一、黄泉−7
彼女の黙考を邪魔せぬよう、カナデとカズオミも口をつぐむ。
静寂を守られた部屋では、円窓から行き来する風の音しか聞こえない。ささやかな乱気流に乗った香の煙が、渦を巻いて天井に消えた。
「……よほど現世に執着があるようね」
下唇を指で挟み、前歯を指で押す。考えが終わりに近くなると、彼女はいつもそうした。
「現世に行っていいわよ」
「――え?」
自分が予想していたのとは違う言葉に、カナデは聞き返していた。
「その死者を連れて現世に降りなさい。未練にケリをつけてもらうには、それが一番よ」
開かれた目は、決定を意味した。
「ちょうどいいから、カズオミも一緒に連れて行きなさい。鬼門を開けないと現世には行けないから」
でもその言葉には、すぐさま声があがった。
「絶対?」
まだ帰りたくないようで、カズオミは上目遣いにタエを見る。
「まだ、いちゃダメ?」
「駄目」
大半の人は許してしまうほど力のあるおねだりも、彼女には敵わなかった。
「生きた魂が黄泉にいると、いろいろと面倒なことがあるのよ」
「じゃあ、またくる」
けれど、返されたため息には、微々たる笑みが含まれている。
「カズオミ、ひとつ言わせてちょうだい」
それを悟られないよう、タエは口元に手をあてた。
「全ての魂は平等なの」
カズオミの持つカップを消し、タエは一呼吸置いてから、身を乗り出すように言った。
「実はまだ、その死者が特別扱いされるとか思ってるでしょうけど、魂は魂よ。ひいきはしない。特別視もしない」
全ての魂が平等なのは、黄泉では当たり前のことだ。
その平等でなければならない魂と、カナデは今回、はじめて関わった。
「たとえその死者が……」
それはきっと、彼女もだろう。
「猫でも」
3
「えっと……」
呟いて、カナデは立ち尽くした。
「えー……」
まず、何を言えばいいだろう。
離れから母屋、母屋から離れ。黄泉の中を何度も往復した足は、まだ疲れもなく、畳をしっかりと踏みしめていた。
藁の匂いを肺いっぱいに吸い込み、かすかな声を含ませながら吐き出した。
「あー……」
人外の死者を前に、カナデはまず、自分が何をすべきか考えた。
言葉を交わすことができるのは、出会いでわかっている。あの同時通訳の奥にあったのは、気管をこれでもかというぐらいに絞った、か細いけど紛れもない、猫の声だ。
頭はよさそうで、見上げてくる鳶色の瞳は、死者一生ぶんの知識がつまっている。
「えっと……」
泳がせるふりをして、カナデはナリアキを盗み見た。
ナリアキは、われ関せずといった表情でのんきに茶をすすっている。死者への応対など必要な知識はすべて彼から教えてもらっていたので、カナデはそれをつぶさに思い出しながら行動をすればまず間違いはないはずだ。
さぁ、まずはどうしようか。
「――猫さん!」
ツルツルの脳を懸命に働かすカナデに痺れを切らし、カズオミが半ば飛び掛るようにかけ寄った。
でも。
「気安く触らないで」
のばした手は、そっけなくかわされてしまう。
カズオミは前のめりになった体勢を戻し、両手を胸の前にあげ危害を与えないことを示した。
「じゃあ、触ってもいい?」
どうやら、彼は猫が好きらしい。瞳から歯までをキラキラと輝かせ、まちきれない手を握ったり開いたり。
「嫌よ。あんたなんかあたしの毛並みめちゃめちゃにするわ」
断られると、その手を畳にすべらし、なんとか気を引こうとする。けれど畳にこすられる即席猫じゃらしを、死者は一瞥もしなかった。
「……俺は、玉梓のカナデといいます」
穴をあけられるのではないかというぐらい見上げてくる死者に、カナデはようやく口を開いた。
