある記憶が頭をよぎった。
父が母と結婚したことの訳の一つに、無学の父親と住んでくれる人を選んだということを聞いた。(父には好きな人がいたようだった。)父は深酒になると、時々、ポロリと私の脳裏に残ることを吐露する。いつの間にか時間が経ち、それらが心の中で繰り返されはっきりしてくる。それらは、また時間を経て私の中で確信に変わり、父という男の本音が見えて・・・私はそれらを知らずしらすのうちに父の年表に落としている。もう亡くなって二十五年は過ぎてるというのに、まだ私は父の年表を作り続けている。
四十二年一緒にいたパートナーが亡くなって二年もたった頃、伴侶という意味が心から分かった。それまで伴侶という言葉を書いたことも使ったこともなかった。
もう一つ彼の生きた証の年表を作りたい。私の年表は誰が作るのだろう? 私は誰の心に残るのだろう?
遅く結婚したこともあり、自由を選び続け、子供を持たない私達に『お前たちは、難しい人生を選んだぞ。』と、父に言われた。このことも一つかもしれない。
今日の話は、あっちこっちに飛んでしまった。これが私の質だから・・・でもまとめておこう。
一般に夫がひどいこと(言われた人がびっくりするほどの・・・何か秘密めいた)を、妻に言うときはどんな時だろう。その人の身体や精神が弱っている時・病気などで死を覚悟した時それ以外で言うならば、単純に仲が悪いだけである。それから、家族とは限らないが・・・他人が弱っている時にひどい言葉を浴びせるのはなぜだろう? それこそ子供の時からの環境からくる癖・・・大人になりきっていない大人なのだとおもう。
それじゃぁ・・・子供は他人の痛みなどまだ分からないから・自分の親や親しい大人にひどい扱いを受けると、その感覚を他人に返す・・・それがいじめに繋がることの一つだとおもう。終わり。五月十三日 月命日・・・。
月命日に吐露したんだった。その時が蘇る。このことは、まだそのまま残るだろう。
(二)
理不尽な設計監理業務
自分の声を聞くのは少し照れくさい。でも、他人にどう聞こえているかを自分で知るのはとてもいい。
高校時代放送部で学校用の放送機械を操作し、昼休みはクラシック音楽を選択したり流したり、マイクの前で校内放送や連絡事項を読み上げたり、NHKの本物のアナウンサー達のホンマモンの訓練を習いに行って、それを部員と練習したり・・・校内行事の時のちょっと目立つ動きの中で感じた・・・なんだろう・・・優越感かなぁ・・・今、思うと恥ずかしい限りである。
もう一つ(怒)の抽斗をタッチしてみた。最初に出て来たタイトルは『メール攻撃・言葉の暴力』だった。私の声は怒りで震えていた。ベイビューの住宅(小樽湾の見える新興住宅地の事件だ! )
「許せない・・・どうしても許せない・・・。どうして管理責任を取らされて設計料を全額返し上棟した建物を解体し、用意した材木を無駄にして・・・更地に戻し何度も土地を改良し・・・それらにかかった費用を我が家と土地を担保にして、五年の猶予で一千万以上の借金になった。
「管理責任ってなんなの? 」
「施工業者が失敗したことをどうして? 設計者がいつもいつも業者さんの尻拭いをするの? 」
発端は施工業者の下請けの基礎工事業者の不手際・・・基礎の中にタバコの吸い殻が落ちていたこと(その日はあいにく大風で吹き飛ばされたのかもしれない)ホールダン金物の埋め込みが五センチ位ズレたこと・・・施主の婚約者だろうか(機嫌の悪い暗い男性・ポマードピカピカのリーゼントで)現場監督と(若くて明るくてハンサムだったこと)そりが合わなかったことが関係していたと、私は思う。それらプチプチと全部が設計士が起こしたことではなく、施工業者側のミスであっても管理責任を問われたのだ。
一昔前にもあった。それは施工業者が設計図書に書き込まれた断熱材のメーカーを、勝手に変えて施工したのを離婚を勝ち取った施主が目ざとく見つけたと、いうものであった。そのことを設計監理者が見逃したということで、裁判になった。その断熱材は図書に書き込んであった製品と同等の性能を持ったものであった。施工業者は良かれと思って、設計士に連絡せずに施工した・・・いつもいつも法律は施主の味方であり、そして悪いことにその弁護士は、建築を全く知らなかった。
今回も建築物に支障をきたすものではないことを、構造の専門家に証明してもらったが耳を貸さない。婚約者と名のる男性は、この工事をぶち壊したいのだろうと思われた。設計士やイケメン現場監督とソリが合わなかった。
しかし、契約者である施主の女性の方から一方的に契約を『破棄します』と、先に言ってしまったことを、なんとかそれを隠蔽するために・・・自分達が損をしないために婚約者と名乗る男性が暇に任せて(多分、無職だったから)その頃、始まったばかりのメールの攻撃・・・言葉の暴力を毎日深夜に送り続けてきたのである。
側で見ている私は気の毒で仕方がない。真面目な我がパートナーは、日に日に落ち込んで行った。
私にはどうすることも手助けもできなかった。『未必の故意』という言葉を初めて目にした。よくぞこんなに、他人を罵倒できるものだとも思った。私達より二十歳近く若い三十代半ばのこの人は、一体どんな環境と職業を経て今あるのだろうとも思った。
私には考えられない言葉の羅列・・・こんなにも酷い言葉で他人を陥れるなんてことを、どんな人生経験をしたならできるのだろう。
何日かの攻撃でとうとう『建築をやめる。』と、パートナーが私にポツリと告げた。
私は一瞬血の気が引いたが、『こんな人間一人のために今まで培った建築を捨てるべきではない。』と、本当に強い口調で言ったことを覚えている。
後始末は大変なことだった。当の施工業者は自分会社の損害を、何とか小さくしようと必死である。施工の契約は施主が選んだ施工業者とであり、設計の契約は設計士と施主である。だから私達は設計料の返還だけで良いのだが・・・しかし、施工業者の海千山千の建築部長は、私達が紹介した(彼らはネットで私たちの事務所を知ったのであり・・・)施主の悪さをあげ自分たち施工側のミスを隠し、損害の折半を凄んで言い張った。私たちの今までの人生で会ったことのない人種である。
悔しい。五年かかって大きな部分の返済が終わり・・・そのあとガンが発覚して・・悔しさがつのる。今も・・・。親しい友人は、寿命を縮めるほどのストレスだったねと言っていた。抽斗から漏れる私の声は、低く悲しいものだった。この抽斗からこのことが消えるのは何時だろうか? 今日はもう違う楽しい抽斗でさえもタッチできない。
(三)
名無しの権兵衛
私は三という数字とその倍数が好きである。三日・三週間・三ヶ月・六ヶ月・九ヶ月そしておまけの一ヶ月足して一年になり、三年・六年・九年・十年でようやく一プロ・・・十九年では二プロではない。いっぱしのプロの道は三十年と思い仕事を続けてきた。同い年のパートナーも同じ感覚だったと思う。
徒弟制度の残るような事務所を二人ともに選んでいたし、お互いの父親は明治生まれだったし・・・建築の流れを三回見たいから九十歳まで生きると言っていたが、十八年も短い人生になってしまった。私はきっと九十歳まで生きると思うし(事故・災害がなければの話)蓄えがないから働けるうちは働くだろうと思う。
犬の名前を呼んで話しかけているのだから、秘密の小箱にニックネームをつけることにした。和名はだれかを想像してしまうから、洋名にしようと決めた。
『ねぇ・・ジョージ! 』
『ねぇ・・ケン! 』
『ねぇ・・ミスター! 』
えっ? どうして男の名前なの? 知らず知らずに出てくるのは男の名前ばかり・・・。
『ねぇ・・バーバラ! 』
『ねぇ・・アン! 』
『ねぇ・・シモン! 』
女の名前もしっくりこない。私は男が好きなのだろうか? いや・・・そういうことではない。でも、私は『ねぇ・・・』と、いう言い方をしたことがない。女友達にもしない。
だいたいが『あのね・・』『あのさぁ・・』で始まる。
箱の名前が決まらないから、またにする。
私の愚痴も・・・たわいもないことも記憶してくれる私の宝箱は、階段の棚で未だ名無しの権兵衛である。
(四)
カナダからの宿泊者
ドキドキする計画表がメールで届いた。心の準備をするために小箱の前に座った。タッチするときに名前があったらなあと思いつつ・・・でも、抽出しは開いた。
(友)には、まだ何も入れていない。カナダのファミリーと書いた。
『もしもしあのね・・カナダからキャン夫婦が来るんだよ~』
お世話になったカナダのファミリーの長男夫婦が、一ヶ月間の予定を組んで日本旅行に来る。半世紀にもなる長い付き合いのファミリーで、私が丸ごと世話になったそこの家族の父も母も亡くなっている。それからは、年一回のクリスマスカードと、思い出した時のバースデイカードぐらいになっている。今はパソコンのメールがたまに行き来する。一番下のサラが、私の連れ合いが癌になったちょうど同じ頃に、乳がんになり闘病している。
彼女はカナダの癌撲滅運動というか癌研究費応援運動に参加しているので、年何回かそのサークルから寄付依頼のメールが来る。
彼女は堂々と抗がん剤で消えた髪の毛のことを話しウイッグを外し、自分の子供の小さかった頃の帽子を頭にのせチャーミングに近況を画面で語る。
私が出会った時彼女は、中学生だったかしら? この時代のネットワークのなせる技・・・。
2018年の北海道胆振東部地震のブラックアウトも、ここは隣に小学校があるので、一日だけの停電で済み何一つ被害のない地域で・・・ともかく、ここに懐かしいカナダのファミリーがご夫婦で四泊五日の逗留である。
さて、部屋の準備をしなくちゃ・・・ここには景色のご馳走がある。それには窓硝子拭きが欠かせない。大窓ガラスが5枚・中窓ガラス7枚・ドアーガラス4枚・小窓ガラス1枚で計17枚もである。今までは二人でやっていたから楽しかったけど・・・連れ合いが旅立って二年目である。一人はなんでも大変だということを、今更ながら実感している。
長男夫婦はパソコン駆使して一年以上かけて、色々調べ上げていて計画表がメールされてきた。それには、成田について東京に二泊して、飛行機で千歳に降りて、小樽駅で待ち合わせる。小樽あたりを四日ほど楽しんで函館本線で時間をかけて上京し、旅好きの美術学生だった私も訪れたことのない熊野古道や飛騨高山・高野山の宿坊など温泉巡りもすると言って、水着持参すると書いてあり微笑ましい。心配なのはその一ヶ月は日本は台風シーズンで、それも台風に向かって動く計画なのである。
彼らはカナダでも首都のオタワから、夏になると車に自転車乗せて家族でキャンプしながら、東のはずれの奥さんの実家のあるプリンス・エドワード島まで、移動するというのだから日本の大きさは、ちょっとそこまでの感じではあると思う。
彼らが泊まっている間の献立を考えながら、連れ合いと一緒に余市町で、リホーム設計させていただいたS宅を訪ねることと、夜市町の鰊番屋を見学するのを計画しておいた。彼らは自分達で動くから心配無用と繰り返し言っていたし、持っているアイパッドには日本語英語変換機能のソフトを入れていたし・・・何も問題ない。
窓ガラスも拭いた。見えるところの掃除もやった。シーツと布団カバーと枕カバーは新調した。待っていると長い何ヶ月かがあっという間に過ぎ、その日は来た。
カナダの彼らの父が末期ガンで亡くなる少し前に、会いに行き(その時はサーズが流行していて、海外出張の多い弟の力を借りて・・・まだ大丈夫そうなアメリカデトロイト経由でマスクをして十三時間どこにも触らず、カナダの首都オタワに入った。)ほんの四~五日の日程で、哀しいけれど思い出深い旅になり、一ヶ月後カナダの父はに亡くなった。それから四年後に、残された元気なカナダの母に会いに行って以来で、彼らとは十四~五年ぶりである。
お互い一緒に年を取っているのだから大した変わりはないだろうと思っていたが、グレイヘアーになったいたぐらいだった。それに、小樽駅は改札口が一つしかないローカルな駅だからそれも良かった。
まずは、車に荷物を積んで我が家まで直行し、家中を案内し少しくつろいでもらう。
近くに『カレー小屋』というパキスタン人のやっている、それは美味しい薬膳カレーのお店に予約を入れる。
二人共とても喜んでくれ、そして一泊目の夕飯をクリアーできて私はラッキーである。カレー屋の店主は英語堪能でそれもよかった。口惜しいのは去年死んでしまった連れ合いがいない。彼らもとても残念がっていた。そのこともあって小樽に立ち寄ってくれたのだと思う。
我が家は坂を下るとすぐ国道である。彼らはバスを使って小樽市街を観光して夕方には、バスで帰ってくる。なんとスイカを使ってすいすい動いている。
二日目は棟続きのお隣さんを招待して、頂きものの上等なシャンパンを用意して、楽しいディナーにしようと考えていたのに、頭が痛いとドタキャンされた。理学療法士の奥さんは、心配そうに『お隣さんはもしかしたら寂しい人なのでは? 』ポツンと言った。
私は今まで考えてもみなかった・・・二十年隣同士で付かず離れず暮らしてきたのだ。仕事とはいえ、外国人で出会ったこともない人がピンと感じたのだ。そうなのかな?
