一、黄泉−6
「――カナデ君?」
騒ぎを察して、ナリアキがふすまを開けた。「お客様?」
ナリアキの足の間から、カズオミも様子をうかがっている。瞳を輝かせてふすまから飛び出そうとしたカズオミをおさえ、ナリアキは冷静に訊く。
だからカナデも平静を装ってうなずき、「すいません」とあやまった。
「俺、ナリアキさんの仕事とっちゃいました」
死者の相手をする玉梓は、その死者と一番最初に顔を合わせた者になる。今日の朝礼ではナリアキが死者の請け負いをする予定だったのだけど、この死者はすでにカナデという玉梓に会ってしまっていた。
「いや、別に僕はいいけど……」
髪をかきあげ、ナリアキは言葉をにごして死者を見つめた。頬の辺りが、頬杖を付いていたのか、赤く跡がついていた。
「生き返りたいっていう願いは、僕の聞き間違い?」
「いえ」
言って、カナデはナリアキとともにうなだれる。意味のわからないカズオミは、きょとんと二人を見上げた。
「あたし、生き返りたいの」
死者はただ、くりかえすばかりだった。
○○○
「そんなの駄目に決まってるじゃない」
さもありなんといった口調で、タエは手に持っていた願い紙を燃やした。
「カナデも玉梓やって一年なのよ? そういうの、ちゃんと説明しなさいよ」
新しく淹れたのか、それとも先ほどの残りか、卓の上にはまだティーカップが乗っている。
「いちおう、したんですけど……両方に」
二つの視線にはさまれて、カナデは居心地悪く身じろぎをした。
ひとつは、厳しい神の視線。人一倍眼力のあるそれは、少し細めただけで射すくめるような威力を発した。
もうひとつは、神に負けない、カズオミの期待の視線。カナデなら何でもできるという、まるでヒーローかなにかを見るような視線だった。
カズオミにジャージをしかとつかまれ、カナデはため息しか出なかった。
「あの、タエ姉……」
先ほどのことがまだ心に引っかかっているのだろう。カズオミは控えめな声を出す。
「あのね……」
「ごめんなさいね、カズオミ」
彼の心配は杞憂だったようで、タエはいつもと変わらない、けれど優しい態度でカズオミに接する。どこからかまた新しいティーカップを取り出し、熱いから気をつけるようにとその小さな手に持たせた。
「これは、アタクシとカナデの仕事の話なの。これを飲んで、静かにしていてもらえるかしら」
「ボク、レモンティーがいい」
「…………」
タエの息で、ストレートティーの底から、輪切りのレモンが浮かんでくる。
満足そうにカップを顔に寄せたカズオミは、紅茶に息を吹きかけ、音を立てずに中身をすする。一口、二口と飲んで、彼は美味しそうに――見える表情を作った。
彼は、味を感じていない。
むしろ、口に含んだ感覚もないだろう。離れでお茶ともなかを食べた時も、同じだったに違いない。
「おいしい」
「それはよかった」
彼は、タエ神に呪をかけられているのだから。
カズオミは、黄泉の世界のものを食すことができないようになっている。それがたとえどんな食物でも、口に入る直前に消えてしまうのだ。
古事記の始祖神・伊邪那美命が、死後の国の物を食し、死後の住人となってしまったのは有名な話。それは、死後の国である黄泉でもなんら変わりがない。
もしカズオミがここの食物を口にすれば、彼は二度と自らの身体に戻ることができなくなってしまう。それを避けるために、彼女は呪をほどこしたのだ。
「――で、カナデ」
「はい」
「ちゃんと説明して、まだ駄々こねてるっていうわけね?」
「……はい」
カナデの肯定に、タエは大仰にため息をついてみせた。
「だったらずーっとここでさ迷ってればいいのに」
そんなわけにもいかないのは、彼女が一番わかっている。
「死者の蘇りは禁じられているのよ」