「あなたの、名前を訊いてもよろしいですか?」
「ホタル」
どこか誇らしげに名乗った死者に、一同はふかく納得した。
ホタルは、つややかな毛並みをした、細身の雌猫だ。
一見黒猫なのだけど、尾の先が白く、まるで蛍のよう――だから、ホタルと名づけられたのだろう。
「そこの同僚から、話は聞きましたよね?」
「もちろん。あたし、蘇られるのなら消滅してもいいわ」
「こっちとしては、消滅されると困るんです」
予想通りの答えに、カナデは脱力して腰をかがめた。
なんとか気を引こうとするカズオミを、彼女は無視し続けている。それでも白い尾は誘惑に負けそうで、曲げたり伸ばしたりをくりかえして邪心をふり払っていた。
「願い神より、現世に降りる許可をいただきました」
カナデは、一緒に手を差し伸べる。
「蘇られるというわけではありませんが、あなたの未練を、現世で晴らしていただきたい」
「あたしに未練はないわ」
何度もカズオミを気にしながらも、ホタルは気丈に言った。
「ただ、あの子を置いて生まれ変わるなんてできない」
「あの子……」
それが、彼女を現世に縛りつけるものなのだろう。
「とりあえず、一緒に現世に降りましょう」
「蘇らせてくれるの?」
「……降りましょう」
首根っこをつかもうとしたら、いかにも猫らしい俊敏な動きで逃げられた。
「なにするのよ」
「あなたのためにするんです」
何度も手を伸ばすけど、そのたび軽くあしらわれる。躍起になればなるほど、ホタルの動きに楽しみがにじんでくる。
カナデの声色が、堅く、雑になってきた。
「降りますよ」
「降りたら蘇らせてくれるの?」
「……降りますよ」
「…………」
静かなる鬼ごっこを終了させたのは、しぶといカズオミだった。
カナデに気をとられていたホタルを両手でつかみ、さわりがいのある毛並みとシャンプーの匂いに、頬をこれでもかというぐらいゆるませる。
「……ちょっと、離してよ!」
暴れるホタルに、カナデは形勢逆転の笑みを浮かべて畳を蹴った。
「カズオミ、そのまま離すな!」
カズオミは、顔はゆるんでも手の筋肉はゆるませない。二人の客人を同時に小脇に抱え、カナデは足でふすまを開けた。
もう、『玉梓は落ち着きを持ったほうがいい』なんてどうでもいい。
「ナリアキさん、行ってきます!」
それを教えてくれた先輩から返事はなく、ただ、彼の幅のある肩が小刻みに揺れるだけだった。
つま先がこちらを向いたスニーカーを無理やりはき、玉砂利を掘り返しながら踵までおさめる。あたりをぐるりと見まわして現在位置を把握し、欄干に足をかけて渡り廊下に飛び移った。
カナデの動きにカズオミははしゃぎ、ホタルは恐怖を覚えたようだ。
「おろして、あたし一人で動けるわ!」
「鬼門が開くのは五時なんだよっ」
神に知らされた開門時刻まで、実はあと半時もある。母屋から徒歩で十分なので、充分間に合う時間だ。
――ただ、
「俺、黄泉の構造まだよくわかんないんだ」
いったん母屋に戻り、決められた渡り廊下を決められた順で行かなければ、鬼門への道は繋がらない。鬼門から母屋への道は、また別の道を決められていた。
カズオミは鬼門から母屋への道順は覚えているが、母屋から鬼門へは覚えていない。いつも、時間が来ると神が術で鬼門まで送るからだ。
『今回、アタクシは傍観者でいかせてもらうわ』
手助けは一切しないと、神にはあらかじめ言われていた。
「苦情なら、鬼門についてから聞くから」
度重なる移動に、カナデの足はようやく疲れはじめた。太ももの脇が、みょうに張っている。
それを振り切るために、カナデはホタルをあごでしゃくった。
「今は……そうだな、あんたの現世の話でもしてくれ」