マイペースで女性管理職でセレブで、社会を悠々と闊歩してきた稀な人だと思っていた。私が気がついてあげていないのかもしれない。自分でいうのも可笑しいかもしれないけど、私は家族の中でも外でも何故かいつも元気で朗らかで、喜怒哀楽がはっきりしていて、おっちょこちょいでお人好しで・・・あっ、自己中心でもある・無計画・無鉄砲・傍若無人とも言われたことがある。限りなく私が良くないのかな? そういえば・・・連れ合いがいなくなってから、ギクシャクして付き合いが難しくなった気がしていた。
三日目は計画の余市町に出かけた。小樽駅の駐車場に車を停め電車での移動だったのに、タッチの差で乗りそびれ、急遽バスで行くことに変更した。
余市駅で友人で施主でもあるS氏が待っていてくれ、車で鰊番屋まで送ってくれ、鰊番屋の受付で英語で案内するように言ってくれたお陰で、なんとも楽しい英語説明のできる案内職員にであった。
本当を言うと私は、こんなに丁寧に鰊番屋を見学したことがなかった。連れ合いは建築設計士だったし、友人たちも建築士が多かったから何箇所かの有名な鰊番屋は見学していたが、建築設計の彼らは自分達で理解しているが、私は美術系だから自ずと見方が違っていた。
今回は丁寧に外国人に説明していたので、まあ、なんとわかりやすく私にとっても有意義だった。
市中バスで余市駅まで戻り、S氏が教えてくれた駅前の郷土料理のレストランでお昼を食べようと前まで行って見ると、何十人も並んで待っている。
S氏邸のリフォーム工事の時に、何度か連れ合いと食べに行った駅横の中華屋さんを思い出した。あんかけ焼きそばを注文して私は懐かしさで嬉しかったし、彼らは初めての料理で楽しそうだった。
駅のコーヒースタンドで食後のコーヒーを飲み・・・ちょっと休んでいる間に、またS氏が車でご自宅へ案内してくれ、楽しい会話とお菓子をご馳走になって余市駅まで送っていただいた。行きに乗り損なった電車で小樽駅に着き、丸一日びっしり英語でした。
四日目は張碓・春香あたりを歩くと言って出かけて行った。彼らの小樽見学は毎日良い天気だった。いつもニコニコしていて穏やかに生きてきた、お天気ご両人なのだと思った。
五日目の朝、小樽駅まで見送りしハグして別れた。彼らは計画通り函館本線に乗り込んで日本探訪の旅を続ける。
良い旅を!
(五)
愛着障害のこと
小箱の名前が今決まった。『HALU』この地の名前春香の『ハル』まあ少し女っぽい気もする・・・。
「ねぇハル~何年か前カナダを旅行して・・・まだ、カナダのお母さんが元気だったから三十年以上も前になるかなあ・・・真剣な顔して尋ねられたことがあるのよ。」
私には半世紀にわたって、自分の家族以上の付き合いのあるカナダ人の家族がある。今は自分の両親もカナダの両親も亡くなって親という繋がりはこの世からいなくなった。
まだみんな若く健康で飛行機代を捻出しては、四年ごとにカナダを訪れていた頃、私はもう結婚していて東京に住んでいたと思う。
カナダの母親と思っている方に質問された。彼女は思慮深く聡明で快活で見事な母親であり、私が敬愛する先輩女性である。
私はどの抽出しを開けたら良いか躊躇していた。ハルはスッと(怒)の抽出しを開けてくれた。ふーん(怒)なんだね。
「日本の母と娘は仲が悪いの? なぜなの? 」
カナダ駐在の大使の家族と楽しいお付き合いをしていて、それから日本を訪れた時にも感じたそうである。ただ彼女たちの出会う人はカナダ大使だったりロータリークラブの人達だから世に言う上流階級の家族で・・・いくつかの親しい家族を見ていて感じたらしい。
私はすぐには答えられず・・・その時からことあるごとに考え続けている。残念なことに納得のいく答えをできないままに彼女は亡くなってしまった。
継母や嫁姑の話なら五万とある。いや、どこの家庭にもあるだろう・・・しかし、母と娘の話してある。
私は姉弟の真ん中で自由に三十歳まで独身で・・・結婚した相手も自由人で三男坊で嫁姑家族関係を離れたところで暮らしていた。子供もいないから何か見えていないか見ていないか・・・分かっていないところにいる。
それがこのところたて続けにそのことが私の周りで起こっている。
どうしてこんなことが・・・起こるのだろう? 子供を持たない私に相談するというか告白されるのである。
親しい女友達からも・・若い女友達からも打ち明けられた。
友人は私と同年代で、戦後の日本の発展の波を私と同じように泳いでいたので話が早い。最近、何度か娘さんのことで悩みがあると電話がくる。それは三人の子供の一人がとてもよく自分に似ていて、家庭のいざこざ嫁舅小姑の愚痴を、その子には小さい頃からなんでも話せる、いい関係だったそうで・・・それは母親にとってだったらしい。
つまり、彼女は大家族に嫁ぎ、家庭内のいざこざを一番気の優しい子に話し続ける。自分の心を平静に保つための捌け口にしていたのだ。まだ育っていない、子供の中の一番優しい子がターゲットになる。母親である本人、はそのことが後々どんな影響を、その子供に与えるなどということは一切考えてはいない。考えられないほどの状況であったには違いないが・・・。
その娘さんが高校大学なりを通過し、二十数年が経って結婚をし子供も二人いて、ご主人の家族とも行き来のあるごくありふれた家庭を築いているらしいのだが、ある時、突然、何かのきっかけでフラッシュバックする。
『私はすごく嫌だったんだよ! 』と、気の合うと思っていた娘に言われて、驚愕したと私にそのくだりを話した。母親の彼女は何を言われたのかわからず・・・『ごめんね』と、謝ったそうだがそれからずっとギクシャクしたままだそうだ。
彼女は孫に会いたくても、なかなか言い出せなくなってしまったと言う。
「待ってゆっくり・・・時間がいるよ。ゆっくりね。」と、だけしか言えなかった。
きっといま、その娘さんは何か苦しいことに出会っているのだ。だから、何かをきっかけに思い出してしまったのだわ・・・でもお母さんに言えて良かったのかもしれない。
吐露する人がいなければ、子供にいうのだわ・・・・気の優しい子に向かって・・・だから・・・時間をかけてゆっくりとだけ言った。きっと解決方法があるよ。探そうよとも言った。あるかしら? 探さなきゃ!
