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三、現世−3

 自分にはただ、一晩眠っていたようにしか思えない。

 ではなぜ、『昨日』の自分にこれほど疑問を抱くのか。『昨日』のことだというのに、どうして忘れていることが多いのか。

 『昨日』から『今日』になって、母は小じわが増えた。父は髪が薄くなった。これと同じぐらいの時間を、奏はどこかで過ごしたのではないだろうか。

 では、それはどこなのか。

「行っておいで、奏。妙ちゃんに元気な姿見させてあげなよ、妙ちゃんのお母さんも、奏のこと心配してたんだからね」

「……うん」

 考えれば考えるほど、怒りがこみ上げてくる。こみあげる怒りを、奏は食べることにぶつける。

 なにかが、自分に鍵をかけている。

 そう考えるのは、奏の逃げなのだろうか。

 口いっぱいにカレーを詰め込み、咀嚼しながらおかわりを要求すると、居間の置き電話が呼び出し音をあげた。

「奏、自分でやってくれる? ……はい、もしもし」

 スリッパを鳴らして受話器をとり、母は声のトーンをあげた。言われるままに盛りに行ったカレーは、海の幸をふんだんに使ったシーフードカレー。よく作られるカレーの種類だが、家族の中でこれが好物の人がいるわけではなかった。

 シーフードカレーは、妙の好物だ。

「……もしもし?」

 母の声色が変わったことに気づき、奏は指についたルゥを舐めながら母を見る。何度か電話に呼びかけていた彼女は、やがてため息をついて受話器を戻した。

「イタ電?」

「そう、無言電話。あっちから切ったの」

 一時期、昏睡状態から復活した奏を取材したいと新聞社からしつこく電話がかかってきたことがあった。それも断り続けるうちに静まったが、こういうイタズラ電話は新聞社よりも厄介だった。

「よくかかってくるの?」

「ううん、そういうわけじゃないわ。……次かかってきたらお経でも唱えようかしら」

 すっかり機嫌を損ねたらしい母は、プリプリ怒りながら残りのカレーをかきこむ。そんな母のために、父は福神漬けを皿によそってやった。

 我が家の置き電話は古型で、ナンバーディスプレイが備わっていない。携帯電話と違って着信拒否を設定することもできなかった。

 新しい電話を買えばいいと一瞬思うが、奏はすぐにその考えをふりはらった。自分が病院にいた間の金額を考えれば、新しい電話を買う余裕などないに違いない。

「……奏は明日のお祭り、どうするんだ?」

 寡黙な父が、最近よくしゃべる。奏が無言になると、また倒れるかと思って恐くなるらしい。

「やっぱり、花火は恐いか?」

「……まだ見てないからわかんないよ」

 和臣は事故後、ニュースでとりあげられる花火でも嫌がったらしい。奏は画面越しの花火を見ても平然としているが、正直、生の花火を見上げる自信はなかった。

「また、和臣君と行くのか?」

「いや、それはない」

 毎年恒例を続けるならば、和臣と花火を見に行く。一昨年まではそこに妙もいたけれど、今は二人。その和臣も、三回忌が終わったら病院に行って例の子と一緒に花火を見るような話をしていた。

「家でゴロゴロしてる。父さんと母さんと、二人で行っておいでよ」

 今年の花火大会は、ひとりだ。


○○○


 自室のベッドの上で目が覚め、奏は身を起こした。

 汗ばんだ肌に、白いジャージが張り付いて気持ち悪い。パジャマから着替えるのが億劫で、いつのまにかジャージを一日中着るようになっていた。

 部屋の端に置かれたベッド。窓の横には小学校から使い続けている学習机がある。さすがに上についた棚は外したけど、昔つけたシールの跡がまだ残っていた。

「……やっと起きた」

 自分で自分に呟いた。寝すぎてはれぼったくなった目をこすり、外を見ると、もう夕暮れだった。

 三回忌には行かなかった。

 というか、行けなかった。起きることができなかったのだ。

 頭は起きているのに、身体が眠っている。金縛りのような状態が朝から続き、母が起こそうと何度も呼びかけてきた。『奏、起きなさい』『早く起きないと遅れちゃうわよ』『いい加減起きなさい』『起きなさいってば』『……もしかして、行きたくないの?』『やっぱり、行くの辛い?』『お父さんと二人で行くから。妙ちゃんのお母さんには母さんから言っておくからね』その声以降の記憶はない。再び深い眠りに落ちてしまったから。

