四、黄泉−1
四、黄泉
13
艮の神は、奏の帰還に動じたりしなかった。
むしろ、神室の扉が開かれるのを、今か今かと待ち構えていたようだ。
「妙……」
脚を肩幅に広げ、腕を組み、仁王が如く奏を見据える。彼女はあくまでも、タエ神として振る舞うつもりらしい。
だから奏も、冷静に彼女と接するつもりだった。会話のうちにボロを出すのを気長に待とうと思っていた。
けれど。
「帰りなさい、カナデ」
姿を見たら、身体が勝手に動いていた。
「妙――!」
妙が逃げるよりも早く、腕をつかんだ。そのまま引いた。よろけた腰をぐいと引き寄せ、華奢な首に腕をまわした。
動きに乗り遅れた彼女の髪とワンピースが、いったん宙にとどまり、元に戻る。それまでの間、妙は一言も発することがなく、ただ息をとめて驚いていた。
「妙……」
奏はそれしか言わなかった。否、言えなかった。頭も身体もそれを求めているだけで、彼女の頭に頬を寄せても、欲求はおさまることがなかった。
このままずっと、妙を抱きしめていられたら。いや、抱きしめるだけでは足りそうにない。
口づけようと顔を近づけると、ようやくタエ神が我に返った。
「カナデ、離しなさい」
強い命令を下しても、奏は従わなかった。従うつもりもないし、今はまだ、彼女の言っていることがわからないぐらい、頭が熱くなってしまっている。
「離しなさい、カナデ。神にこんなことしていいと思ってるの?」
言葉だけではなく、彼女は身体でも抵抗する。胸を押してなんとか逃れようとするのだが、そのたびに奏が力を増すので、自ら息を苦しくするだけだった。
「離しなさいったら、カナデ!」
誰もが怖気づく威圧を放ってですら、奏の力を抜くことができなかった。そのころにようやく奏は、室内の香の効果なのか、落ち着きを取り戻しはじめていた。
「離して、カナデ」
苦しそうに喘ぐタエ神の息を感じて、奏は自分がどれだけ力を入れていたかに気づいた。頭の奥でまだ足りないとうったえるのを抑え、呼吸の乱れを少しでもはやく整えようと深呼吸をする。白檀の香は相変わらず強く室内に漂い、香炉から立ち上る煙は雲のように天井にたまっていた。
ようやく奏が腕の力を緩めると、タエ神は大きく息を吸った。
「カナデ、離しなさい」
「……嫌だ」
奏がようやく言葉を発すると、彼女は安堵したのか、身体の緊張がわずかにほぐれた。
「帰りなさい。アナタはまだここにくるべきじゃない」
「嫌だ」
顔を上げて息を吐くと、胸にわずかに痛みを感じた。
「つねっても駄目だ。帰らない」
「帰りなさい」
「引っかいても駄目」
彼女の抵抗が、次第に小さくなっていく。服ごしではほとんど通じない引っかきも、指先を動かすだけとなり、くすぐったいだけ。
「離して……」
抱いた肩が、かすかに震えた。
「離してよ、帰って!」
それを隠すように、彼女は大きな声で叫ぶ。けれど胸板に押し付けられて、声は半分も漏れていない。
声を大きくしたかと思うと、また小さな声に戻って抵抗をする。それをしばらく続けると、彼女はぴたりと動きを止め、そのまま動かなくなってしまった。
「……ごめんなさい」
それを聞いて、奏はあらためて、妙を抱きしめなおした。
「妙……」
妙の体は、冷たかった。
身体のずっと奥、心の臓のあたり。そこにわずかながらに残されたぬくもりは、鬼門の中と同じ。頭に乗せたホタルと同じ、死者の体温だ。
いつもそう。死んでからずっと、彼女は冷たいまま。当たり前のことなのだろうけど、温かい身体を知っている者とすれば、この身体そのものが彼女の死をあらわしているのだ。
少しでも自分の体温がうつればと、奏は身体をより密着させた。
「ごめんね。ごめんなさい」