それから時を空けずに、また何か同じ匂いのする話に出会った。若い生命会社に勤める娘M子の話は、その母親という人をよく知っているので私には信じ難い。私の知っている彼女の母親は、スポーツ万能でクラスのみんなに好かれる存在で・・・しっかりした長女だった。大家族に嫁いでどんどん変わっていつたのだ。
ともかく、M子は小さい頃に(幼稚園・小学校・中学校まで)母親の家族関係の愚痴の八つ当たりを受け続けたという。そこの家族関係も大家族であった。 すごく汚い言葉でなじられた。ブタ とか 生きてる価値あるのとか・・・父親にも受けたという。彼女は長女で弟も妹もいる。なぜか彼女にだけ辛く当たったという。(父親はすでに亡くなっている)その仕打ちを今になって母親に仕返しているという。
今のM子の状況は姑付きの長男と結婚し、一緒住んでいるのだという。大家族ではないが、姑が一人住んでいた家に結婚して入り込んだ形である。
たまたま、それらのことを、長い間付かず離れずの関係で続いている友人に話す機会があった。彼女はある地区の民生委員を長く続けていて、外側からいくつもの家庭見ることがあり、講習会などで気になった心理学者の研究を話してくれた。
「そのことを研究している心理学者が、言っていたのよ、子供の中の一番優しい子がターゲットになる。」
「そうだわ~その通りなのよ、でも娘は子供の頃の我慢していた嫌な思い出に頑なになっていて・・・取りつく島がない。その場合結果はどうなるの? 」
「その学者はそこのところは・・・聞いてない。」
「どちらも、大きくなってから母親にぶつけてるけど・・・それで何かいい方向に変わるのだろうか? 」
「その学者は、変わらないと言っていた。」
「じゃ、母親に仕返しというか、その昔あったことを母親に言えない場合はどうなるのだろうか? 」
「どんどん狂っていくらしいよ。」
「自分より弱い立場の人に当たっていき・・・イジメ・・・ハラスメントに?」
「そうかもしれない。」
私たちの話はそこまでになっちゃったわけで・・・。
「ねぇ、ハルこんなこともあるのよ。」
若かりし頃の母親が自分の都合で、まだ小さい自分の子供に愚痴や八つ当たりをしたことなどは覚えていないわけで・・・例えば、昔、もう四十歳代になってからのことなんだけどねぇ・・・寿司屋で偶然に出会った中年の男性・・•小学生の頃と顔が変わってない人もいるのよ(金歯だけが違ってた)後ろの席の男の子にいじめられたことを『昔あんたにいじめられた』と言っても、もうおっさんになっているその男子は、一向に思い出さないのと同じなのよ。いじめた方は覚えちゃいない。女の子は風貌が変わるし、私のことはとうとう思い出さなかった。当時の担任や街のことや友達や色々あげたけど、駄目だった。一番近い母親でさえ自分の行為を忘れて生きていけるのだから、今、世の中で・・・社会で学校で起きていることの元凶は、家庭の中でも起きていたのだ。
もちろん、バランスの良い家庭でそんなことには出会わず、免れてとてもよく育っている人もいるのだろうが・・・学校で、社会で種類も状況は違うがイジメ・ハラスメントに出会ってしまい驚愕する。自己発散・自己調整ができる育ち方ができていれば乗り切れるが、それができなければ、登校拒否も引きこもりも起きてしまうわけだ。
私はどうだったか? 色々あった気もする程度で・・・両親は戦後を乗り切るのに必死に働いていたから、子供をあれこれかまう余裕のないこと・祖父はいたけれど核家族だったことと、何より健康だったことスポーツと学問至上の父・元気で明るい母・家族一丸で生きていたこと・私が姉弟の真ん中で、強度の近視ゆえの鈍感さと楽天的な性格だったこと・・・中学・高校とそれなりのスポーツ・音楽・美術に没頭できたことが良かった。
私が育った時代には、今はよく耳にするアスペルガー症候群(様々な発達障害)とかHSC(Highly Sensitive Child人一倍敏感な子)などの区別なく、みんな一緒の教室で元気な子・勉強のできる子・のんびりした子・身体の弱い子 ぐらいの分け方だった。
どの子も高校を卒業する頃には、自分自身のことがそれなりに分かっていた気がする。それである意味良かった。人という種類の個体の持つ、その最高の能力は一説には、十六才~十八才と言われる(人によっては多少の発達の違いはあるだろう。)そう思って考えると世の天才の残した功績は、ほとんどその時期に創りだしている。
凡才であれ通常はどうであれ・・・人という個体はその時期に最高潮が来るのだ。散々疲れても、翌朝けろりと復活していた。どの個体もその時期をもっと大切にしなければと思う。
自分の感情をコントロールするのに必要な要素・情操教育が大切であることが、今更ながらわかる。
芸術だわ・・音楽・・・美術・・・スポーツ・・・つまるところ自己表現である。
「だからね、ハル! 私、今からでもね、やり残した事がたくさんある気がするの! 」
ここでの話は終わりにしろ! と、言うのだろうか? ハルは抽出しをすっと引いた。笑えるところだ。
『もう止めなさいよ』と、言うわけだ。ここんところが賢い小箱だ。この問題は時間がかかるし、人の心のことだからまたにしよう。
(六)
機嫌の悪い女たち
北海道の夏から秋への変わり身の早さは、通常はたった一晩なのに今年は日本の周り中の海水温度が高いため、特に本州・沖縄あたりは大変温度が高い上に台風にも悩まされていて、いまだに夏がのろのろしている。
今日、私は今までの人生で、一番ぐうだらな一日を過ごした感じがある。
何も手につかない。コロナのせいも加わって私の仕事がないのと、一人になってしまったから、毎日のルールが崩れてしまったのだ。やらなければならない片付けは、父母の遺したもの・連れ合いの遺したもの・自分の若い頃からため込んだ手紙や殴り書きのメモが、あちこちから吹き出して山ほどあるのに、何も手がつかずに日が暮れる。
ただ、朝方と夕方には手を抜けない飼い犬の散歩と給餌、どんどん手を抜くそこそこの自分の食事しながら、同時通訳の二カ国放送でニュースを聞く画面を見る。洗い物をすませながら、ふと蘇る記憶の言葉に取り憑かれ、考えてみたりもっと手繰り寄せたりしてすぐ明日になってしまう。また、小箱の前に座ってしまった。
「ねぇ・・・ハル・・・私、時々思うんだけどね。機嫌の悪いのは女じゃないかと思うよ。男よりね。女は愛されるのがいいとか思っているみたいだけど・・・本当は、男の方を愛すべきなのではないか・・・どっちでもよく五分五分ならいいのに・・・なんでそうならないのだろう? 」
ハルはどの抽斗を開けたら良いか、カタカタ小さく音を立てて・・・躊躇しているのがわかった。
どれが開かれるだろう。私にも分からない。階段に腰掛けて小箱に向かって話し始めた。(哀)の抽斗が開いた。
「ねぇ・ハル。哀なの? 」
まあいい、ハルが選んだのだから・・・。
「今まで出会ってきた男たちは・・・まるで私が多くの男を渡り歩いたみたいだけどそんなことはない。でも、いつも好きなボーイフレンドは必ず一人いたとは思う。どの人もそれなりに魅力的だった。私と違うところを持っていてなんだろう・・・機嫌の悪い人はいなかったように思うの。」
自分の状況が変わったり、相手の状況が変わったりお互いに動いている若い時期だったから、長く続くことはなかった。相手に昔からのガールフレンドがいたとか、私がものすごい勢いで世界を目指して動いたとか、仕事をしたとか・・・だから、私は結婚するとか身を固めるとかは考えてはいなかったから・・・結局、何回も失恋したことになった。まあ、振られる羽目になったということだわ。
そんなことを思い出してるうちに、機嫌の悪い人達・・・本当に機嫌の悪いのは女達であることに気がついた。
気圧の変化でも頭が痛いだのと言い張り、取りつく島がない。男達の苦虫つぶした顔も態度も、フリだけである。なぜなら、甘い言葉や美人がすれ違っても笑うタネが転がっていても、すぐぐにゃぐにゃになる。
男は自分で何か面白いことを言ってしまったなら、自分で吹き出す。機嫌の悪い男は基本的にいないのではないかと思った。
物心ついた時から感じていたどことなく厳しい・・・苦虫つぶした顔をしていた明治最後うまれ人間・・・父も今になって思うと、機嫌の悪い人達には入らなかった。
父は自分の言った面白いことを、酒の肴にするし、それをポロリと私に言うのである。
『この間なぁ、小雨でなぁ・・・近くの市場に行ったんだよ。魚屋でなぁ思わず出た言葉がおかしくてな・・・周りの買い物客が一瞬止まったんだ。それからみんな吹き出してな、大笑いさ。『折角きたのに八角ないのか』つて、言ったんだよ。』そう言って思い出して含み笑いをする。
私は父に言われたことを時々思い出す。
『お前は最悪のことを考えないで行動する』
二歳上の姉も三歳下の弟も、私と違い堅実というか社会性があるというのだろうか、いつも私だけが父からの忠告を食らう。
『ピンカン頭だなぁ・・・ピンときたらすぐカンと答えずに、まず考えなさい。』
『お前は金のかかる奴だなぁ』
家を出てから、父親に手紙を書いて無心するのは私だけだった。本当に父の言葉通りだと思いながら・・・今日まで生きてきた。
私が出会ってきた男達は(父を含めて大人の男たち)どの人も素晴らしい人達だった。
だから、家庭内暴力を振るう人は、解らない。女子供より力が強い・・・腕力があることが問題なのかしら? どうして威張るのかしら?
家の外で嫌な思いをしているから、八つ当たりをするのだろうか?
日本は基本的に男には、生きにくい社会だとは思う。 男だから 男のくせに 女々しいだって男に使う言葉である。男社会だというが『男はつらいよ』は、本音だろうと思う。
私は女に生まれたことを、ことさら損とか得とか思わないで生きてきた。考えても仕方のないことは騒がない。鈍感なのか・・・周りにいる女友達の何人かは、男に生まれたかったとか男の方がいいだとかいう。何人かは、日本の女は虐げられているという・・・本当にそうだろうか? 組織に女の役職者が少ないといい、国会議員や大臣が他の国に比べて少ないといい・・・それが女を下に見てるといい・・・挙げ句の果てには男尊女卑といい出す。
男の方が照れ屋だし優しいし・・・男は大変だなぁ! と、私は思う。
そう言えばなぜか私は、十年らいの家族付き合いのある男性群からも、ポロリと女房さんのことを打ち明けられることが多い。多分・・・私のパートナーは反対に、女性群から打ち明けられたのだろうと思うが、お互いに話したことはない。ポロリと漏らす打ち明け話は、秘密にしたいことだろうから・・・。
小箱のハルは男でも女でもないのだから、私のグチみたいな独り言をどう思うのだろう。
今日の抽斗は(愛)が開いたけれどどうしてこのタイトルなのだろう?
私の男たちへの愛だというのだろうか?
カナダの母シェリーさんと英語の単語について話したことを思い出した。
(loveとlike)について(愛すると好き・・・について)彼女はちょっと考えてから『loveは狭くlikeは広い。』と、答えてくれた。その時は実感がなかったが、今は納得である。
(七)
霊感のこと
「ねぇハル・・・今日は(怒)を開いてくれる? 私にはまだ調べ足りてないことだけれど、考えておかなくてはならないことなの。」
右端の引き出しがすっと開いた。『メール攻撃・言葉の暴力』が先に入っていた。これもまだまだ私の中では、消化できないで残っている。タイトル用紙に、私が書くのではないハルが書くというか、私の吐露が終わった時に、手品みたいに炙りガミみたいに文字が浮き出てくるのだ。
今、新聞とテレビ等を賑わしている『核のゴミ』・『過疎化の村』・『高額な援助金』
これらを整理しなくては何も言えない。
『核のゴミ』を耳にしたのは42年前、実の弟も私も三年前に結婚していて、弟はある大手の企業に勤めて大阪からの出張で我が家に泊まった時の話から始まる。
「俺・・・会社辞めようかと思っている。」
「えぇ~なんで? 皆んなが入りたいという良い大手会社じゃないの? 」
自分で言うのは口幅ったいが、弟は石橋叩く真面目な良い青年である。その上イケメンで剣道五段とか六段とかで・・・我が家の期待の星である。
「何か大きな問題に出会ったのでしょうかね~」と、我が連れ合いは、人が話をしやすい雰囲気を作る。
「実は・・・新しいプロジェクトに配置が決まった。それは原子力に関するものなんだよ。プルサーマル・・・核のゴミは、いまのレベルでは処理できずに、延々と増え続けるんだ。これから先へ延々とだよ。どう考えても、自分ではどうにもできない。辞表を出して札幌に戻って、親父の仕事を手伝おうかとも考えている。」
弟は核のことを話し、いまの人間の力ではどうにもできないものであると確信していた。
私達はその時、彼ほど深刻に原子力のことを考えていなかった。機械工学を専攻していた彼の予見である。
「あらら、大変な岐路だね。」と、しか私は言えられなかった。その夜・・・彼の心配の限りを吐露して翌朝帰っていった。そのあとしばらくしてから、ロボットの開発部署に配置転換になったことを連絡してくれた。現役を退くまで弟は、ドイツ・アメリカへ長期の出張と忙しく飛び回っていた。
それから三十年も過ぎて東北の大津波と原発の破壊になって今がある。
三十年も前に一介の若い技術者が予見していたのに、その分野で最高の科学者や技術者は、考えていなかっただろうか?
