三、現世−12
「とりあえず、もう呪は解いたから。思い出そうとすればできるはずだけど、一度に多くを思い出すのはよくないよ」
「必要なのは、全部思い出せましたから。あとは気長にやります」
必要なものを思い出しただけで、ひどい脱力感とめまいがする。呪をかけるにも解くにも、やはりリスクがあるようだった。
鈍く痛む目をこすると、まぶたの裏に、ついこの間までいた黄泉の風景がよみがえる。どんなに静かに歩いてもきしむ渡り廊下や、塗料のはがれた欄干。太陽も雲もない空に枝を広げる、小ぶりな木々や草花。
そこですごした日々が、なつかしい。あそこは何もなく、死者のためだけにあるところだけど、奏はまた、黄泉に行きたいと思った。
黄泉でしか会えないはずのナリアキが、今ここにいる。そんな違和感までもが、奏の黄泉への想いを強めさせる。
それを知ることのないナリアキは、空を見上げている。月を見るのが久しぶりなのだろう、長いことそのまま動かず、首が疲れだしたころにようやく口を開いた。
「……カナデ君は、僕を恨んでいるかな」
「何でですか?」
恨むことなど、奏には何もない。むしろ、こうして記憶を戻してくれたことに、言葉では伝えきれないほど感謝であふれていた。
「僕が、妙ちゃんを止めなかったこと」
「……あぁ」
奏に背を向けるザンギリ頭が、夜風に揺られて首筋をあらわにする。たくましいそれを横切る刀傷に、奏は目をそらすことができなかった。
「僕もある程度止めはしたんだけどね。でもやっぱり、あの子の気持ちは痛いほどわかるし……」
よみがえった記憶の中には、妙と一緒に、初めて黄泉を訪れたときのものがある。
そこにいた艮の神は、背筋がぴんと伸びた、奏たちより二つ三つ年上の若い青年だった。
「所詮願い神は、死者の願いを退けることなんてできないんだ」
今こうして話すナリアキこそが、先代の艮の神なのだ。
「掟、というわけではないんだけどね。きっとどの神も、どの玉梓も、最後には願いを叶えてしまうんだと思うよ」
今まで強引に隠されていた記憶が戻ったことで、奏は、謎の多い黄泉のことが少しだけわかった気がした。
「黄泉にいる神や玉梓は、みんな転生のできなくなった魂なんですね」
「ほとんどが、ね」
その「ほとんど」ではない玉梓には、きっと奏が含まれているのだろう。ナリアキの視線は、死角であるはずなのに、たしかに奏に向けられていた。
「神なんて、本当はいないんだ。みんな、もとをたどれば輪廻転生の輪を廻った魂なんだから」
きっと彼のその首の傷は、生前になにかあった証なのだろう。そして彼は禁忌をおかし、未来永劫転生することができなくなり、艮の神をし、今、玉梓をやっている。
なにがあったのか知ることはできない。わかることは、ナリアキが、妙の願いを叶えたことを奏が怒っていると思っているのだ。
「……俺には、恨む理由がありませんよ」
穏やかな声色で否定をしながら、奏はナリアキの隣に座る。石段は冷たかった。
「俺だって、和臣を蘇らせたいと思ったんだ」
妙に先を越されて言うことはできなかったが、奏は確かにそう思った。もし、あのすべてが始まった日に、先に奏が発言していたら。きっと奏は今ごろ、禁忌をおかした魂として黄泉にいたことだろう。
「ナリアキさんには、感謝することのほうが多いから。俺を母屋につれてってくれたのも、和臣を黄泉に行けるようにしたのも、全部ナリアキさんがやってくれてたんですよね?」
「……ばれてたか」
ナリアキは、笑いながら頭をかく。彼の体には長年の白檀の香が染み付いていて、近くにいるとそれを強く感じた。
「僕はどうしても、君たちをあのまま別れさせたくなかったんだ」
まるまっていた背中が、ふたたび伸びる。奏に向けられた視線は慈愛に満ちていて、それはタエ神が時折見せたものとよく似ていた。
口元に微笑をたたえ、ナリアキは立ち上がる。腰に手をあて月を見上げ、強張っていた身体の力を抜いた。
「これから、鬼門を開けるよ」
それにならい、奏も立ち上がる。ナリアキが教えることを一言ももらさぬよう、目を閉じて声だけに集中した。
「鬼門をくぐれるのは魂だけ。肉をつけたままじゃくぐれない。くぐったとき、魂は身体から強制的に引きずり出されるんだ」
そしてナリアキは、石段を登り、鳥居の前で一言二言呟く。それだけで、時が止まったかのように、あたりが静寂に包まれた。
「今までカナデ君やカズオミ君がした幽体離脱は、本人の意思の関係ないものだった。けれど今回は違うよ、自ら鬼門をくぐるということは、自ら肉体から離れるということだ」
わかるかい、と、無言の問いが向けられる。ナリアキは何を言いたいのか。奏は、それが良いことではないということだけはしっかりと感じ取ることができた。
「自ら、肉体を手放すんだ」
それきり、彼はなにも言わなかった。
言葉とも声ともいえぬ音を発し、鬼門を開く呪を唱えている。歌うように、泣くように、それは一心に黄泉へとささげられていた。
次第に、かすれるほどだった音が大きくなっていく。空気が変わり、風がやんだ。
そして奏は、かつて玉梓の証をはめていた腕を、以前そうしたように強く握り締めていた。
ジャージごしに、自分の温度を感じる。温かい。やわらかい。さらに力を増すと、身体の中を流れる血潮と、命を刻む鼓動が自分の生を象徴していた。
まだ、妙が生きていたとき。抱きしめた身体はこれと同じだった。いや、もっとやわらかかった。生というものは、抱きしめるという行為だけで容易に知ることができるものだった。
その生が失われたことを確かめるのは、至極、簡単なことだった。そしてその方法を、奏はすでに行っていた。
「――カナデ君」
心を決め、奏が鳥居の前に立った時。ナリアキは呪の唱えを終え、鬼門が完全に開かれたことを示した。
奏が黄泉で見た鬼門は、鏡のように姿を映す、漆黒の鳥居だった。けれど今ある鬼門は、その塗料をはがした、ただの石の鳥居。
その中には、黒く塗りつぶされた空間があるだけ。何もなく、けれどなぜか風が吹き、やはり、奏を呼んだ。
片腕を鬼門にうずめると、まるで海老の殻をむくように肉が魂から離れていく。そのたとえようのない嫌悪感を振り切るため、奏は一息に門をくぐった。
「また会おう」
ナリアキの声を背に、奏は再び、黄泉へと駆け出していった。