三、現世−4
○○○
細い腰に手を当て、彼女は何度も訪れた部屋を見てそう言った。生足は制服以外で見たことがなく、いつもジーンズばかりはいていた。
『アタシのあげた本だって全然読んでないでしょう』
来るたびにいつも本やら目覚まし時計やらを置いていくけど、奏はその大半に手をつけなかった。部屋の掃除というものをしないので、置いたものには着々とホコリがかぶっていった。
今日は何? と奏が訊くと、彼女はこの写真たてを取り出した。
『前アタシの家で撮ったやつ。わざわざ焼き増ししたのよ、ちゃんと飾ってよね』
『そうだな』
奏がそれに素直に従うと、妙は失礼にも額に手をあてて熱をはかってきた。
『大丈夫? お腹だして寝なかった?』
『……珍しいワンピース姿は記念に飾っといたほうがいいだろ』
ついさっきまで心配していた手で、頭をパカンと叩かれる。最初は唇を尖らせていた彼女は、ふいに口角を上げ、奏にわたすつもりだった写真たてをブックタワーの下に隠してしまった。
『何やってんだ?』
『ワンピースのアタシ見たかったら、この本全部読んでね』
『絶対読まない』
断固たる奏の態度に、妙は再びすねた顔になる。奏が近くに寄っても、避けるように身を引いた。
きっと妙は、奏にワンピースの感想を言ってほしいのだろう。奏はそれを楽しみはしたけれど、まだ他に何も言っていない。妙がそれとないそぶりを見せても、あえて気づかないフリをしていた。
似合うか似合わないか。どちらでもいいから、言ってほしいのだろう。
そんな彼女の頭に、奏は手をのばす。量が多く、雨の日は広がり、切るとよけいにはねるから嫌々のばしている妙の髪。それを指で梳くのが好きだった。途中で引っかかるのが楽しい。
その髪からは、いつも薔薇の香り。
『別に読まなくても、また着るんだろ?』
『……もう着ない』
『なんでさ』
『アタシ、スカート似合わないもん』
『そうか?』
高校にあがってから、妙は少しずつ女らしくなってきた。見た目はもちろん昔から女の子らしかったけど、服装や化粧を気にしだしたのは高校にあがってからだ。奏が格好について何か言ったわけではないけど、クラスの友達の姿を見て、雑誌を買って研究するようになったのだ。
そんな妙がクセ毛を嫌っていても、決して縮毛矯正をかけようとしないのは、奏に触られるのが好きだからだ。喧嘩して機嫌を損ねた時でも、彼女はこうして髪を撫でると素直になった。
そして奏も、素直になれる。気恥ずかしくて言えなかったワンピースの感想だって、簡単にいうことができる。
『俺は、いいと思うけどな』
妙はまた驚いた顔をして、奏の額に手をのばした。
そして奏は、その手をつかんで――
「妙……」
呟き、奏はもう一度、写真に目をおとした。
ここまで鮮明に、妙のことを思い出すことができた。それが嬉しくて、奏は他にも思い出せないかと写真の隅にまで目をこらした。
彼女は、このワンピースを二回しか着ていなかったはずだ。
最初は自宅で、その次は……
「たしか、あの時……」
二回目は、あの時。
二年前の、夏祭りの日だ。
○○○
風が出てきた。
そう思い、奏は空を見上げた。
祭りの会場は市の中央をはしる川の河川敷であり、小高い山を背にするかたちになっている。その山には古びた神社があり、夏は花火大会秋は神社祭と、その山を拝む機会はたびたびあった。
風は、山を――神社の石段を下ってきているように思えた。花火の煙を消すにはちょうどいいけど、すこし肌寒い。
『……ちょっと寒いかも』
隣で鳥肌をたてた腕を抱く妙に、奏は小さくため息をついた。
『そんな薄着してるからだろ』
妙が着ているのは、黒髪がよく映える白のワンピース。広く開けられた背中と首元が涼しげで、ドレープをふんだんにあしらったすそには深いスリットが入っている。買ったばかりのそれは素直に可愛いと思うのだけど、周囲に人がいる状況でスリットから脚がのぞくと、どうにも気分が落ち着かなかった。
