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一、黄泉−3

 そらされることのない視線に、カナデはただただ押し黙る。怒りに細められているであろうそのまなざしを受け止めることができず、視線を紅の絨毯に落とすしかなかった。

 はぁ、と、彼女のため息がスピーカーに雑音をつくる。

『……カナデが最近、疲れてるのは知ってたわ」

 黄泉中に響いていた声が、突如肉声へと変わった。

「疲れているのに、眠れないでいるでしょう? なにか、考え事でもしているの?」

 タエの声は今、カナデ一人に向けられている。

 声色は穏やかになったけど、表情はまだ怒っているのだろうか。顔をあげて確認することもできなくて、カナデはうつむいていた。

「一日中黙りこくっていたのも知ってるの」

 かすかな衣擦れとともに、白檀とはまた違う、花のような甘い香りが鼻孔をくすぐる。まもなくして、視界の端にタエのワンピースとつま先が入った。

「アタクシに相談しろって言っても、カナデは何も言わないでしょう?」

 顔を覗き込まれて、カナデはとっさに、一歩後ろに下がった。

「だから今日は、いつもと違う仕事をあげようと思ったの。やりながらでも、ゆっくりできる仕事を。なのにアナタ、遅刻してくるんだもの」

 彼女は、怒ってなどいなかった。

 カナデの頬に手を伸ばし、悲しそうな、けれど慈愛に満ちた表情を見せる。彼女のほうが目線は下であるはずなのに、優勢の立場にいるのは変わらなかった。

 タエが言葉をしゃべるたび、花が香る。白檀で満たされた部屋に一日中こもっているはずなのに、彼女はいつも香水のようにその香をまとわせていた。

「……すいません」

 あやまって、今日はじめて神と目があった。

 その猫のような目は、まつ毛が長くて、とても力がある。黒く艶のある瞳に吸い込まれそうで、カナデの身体は無意識のうちにかしいでいた。

「あの、タエ様」

「なぁに?」

 抱きしめてもいいですか?

 突発的に、そう口から出そうになる。それをあわてて自制して、カナデはなんでもないですと首をふった。

「じゃ、お茶にしましょう」

 急に顔を紅潮させたカナデに不思議そうなまなざしを向けつつも、タエはいつもの澄ました表情に戻る。説教はもう終わり。そう、翻した背中が言っていた。

 鼻歌をうたい、お茶の準備を始める彼女を、カナデはぼんやりとながめる。スリットのはいったスカートからのぞく脚に、つい目がいってしまう。青い花の描かれた香炉に息を吹きかける唇は、艶のある桜色だ。

「カナデ、突っ立ってないで座りなさいな」

 香を、またひと吹き。立ちのぼる煙は、神の使う術の源だ。それを巧みに操って、彼女は湯を沸かし、少なくなった砂糖やミルクを補充した。

 何もない部屋に、香の煙が集まって、テーブルとソファーがあらわれる。彼女の眠るベッドなどもいつもは消えている。お世辞にも広いとはいえないこの部屋で、彼女は一日中、死者の願いを叶えているのだ。

