彼女はこの箱の中にいる
「なんだこれ。お前、変なの持ってんな」
「おい、やめろ!返せよ!」
「いいじゃん、見せろって。――ああ、ああ、ん分かったよ。ほら」
坂田は僕にその小さな"箱"を渋々返した。僕が思いのほか必死に取り返そうと掴みかかったことに驚いたようだった。僕は"箱"を元の右ポケットにしまう。
「山本、なんなんだその箱?鎖に巻いて、鍵かけてたじゃん?」
「内緒っ!次さわったら、ノート見せてやんねえからな」
僕がそう言えば、坂田は素直に諦めた。坂田は図々しくて、雑な奴だけど、悪い奴じゃない。僕だってこの"箱"の事は変だなと自分で思う。でも、とても大切な"箱"なのだ。
"箱"の中には、"彼女"がいる。
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一ヶ月前、"彼女"はいなくった。"彼女"というのは、ただの人称なのか、それとも特別な関係なのか、そんなことを考えるのは全く無意味だ。僕にとっては露ほども重要ではない。僕がこの学校に入ってからずっと"彼女"はいた。それはもう確かにいたのだ。隣の教室の後ろから二列目、廊下側の席にいた。そして、僕の家にもいた、たぶん、いや確実。だって僕が、もしかしてすぐ隣にいるんじゃないかなあ、って思ったらほんとにいたから。
でも突然いなくなった。転校したとか誰かが言っていたような気がするけど、そんなのはどうでもいい。隣の教室にいなくったって別にいい。大問題なのは僕の家にいないことだ。
"彼女"がいなくって3日後、僕は週に1回で通っている学習塾に行った。ちなみに、以前ならこの塾にも"彼女"はいたのだ。塾の先生の話がつまらなくなってくると、たいてい隣に"彼女"がいるのだ。僕は思い切って先生に聞いてみることにした。「先生、こないだまでいた人がいないんです」と。先生は、初めは難しそうな顔をしていたが、僕が詳しく説明すると理解したらしい、なぜかニヤニヤした顔でこう言うのだ。
「なるほどそういう事ね。先生にもあるよそういう事。そうだな、勉強とかスポーツとか、もしくはゲームとかに集中してみるといいんじゃないかな。時間はかかるかもしれないけど。きっとそのうち解決するよ」
僕はあまり腑に落ちなかったけど、「ありがとうございます。やってみます」と言って塾を出た。その足で、僕は先生の助言に習ってゲームショップに向かった。
その途中だ。珍しいお店を見つけた。そのお店の前には、家電やら、人形やら、食べ物やら、装飾品やらが、なんの秩序もなく並べられていた。カラフルな文字の看板には「ビィレバァン」と書いてある。その下に書いてある文章に僕は引き付けられた。
<あなたが探しているもの、なんでもあります>
僕は吸い込まれるように店に入った。
店に入るなり、愛想のいい男の店員が声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。……お客さん、とても大切なものをお探しですね?」
「はい。え?わかるんですか?」
「あ、やっぱり!この仕事してますとねえ、分かります。そりゃもう。お手伝いしますよ」
ほんとかよ、とは思ったが、見つかる可能性があるならと。
「……あのお。"彼女"、なんです。ついこないだまでいたんです、けど……」
「はいはいはい。えー、じゃこっちです。こっちにどうぞ」
店員は僕を店の奥に案内する。奥にはテーブルとイスがあり、そこに僕を座らせて、店員はさらに奥の扉に入っていった。しばらく待つと、店員が戻ってきて、テーブルをはさんで正面に座った。テーブルの上に、四角い小さな箱と、鎖を繋いだ鍵を置いた。その箱は、片手で掴めるくらいの大きさで、フタが上にのっかっているだけの簡素な作りだ。鉄系のよくある素材だろう、薄くて軽そうだ、きっとトンカチで叩けばへこむだろう。鍵は鎖の先に南京錠が付いたものだ。どちらも一見特別なものには見えなかった。
「お探しの"彼女"はこの箱の中にいます」
「え??嘘でしょ?」
「本当です。ただし!フタを開けてはいけません。だから鍵をかけましょう。この箱を肌身離さずお持ちください。そうすれば"彼女"はあなたのそばに、ずっと、います」
「ずっと……いる?」
「はい。あなたが、箱を持っている限り、ずっと、です」
「……」
僕はじっと箱を見た。
「この箱をよーく見てください。"彼女"はいます。よーく見てください」