いくら今が夏だといえ、夜はそれなりに冷える。ワンピース一枚で四肢をむきだしにすれば、鳥肌が立つのも当たり前だ。
『だって……』
左右に挟まれた出店の間を、和臣はちょこまかと走り見てまわる。目を離したすきに迷子になられたらたまったものじゃないので、奏は綿飴屋の前で立ち止まる彼を視界に入れながら、ジャージのチャックを下ろした。
『貸してやるから、ほら』
『ありがとう』
ワンピースにジャージという奇妙な組み合わせになった彼女は、含み笑いをしながら奏を見上げてくる。つい胸元に目がいってしまっていたことに気づいていたのだ。
『お姉ちゃん、奏!』
そんな二人の間を、和臣が狙ったかのようなタイミングで割り込んでくる。いつものようにそれぞれと手をつなぎ、キャラクターもののお面を頭に乗せながらぐいぐいと引っ張ってきた。
『花火始まるから、行こう!』
夏祭りの日、誰よりもはしゃぐのは和臣だ。普段もそれなりのやんちゃっぷりを発揮している彼だけど、こういうお祭りごととなると全身の血がさわいでしかたないらしい。
『和臣、そんなに引っ張ったら転ぶから!』
『あれだけ食って騒いで、逆流しないのかね……』
感心も一緒におりまぜたため息をつき、奏は昨日の新聞に折り込まれていた夏祭りのチラシを頭に浮かべる。ざっと目を通したタイムテーブルは、例年変わらないものだからすっかり覚えてしまっている。
日もすっかり沈み、空には星がまたたきはじめている。和臣の言うとおり、お待ちかねの打ち上げ花火の時間だ。
『別にそんな急がなくても、花火はここからだって見えるんだぞ?』
『いつもの見えるところがいいもん!』
花火は向こう岸の川辺で打ち上げられるため、出店の中にいても十分見える。ただ和臣は、地上と打ち上げが同時に咲く「スターマイン」という花火が何よりもお気に入りで、誰よりも近くで見ようと毎年出店から離れた客席のまん前を陣取っていた。
『今年は和臣がのんきだったからね。いつもより動き出すの遅いわ』
射的でどうしてもほしいものがあって、和臣はずっとそれに小遣いをつぎ込んでいた。結局それは奏がとったのだけど、彼があきらめるまでの時間がそうとう長かったのだ。
妙にジャージを貸したので、今度は奏がTシャツ一枚になる。それが寒いと感じた瞬間、頭上で黄色い花火があがった。
『あー、はじまっちゃった!』
そう叫んで、和臣がさらに加速する。身体の大きさではさして早くはないのだけど、前かがみの姿勢で走らされるため、奏は砂利にけつまずいて転びそうになった。
わずかな光を残して上昇する花火は、今にも火薬が降りそうなほど近くで花開く。これはまだ余興段階の小さなもので、徐々に数を増しながら煙を風に流していた。
毎年変わらない、夜空を我が物顔で陣取る打ち上げ花火。
異変を感じたのは、スターマインが始まる前。
『和臣、待て!』
打ちあがる花火の数が増え、観客席が歓声をあげている。たしかに見目は美しい花火の連発だけど、機関銃がごとくうなる破裂音が耳に響いて痛みを覚えた。
『なんか、変じゃない?』
妙もそれを敏感に察知して、走るスピードをおさえていく。発射台のほうがカメラのフラッシュをたいたように明るく光っていて、花火も真っ直ぐ上がってなどいなかった。
『……変よ、いつもこんなにあがらないもの』
完全に走りを止めたころには、和臣も様子のおかしさに気づいていた。観客席の先のほうまで光に飲まれている。かすかながらに悲鳴も聞こえた気がした。
『暴発してる……のか?』
だとしたら、今打ち上げられているのはまだ余興段階。
もし、スターマインにまで火がついたら、この暴発はもっとひどくなる。
『妙、和臣、逃げ……』
『――逃げろ!』
誰かがそう叫んだ瞬間、爆風に和臣が大きくよろめいた。
先ほどとは比にならないほどの、それこそ弾丸のような花火の嵐。閃光がすぐ脇をかすめ、頭上を走り、炸裂して砂埃が舞った。