三、現世−11
『まぁ、叶えてあげられないこともないけれど……』
彼女は迷うそぶりを見せながら、うなじの髪を胸へとかきおろした。その仕草の艶っぽさに、奏は思わずどきりとしてしまう。
『アタクシの挙げる条件をのむのなら、考えてあげてもいいわよ』
『何でもします』
奏の即答に、彼女は妖艶に唇を曲げる。その色香はいったいどこから出ているのか。奏は自分の知らない彼女に戸惑ってしまう。
『アタクシの気がすむまで、玉梓として仕えてちょうだい』
『玉梓?』
そう、とうなずき、神は椅子から腰を上げた。
『玉梓は、死者の願いを集めて、アタクシに届けるの。死者の身の回りの世話をして、アタクシの呼び出しがあればすぐに飛んでくるの。できる?』
『やります』
奏の前に立ち、彼女は藁半紙を目の前にかざした。
『その間、アナタにはこの願いと、願いに関するすべての記憶に鍵をかけさせてもらうわ。玉梓をやるのも、アタクシの気がすむまで。一ヵ月でも、五十年でも、アタクシに仕えてくれる?』
『…………』
奏がようやく言葉をつまらせたことに、神は満足そうに笑った。
きっと彼女は、奏が数十年という時を待てないと思ったのだろう。だから、奇妙に歪んだ奏の唇を見ても別段変に思わなかった。
『……叶えてくれるのなら、待ちます』
『叶えないかもしれない、といっても?』
紙がさらに、前へと突き出される。もし奏がこれを受け取ったら、この願いは破棄するという意味なのだろう。
『叶えるつもりがないんですか?』
『そういう意味じゃないわ。ただ、アナタがアタクシの気分を害すようなことをしたら、即刻この契約を破棄する、と言ってるの』
どうする、と瞳が問うてくる。彼女は奏を試していた。
『俺は、この願いを取り下げる気はありませんよ』
手を一度も伸ばすことなく、奏は後ろに組む。言葉に加え、態度でも願いの真剣さを示した。
『それに……』
『それに?』
見上げてくる妙の身体を、抱きしめたいと奏は思う。けれどそれをしたら面倒なことになると思い、組んだ手に力をこめてどうにかやり過ごした。
何度も触れた身体。見上げてくる瞳も、言葉をつむぐ唇も、やわらかに揺れる髪も、彼女の死後は求めても得られなかったもの。
それが今、目の前に、いる。
一ヵ月でも、五十年でも、願いが叶うのをひたすらに待つ。それは裏を返せば、一ヵ月でも、五十年でも、ずっと黄泉にいられるということだ。
黄泉にいれば、どうなるのか。自分はどう思うのか。奏はそれを妙に伝えたいと思うのだが、いざ口を開くと言葉が出てこない。身体が熱くなって、それがのどにふたをする。
思わず、奏は目をふせていた。
『俺は、妙と一緒にいたい』
そしてまぶたを開けば、神はただ、眉をひそめているだけ。奏がひそかに望んでいた表情を見せてはくれなかった。
『アタクシは神よ? タエ様と呼びなさい』
『……はい』
うなだれは隠せなかった。
やはり、彼女は妙ではない。
『契約成立で、かまわないわね?』
『はい』
それでも、告げた言葉に偽りはなかった。
もう二度と会えなかったはずの彼女が、今、目の前にいる。これからも限られた時間だけでも一緒にいられるのなら、たとえ記憶に鍵をかけられても、かまわない。
神は差し出した紙を手に取り、四つに折る。それを胸元に忍ばせたと思うと、奏の頬に手をのばしてきた。
思わず奏は、身を後ろに引いた。
『……何するんですか?』
『言ったでしょう、記憶に鍵をかけますって。いいからじっとしてなさい、すぐに終わるから』
目を閉じろと指示をされるが、奏はその前にしていた。こんなに至近距離で触れられたら、自分が何をするかわからなかった。