どうにも落ち着かないようで、タエはせわしなく室内を歩き回る。苛立ちをどこに向けていいかわからず、何度も髪を手櫛で梳いては、抜けた細髪を指に結んでいた。
「死者が再び現世で生きるためには、自分のではなく、誰か別の魂が必要なのよ」
その横顔に、カナデはうなずく。それは玉梓になったときに、何度も何度も念を押すように言われたことだ。
現世で怪談話が出る時、とりつかれた者は死に至ったというものがよくある。黄泉での真実を聞いたとき、カナデはそれにいたく納得したことがあった。
「魂でも、同じく死んだ魂ではいけない。今まさに現世で生きている、肉体に宿る魂でないと、蘇ることはできないわ」
とりつかれて死んだ人間というのは、死者に、蘇りの代償としてささげられた魂のことだろう。その人間が死んだかわりに、願った死者が蘇るのだから。
ただしこの願いには、大きな問題があるのだ。
「代償になった魂は、死んでも転生して現世に降りることができるわ。でもね、蘇った魂はもう二度と転生することができないのよ」
一度死んだのに、再び生きる。輪廻転生のサイクルから一度でも外れたものは、そこに戻ることはゆるされないのだ。
「……転生できないと、どうなるの?」
おずおずと口を開いたカズオミを、タエはふりむく。その髪が顔を覆った瞬間、カナデは確かに、彼女の唇が弧を描いたのを見た。
彼女はすべて、カナデにではなくカズオミに話していたのだ。
カナデは確かに、カズオミに同じことを話した。だけど彼は、納得してくれなかった。
タエは、話術に長けている。眼力に加えて言霊も強く、説得力がある。カナデの、事務的でどこか言い訳めいた口調とは大違いだった。
カズオミに納得してもらいたいのもあり、カナデは彼をここに連れてきたのだ。その思惑通り、話はカズオミに届いたらしい。
「転生ができない魂は、現世や死後の国をさ迷い続けるわ」
続けるのに、タエは刹那ともいえるほどの短い間、瞳を泳がせ言いよどんだ。
「もしくは、消滅するしかない」
その言葉の意味が飲み込めなくて、カズオミは二、三度まばたく。紅茶にはほとんど口をつけていなく、傾けられて今にもこぼれそうだった。
次第に、その瞳がおちつかなくなっていく。不安を隠すようにあたりを見まわし、それでも最後には必ずタエを見た。
「魂そのものが、消えてしまうの」
タエに見つめられ、カズオミはあごを引く。歯を強くかみ合わせたのだろう、のどもとが少し動いた。
「だから、蘇りは許されないのよ」
カズオミが理解したのを確信し、タエは満足げに息をつく。椅子に身体をあずけ、タエは脱力しながらもカナデに厳しい瞳を向けた。
「その死者にも、同じ説明しないといけないわけ?」
「ナリアキさんが今、もう一度説明してくれてます」
件の死者は、ナリアキと一緒に離れに残ってもらっている。カナデの説明に納得していないからもう一度話しておくと、見送られたのはついさっきのことだ。
ナリアキもタエ同様、話術に長けている。彼に玉梓の仕事を教わると、大半のことはすんなりと理解できる、心にうったえるような話しかたをした。
「カナデは話が下手なのよ」
「ごもっとも」
カナデもタエやナリアキの真似をして話してはいるのだが、何かが欠けているらしく、死者の耳たぶあたりで言霊が消えてしまっていた。
「話っていうのは、ただ言葉を並べるものじゃないのよ。自分の気持ちを含ませないと、相手に通じてくれないわ」
「自分の気持ち……」
眉間にしわを刻ませたカナデにタエは視線をよこしたが、そのまま何も言わずにまぶたを下ろした。
目を閉じる。それは、彼女が思案にふけるときのポーズだ。
「その死者、ナリアキの話でも納得しないんでしょうね……」
「でしょう、ね」
まぶたの裏で今後の計画を練りつつ、彼女は髪をかきあげる。その富士額は、下りてきた髪にまた隠された。