「…………っと」

 ついポケットの中に手を入れてしまうのは、携帯電話を探すクセが残っているからだ。利用を停止して本体もリサイクルに出してしまったのに探すとは、携帯依存症も侮れない。奏はひとり、そうベッドの上で苦笑した。

 必要ないと判断したのは自分だった。小学校からの付き合いもいる仲のよかったクラスメイトたちも、自分から連絡しようと思わない。メールや電話が来たとしても、大して話したいとも思わなかった。

 朝起きた時、昼寝をした時、ふと思い立った時。ついつい探してしまうのは、毎日寝る時、布団に持ち込んでまでメールをしていた人がいたからだ。

 メールの相手が妙だったことは、いうまでもない。その内容はきっと、今日の夕食や連ドラの感想といったたわいもないことだったのだろう。

「やっぱり、本体ぐらいは残しとくべきだったかな……」

 電話機の役目を果たさなくても、記憶のリハビリに役立っただろう。

 一人呟き、奏はホコリが舞っているのもかまわず大きなあくびをした。

 そしてふと、枕元につまれた本に目がいった。

 哲学書から恋愛小説までジャンル豊富なブックタワーを、奏はひとつも読んでいない。これは妙が活字離れの一途をたどる彼氏に押しつけた、はた迷惑なお下がりだ。

 そのタワーの下に、あきらかに本とは違うものが置かれている。無理矢理下のものを引っ張り出したので、バランスを失ったタワーはベッドや床にホコリを舞わせながら崩れ落ちた。

 そんなことに目もくれず――むしろ奏は、引き出したものに目を奪われていた。

「……写真立て?」

 百円均一で売っているような、どこにでもあるシンプルな木枠の写真立て。積み重ねられた本が防いでくれたおかげで、ホコリもついていないし日焼けもなく、逆に奏の目にもなかなかとまらなくなっていた。

「俺と、和臣と……」

 写真の中の人物を指で追えば、誰もが心底楽しそうにこちらを見て笑っている。壁の色が今と違うが、後ろに見えるテレビやテーブルは峰岸家のものに間違いない。

「妙だ」

 白のポスカで書かれた日付は二年前の夏頃で、そこに彼女が写っていてもなんらおかしくはない。フィルムがあまったか何かの理由で撮ったのだろう、皆自然体で、やっぱりジャージの奏は妙と二人で和臣の後ろに座っていた。

 妙の遺影は、この写真からつくられたのだろう。仏壇で見たものとまったく同じ顔をしている。白いワンピースにかかる黒髪がゆるやかにうねっていて、網戸越しの日差しにあたってもなお黒い輝きを放っていた。

「妙……」

 中学の卒業アルバムなどで、妙の顔はしっかりと見ていた。自分と妙がどういう関係だったかを意識して彼女への想いを探してみたけど、どうしても一緒に写っているクラスメイト以上の感情を抱くことができなかった。

 彼女の自宅で見た遺影でも、とくにこれといって思うことはなかった。

 なのに、この写真は違った。

「妙……」

 喉元で、何かがくすぶる。何かが出てきそうで、出てこない。嘔吐感とも違う。それは息を吐くことに似て、とても自然なこと。だから出てこなくて、とても苦しかった。

「妙」

 名前を呼ぶたび、胸が熱くなる。心臓が高鳴る。写真を持った手からなにかが流れ込もうとしている。けど、それが首の辺りでせき止められている。

『ほんっとに、奏の部屋ってなにもないわよね』

「――!」

 言葉ではなく、妙の声を思い出したのは、これが初めてだ。

 ドアに視線をやれば、まるでそこに、彼女が立っているかのようだった。



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