一、黄泉−5
その予兆というものが、カナデはよくわからない。一年やそこらで習得できるものではないらしく、彼のように長い間黄泉にいる者でないとわからないようだった。
「来たんだよ、確かに。でも、どこを探してもいないんだ」
ちなみに、死者は黄泉の土からやってくる。先ほど女性がやってきた映像を逆回しにしたように、玉砂利からビー玉が出て、それが膨らんで雲に戻るのだ。
ぺっ、と吐き出された死者は、ここがわからずさ迷ってしまうケースがよくある。だから玉梓はこまめに見回りをしなければならないのだけど、艮はナリアキがいるおかげで楽をすることができた。
ナリアキが見つけられない死者とは、どんな未練を持っているのだろう。
「……ねぇ、カナデ兄」
カズオミが突然動いたので、失礼ながらもカナデとナリアキは驚きに肩をはじかせてしまった。
こちらを見るカズオミの顔は、普段の無垢な表情に戻っている。思案も悲しみも消えた顔で、小首をかしげながら訊いてきた。
「タエ姉は、ボクのことが嫌いなのかな?」
思わず、カナデはナリアキと顔を見合わせる。
あらかじめ事情を話しておいたので、ナリアキはカズオミが落ち込む気持ちを理解している。ひとつのまばたきでカナデに目配せをし、彼は何の苦もなく立ち上がった。
足をくずしてもなお、しびれの残るカナデは、カズオミの隣に座りなおすナリアキを見るしかない。恐る恐る動かした足が食卓の脚にぶつかった時は、悲鳴をこらえるのに必死だった。
「黄泉の神様は、すこし複雑なんだ」
まるで昔話を始めるかのように、彼は話し始めた。
「黄泉には、『神は必ず神室に存在しなくてはいけない』っていうきまりがあるんだ」
縁側にかけた風鈴が、風のとおりを涼やかな音で告げる。
「黄泉にいる神はみんな、あの部屋から出ることができないんだ。部屋にいるからこそ神。だから、願い神はみんな、外に出られずずっとあそこにこもっている」
カナデも以前、彼に言われたことがあった。タエがちょっかいを出すのは、意地悪しているわけではない。一日中部屋にこもって寂しいのを、紛らわすためだった。
「神である以上、タエ様はあの部屋から出ることができないんだ」
「……もし、部屋から出たら?」
「それは僕にもわからない。無人になった神室というのは、まだ黄泉にはないからね」
ただ、と彼は続けた。
「もしカズオミがあのまま神を連れて行ったら、君の身に何か危険が及んだかもしれない」
「あ……」
小さく声を漏らして、カズオミは口を結ぶ。耳の先が、ほんのりと紅く染まった。きっと、理由も知らずに嫌われたと思い込んだ自分が恥ずかしかったのだろう。
「タエ様は不器用な人だからね。乱暴だけど、ちゃんとカズオミのことを思って叱ってくれたんだよ」
「じゃあボクは、嫌われてないんだ」
「たぶんね」
ナリアキは正直な人だ。確信がないことは正直に口にした。
けれどカズオミにはそれで十分で、すぐに元気を取り戻してお茶うけを食べ始める。ナリアキには以前から面識があったので、警戒もせず、前よりももっとなついていた。
それをいいことに、ナリアキは現世のことをいろいろと聞き出しはじめる。今、現世の季節はなに? もう馬車は走っていないんだよね? 君が着ているのはパジャマっていうんだよね? カナデも訊かれた質問もあるが、大半は現世の文明を聞き出しているようだった。
「そうか……カナデ君の頃とたいしてかわらないんだね。じゃあ、携帯電話はどこまで進化したの?」
質問攻めは嫌いじゃないらしく、カズオミは楽しそうに受け答えをしていた。
子守りをナリアキに一任して、カナデはそそくさと縁側に逃げることにした。
枕もなしに木の上に寝そべると、そよ風が顔に当たって心地よい。黄泉には季節がないけど、それでも一年を通して風の香が変わっていくのは確かだった。
現世は、今、夏だろう。
空を見上げても、黄泉に太陽はない。夜も月がない。昼間の空に浮かぶ雲はあの薄紅色の雲で、夜空は星の変わりに、あの雲が柔らかに発光するのだった。