指先が、頬を押した。
そう感じた瞬間、首に腕をまわされていた。
『……奏』
反射的に目を開いた奏の視界に入るのは、彼女の後頭部と、風に揺れるワンピースだけ。部屋の中はあいかわらず煙に満ち、円窓からは池のようなものが見える。
『ごめんね』
『……妙』
それはまさしく、妙の行動だった。
奏の肩に額をすりよせ、彼女はほっと息をつく。そのまましばらく、動かなかった。
そして奏も、どうしていいかわからず、立ち尽くしている。ただ、彼女から香る薔薇がなつかしかった。
彼女は、妙であることを忘れてなどいない。
できることなら今すぎにでも抱きしめたいのに、奏の身体はすくんで動かない。妙から伝わる死者の気に、四肢をとられて動けない。
『……ごめんね、奏』
『妙――』
それを振り切って腕を回そうとした瞬間、彼女は奏を乱暴に突き放した。
大して強い力でもないのに、奏はよろめき、後方に控えた煙に包まれる。白檀の香を一息吸うだけで、頭がぼうっとした。
『……た、え?』
煙が晴れると、そこには腕を組み、自分を見据える神がいた。
『神を呼び捨てにするの?』
猫のように大きな目を細め、柳眉は細かなしわを刻んでひそめられる。不機嫌を敏感に察知し、あわてて発言を訂正した。
『タエ様』
『それでいいのよ』
表情を微笑へと戻したタエは、ワンピースを翻して卓へと戻る。椅子に座り、顔にかかった髪をかきあげる。
そして、こちらを見た。
『カナデ、お茶にしましょう』
『はい』
手招きされ、カナデはそれにしたがう。
『紅茶はストレートでいい?』
『……ミルクティーがいいです』
腕につけられた玉梓の腕章に気づくのは、それからもう少し後のことだった。
12
「――君も、大変だったね」
目を開くと、そこにはやはりナリアキがいた。
「こうも何重に呪をかけられたら、魂にも身体にも負荷がかかるってタエ神は知らなかったのか……」
短時間に多くの情報が頭をめぐり、奏はめまいをおぼえる。身体がふらつき踏み止どまった足もとは、記憶の白い名残もなくただ石段が続くのみだった。
「呪をかけるだけでもそれ相応の危険があるんだ。現にカナデ君は思い出そうとするたびに五感に異常をきたした。このまま続けていたら、きっと神経が擦り切れてしまっただろうね……」
ナリアキの眼光は鋭く、奏の痩せた身体を見る。彼には神経が見えるのか、隅から隅まで念入りに視線をやっていた。
「妙を、あまり責めないでやってください」
その視線から逃れるように、奏は身をよじる。ナリアキのこんな表情を見るのは初めてだった。
「責めてるわけじゃないよ。しっかり教えなかった先代の神が悪いんだ」
育ちの良さをあらわす丁寧な物言いやしゃんと伸びた背筋は相変わらずだけど、濃い眉がひそめられている。細面は月光を背負いさらに影を増し、その影は自責の念であるようだった。
「それに……俺は、妙が知ってて呪をかけたように思うんです」
ナリアキの眉間のしわが、わずかだが深まる。逆に下がった目尻は、彼の苦笑を意味していた。
「そうじゃないと、あんなことしない」
あの時――奏が妙に会いに行った時。彼女は奏を抱きしめ、ごめんとあやまった。
その行動自体は、別段おかしなことではない。
ただ、奏はその時、たしかに感じていた。
「俺を見て、泣いたりなんかいない」
肩口におしつけられた額が、かすかながらにふるえたことを。
それが再会の喜びではなく、内に抱えた苦しみであることも。
「……それこそ、神のみぞ知る、だね」
浅く息を吐き、ナリアキは顔から影を消す。カナデに背を向け石段にあぐらをかくと、めずらしくその背がまるくなった。