「紅茶は、ストレートでいい?」

「ミルクがいいです」

 カナデがソファーに腰を下ろすと、タエはさも当たり前のように隣に座る。他にも座るところはあるのに、二人座っても余裕があるのに、彼女は肩が触れるほど近くにいた。

 ミルクを入れるその仕草の合間から、甘い香りがただよってくる。むき出しの腕が抜けるように白くて、あごから胸元へのラインがまた繊細で、やはり目がいってしまう。

 甘い香りに誘われて、頭がくらくらする。自分と年の変わらない少女のどこに、そんな魅力があるのだろうか。

「今日は、客が来るわ」

 まぶたを閉ざしたタエは、紅茶を口に含み、そっと息を吐いた。

「……鬼門(きもん)からですか?」

 現世での東北には鬼門があり、鬼が行き来する方位だと忌み嫌われている。その鬼門は、黄泉の艮にも存在する。けれど黄泉の鬼門で行き来するのは、鬼ではなかった。

「きっと、いつもの子だと思うの。確かに誰か入ってきたわ」

「あぁ……」

 また艮は、ナリアキが馴染みのある時間の数えかたで八つにあたる。今でいう午前三時で、その前後数時間はよく門が開き客が来る。

 けれど今回の客というのは、門が開かない時間でも鬼門をくぐってしまう、不思議な客だった。

「つまり、その子が帰るまでの相手をしろ、と」

「そのとおり」

 神が気を使って与えた仕事だからどんなものかと思えば。

「俺がよく任せられる仕事ですね」

「カナデに一番なついてるんだもの。死者の相手よりは楽な仕事だと思うわよ」

 カナデが紅茶に手を伸ばしたのを確認し、タエは胸元から、卓の上にあるのと同じ紙を取り出した。いつの間にか、もう片方の手には香炉が握られていた。

 死者の願いはすべて、紙に書かれている。葉書ほどの大きさの藁半紙(わらばんし)に、万年筆で願いとその死者の名前を記して、それを神に提出する。そうしてはじめて願ったことになるのだ。

 その紙のことを願い(ねがいがみ)といい、叶える神のこともまた、願い(ねがいがみ)といった。

「――あなたは、どんな人生を送ったの?」

 ふと、タエの声色が変わる。

「アタクシがちゃんと叶えてあげるわ、その願い」

 彼女は、カナデではなく願い紙をとおして、死者に語りかけていた。

 選ばれた願い紙は、煙ののぼる香炉にかざされる。白檀の香につつまれると自ら発火し、灰となり宙にかき消えた。

 これで願いが叶ったと言われても、カナデはどうにも納得できない。でも今ごろ現世では、その願いが叶っているのだ。

 何度かそれをくりかえす彼女は、先ほどとはまた違う表情を見せる。菩薩にも似ているけど、そこまで神々しくはなく、身近にたとえると保母のような。やさしいまなざしを願いへと向けている。

 その様子を紅茶片手に眺めるのが、気遣って作られる時間より何より、カナデにとって一番安らぐ時間だった。

 口元に微笑をたたえ、時おり歌をうたう。豊かな髪をかきあげ、指に絡めて枝毛のチェックをする。

 神なのに、彼女はどこか人間らしい。

 一つ一つをつぶさに見つめるカナデに気づいて、タエは肩で息をつく。濡れた舌で唇を湿して、時間をあけてから言葉を発した。

「カナデ、アナタまた難しい顔してるわよ」

 タエの指摘に、カナデはあわてて眉間のしわを消した。

 腕章ごと二の腕をつかみ、脈を感じて心を落ち着ける。いつの間にか、鼓動が早くなっていた。

「考え事してたんです」

 表情の変化を誤魔化そうと、カナデは無理やり笑ってみる。でも、それは乾いた笑みでしかなかった。

 この悩みや考え事は、決して神に言うことができない。解決できず、暗くよどんだ感情が体内に蓄積されようと、決して口にすることはできない。

 自分の中に息を潜めている、血液を腐らせでもするかのような、不気味ななにか。黄泉に来たときから心の中にいたそれは、日に日に大きくなり、カナデを困らせていた。

「……カナデは、アタクシのこと、恨んでいるかしら?」

「え?」

 突然の問いに、カナデは聞き返すしかない。願い紙を握りつぶしたタエは、それを煙へと乱暴に投げ捨てた。

「アタクシのこと、恨めしく思ったりしない?」

「いいえ。むしろ、感謝してるぐらいです」

 どうしていまさらそんなことを訊いてくるのか。カナデの表情を読んだのか、彼女はそれ以上何も訊いてこない。うつむいた視線が切なげに翳っていて、あまり見せないその姿にカナデの胸が鳴った。

 新しく手に取った願い紙で、彼女は折り紙を始めた。いつも願いの処理の飽きたときにする行動だ。

 作るのは、紙飛行機と決まっている。

「――カナデ」

「はい?」

「お客様がいらっしゃったわよ」

 間違いないといった様子で、彼女は飛行機を扉に向かって飛ばした。

 その横顔から、カナデは視線を外すことができなかった。

 紅茶で湿った唇が、すぐ近くにある。薔薇の香りに頭がぼうっとする。彼女の髪が頬に触れると、もう自分を抑えることができなかった。

 カナデは吸い寄せられるように、彼女に唇を重ねた。


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