四、黄泉−2
唇を重ねるのは実に久しぶりのことで、奏は妙の感触を再び得たことに、大きな安堵を感じる。重ねた瞬間に震える唇がまたたまらなく、寄せては離すを繰り返した。
「――やっぱり、駄目」
ただ、それも長くはなかった。
「駄目。アタシ、願いは叶えられない」
キスは受け入れても、願いを受け入れることはしない。顔を背ける頑なな妙に、奏は思わず笑みがこぼれていた。
今自分がしているであろう笑みは、かつて、さまざまな方面で見たことがある。
タエ神がときおりカナデに向けた、慈愛に似て、けれど違う笑み。
はなびが、和臣と話すときに見せた笑み。
ホタルがはなびに向けたものも、近い。
「妙……」
「できない。奏には生きてほしいの」
奏は、妙が好きだ。
責任感や正義感が強いのも、そのわりに内面が繊細なのも。大切なものを守りたいという心も、そのために自分を犠牲にすることをいとわないのも。でもやっぱり、自分の思うようにしたい心も。
すべてが、恋しい。
「それは、俺も同じだ」
そして、愛しい。
「生きてくれ」
奏は、抵抗される間もなく、妙を抱き上げた。
「……っ、奏!」
妙が簡単に折れるとは、はなから思っていなかった。一度抱き上げてしまえば、抵抗されようがされまいが奏は自由に動くことができるのだ。
「おろして!」
「嫌だね」
「そっちは駄目!」
進行方向の先にあるのは、この部屋で唯一の、金色の取っ手が光る真紅の扉。
「妙が叶えてくれないなら、自分でやるしかないだろ」
黄泉における神であるための条件は、実に簡単なものだ。
『神は必ず神室に存在する』
すなわち、神室から出た神は、神ではなくなくなるということ。
裏を返せば、神室に残った魂が願い神になるということ。
「おろしてったら、奏!」
妙が腕に爪を立てるが、血がにじむまでは深くたてることができない。
両腕は妙をおさえることに使い、残りは扉へと急がせる。神室もそう広くはないから、たどり着くのは早かった。
「おろしなさい、カナデ! アタクシにこんなことしてただで済むと思ってるの!?」
タエ神として言われても、一度素に戻っていればただの強がりのようにしか思えない。部屋から出してしまえば、呪を使われることだってないはずだ。
身体を扉に押し付け、タエを抑えるのに必死な手でどうにか扉を開ける。
「――離して!」
そのすきをつき、腕から逃れた妙がすんでのところで部屋に踏みとどまる。
泣き腫らした目で、彼女は奏を睨んだ。
「出るのは、奏のほうよ」
「妙」
一歩でも深く部屋にいようとする妙を、奏は無理やりひきよせる。手首を掴んだ力が強くて妙が顔をしかめたが、緩めずに奏の胸へと引く。
「黄泉にくるために俺は、鬼門をくぐったんだ。そのときに身体から出てきた」
今頃、自分の身体はどうしているだろう。そのまま夜風にさらされているのかもしれないし、案外誰かに発見されたか、ナリアキの配慮で手厚く介抱されているかもしれない。
「自分から身体を手放したんだ。これから、どうなるかわからない」
わかるのは、体温が徐々に下がってきているということだ。冷たいと感じた妙の身体が、徐々に自分と近づいていく。それは、奏の体温がうつったからだけではない。
「時間がないんだ」
突き飛ばすように、奏は妙を部屋から出した。
「待って、奏!」
扉を閉めようとする奏の手を、妙が引きとめて離さない。祈るように組んだ指は、力をこめすぎて震えていた。
「アタシは蘇っても、転生ができないから、死んだらまたここに戻ってくるの。こんなこと、奏の魂を無駄に使うだけよ!」
「それでいいんだ」
その手を離し、奏は妙の胸元に手を伸ばす。
「そうすれば、俺もずっと転生ができなくなる。妙が現世から戻ってきたら、ずっと一緒にいられるから」
妙は、奏の願い紙を肌身離さず持ち続けていた。
それを取り、奏は扉を閉めた。
「――奏!」
妙が扉を叩いてくるが、奏はノブをつかんだまま、決して開けようとしない。扉に額をつけ、願い紙をしっかりと握り締めた。
「アタシ……戻ってくるから!」
身体をよじり、扉に背をあてる。自分の体重で扉に圧をかけ、崩れるようにその場に座った。
「絶対、戻ってくるから! また、黄泉に戻ってくるから!」
扉を叩く振動が、やむ。かわりに聞こえてきたのは、妙のすすり泣きだった。
奏はくしゃくしゃになった願い紙を広げ、それが自分の願いであることを確認する。そしておもむろに、紙飛行機を折りだした。
「それまで、生きるから」
呪の使いかたなど、奏にはわからない。だから、以前タエ神がやっていたことを、そのまま真似るしかなかった。
「生きて、生きて、長生きして。黄泉に、艮に、必ず戻ってくるから」
すっかり傷んだ紙は、飛行機にしても手の中で力なく倒れている。それにもう一度願いを込め、奏は宙に放った。
「待ってて……」
両翼に空を受けた紙飛行機は、よろめくことなく天井へと飛んでいく。そして香の煙だまりへいくと、溶けるように消えてしまった。
「ずっと、待ってる」
妙の気配が消えたのを感じて、奏はそう、呟いた。
円窓からの風に腕を抱けば、身体が冷えていることを知った。
頬を伝う涙だけが、温かかった。