三、現世−5
『――逃げるぞ!』
ここにいては危険だ。そう判断して、今度は奏が二人を引く番になる。歩幅や身体能力の差もあって、遅い和臣を妙と奏が引っ張るような形になっていた。
奏が和臣をおぶったほうがまだ早い。けれどそれで一度立ち止まるより早く、少しでも発射台から離れる必要があった。
『走れ!』
すぐに息があがって苦しそうにあえぐ和臣に、奏は半ば怒鳴るように叫ぶ。花火は遠く離れた上空から轟く音だけで十分大きい音なのに、それが背中や足元でするのだから、鼓膜が破れていないだけ良いほうだった。
人々が逃げ惑い、砂利の通路にはたくさんの商品が散乱している。和臣のと同じ仮面は無残に割られ、りんご飴はひしゃげて砂がついていた。
前を走る少年たちが、金魚すくいの水槽に足を引っ掛ける。水と一緒に金魚があふれたけど、それを気にする余裕もなく、奏もピチピチとはねる金魚を踏まずに走る自信がなかった。
『――わっ!』
黒い出目金の真上をすぎたと思われる瞬間、和臣のすぐ後ろで花火が咲いた。
『大丈夫か!?』
転びそうになるのを、奏と妙が腕をひいて立ち上がらせる。なんとか踏みとどまって再び走り出す和臣は、恐怖で泣き出しそうになるのを、鼻をすすりながら懸命にこらえていた。
四方八方に飛び散る火薬玉は、まるで戦時下の焼夷弾のようだ。テントに燃え移った火を誰も消そうとはしないのを見て、奏は不謹慎にもそう思った。
そして、一際大きな花火がこちらに向かってきたのを、身体のどこかで感じた。
『危な――』
疾走を続ける二人を止めようと、奏は和臣の襟首をつかむ。息がつまるのもかまわず懐に抱え込み、タエもまた同様に、自分の身体の陰になるようにかばった。
直後、火薬の塊と化した花火が爆発する。その爆風におされて、奏たちはその場に転がった。
『痛っ……』
砂利で腕と顔とをすりむき、痛みに顔をゆがめる。けれど二人をかばう手は決して緩めず、再び続いた爆発にまた地面を転がった。
星空と砂利道とが二転三転する世界を、黄緑色のもので覆われてしまう。しっかりとにぎっていた腕に硬いものがあたり、何かに脚と肩を抑えつけられた。
あまりにも一瞬のことに、奏は状況を把握することができない。混乱しきった頭で求めるのは、妙と和臣の無事だけだ。
『妙! 和臣!』
動きを阻む黄緑が、出店のテントだと気づく。きっと爆発に飛ばされ、奏たちに覆いかぶさったのだろう。
ならばきっと今、奏の肩をおさえるのは鉄パイプだ。それをどかそうと地面に手をつくと、指の間で出目金が弱々しくはねた。
『……ぅ』
なんとか身動きをとろうと奏がパイプに手をかけた瞬間、小さなうめき声が耳に届いた。
『和臣!?』
それは遮られたテントのむこうから聞こえ、奏はあわててそれを押し上げる。自分でもどうやったかわからないほど無理矢理に鉄パイプから抜けだして、すぐに横たわる和臣と妙を見つけた。
『和臣、大丈夫か!?』
爆発の衝撃で足腰を痛めたらしく、起き上がることができない。這いつくばって、すぐ近くにいた和臣の様子を見た。
『和臣、和臣!』
尋常じゃない顔の青さに、奏は頬を叩いて呼びかける。なんとかこのテントから抜け出そうとして、もがいているうちにそれを見た。
『和臣……』
ぐったりと仰向けに倒れる腹部を、鉄パイプが貫通している。
『和臣! しっかりしろ!』
必死に呼びかけながら、奏は妙の様子も見た。彼女はいくつかすり傷が見られたけど、ただ気を失っているらしく、顔色はいたって正常だった。
『待ってろ! 今テントどけるから……』
そういってあげた顔に、花火のとはまた違う衝撃を受ける。眉間から鼻先にかけて溶けた鉄をかけたように熱くなり、鼻血がでてシャツを真っ赤に染めた。