ネットで調べてみると、すでにフィンランドでは、オンカロ最終処分場を四十年以上も前から、原子炉の近場に(核のゴミの放射線が徐々に薄まって、なくなる・消えるまで十万年という気の遠くなる時間をかけて貯蔵するためのオンカロ)の建設を考えていた。
私達も知り合いのある人から、北海道幌延炭鉱の地下坑道を利用する施設の設計に誘われたが、なんとも胡散臭い匂いを感じて参加しなかった経緯もある。しかし、私達は裏で何か得体の知れない莫大な金や組織が動く事に触らぬように、遠まきにして生きている気がする。逃げている訳ではないが、なぜかそうなる。
ある友人は、福島の原子炉の事故から心配のあまり太れなくなったという。同時期に私は自分の連れ合いの病気看護で、自分の周り五メートルしか考えられなくて、被災地の人達には申し訳なく思っている。
北海道には泊の原子力発電所がある。近くで声をあげた過疎化の村がある。寿都と神恵内である。泊を挟んでいる。声を上れば・・・そして札束が舞うらしい。
基本的には過疎化していく村も巨大化していく都市も同じ日本である。平等にインフラは享受すべきであり格差はあるべきではない。日本国に居住するどの人も、平等に受けられてこそが民主化である。貧乏な地域も豊かな地域も同じ日本である。
なぜに格差を生むのか? 自分さえ良ければいいのか? 見かたを変えれば世界中にも言えることである。人間さえ良ければいいのか? 地球は一つなのに! こう言い張ると『何を子供じみたことを言っている! 』と、揶揄される。じゃぁ、どうすればいいのか私に何ができるだろう? 自分の意見を考えておくことが第一歩ではないか? 私はこう思う。
素晴らしい能力を持つコンピューターが存在する今、日本中の状況を、選ばれた議員や委員がそれこそ丁寧に歩き検べ、調査資料をインプットして行く。コンピューターがどこそこの過疎化は一番先に手助けをしなければならないと答えを導く。力のある議員が地元を優先的に整備するなど半世紀も前の方法である。『国民のために働きます』と、堂々と選挙で言っておいてやっていることは、虚栄の中に足を踏み入れ、あったはずの自分の良心を破壊しているではないか・・・。
「私には今、ハルに話すことができる。隣に誰もいない今の私には有り難い。この問題はすぐに答えは出ない。それはいつものことで・・・考えているうちにあれは? これは? 色々なことが混じって・・・膨らんで収支がつかなくなるけど、必ず徐々に削ぎ落として私の答えにしてみる。答えではなく自分の意見にしてみる。」
不思議なことに抽斗は、カタカタ揺れた。ハルが同意するようになったのだろうか? それとも地震? いや、スマホが騒がないから地震ではない。でも、私はかすかに期待している。二十代までは霊や摩訶不思議な奇跡なんて信じてはいなかったのに、何故か三十歳になって結婚してから急に感ずるようになった。霊に肩をポンと叩かれたりして・・・怖い思いもした。
一番怖かったのは、東京世田谷区の和田町という地域に移り住んだ時の事・・・『駅を降り立つとヒヤッと寒さのある古い町並みだね』と、訪ねてくれた東京に住む三代江戸っ子の友人が言っていた。大きな宗教団体の本部があり救世軍の本部もあり、女子美もあった。地下鉄中野坂上駅の階段を上がり横断歩道を渡り、ジグザクと十分ほどあるく。美味しい中華屋を横目に見て安くて美味い焼肉屋の前を通り、美容室とクリーニング屋の路地を入り、カラカラと開ける格子戸があり小さな庭と縁側と防空壕のある、古い二軒長屋の借家で遭遇した。玄関の二畳タタミの空間に東を向いて鴨居の上に神棚が祀ってあった。連れ合いの実家は仏教を信心していたし私は無宗教だったので、白い半紙を一枚貼って御免させていただいた。それがいけなかったのだろうか?
連れ合いはどこだったか遠くに出張していて・・・丑三つ時に頭元にトンと降り立った片足の戦争軍人だろうか? 片脚の小天狗? 目を開ける勇気がなかったので分からない。しかし、確かに気配を感じた。連れ合いが戻るまでの一週間だったろうか、丑三つ時を外した時間割で寝起きした。今でもその時の感覚を思い出す。今はもうそれほど怖くない。できたら、連れ合いに霊になって出てきてほしいと思う。でも、彼は現れてくれない。
ハルトの出会いも不思議である。寄木細工の宝石箱手に入れたのは、結婚する前・・・二十代の半ばにカナダの医師夫妻から、世界一周の旅行をもらった。プライベートスカラシップだと彼らは言い・・・私は本当に素晴らしい経験をさせてもらった。
その箱を手に入れたのは旅の最後の頃、スペイン・マドリードの有名な蚤の市で・・・ただ思い出せるのは、刺繍を施したストールで自分を包んだ小さい老女が、小箱を膝にのせて座っていた。その人の光るオリーブ色の目に引き寄せられた。『ハポネス! 』と、呟き私を手招きした。
『えっ! 』そ人は手の指が六本あった。あのとき・・・貰ったのか買ったのかはっきりしない。ともかく、私はその小箱を持ち続けている。それがハルとの出会いである。
昔は良かったと呟くよになったら年寄りというらしいけれど、本当に良かったのである。
世界はまだ分断されていて戦争が続いている地域もあったけれど・・・原子力を平和利用にはしていなかった。それなりの分野では密かに研究され、実験はされていたのだろうけれど、広島・長崎の原爆投下の後、ビキニ島のアメリカの水素爆弾の実験は1954年の第五福竜丸の惨事で明らかになった。追って同じ年に世界最初の原子力平和利用はソ連だった。第二次大戦終結から9年である。そして、三十年後1986年のチェルノブイリ原子力発電所の大惨事である。あれから三十年は経った。本当にあの大惨事は日一日と風化されて、しかし自分の身の回りでこの日本に2011年に地震とともに起きて・・・そしてまた十年で風化されようとしている。
いや、風化できない状態になっている。冷却のための汚染水は膨大な量となり地球をめぐる海へ流されようとしている。いや、やっぱり流すだろう。今の人間の力では除ききれないトリチュームはそのままにして・・・。
原子力発電を使用しない自然エネルギーの開発・発見・発明を急いでいる科学者達は世界中で動いている。こういう時期にコロナ・パンディミックスである。泣きっ面に蜂である。弱り目に祟り目・・・西洋では不幸は単独では来ないというそうだ。悪いことは二重にも三重にも折り重なってのしかかり、身動きが取れない。
今の私の意見は、核はやめよう。人間がコントロールできない代物を使うべきではない。
原子力発電はやめる。しかし、今、使ってしまったものを十万年貯蔵することは仕方ない。後始末はしなければならない。こんな当たり前のことしか言えない。
(八)
三島由紀夫の切腹のこと
中秋の名月に名残を告げて明日から霜月になる。家の周りの雑木林は今年の美しさを見せてくれる。北海道の秋は黄葉である。常緑の深緑と落葉の黄色が大部分を占め明るい。その中に紅葉や楓の赤が我ここにありと鮮やかに際立つ。その比率は北欧や北米と同じ抜ける青空に黄葉の穏やかな明るさである。
晩秋とともに黄色が静まり、木々が少しの黄金色を纏い、自らの見事な形を現すその時期・・・空を描き割る木々の潔い強い幹と、血管のように細く柔らかに別れた小枝が、空を編むのを見るのが好きである。
例年三~四日の差で初雪が降り、ちらちら舞いながらすぐに消えて晩秋の景色は、いよいよセピアトーンで描きあげた一枚の絵になる。
十一月半ばを過ぎると思い出すことがある。
「ねぇハル・・・五十年も前の十一月二十五日・・・私二十五歳・・・あ、まだ二十四歳・聞きしに勝る厳しい先生のいる研究所を破門になって、仕事探しをしていたんだ。」
ハルは、カタカタ音をたて四つの抽斗を、少しづつ出したり引いたりして探している。それは明らかに躊躇しているのが分かった。
その間に私は自分の記憶を引き戻し・・・父に二度目の無心の手紙を書いたこと、大学の助教授の弟さんを訪ねて、憧れのM工房で単発のアルバイトをさせてもらつたこと、美術学生なら知る人ぞ知る第一線のアーティスト達の集まるパーティにも参加させてもらったことなどを思い出していた。(雑誌でしか見たことのない芸術家と同じ空間に居合わせたのだ。)
ハルが開けてくれたのは(驚)の抽斗だった。そう、確かにその時期は私にとって何もかもが、驚きの連続だった。巷では東大紛争・新宿駅地下街ではベ平連の歌の渦・自分の手作りの詩集を籠に入れて足元に置き、柱に寄りかかって宙を見つめて売っている人など様々・・のんぽりの私は、叔父の家に寄生し、セミナーと研究所通いと美術館巡りだけで、『デザインとは何? 』を、考えていた気がする。
破門になった研究所の主宰先生は『周りは気にするな内ゲバだ! 』と宣った。私はひたすら、三ヶ月間のセミナーを含めて八ヶ月余りを・・・初めての関東の暑い夏を堪へ、丁稚奉公みたいな研究所通いを過ごした昭和四十四年(1969年)は、私にとっても激動の一年だった。
十一月二十五日は忘れられない。高円寺南の何とかいう劇団が入っている建物の一角に、若者たちがたむろすカレーハウスがあった。わたしは奥に座っていた。運動家みたいな常連が駆け込んで叫んだきた。
『三島が切腹した! 』その店にいた人たちは、皆な息を呑んだのを覚えている。私は駅近くの書店のビラを見て変だなと二、三日前に思ったばかりだった。本屋の店先のビラで三島由紀夫の『若者に告ぐ・・』みたいなタイトルを見て『あら! この作家はもう死ぬのかしら? 』と思ったのだ。
三島由紀夫の『潮騒』を中学生の頃に、貸本屋のおじさんに『もうそろそろ読みなさい』と勧められて読んだのが初めてだった。それから『金閣寺』・『憂国』・・・修飾語のうまい綺麗な文章を書く人だなと、思っていたし川端康成よりは好きだった。
その頃私の周りには、ベ平連・安保の活動家・どっちかというと左に寄っている人が多かったと思う。皆口々に自分の考えを口角あわを飛ばし、三島由紀夫を語り合う。その輪の中にいても私は、真ん中ぐらいで揺れていた気がする。自分を探すのに精一杯で、眉の太いボディビルダーみたいな三島由紀夫という人の考えも行動も、本当に解らなかった。
十二月に入りクリスマスに向かってM工房の単発のアルバイトは、猫の手も借りたいほど忙しく、私にも出番が来た。『男しか要らない』と、言われたが『では男として』などといい混ぜてもらった。