玉砂利にかかるホウセンカの影を目で追っているうちに、自然と瞼が下りていった。
タエは頭の整理をしろといったけど、午睡の誘惑には勝てそうもない。それでも久しぶりの安眠の気配に、軽く身じろぎをして落ち着く横向きの体勢をつくった。
「……カナデ兄、寝ちゃったのかな?」
遠くから聞こえるカズオミの声に、まだ起きてるよと言いたいけど、唇がうまく動いてくれない。こんなに早く眠りにおちようとするのは珍しかった。
意識は半分起きていて、でも身体は眠っている。金縛りにも似た状態で、途切れることのない二人の会話を聞いていた。
相変わらずナリアキの質問ばかり――かと思いきや、カズオミがなにごとか訊いている。でもその質問や内容は、風と風鈴の音にさえぎられて聞くことができなかった。
風はそんなに強くないのに、鼓膜は風の音ばかりを脳に届ける。風鈴の音は、耳鳴りのように鋭く頭蓋を震わせた。
黄泉にいると、このようなことがよく起こる。聴覚がおかしくなったり、視覚が狂ったり。五感が異常をきたして、気を失うことですらあった。
「くそ……」
耳をふさいでもなお、甲高い音が消えてくれない。風鈴の音がうるさい。カナデは呟き、身体を胎児のようにまるめた。
――寝ていたようだ。
「ん……」
言葉にならない声を発し、カナデは寝返りをうって仰向けになった。
風が冷たくなってきて、自然とくしゃみが出る。鼻をすすり、身体をすくめて少しでも熱をとり戻そうとした。
耳鳴りはもうしない。風鈴の音も実に穏やかだ。あの不快な状態でどうしてすんなりと眠れたのか、自分自身でも謎に思う。
「……ちょっと」
「んー?」
声がして、胸の上に何かが乗る。重みがあるけど息がつまるほどではない。睡魔のほうがそれより強く、カナデは目を閉じたまま首を振った。
「ねぇ、ちょっと」
カズオミかナリアキの声だと思ったけど、どうやら違うようだ。か細い、女性の声が、自分に向けられ起こそうとしている。
「ねぇ。ねぇってば」
その声は他の人と違って、通じる言葉の前にも何かを喋っているようだ。まるで同時通訳のように、二重になって話しかけてくる。
「ここはどこなの?」
「……ぅるさいなぁ」
眉根を寄せれば、鼻を叩かれる。
カナデはしぶしぶ目を開けて。
「みんな変なカッコして、まともなのアナタぐらいよ?」
「…………」
しばらくそのまま見つめ合っていた。
白目のほとんど見えないとび色の瞳が、まっすぐに自分を見ている。その奥にある感情は、不安と、安堵と、憂いを含んでいた。
「ここ、どこなの?」
「……黄泉という、死後の国です」
身を起こしたカナデに合わせ、彼女は胸の上から降りる。縁側に脚を折って座り、すがるようにカナデを見上げていた。
戸惑い半分、カナデも彼女を見下ろした。
「お客様、ですよね?」
「客?」
小首を傾げられ、言葉を改める。
「死者様ですよね?」
「確かにあたしは死んだけど……だからって、どうしてこんなところに連れてこられたわけ?」
「あなたは現世に未練があるんです」
「まあ確かに」
返事は早かった。
そうとなれば、カナデは玉梓の仕事を再開するしかない。腕章をひと撫でし、いつの間にかふすまが閉まっていることに気づいたけど放っておいた。
「現世に未練のある死者は、願いをひとつだけ叶えてもらうことができるんです」
「本当に?」
またもや早い反応に、カナデは一瞬言葉につまる。
「……それを訊いて願い神に伝えるのが俺たち玉梓の仕事で――」
「生き返りたい!」
彼女はもう、話など聞いていなかった。
「あたし、生き返りたい!」
カナデに飛びかからんばかりの勢いで、何度もそれをくりかえす。どんなに口を挟もうとしても、それは耳に届かず、鼻先でかわされてしまうようだった。
「あの……」
すっかり圧倒されて、カナデは死者に手を伸ばす。無意識に、頭をなでようとした。
あっさりとかわされた指越しに、死者から鋭く睨まれる。