「妙……」
つぶやく唇を、妙の髪にうずめる。薔薇の香りがする。
愛しい。
黄泉にいる間、妙はずっと近くにいた。やはり奏は、彼女を求めていた。ずっと求めていた妙に、今、こうして触れることができる。
ずっとこうしていられたら。その気持ちを、何度も何度も振り払う。
「……ごめんなさい」
発された声は、すすり泣きの狭間から聞こえた。
「ごめんなさい、奏。ごめんね、アタシのせいだよね……」
嗚咽をこらえているせいか、うまく息が吸えていない。か細い声を聞き、奏はわかっていながら、また彼女を強く抱いた。
「すこしだけって思ってたの。すこしだけなら、ゆるしてもらえると思ったの」
妙が、苦しげに喘ぐ。奏の胸をかき、それを伝えてくる。奏は二度、彼女の背を叩いた。
「一緒にいたかったの」
奏の力はまだまだ強い。それでも息は吸えているが、吐き出した語尾はかすかにふるえていた。
「でも、ずっとああやって玉梓にさせていても、いつか奏の身体は死んでしまうから。そうしたら、奏は輪廻の輪に戻って、もう会えなくなるから。でも、願いを叶えたら、奏は転生ができなくなってしまうから……」
ずっと迷っていたのだと、彼女は言う。
「奏が転生できなくなるのは、嫌だったの。だから、アタシのこと覚えてなくていいから、すこしの間だけ一緒にいたかったの。そうしたらアタシ、奏に会えなくても、大丈夫だと思ったの」
呼吸をするのどが、小さく鳴った。肩が震えている。妙が泣いている。
「ごめんね、奏。わがままだったよね。アタシ、自分のことしか考えてなかった……」
「あやまらなくていい」
奏の声は、気丈に保たれていた。
「頼む、妙。俺の願いを叶えてくれ」
「それだけはできない」
彼女は、懸命に頭をふる。再び腕から逃れようとするが、一度抱かれた身体は長く抵抗を続けなかった。
「願いを叶えたら、奏は転生できなくなるの。もう一度生きたいと思っても、できないの。ずっと魂のままさまようのよ……」
いつの間にか後ろに回されていた彼女の腕は、奏の背を撫で、すそをつかむ。顔は横向きに、頬を胸にあてていた。
「アタシ、奏にそんな思いしてほしくない」
声には涙が混じっている。口調はしっかりしているが、語尾がかすれることがしばしばあった。
「俺はかまわない」
「アタシがいやなの」
奏が腕の中の妙を見ても、彼女は横を向くままだった。
「俺は、今のままのほうがいやだ」
「アタシは今のままでいいの」
「妙」
肩を叩いて上を向かすと、彼女は潤んだ瞳でにらみあげてくる。気は強がっているようだけど、泣きそうな顔では迫力がない。
「妙はもう、転生できないんだろ? 生きてどんなに生まれ変わっても、もう俺は二度と妙に会えないんだ」
「そうよ。アタシを蘇らせても、魂は転生できないの。あんな願い、奏の魂を無駄にするだけじゃない」
「それでいいんだ」
妙はただ、首を振るだけだった。
「そうしたら、俺も転生できなくなるだろ?俺はそうなりたい」
「駄目。奏は生きて」
「妙がいないと嫌なんだ」
ふっていた首も、動かなくなる。そしてまたうつむき、かすかだが肩がふるえた。
「妙がいないと意味がない」
そんな彼女に、奏はもう一度顔を上げるよう促した。
「俺、待ってるから。妙が蘇って、一生をまっとうして、ここに戻ってくるのを」
涙にぬれたまつげが、重そうにたれている。眦に落ちる影はいつもよりも濃かった。
「……これで言うの、二回目だからな」
つぶやき、湿った眦に唇をつける。
「俺は、妙と一緒にいたい」
そして、唇を重ねた。
幾秒もしないうちに離すと、妙は呆けたような表情をしていた。それに笑ってまた唇を寄せると、彼女と引き合った。