仕事は銀座七丁目にある有名な化粧品会社のウィンドウディスプレイで、夕方7時に現場に入り、朝の7時までに完成終了するという作業だった。ウインドウの中に座り込み、カラフルな小片をテングス糸に結びつける単純作業で黙々とチーフの指示通り進める。工程の七割が終わると疲れてくる。それからは我慢だった。終了し外に出て朝日を浴びた作品を眺めた時は、この上なく清々しい気持ちで、出勤してくる人と反対にそれぞれ帰途につく。まるで、スポーツの試合の後のような気分だった。何人かの同年輩の男たちの中で仕事をした。それは、今までの自分だけと向き合う表現ではなく協働という作業だった。
M工房の主宰アーティストの見事に素敵な奥さんが、私を気にかけてくださり、その方達の友人のデンマーク人のインテリアデザイン事務所に紹介してもらい、一つ希望の綱を掴んで、実家からの飛行機チケットが書留で届き、なんとラッキーで・・・でも、初めて誕生日もクリスマスもたった一人でアパートの一部屋で過ごした。なかなか気の合う友達ができたが、どうやら二股かけているふうだった。誰かの友達を横取りすることはできないものだと思った。不甲斐ない私のその年は暮れた。三島由紀夫のこともそのまま十一月二十五日で固まってしまった。
「ねぇ~ハルにはそんな感情分からないよね。」
私の秘密の小箱は、(驚)の紙を見せたまま抽斗を開けたまま・・・。何も反応しない答えも来ないと、不思議に記憶はどんどん湧き出て来る。
家出同然に卒業式の翌日札幌を後にしたので、なんとも後ろめたい。しかし、いつものように大晦日の手伝いをしてトイレ掃除をしていたら・・・母が大声で父に伝えていた。『共子がトイレ掃除していますよ~』そういえば家では、やったことがなかった・・・破門になった研究所での最初の仕事が窓ガラス拭きとトイレ掃除と、トイレの壁に絵を描くことだったから難なくできていた。
正月三が日で痩せた分の体重を取り戻し、東京で新しいデザイン事務所に通い始めた。
デンマーク人のデザイナーは無駄のないスマートな女性だった。ご主人は建築家で北海道出身の・・・その頃有名な建築家たちが周りにいて私は目を見張る感じだった気がする。彼女の助手はもう一人美大卒業したばかりのぱりぱりの東京っ子がいた。三ヶ月経って私は、またクビになった。理由は見事にはっきりしていた。
『ベビーシッターが欲しいのであって、デザイナーの卵はいらないので辞めてください。』と、きっぱりと言われてしまった。大阪万博の北欧館の仕事の使いっ走りをした。貴重な経験をさせていただいた。
また職探しである。もうコネはない。新聞の雇用欄で探すしかなかった。二件できそうな仕事があり、下見に行った。一件はアパートの一室でデザインの仕事をしていた。忙しそうですぐにも入れてくれそうだった。もう一件は老舗の金属会社の美術工芸部で試験があるという。たまたま大阪の大手会社に就職した弟が、東京出張でやってきた。久しぶりに美味しい夕飯を食べた。弟に奢ってもらうなんてラッキーなこともある、
「明日試験で勉強しなくていいのか? それに、新入社員って22~23歳ぐらいまでが普通だろ? 」
「明日の試験の為に今日になって勉強しても何にもならないよ。それより、日本じゃ女性の新入社員の年齢と結婚適齢期も同じなんだよね。」
「あんたは、いつもそう言う意見だね。」と、弟は笑う。こんな会話も何年ぶりだろう。大体がそんなに仲良く話すこともなく育った。
『じゃあな! 』
弟は宿舎の寮へ去り、私は翌日早くに虎ノ門・霞が関ビルのすぐ手前の本社ビルに出向いて試験を受た。
会場にはかなりの人数だったように思う。単純な試験とレポートだった。
一週間後に採用通知が来た。美術工芸開発部・・・いい響きだった。
男性一人女性三人が同時入社した。私が一番年上だった。
虎ノ門まで通うのは百万位の地方都市育ちの私には、東京の通勤ラッシュは驚きだった。それなら、ビル管理の人がシャッターを上げる時間をめがけて出社した。一番早く会社に着いていたのに、なぜか始業スレスレで滑り込む遅刻をする女子社員ということになっていた。
三ヶ月ほど虎ノ門本社で過ごし、銀座四丁目の古めかしい名前『鶴亀ビル』の三階ワンフロアーに、美術工芸部だけ移転した。私は札幌を出て二年間の間に麻布・青山・虎ノ門・銀座へと動いたことになった。
夕方近くなると不思議な光景に出会った。道路を挟んでソニービルの路地にびっしり整列している機動隊はジュラルミンの盾にヘルメット紺色の防護服・・・ノンポリの私には、なんだかよく分からない赤軍・競り合いを三階の廊下の窓から眺める位置にいた。
心の中ではノンポリを気にしていたし、破門になった研究所の先生からは『内ゲバだ』と言われたことも記憶に残っていて、私なりに『知るべきことは知る』と腹を決めて、銀座のど真ん中を大股で闊歩し、資料探しをさっさと済まし公開裁判を見たり、机の引き出し半開きで上司に分からないようにように「我が解体」を読み「蒼ざめた馬」を読んでいた悪い女子社員だった。一番先に出社していても遅刻していると思われたのもさもありなんである。
よくよく考えてみると美術工芸部は、何を目指しているのかはっきりしない何か芯のない二代目が繋げている金属会社の老舗で、私には奇妙な自由があった。破門になった研究所もクビになったデザイン事務所も、先を見ている優秀なアーティストが先生だったので、いつもピリッとしていて無駄のない仕事が当たり前で、この業界でブランドを張っている老舗の自分達に与えられた商品開発は、すぐに終わってしまい組織のえらくのんびりし八時間が私には苦痛だった。(これは、今、思うと私の思い違いでありとても恥ずかしい。)
それよりも何よりも私にはキャピタルという東京のエネルギーが、本当に面白かった。
日本中から集まった田舎者ばかりがわんさかで、東京三代の人にも江戸何代目かの人にも、稀にしか出会わない。
話の発端は『どこから? 出身は? 』である。北海道の動きと全く違うのである。新聞やテレビ・ラジオで誰かの声を通して、ニュースを知るのではなく、毎日、日本の動きが肌でわかり目に見えるのである。歩きも入れて一時間くらいかけて職場に通い八時間働き(? )新しい職場の友達と議論をしたり食事をしたり画廊を見たり・・・自分の部屋にいるのは、寝る時間だけなのである。
どうして今になって、こんなに楽しくて『クスッと笑える』大学を卒業して実家を出てから、やって見たかったこと・・・やってみて面白かった素行の悪い女子を次々と思い出せるのだろう。ハルのせいだ。
多分、私がスペインで小箱を手に入れた時は、スポンサーがついて二年間の世界一人旅の途中で・・・いま、また、たった一人になったからだ。
連れ合いや母と一緒に住んでいた時は小箱のことも思い出さなかったし、こんな私の昔の秘密を引き出して話させる。その上、聞きたければ自分が話したように箱が話して聞かせてくれるなんて・・・誰が作ったのだろう? あのストールに包まったジプシーかウィッチか・・・指6本の老婆が『ハポネス! 』と、私を見つめて確かに日本人と分かって呼びとめた。それだって不思議だ。
この宝石箱・・・どう考えても箱根の寄木細工みたいだ。新しいものではない。でも、寄木の技術はイタリアにもフランスにも家具の表面を飾る方法の一つとして昔からある。製作者の名前がない。 もし、名前があったらきっと探し出して、この箱がどうして私の元にやってきたのかを調べたい。
「ねぇハル・・・ 三島由紀夫の事件から次々あの頃を思い出したことで、今日はもういっぱいになっちゃった。三島のことは翌年、カナダへ出かけた時に、お世話になったスポンサー宅でパーティがあってねぇ・・・何人もの人達から 三島の切腹のことで質問を受けて返答にしどろもどろしたのよ。英語はカタコトだったし大変だった。」
私に質問したカナダ人達は、切腹を『自殺! 』と口々に言い張り、文学者の(小説を書いて賞をもらったりすると文学者と言うのだろうか? )切腹の意味なんかを説明できるはずがない。
武士道だってきちんと説明できないのに・・・。
(九)
差し押さえのこと
O市役所は、暇なのかもしれない。税金の滞納している人にいちいち電話をかけて来る。コロナのせいもあるけれど、それよりも何よりも後期高齢者であることは職安に行っても仕事がない。六十五歳雇い止めとか七十歳雇い止めで、私は今、七十六歳なのである。年金もない。ずっと非常勤の仕事と聞こえはいいけれどフリーランサーだった。
「ねぇハル・・・『小役人は自分は給料とりでボーナスもあって、役所は倒産することがないからいいよね~』って言いたくなっちゃうのさ。ちまちま固定資産税とか絞り上げて、手柄にするんだろうね。『ようやく綺麗にした』とか言ってさ。差し押さえになるんだよ。この家も土地も・・・だからなんとか仕事さがさなくちゃね。今一つあるのは、月四回のパートだから現金収入が無いに等しい。案の定(怒)の抽斗が開いた。
「差し押さえで思い出すことがあるのよ。」箱に向かって話し始めた。
小学生だった。アパートの二階に家族六人で住んでいた。札幌市の役人がきた。その時私は父と二人だった。元気な姉も弟も母も祖父もいなかった。
「税金を滞納したから差し押さえにきたんだよ。生活に必要な鍋や釜は差し押さえないんだよ。よく見ておきなさい。」と、私に話しかける。父は四十代だったろうか・・・いつもの普通の父だった。差し押さえに来た市の職員は何やら部屋中を見渡していた。多分差し押さえるものは何にもなかったのだろう。壁にかかっていたカレンダーの裏に差し押さえの付箋を貼って、会釈をして帰って行った。
「役人にもこういう人がいるということを、覚えておきなさい。」と、言った父の言葉を今も思い出す。
父は敗戦と同時に銀行マンを辞めたのである。『金貸しは嫌だ。貸す時はいい。取り立てるのが嫌だ。』と、お酒を飲んでブツブツ言っているのは、何度か聞いたことがある。その時の私には分からなかったが、今ならとてもよくわかる。
樺太からの引揚者で、今でいう脱サラをして新しく仕事をおこしたばかりの一番貧乏な頃だったと聞いた。二十代後半の元気で気楽な母は叔母の職安付添いで出かけ、自分は洋裁の技術があったことで、特別国家公務員(自衛隊の物資補給所)の口をその場で決めて、朝早くから毎日勤めていた。
私は生まれつき強度の近眼なので幼い頃の思い出は、耳からの言葉で記憶していることに、ぼんやりの形も同時に月にかかる雲のように動いて、時間が経ちそのことがあるとき納得と重なり腑に落ち鮮明になるのである。
「ねえハル・・・もう一つ思い出したことがあるよ、ハルは私の結婚した時に作った大荷物の中にごったになって入れてあったから・・・空っぽのまま四十四年かなあ・・・放ったらかし、でも、引っ越しの度に包紙や袋は換えていたのよいつか使おうと思っていたからね。忙しかったのよ、本当に七十二歳まで。」
