三、現世−6
けれど今年は、遠くから見る、色とりどりのタンポポのよう。音が届くのは遅く、手をのばしても触れない、手の平で隠れてしまうはかなさがあった。
いつもは、隣に和臣がいた。
そして、妙がいた。
「…………たえ」
もうすこし。あと、もうすこしだ。そう自分に言い聞かせて、奏は花火を抱こうと腕を伸ばした。
「た、え」
こうして名前を呼んでいれば、思い出せる気がした。あの夏祭りの日、一体何があったのか。奏の求めるものが、あと一息でつかめそうだった。
もう、一声。
妙と、奏は確かに呼んだ。
「 !」
けれど、それは聞こえなかった。
川の上では、あのスターマインが始まっている。なのに、にぎやかになるはずの破裂音が、ひとつも聞こえてこない。
何度も名を呼んでいるのに、自分が声を発しているのかがわからない。のどもとに触れればたしかに声帯は振動しているのに、その声を自分で聞き取ることができない。
困惑のまなざしは残光と煙の残る夜空を見ることができず、カーテンが顔に触れたというのにそれを確認することもできない。藍と紺とを織り交ぜ、これからもっと深みを増していくはずの空が、だんだんと白けていく。
身体を部屋の中に戻したつもりなのに、自分が立っているのか座っているのかもわからない。声帯の振動はおろか、脈ですら計ることができない。自分が起きているのか、眠っているのか、判断することができない。
なんで、と呟いてみるけど、やはり聞こえない。耳鳴りがするわけでもない。無音というものを初めて体験した。
視界は線も点もすべて失い、あたりは白に包まれている。上も下もわからず、やみくもに宙をかいても、何もなかった。
それどころか、自分が動いてるのかもわからない。着ている服の感触も、窓から吹き込んでいるであろう夜風も感じることができない。
夏特有の湿った空気のにおいも、衣服にしみた自分の汗もない。
真っ白な、無重力空間。そこに放り出され、奏は何かを感じ取ろうと必死にもがいた。
10
開いたまぶたは乾いた涙でくっついていて、まばたきをすると白いものが視界の鮮明度を落としていた。
「――奏、寝てるの?」
「起きてる」
発した声は、カラカラに乾いていた。眠っていたからではなく声の限り叫んでいたからで、吹き込む夜風の湿り気がやさしかった。
「奏に、電話!」
母が、階下から呼んでいる。花火はもう終わったらしい。父も母も、その後に控えた地元バンドのライブには興味を持っていなかった。
「わかった。今行く」
座り込んでいた床から腰を上げると、握った拳が傷むのに気づいた。見れば関節が赤く腫れ、爪の間には掻いたフローリングのワックスが入っていた。
階段を下りるたびに、太ももの筋肉がきしんだ。なかなか降りてこないことに苛立ちを覚えていた母は、奏の顔を見るなり腕をつかんで引き止めた。
「奏、顔色悪いわよ?」
「……大丈夫」
リビングに入ると、父も同じことを思ったらしい。ソファーから立ち上がって声をかけようとして、奏が受話器をあげると開きかけていた口を名残惜しそうにつぐんだ。
『アカギカナデ君ですか?』
出るなり、そう訊かれた。
「そうですけど……あの、誰ですか?」
声に、聞き覚えがない。はじめて聞く、穏やかな青年の声。病院での主治医にも似てるけど、それよりも若干年下に思えた。
『今、暇ですか?』
「は?」
『今、暇ですか?』
その声には、言い知れない迫力のようなものがある。奏はそれに圧され、空いた手でホコリのついた置き電話を撫でた。
「あの……」
『今から、出れますよね?』
「出れます」
即答したことに、自分が一番驚いた。答えるつもりなどなかったのに、口がそう勝手に動いていた。
『じゃあ、あの神社に』
どの神社だろう、市内には神社がたくさんある。
「わかりました」
また、勝手に口が動く。身体が自分の意思とはまったく違うことをする。まるでなにもかもわかっているようだった。
『早く来てくださいね』
「はい、今すぐ」
そう返事をして、手が受話器を置こうとした。だから奏は、力をこめ、けれどかすれた声で叫んでいた。
「あの!」
『……何?』
「あなた誰ですか?」
やや間を空けて、『あぁ』という声が聞こえた。すっかり忘れていたらしく、謝った声には苦笑ともいえる呼気が含まれている。
『――では』
通話切れを意味する電子音が耳の中に響いても、奏は受話器を持ったまま立ち尽くしていた。
「奏?」
ようやく動くことができたのは、母が声をかけてきたから。宙を見つめ微動だにしない息子の腕を、そっとつかんでゆらした。
その腕をふりほどき、奏は虚ろな目を外へと向ける。そこには異変を感じ取ったらしい父がいたけど、焦点が彼に合うことはなかった。
「……ちょっと、出かけてくる」
早く、外に出なければ。
そう思うにも、気ばかりが急いて受話器をうまく置くことができない。転げて床にぶつけ、コードは伸縮にしたがって何度も床へとぶつかってしまう。その受話器はちゃんと、母が戻してくれた。
「今から? もう遅いじゃない」
「わかってる」
「電話、誰からだったの?」
「……知り合い」
母と会話をする気にもなれず、奏はふるえをこらえてリビングの扉に手をかける。鼓動がはやくなり、呼吸が浅くなる。全身にうっすらと汗が浮き、今すぐ叫び、走り出したい衝動にかられた。
自分は今、喜んでいる。その理由が、奏にはわからない。ただ、喜びは度を越すと喜びではなくなることを知った。
手垢がついてすっかり艶をうしなったノブをまわすと、父が呼び止めてきた。
「……気をつけろよ」
「わかってる」
振り向くと、彼はなぜだか泣きそうな顔をしている。それは母も同じで、その表情は、病院で目覚めた時にしか見たことがなかった。
ふたりとも、何かを悟ったらしい。母が奏を行かせるか行かせないかの葛藤を繰り広げているのが、わずかに光った目じりからにじみ出ていた。
「早く、帰ってくるのよ?」
「…………」
とっさに、言葉が出ない。わかったのひと言でいいはずなのに、どうしてもいえなかった。
必ず帰ってくるという自信がなかった。
それでも両親を安心させたくて、いってきます、と言おうとする。歯を見せて、健康そうに笑えば、きっとふたりは安心して送り出してくれる。
「ありがとう」
けれど、口をついたのはそんな言葉。顔はきちんと笑ったけど、唇を曲げ、目を細めただけの微笑しかできなかった。
なんの声もかけられたくなくて、奏はすぐに玄関へと走った。靴下を履かぬまま、素足で汚れたスニーカーを履いた。
表に出ると、夜風がジャージを抜けて肌に触れた。薄ら寒くて鳥肌が立つけど、身体の芯は先ほど以上に熱があがったらしい。汗ばんだ額にはりつく髪が不快だった。
それを乱暴にぬぐって、奏は空を仰ぐ。心を整えようと深呼吸をすると、あの電話の声が耳によみがえった。
名乗った彼の声は、心を落ち着かせてくれない。
『ナリアキといいます』
行くあての定まっていなかった足は、いつしか目的をもって走り出していた。