逃げる誰かが、顔を蹴ったんだ。そう悟ったころには、奏も一緒に意識を手放していた。
目が覚めたらそこは病院で、事故による負傷者の手当もあらかた終わり、時刻は丑三つ時をひとつもふたつも越えているころだった。
『和臣君、集中治療室にいるから。一時は心配停止状態で危なかったけど、なんとか持ちこたえたのよ』
母が、泣き腫らした目をして話す。奏は気を失いはしたものの、鼻を折るだけですんだ。
『母さん、妙は?』
『妙ちゃんは……』
『無事なんだろ? 気絶してただけだよな?』
『…………』
母が、再び目から涙をこぼす。それでも泣くまいと息を止めるものだから、顔が真っ赤になっていた。
『母さん……?』
『すごく、生きてるみたいなのよ。頭をぶつけたときに脳に血がたまって……だから、本当に眠ってるみたいなの』
妙が、死んだ。
そう知らされて、冷静にそれを受け止める自分がいた。
○○○
「――違う!」
振り下ろした奏の拳は、ベッドに向けられホコリが舞った。
「違う、違う!」
思い出した記憶に、おかしいところなどない。わかっているのに、奏は叫んでいた。
「違う! こんなんじゃない!」
せっかく新しく思い出すことができたのに、その記憶を受け入れることができない。
奏の内では、さまざまな感情が激しく対立している。記憶の中の妙の死に顔には悲しみを覚えるが、他の心が邪魔をして、脳が膨張するような頭痛しか呼ばなかった。
「絶対、絶対なにかあったんだ!」
思い出したことは、すべて事実だ。
ただ、自分の知っていることがもうひとつあるはずなのだ。
「違う。こんなことじゃない……」
それを、どうしても思い出すことができない。いや、時間の流れからして、暴発事故に空白の時間など存在しないはずなのだ。それでも、納得できない自分が確かにいた。
「妙……」
名前を呼べば、胸が締め付けられる。息が止まるほどの禁断症状となって、奏は彼女を求めている。
幼いころからたびたび片鱗をのぞかせていた、正体のわからなかった感情。胸に違和感を与え、頭を呆けさせ、理解よりも先に気恥ずかしさがあった、複雑な気持ち。
今なら奏は、しっかりとこの気持ちを受け止めることができた。
「妙」
愛しい。
ずっとずっと、幼いころから抱いていたこの気持ち。
自然と心の片隅に潜んでいたそれは、時がたつにつれ、次第に大きくなっていた。時にはその気持ちをどうにか封じ込めようとしたけれど、意識すればするほど、どうしても彼女の姿を目で追っていた。
この気持ちを、彼女に伝えたことはない。付き合うにしたって、どちらかが告白したわけでもない。ごく自然に手をつなぎ、ごく自然に寄り添い、ごく自然に唇を合わせた。
抱きしめた身体は華奢で、重ねた肌はなによりもすべやかだった。頬を寄せれば、髪からいつもの薔薇が香った。
「……妙」
どうして、今まで思い出せなかったのだろう。そう自分を責め、息が詰まるほどの悔しさ。悔しさが愛しさを後押しし、悲しみを抑え込んでいた。
「妙……」
目の奥が熱い。鼻にツンとしみる。それでも涙は流したくなくて、夜風で顔を冷やそうと窓を開ける。
まとめられていなかったカーテンは、ひやりとした風に誘われて外へとなびく。それを伝って夜空を見やれば、乾いた破裂音と小さな閃光が星の輝きを消した。
それは、花火が始まる合図だった。
奏が窓枠から身を乗り出した時、花火があがった。トップを飾ったのは、赤と黄を混ぜた、小さな花火だった。
その花火の音が届いたころに、今度は青い花火があがった。風に乗って火薬のにおいが運ばれてきたころ、緑と赤の花火が白く色を変えた。
毎年見ていたのは、真下から見上げた、何にも喩えることができない大輪の花。花が咲くとほぼ同時に音が届いて、大きな声を出さなければ会話ができないほど、壮大な花火だった。