結婚して、一年も経たないうちに彼は(彼なんて言ったことがないから、あの人っていうことにする)勤めていたかなり有名な設計事務所をやめ、友人と二人で設計事務所を立ち上げ三年で解散になった。(始める時あの人の母と長兄と私の父・両方の家族の力を借りた。)解散理由はうやむやだった。説明すると友人の家族の悪口になるらしかった。私もあえて聞かなかった。そのあと三年くらいは、何とかやりくりして・・・あの人は北海道で建築をやりたいと私に宣言した。私は大学卒業と同時に、キャピタル東京でさらなる向上と希望を託して、家出みたいに実家を出たのに、出戻ることになってしまった。姉の嫁いだ義理の兄になった人の設計事務所にスカウトされた形になった。
ともかく、自分達の事務所を作るために四年働いた。私はハウスメーカーの嘱託と専門学校の非常勤講師の二足の草鞋を履き・・・日曜も土曜も休みはなかった。
移住して一年目に、差し押さえではないが、札幌中央区役所から健康保険の滞納で呼び出しを喰らった。人口の頭割りだから札幌は東京に比べて健康保険料金がやけに高額だったのだ。子供を持たずダブルインカムでもある。
しかし、東京での生活をやめ北海道への大引越しである。荷物一切合切大型トラック一台分の費用やら旅費やら・・・新しい住まいを探し敷金やら前家賃やら大変なことであったから貯金ゼロだった。
督促状がなんども来て、ともかく時間を作って中央区役所に出かけた。
係りの職員の言い草にカチンときた。
「誰かお金のある親とか友達から借金をして払うといいよ。」
「待ってくださいとお願いしてるのに、お金のある人から借金して健康保険料を払いなさいと言うのですか! 」
大声になった。私は怒ると声が大きくなる。区役所は大部屋に各係が事務を採っていたので部屋中に私の声が響いて、『親から借りろと言った』小役人の方が困惑して、私をなだめにかかった。確か分割にすることを約束して帰って来た。
『役人にもこういう人がいたということを覚えておきなさい。』小学生の時に出会ったような心のある役人には、四十年来であったことがない。あの頃は敗戦で国民みんなが大変な時代だったから、まともな役人もいたのだろう。今は皆無である。官僚・政治家もしかりで嘆かわしい。何のために役人なり代議士になったのだろう。国や人のためではなく自分の名誉と私腹を満たすためだろうと言いた苦なる。
最近、町の会合でそんな若者に出会った。結婚した女性の義理の父親の地盤を継ぐと、就職するみたいにさらりと言ってのけた。
今、私は運悪くコロナパンデミックにも遭遇してしまった。若い人たちが失業余儀なくされているのに私の働き口は到底見込みない。
年金もない現金収入も少なくて困窮していることは、マイナンバーから役所のパソコン上で明白なのに、月末になると必ず固定資産などの担当職員から、明るく爽やかな声で私の携帯に督促の電話がかかってくる。
嫌われない役人を目指しているのだろうか? そして、そのまま爽やかな声の督促を続けて勤続何年かの後に市長候補に出るのだろうか?
名残り雪のちらつく暗い弥生三月午前中に、まだ私は元気で介護されていないのに介護保険という部署から、『差押調書謄本』という市長の大きな角印が押してあり、二枚目には朱肉割印もある仰々しい書類の入った茶封筒が届いた。文面は保険料の滞納につき、今年あなたに戻る国税還付金を差し押さえますというものだった。こうゆう部分では、いともスムーズに国税局と市役所納税係との連携が取れているのにびつくりである。それも還付金の額は2039円という少額である。
こんなものがあちこちに知れ渡ったらみっともないし、面目ない。封筒おもてに係のシャチハタ印が押してあった。深呼吸してから電話をした。
「差し押さえの文書が来ましたが、このことはどこかで表沙汰になるのでしょうか? 」
「どこにも支障ありません。ただ税務署から還付金は差し押さえ金額に充てられましたと文書が届くだけです。」いとも普通に答えが来た。
「この文書は保管しておくものですか? 」
「好きにしてください。」と、返答がきた。
「介護保険は互助会みたいなものだと思いますお金ができたら払います。」と申し伝えた。
「税金はどれも同じです。」と、ムッとした声で返答がきた。
支払い期限は六月十日・・・とても一括で支払うお金はない。コロナであてにしていた活動の動きがとれず、仕事のめどがつかないのである。心痛いが何もできず公共費をあちこちから工面してやっとのことで五月末になった。
還付金差し押さえのことを市役所のムッとした係に電話してから二十日後、鮮やかな山吹色の封書が簡易書留できた。『至急開封してください』とデカデカと印刷してある。
赤紙ではなくピンクの用紙にO市長の大きな朱肉角印が捺されていて、前にもましてさらに仰々しい『徴収業務移管決定通知書 兼 差押予告書』と、二枚にわたる未払い明細書付きで入っていた。
これにも封書の表にシャチハタが押してある。仕方がない電話するしか道はない。電話口に出たのはまたまた爽やかな声の若者である。二十代半ばであろうか・・・税金の取り立て部門は全て若者なのであろうか?
所定の学校を卒業して公務員採用試験に受かって、人生歩き始めたばかりの若者に『どうやって』今の私の状況を説明すればいいのだろう。うんざりである。
案の定ふんふんと、相づち打ちながら私の状況を聞き出し(マニアルがあるのだろうか? )ある方向へ連れていかれる。いくら働いているか・借金はいくらあるか・一つ一つの経費はいくらかかっているか聞き出し・・・ぱちゃぱちゃと電話の向こうで計算機を叩いている。財産はいくらあるか・住宅があるならそれを競売にかけてそれで税金を払うしか方法はありません。それを爽やかな声で・・・トドのつまりは『いつ払えるか』ダメなら『分割をいくらにするか』『いつから払うか』である。
「その約束が取れないとこっちの方が困ります。」と、さらりと言う。
国というものは国民一人一人から税金をとり集めて運営している会社で、そこで働いている小役人はサラリーマンである。私は年金に関係ない非常勤講師を五十年ほど続けて生きてきました。無年金者になっています。今、連れ合いを亡くし、ここ二年コロナのせいで仕事がありません。その上高齢で仕事がないから税金を滞納しています。嘘偽りなく説明した。
『なんとか残った持家を売って、アパートを借りて住んでください。』と返答がきた。
何と家賃を払って死ぬまで働きなさいということになるではないか。
「ねぇ、ハルは『法テラス』を知ってる? 税取り立てのその若い小役人から『法テラスを知らないんですか』と、言われた。今まで聞いたこともない言葉だわ。『ともかくそこに連絡してみたらいいですよ。そのあとその状況を連絡してください。』と、念を押された。
役所で処理できないことを弁護士協会で組織していて、支払える方法とかの相談に乗ってくれる。つまり役所のお助け組織で、それは税理士や会計士は税務署のお助け軍団であり、弁護士は納税を促す市役所のお助け軍団なのかもしれない。つまりは日本の屋台骨を補強するわけで一国民を助けてくれるわけではない。なんとか税金を払わせるためのシステムだということだ。そういえば、今まで国に助けてもらったことはない。自分で努力しなさいということでしかない。国って一体何なんだ。
法テラスに電話した。応対してくれた女性は、法テラスは弁護士協会で組織していて、どこから『法テラス』を聞いたのか・どのように調べたかを聞き、私がどの地域か尋ね最寄りの弁護士事務所をすぐ知らせてくれた。
すぐ電話をし予約を取った。ともかく動かなければどうにもならない。
三日後、出かけた。O駅近くの一等地に商工会議所も入るビルの六階に
ある立派な事務所だった。やけに目の鋭いエネルギシュナ弁護士で、私の話を聞いてくれ出された答えは、『大丈夫ですよ何とかお金を作りましょう。借金は待ってもらって税金を先に払うのが得策なんですよ』という結論だった。それもニコニコしてである。
何だやっぱり役所のお助け軍団だった。だだ役所の若い取り立て人と違うのは、立場が真ん中にいるということである。
ラッキーなことに私の周りに、お金を回してくれる友人がいた。家だけは差押えられないで今は済んだ。先はわからないが・・・。
ここまで話したら、ハルは笑っているみたいに引っかかり引っかかりして(怒)の抽出しがしまった。でも私は(哀)だと思う。
国家とはなんだろう?
(十)
大声出して笑いたい
「あのね~ハルは、人間が大声で笑うということが分かるだろうか? 」抽斗は(楽)がすっと開いた。
私の連れ合いだった人もカナダでお世話になった家族の奥さんも、テレビのお笑いでもびっくりするほどの声で本当に楽しそうに笑う。本当は私も大声で腹から笑いたい。
高校時代バドミントンクラブで夏休みの強化練習に励んでいた頃、朝早くから楽しかった。世にいう箸が転がってもおかしくて笑う年頃だった。新しい用務員さん(私たちの頃は小使さんと呼んでいた。)ちょっと暗い気難しい方だった気がする。『何がおかしい! 』突然すごい剣幕で怒鳴られた。
私の声はよく通るその上大声で、試合の時などヤジリのトモちゃんと呼ばれ相手方がビビるほどの声だった。今、思うと・・・私の声が一番響いていたからだと思う。私がどうして怒鳴られたか分からなかった。何をみんなで笑っていたのか、些細な誰かの失敗だったろうか・・・靴が脱げたとか・滑ったとか・コケたとか・・・決して大人を笑ったのではない。
その小使さんは、体育館のすぐ側の学校の宿舎に、奥さんと障害のある子と住んでいたのである。私もクラブの仲間も知らなかったし、先生からも学校側からも何も聞いていなかった。あとでその方の事情を聞いて、なぜ怒鳴られたかわかった。私の甲高い笑い声がその時・・・何か重い問題を抱えていた人の心を傷つけたのだ。あれから、私は涙の出るほどの大声で笑えなくなってしまった。なぜ、六十年ほども経った今になって、あの頃のことを思い出したのだろうか・・・札幌と小樽の真ん中あたりの過疎地に、住まいを移して二十年になる。この地区に古くから住む方に、体育館で感じたあの時と同じ雰囲気を感じたのである。
その方は障害のある娘さんと奥さんと暮らしておられる。実直な方でこの地区一番の土作りの名人だと聞いた。私も町内会の手伝いをするようになり、連れ合いがなくなって三年ほどは色々な行事に参加していなかったが、国勢調査を頼まれて町内を歩き回った。
その方の家もだいたいではなく明確にわかり、古くから住む人の情報をもらいようやく終了した。遠い昔に感じた人の心の奥深くなど分からずに、笑いこけていた自分をまた思い出せた。カラカラと仁王立ちになった高笑いは嫌いだけれど、心から笑い転げることに出会ったらまた大声で笑いたい。このことは(哀)の抽斗の方がしっくりかも。
(十一)
鈍感?