「………………」
しばらくじっと箱を見た。
いた。
あの日からいなくなった彼女がそこにいた。いつもと同じ姿だ。とてもほっとする。そうか、ここにいたんだ。
僕はすっと両手を伸ばして、その箱を引き寄せようとした。
「だめです!」
と店員が僕の手を制止する。
「お手に持つのは鍵をかけてからにして下さい。決してフタを開けてはいけません」
僕は手を引っ込めた。店員が箱に鎖を巻いて鍵をかけるのを待った。店員が箱に触れるのは不満だったが我慢する。"彼女"を見つけたのは彼のおかげなのだと自分をなだめて我慢する。
「どうぞ。これで大丈夫です。どうか大切になさって下さい」
僕は箱を受け取ってさっそくポケットにしまった。店員が「代金はお客様の気持ちにお任せします」と言うので、僕は財布の中身を全部渡した。
"箱"を手に入れてからの僕は毎日幸せだった。どこに行くにも"箱"を身に着けた。いつでも"彼女"はそこにいた。友達にも家族にも内緒にしている。友達に"箱"を見られたこともあるが、中身は誰も知らない。
休日、僕は"彼女"と一緒に水族館に行こうと出かけた。電車に乗って目的の駅に降りた時だった。女の人に声をかけられた。
見ると僕と同じくらいの年の可愛い女の人だった。どことなく"彼女"に似ているが、知らない人だった。
「山本君?久しぶり。私、青木。覚えてる?隣のクラスだった」
自然に胸が高鳴る。その人の声も表情もとても好きな気がする。すーっと意識が抜けて、僕の足は(彼女)に向かって歩きだした。半分ほど距離をつめた時にハッと意識を戻し、立ち止まった。
"彼女"じゃない。
"彼女"は背中まで届く長い髪を後ろで結んでいる、でも目の前の人は髪が肩よりも短い。"彼女"はいつも制服姿で、スカートの丈は膝より低い、でも目の前の人は膝より少し高い白のスカート。それに"彼女"はこんなに明るく僕に話しかけない。
「人違いですよ」
僕は、その人に背を向けて足早に歩きだした。迷いはない、確信してる。でも胸が高鳴ったままだった。
「ええ!?山本君でしょ!?入学式の時、保健室まで連れて行ってくれたよね?私苦しくなった時……」
僕は鼓動を抑えるのに必死だった。後ろから女の人が追いかけながら言っていることをほとんど意識できなかった、しなかった。気づけばほとんど走るような速さで進んでいて、息が切れていた。立ち止まって振り向いた時、もう女の人はいない、改札に向かう人々が迷惑そうに僕をちらっと見て、僕を追い越していく。
右ポケットに手を入れる。ここにいるはず、ここに。
僕は気が変わって、反対向きの電車に乗った。今すぐ家に帰りたくなったのだ。電車の中でずっと、僕はポケットのその"箱"を、手汗をかくほど強く握りしめ続けた。
家に帰るなり、自分の部屋に入って、ドアの鍵を閉めた。床にあぐらをかいてトンと座る。右手はずっとポケットに入れたままだ。ポケットから"箱"を出す。僕は"箱"を見ることができなかった。顔ごと天井に向けたまま、"箱"を床に置く。目線を天井に張り付けたまま動けない。"彼女"はここにいるはず。でも箱を見るのが怖い。いるはず。いるはず。いるはず。意を決する。きつく目を閉じて顔だけ箱に向ける。そして、おそるおそる目を開く。
……
いた。
いてくれた。はあ、と息をはく。よかった。
安心していられたのは少しの間だけだった。以前より"彼女"の顔がはっきり見えなかったからだ。不安になった。本当はいないかもしれないと思った。そう思った自分を許せなくなった。不安は増すばかりだった。
いてもたっても居られなくなって、僕は道具箱をガサゴソとあさり、大きめのペンチを取り出した。ペンチの刃で鎖を挟む、力一杯グリップを握る。鎖はあっさり切れた。店員の顔が一瞬浮かぶ、がすぐに消える。鎖を"箱"からほどいて外し、フタを両手で持つ。心臓が激しく動いている。それでもためらわない。勢いよくフタを開けた。今度はしっかり目を開いて"箱"から目を離さずに開けた。
いた。
"彼女"がいた。いままでよりもずっとはっきりいる。
"彼女"は少し変わった。髪がすっきりと短くなって首周りがよく見える。清楚な真っ白いスカートはふわりと広がっている。少しだけ覗かせる膝と足の線に僕はドキッとした。
"彼女"は僕に会うのが嬉しいような笑顔でこちらを見て、とても楽しそうに話しかけてくれている。
<了> 蜜柑プラム