一、黄泉−8
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ホタルの飼い主は、恩田環といった。
環との一番古い記憶は、出会い。彼女の九歳の誕生日に、デパートのペットショップからゲージに入れられ、両親からのプレゼントとして対面した。
天然パーマの髪を耳の上でふたつに結んだ、大きな口でよくしゃべる子だった。
寿命を迎えるまでの間、不自由な思いをしたことはなかった。我ながら、子供は産まなかったが恵まれた人生をおくったと思った。
白い尾にちなんで与えられた名前も、安直かもしれないが、自慢だった。
環の親に内緒で、同じベッドで寝た。テスト勉強中の邪魔をして部屋から追い出されたこともあったけど、終わるとホタルが飽きるまで遊びにつきあってくれた。
一度だけ、一緒に行った花火大会。ここに来る時に乗った、ピンク色の雲と似た綿飴を食べた。
環が結婚しても、一緒に連れて行ってくれた。
最期だって、ちゃんと看取ってもらえた。
だから。
十七年間の生涯に、悔いはない。
○○○
「――じゃあ、いいじゃん」
「よくないわよ」
ホタルの鋭い視線に、カナデは一瞬ひるんで早口にわびた。
「……でも、今の話を聞いてたら、蘇らなくてもいいと思ったんだけど」
ポツリポツリと紡がれたホタルの話は、彼女が現世にこだわる理由が含まれていない。理解しろというほうが難しかった。
「あたしは蘇りたいの」
彼女はかたくなにそう言うだけ。現世に降りるまで、知ることはできなそうだ。
「現世にいられる時間も限られてるんだからな……」
カナデがそのつややかな背を撫でようとすると、指先が触れる前に逃げてられてしまう。鬼門に到着して開放したと同時に念入りな毛づくろいをされたときは、さすがのカナデも傷ついた。
それでも、時間前に鬼門に到着できたことには満足している。
たった一回、神に早口で教えられた道順を、一度しか間違えることがなかった。進むにつれ渡り廊下が石畳になっていくのは正しい道を歩いている証拠で、その道の空気が冷たく変わっていくのもまた、鬼門が近いことを示していた。
たどりついた鬼門は、神社にある鳥居を黒く塗っただけの質素なもの。その奥に特別なものがあるわけではなく、くぐっても同じところにとどまってしまいそうな気配さえする。
あたりはいつもの艮と一緒で、離れがあり渡り廊下で仕切られているが、仕事中の同僚に自分たちの姿は見えていないらしい。ここに鬼門があること自体わからないのだろう。なにか特殊な呪で姿を消しているのかもしれない。
漆黒の柱は、鏡のように自分たちを映す。おもむろに近寄り、カナデはそれを覗き込んだ。
スニーカーとジャージと瞳。それはどれも違う黒だけど、柱に馴染んで気配を消している。赤茶けた短髪と腕章と、汗のにじんだ肌が目立ち、まるで生首が浮いているようだった。
鳥居の柱に、そっと手を重ねる。しばらく、そのままの状態で固まっていた。
「カナデ兄……?」
不思議そうに自分を見上げてくるカズオミに、カナデは呟くように息を吐く。
「カズオミ、いつもここから来てるのな」
「そうだよ」
鬼門から母屋までもまた、道順が決まっている。複雑に入り組んだ渡り廊下を、彼は小さな頭で完璧に暗記しているのだ。
帰り道も、また鬼門を使うのだろうか。そういえば、タエは帰りについて何も言っていなかった。
きっと、帰りはあちらで用意してくれるのだろう。そう思って手を離し、カナデはカズオミのしぐさに目を留めた。
「また……痛むのか?」
手をつないだほうとは、また別の手。その華奢な手は、肋骨の下あたりに添えられている。黄泉に来てから、カナデは何度その様子を見ただろう。
カナデに指摘されて、カズオミはすぐに手を離した。
「大丈夫だよ」
「でも――」
さらに続けようとしたカナデの耳に、重低音が響いた。
それは鳥居の中から発せられているようで、たくさんの人の声が合わさったように聞こえる。のどの奥から搾り出すような低い声が不気味で、思わず顔が引きつるカナデとは対象に、カズオミはけろりとしていた。
「門が開くんだよ」
鬼門に関しては、カズオミのほうが先輩だ。カナデの腕を引き、鬼門の正面へと導いた。
玉砂利と鳥居に囲まれた空間を、柱からにじみ出る黒い膜が覆っていく。隙間なく埋まるとそれは別の空間への通り道となり、風が吹いてカナデたちを呼んだ。
聞こえる声の中に、たしかにタエの声がある。なにか言葉を唱えているのだろうけど、残念ながらその内容までは聞き取れない。
「……行かないの?」
問われ、カナデは自分が立ち尽くしていたことに気づく。ホタルも同じだったようで、カズオミの声に小さく身体を反応させた。
「早くしないと閉じちゃうよ」
カズオミが先にすすむので、カナデは引っ張られるように後に続く。無意識に、握る手に力をこめた。
つないだ手から、カズオミの体温が伝わる。指先から、脈と血の流れを感じることができた。
ホタルが地を蹴りカナデの頭に乗り、先を行くようにうながすけど、カナデはそうすることができなかった。
鬼門がつないだ空間は、たとえ光をともしても飲み込まれてしまいそうだ。再び立ち尽くすカナデに小首をかしげ、カズオミは手をぐいとひいた。
「行こう?」
「……あぁ」
いまいち気の入らない返事をし、カナデは視力の限界まで鬼門の奥を見据える。暗闇の先には何もない。簡単に踏み込む気にはなれなかった。
いいしれぬ不安をカズオミに悟られたくなくて、カナデは早足で門をくぐる。
鬼門の中は、みょうに生暖かかった。