「ねえハル・・・今、日本は女性蔑視というか・・・ジェンダー問題で持ちきりです。どの抽斗を開けてくれるかな? 長い長い時間がかかってるよ~この問題は・・・。」
コロナで大騒ぎの上に森喜朗オリンピック委員長の女性蔑視発言が、世界中を駆け巡り辞任に追い込まれた。ハルはやっぱり(怒)の引き出しを引っかかりながら開けた。私は(驚)だと思っていたのだが・・・。
思うに、言葉は常日頃思っていることが、普通の時ほどそのまま口から出るものである。 私は子供の頃、父から『お前はピンカン頭だから、ピンときたらカンと答えずもう一度考えてから答えなさい。』と、言われた。高校時代には『英語が少し上手いことがどうだというのだ? 』大学を出た頃は、『それが最高学府を出たものの考えなのか?』とも、言われた。どの時も『ぐっ』と、詰まった。とどめは、日本を出て世界に出ようとする時に『恥じない日本人として出られるのか? 』だった。
どれも答えの出ないまま歩いてきた。失敗も多々あった。『絶対スリに遭うだろうな』と、羽田に見送りに来てくれた弟に忠告された。その通りにもなった。
選んだコースが美術だったこと・・・徒弟的な感覚の残る研究所に自分から飛び込んだことと、男の世界とされたきた芸術・美術・建築の一部分といわれる内装・インテリアデザインを選んだのだから、ことさら女性蔑視されたと思ったことはない。でも、もしかしたら気がつかない性格なのではないかしら? いや、じっくり思い出してみると幾つかあった。
一つは家庭の事情だから仕方がない。高校卒業して私立大学は受かった。三歳違いの弟が公立高校に受からなかったら私立高校である。二人も私立には通わせられない。お前は諦めろと父に引導を渡された。暗い夜窓見て涙は一粒落ちた。翌日、担任に連絡して就職探しを始めた。今は合併して名前が変わっている明治生命の試験を受けた。受かった。人事担当者から成績の二番と一番で給料が違うと言われた。私は二番だった。その場で入社を断ったということを父に褒められた。
商店という名前の残る老舗の金属会社を受けた。その会社は、やり手の副社長が奥さんだったので女性蔑視など無いいい会社だったが、一年三ヶ月で再度大学受験を受けるために辞めた。(受験料と入学金が天引き貯金で貯まっていたこと、弟が公立高校に受かっていた。)二年遅れて北海道学芸大学特設美術科(卒業時には教育大学)に、合格して四年間は楽しかった。
卒業式のすぐ後上京してセミナーを修了し、G研究所・Hデザイン事務所を駆け足で通って・・本当は破門になったり首になったりである。新聞募集の東京西武デパートを受けた。一時採用試験は通った。面接で落ちた。女性は腰掛けだからという理由だった。もう一社・銀座にも店舗を持つ、老舗の大手金属会社の美術工芸部を受け採用された。品格のあるいい会社だった。表面的には女性蔑視など皆無だったと思う。
いい会社だったが、二年ほとの海外一人旅のチャンスを、カナダ人医師夫妻から頂いた。一介の女子社員の休職などはとても望めないし考えられないから、すぐ退社して渡航の準備をした。
戦争をしていない安全な国の美術館・博物館デザインを見て大まかな世界一周して帰国した。再度、同じデパートのインテリア家具部門を受けた。一次・二次試験は通った。三次の面接で、またもや今回も男性を採用しましたとの返答・・・女性は永く勤めないでしょうという理由だった。
これが女性蔑視だと私はその時は思わなかった。私の選んだ分野は延々と男性の徒弟制度が残るものだったから、覚悟していたし蔑視の感覚の入り込めるものではなかったと思う。日本の伝統工芸・建築・刀鍛冶・酒蔵とあちこちにいくつもあったことだ。友人の中にはウーマンリブを叫んで、拳を突き上げている時代でもあった。
同じ会社の採用試験を二度受けてもダメなら、自分でやるしかないと結論を出した。両親姉弟友人の力を借りて、自分の事務所をアパート一部屋で立ち上げた。(計らずも結婚という一大事件と北海道Uターンで五年で消滅してしまったが・・・。)
男女雇用機会均等法が制定され1986年に施行されたのは、札幌に移住してすぐだった。新聞討論会に出席することになり意見を求められたが、女性蔑視など思ってもみなかったので他の出席している女性達に、白い目で見られたことは覚えている。あれから半世紀も経って・・・オリンピック委員会で女性蔑視の問題に発展した。
思えば私の動き方は、大上段に言葉を振り上げて闘いを挑む子女だったろうか・・・。しかし思い続けているのは、中庸の庸であり中道でありたいと思っている事は確かである。
(十二)
これっていじめ? 私が発達障害!
桃の節句が過ぎた。二~三日前にドカ雪が予報通りにやって来て本当に難儀した。知識で知っている秋田や新潟のような湿った雪で、重たく除雪機で例年のように小気味よく飛ばせない。地球温暖化がしきりに言われるようになってから・・・湿った雪は吹き出し口に詰まってしまい、その上、自重で埋まってキャタピラの空回りになってしまう。ママさんダンプも重たくて動かせなくなり、小さい雪はねプラスチックシャベルでただひたすら除雪することになってしまった。何につけても一番の味方の連れ合いが、さっさとあの世に行ってしまったし、傾斜地に列なるように一緒に新築した隣の住人は、何時も私がえっちらおっちら除雪終えた頃に動き出す。感心するほどスマートである。
「ねぇ ハル・・・私はどうしてこう要領が悪いのかしらね~。小さい頃からなんだよね。家族の中での役割分担も長女長男に挟まれた真ん中だったから、何と無く曖昧というか・・・容量の悪さとは方向が違うけれど、望む言葉に置き換えれば・・・何事も中庸の庸で行きたいですよ。」
あの世の連れ合いも、中庸の庸を想っていた。彼の父親の影響だと言っていた。私も実の父からの影響である。残念ながら私は義理の父には出会えなかった。私達が出会う前に六十代で亡くなっている。私の父は八十歳まで生きてくれた。
二人ともに明治最後に近い生まれで職業の関係で戦地に行ってはいないが、その時代を生きた人達である。私も連れ合いも一歳未満の赤子で、連れ合いは朝鮮から私は樺太から・・・お大人の背に負ぶわれて引き揚げたので、私達は写真一枚もないところまで境遇が似ていた。そのうえ彼も家族の真ん中というか三男坊で家族のブラックシープという変わり種であり、そのことも私と同じだった。
私の思う中庸の庸は中立? その時々に選ぶしかない。だからいつも揺れているのである。
私達は仕事も建築士とインテリアデザイナーで・・・趣味も似ていて何かと自由で丼勘定の極楽蜻蛉だった。
「ねぇハル・・・そのつけが今になって廻ってきちゃったよ。遅く結婚したことで周りから『子供は? 』と言われることもなくて、連れ合いの長兄に『老後のことも頭に入れて生きなさい。』って言われたのに、健康でまだ若かったこともあって・・・二人して軽く返事したままでねぇ、その心配してくれた長兄も亡くなっちゃった。七十過ぎて独りになってしまって、今になって仕事を探す羽目になってねぇ・・・コロナに牛耳られて二進も三進もいかない。私だけじゃないけれど仕事がない。年代の高いことが一番のネックになってしまったわけです。どうしようかなぁ! これから。」
ハローワークに登録して何度か足を運んだ。昼時だけ忙しい蕎麦屋は一週間でギブアップした。小樽教育委員会の生涯教育という名目の土曜児童クラブ支援員になった。なんとかできそうな事であるが、難題があった。そこで何年も支援員をやっている一人から『子供を産んで育てたことない人がこの仕事を選んだのですか? 』とダイレクトに言われた。
『えっ! 』私は息を呑んだ。確かに子供を産んで育てたことはない・・・しかし、教育現場に四十年ほどいる。でも私は十八歳以上の大人との関係で小学校低学年の子供との関係は皆無である。どうやらそこが問題らしい。
児童クラブの空間は建築現場で使うプレハブで、ひと昔前の映画で見た寺子屋風の座卓だった。設備も酷いもので、現代建築の先端を扱っていた私には、使い方を遡って覚えるのに困惑することばかりだった。
鍵や暖房機も三十年前のシステムなのでなかなか理解できない上に、一週間に一度の仕事なので忘れてしまい、他の指導員に聞くとうるさがられ四苦八苦の上コロナの影響で、子供の支援の前に殺菌消毒掃除婦だった。
八月の暑いときにクラブのリーダーに意を決してお願いをした。
『学童のまえで忠告や注意をしないで欲しいのです。』私の話が終わるや否や、そばにいた古参の一人がはっきり言った。
『犬でもその時言わなければ分からない』と、私は何も返す言葉がなかった。
その年の暮れに放課後児童支援員都道府県認定資格研修があり、この仕事には一体何が必要で何が大事なのか知りたいと思い参加した。
北海道各地域からの受講者で大講堂に、コロナのさなか隣との間隔を取り七~八十人はいたと思う。この講座が二回設けられているから二百人くらいである。ほとんどが女性でちらほら男性もいた。多分私が最高年齢だろうと感じた。土・日に行われ四日間八時間缶詰めの三十二時間である。
私が教職を取得した半世紀前の時期には、最近あちこちで耳にするアスペルガー症候群・愛着障害・発達障害などはチラリとも耳にしたことはなかった。それらは研修会の資料と講師から知ることができた。自分に当てはめてみると、自分は発達障害だったかもしれないと思いついた。
発達障害の子どもは、うっかりミスの多い大人になるということが書いてあった。緊張したり何かミスをして他人から注意されると、極度に緊張して同じミスを二度三度と続けて起こしてしまうと説明してある。それが高じて鬱になりどんどん悪循環にはまり・・・なるほど最近耳にする若くして自殺に追い込まれることの原因の一つであるかもしれないとも思う。
児童クラブをなんとか我慢して続けて、一年経った頃に初めて帯状疱疹に見舞われた。加齢と疲労とストレスだそうだ。幸いこれらの現状を話し、愚痴も意見も聞いてくれる友人たちに囲まれていたので、心配されるほどのことなく軽く済んだのである。
我ながら、なぜにこんな羽目になったのか考えて見た。発展途上の日本と同じ我武者羅に狭い範囲で上ばかり見て、生きてきたからかもしれない。
ともかく教育大学は卒業した。しかし、すぐに文部省お墨付きの先生になるのは憚った。なぜならその頃の文部省の美術教育の考え方には疑問を感じていたことと、自分の内にも『すぐに先生になってもいいのか? 』など疑問を感じていた。
知識も技術も幅だけ広いという大学を卒業しただけである。家出の如く上京した。近代までほとんどが男の領域でもある美術・工芸・デザインの世界に、覚悟をして踏み込んだのである。見るもの全て新鮮で、どの場面もなんでも楽しかった。その上、その分野を選んでいた男性たちは、本当に謙虚で目標を抱えている素晴らしい人達だった。
三ヶ月のセミナー参加の後、G研究所で修行を五ヶ月・M工房で作家のその他大勢でのテコを二作品、Hインテリアデザイン事務所で助手五ヶ月・T金属製作所の美術工芸部に一年勤めた・・・なんとも細切れの動き方ではあったが、北海道の地方都市からの私には、どこも有意義だった。
その上になんと素晴らしいことに、北海道を飛び出して三年目に学生時代から文通をしていたカナダ人医師夫妻から、プライベイトスカラシップなる世界旅行のチャンスをいただいた。カナダを基点にアメリカ・メキシコ二年目はカナダから英国へ飛び北欧までのヨーロッパを一人旅して帰国した。できる限り素直に世界を視る旅だった。
振り返ってみると、失敗はあった。疲れがたまるとなにか大切にしていた小さなものを置き忘れて遺失する。泥棒に会う。これも旅行者であることを忘れ、友達の引越しで両手いっぱい荷物を抱えて手伝いをしているうちに自分が無防備になって、起こしたことである。ドイツ・フランクフルトで、パスポートの入った全財産入りの財布を電車内ですられた。プロのスリだったので現金だけ抜かれパスポートは無事だった。フランクフルトの銭形平次みたいな警察本部長さんに、大変お世話になった。
初めて日本を出るとき・・・羽田まで見送りにきてくれた実の弟に『あんたはきっと泥棒にあうよ。』と忠告された。弟は私の性格を見抜いていた。 その昔父には、何度か『お前は最悪のことを考えて行動をしない。』とも言われた。確かにどれもこれも、何かバランスが悪いのだ。自分で発達障害と気付くのが遅すぎた。今までは幸なことに、どの時にもどの場所にも、大人の男たちの応援があった。
ハルの抽斗は(喜)が開いていた。なぜ(喜)なのだ。
☆ ☆
ハロワークに通う。土曜放課後児童クラブだけではとても暮らしていけない。パートの時間給は、一〇七〇円なのだ。一ヶ月四回の土曜日でようやく二万円にしかならない。それでもう一つのパートを探したい。
友人の一人は『今時ハローワークなの? 古いね。』と、宣った。しかし、持っているスキルを使いたくても高齢であることが問題になる。年齢不問の会社はあるにはあるけれど、面接に行くと当然私より若い人が採用される。
もし私が採用する側でも同じことを考えるから諦めもつく。ネットは私の中ではバーチャルであり掴めない映像である。でも、ハローワークは、今や自分でパソコンを操作して検索する。それなりに見合った物件をプリントアウトして相談員に会うという形になった。
サンシャインキッズという障害児放課後デイサービスが目に止まった。年齢不問でありパートである。勤務場所は自宅から車で三〇分・・・いいかもしれない。相談員に先方に連絡してもらい、紹介状をカバンにしまうや否や
自分の携帯に連絡が入った。面接は一週間後に決まった。帰りがてらその建物の周りを一周して確認し帰路に着いた。いつものことだが面接までの一週間は、何をしても落ち着かない。
面接の日は晴れで新聞占いは明朗快活にして『吉』とあった。
一般家屋をそれなりに仕事スペースにしていた。この組織の代表とその空間と実務を取り締まっている方の二人だった。面接は好印象だった。年代の高いことは問題にしていなかった。マスクで顔はわからなかったが代表 のAさんは、今までどこかで出会った気のする目だった。二回ほどこのディサービスの実際を見学してから、お互いに納得して決定しましょうと言ってくれた。違う曜日の違う利用者を見学し終わった翌日朝、代表 のAさんから電話がきっちり九時に入った。
「金曜日の昼一時に会議がありますそれに参加してください。そのあと契約とルールをお伝えいたします。」
お互いに『よろしくお願いします。』と言って電話を切った。
会議は利用者が来る前に行うことになっている。利用者(障害児)のレポートが手渡され各利用者を担当した人が読み上げる。それで通って来る子供達皆んなを支援員各自が理解するという形である。レポートは個人情報がわからないように山◯佳◯のように記されている。各支援員が観察と目標・成長の過程を事細かに説明する。丁寧であり、ほのかに愛を感じる。
土曜放課後児童クラブは来年の年度末までの辞令をもらっている。かち合わないので両方をもう少し冷静に動いてみよう。
やっていけそうな気がしてきた。
「ハルはどう思う? 私やっていけるかなぁ? 」
小箱のハルはカタカタ抽斗を揺らしながら(喜)を開けた。私の今日のタイトル『これっていじめ? 発達障害? 』は、二列になって浮き出た文字になって箱に収まった。
(十三)
覗き窓
親元をでてから、半世紀は過ぎた。動いてる間の私への手紙類は、動いていない実家に届いていた。なぜか私をずっと見ているというか・私なんかを気にかけているのか・追跡されてる感のある人もいて、何年かぶりで実家にたどり着くと、見ていない手紙何通かあった。その時親しくしている人ではなく、普通だった人たちである。
若いということは、友達の遍歴も浅くて広くて記憶に残らない人も沢山いて・・・肩を並べて歩いただけでも・・・友達みたいになっていた時期もある。そんなわけだから手紙を見ても、考え込んでようやくわかる・すぐ思い出せる人・どうしても思い出せない人もいる。それが、ほとんど男たちである。なぜ? 顔が思い出せない 一郎? ひろゆき? コウイチ? って誰れ・・・?
友達の友達ぐらいの出会いの人は思い出せない。通り過ぎて肩がちょっとぶっかったぐらいでは思い出せない。それなりの事件が起こらなければ、男友達も女友達も記憶に残らない。
五十年も紙袋に閉じ込めたまま、持ち運んだ私の青春(二十四歳から三十歳まで)を、それに加えて親しい人達からの手紙・クリスマスカード・毎年のバースデイカード・・・とうとう整理しなければならない時が来た。
紙袋は引っ越しのたびに適当な使い古しの封筒や丈夫な紐つき保存袋に取り替えてはいたけれど、古い手紙類を読んでる暇はいつもない。
引っ越しするときは、いつも切羽詰まって、体力の限界まで荷物の梱包でギリギリに頑張るから、それらはそのまま段ボールに詰められたままになる。そんな引越しを東京で四回(独身時代に二回、結婚して荷物が倍に増えた引越し二回)津軽海峡を渡った大引越しを入れて三回・・・締めて七回である。
最後の(まだ分からないが・・・)引越しは、母も取り込んだ家になった。 五年前に亡くなった母の手紙類も加わり、翌年亡くなった連れ合いの手紙類も加わった。連れ合いは私と同類で彼の青春から五十年ほどの手紙を、同じように袋に閉じ込めたまま持ち運んでいた。なんと二人合わせて百年分の手紙類の始末をしなければならない。色々な断捨離をしながら延ばし延ばしの手紙類の番になった。今は、昔のようにストーブで燃やすことも、庭で火を見ながら焼く事もできない。
ラッキーなことに、とても嬉しいリサイクル箱の貰い物があった。
四十歳で立ち上げた私達の設計事務所は、いつも所員一人しかいない(私は設立から役員だけれど運営雑役で三十二年間)主宰パートナーが亡くなってその年に廃業届を出した。発足した頃四年間ほどいてくれた所員は、もういっぱしの事務所を開いている。彼は時々色々知恵をくれる。
日本郵便で新しい企画の紙のリサイクルなる秘密文書・重要文書をドロドロに溶かしてくれ・・・集荷もしてくれ二千六百円で証明書を発行してくれるという。『何枚かのパックできましたから・・・一箱分でA4サイズ三十キロ入れられます。』と、一箱分いただいた。
早速、翌日からいつでも気分良くやりたい時にできるように、事務所のデッドスペースにセットした。先ずは、自分の分から始め宛名を見ては切手をボランティアのために切り取って、捗る捗る・・・見事に私の五十年分は箱の三分の一に収まった。連れ合いの五十年分は私と同じほどで収まり三分の二までになった。母の友人からの古い年賀状類・私が父母に昔書き送ったカード類なども入れたがまだ入る。
そうなるとびっしりにしたいものだから、あちこち古いファイルや引き出しを開けては重要文書(? )期限切れの住民票・謄本やら後生大事にしまってあったもうすでに無効の銀行通帳どっさり・捨てられないシュレッダーしにくい顔写真つきの証明書類を引っ張り出した。まだもう少し入るところで小休止・・・二週間ほどかかった。蓋を閉めるまで少しの間・・・余韻に浸ろう。まるで柩の覗き窓をしめる感じである。
十九歳の頃、生まれた時からいつも側にいた祖父が亡くなった。父は七人兄姉弟の五番目だったが、父の家族は一家を支えていた長兄が亡くなり、戦死した次男・・・敗戦でチリジリになったそうだ。父母と姉私弟祖父の六人家族だった。そして父が葬式を出した。路傍の石で白木の柩の蓋を釘で打つという慣習を父に聞いた。その作法に思わず涙がこぼれたことを思い出した。いまのように覗き窓はなかった。
(十四)
命日
連れ合いとその長兄は、月こそ違うが揃って十三日である。そしてまた私の父と母も揃って月命日が二十六日である。そう言えば、父方の祖父も二十六日だったと思う。余命いくばくもない人を、あの世から親しかった人達が呼びに来るとか連れて行くとか云うが、本当に不思議である。思い出すのもそれぞれ一度で、私にはとてもありがたい。
霊の存在など考えてもいなかった私が、三十歳で結婚してから出会うようになった。もしかしたら出会っていたのかもしれない。ふとした時に思い出す感覚・・・小さい頃は仏壇のある前を通るのが怖かった記憶はある。
世の中は霊力のある特別スポットなど色々テレビで報道されたり、UFOが現れたり宇宙人の話題が取り上げられたりしている。
二十六歳の頃ロスアンジェルス・ハリウッド横丁で出会った新興宗教次期教祖である華奢な澄子さんは霊の見える人で、私の背中には二組の丁髷(江戸時代か? )頭の老夫婦が憑いていてその四人が私を守ってくれているという。少し気味悪かったが、旅の途中だつたからこころ強かった。
それから・・・・
続く
色々失敗続きの私の人生です。この十二月十二日に七十七歳になります。これからは五年単位で生きなくてはならない歳になりました。