三、現世−2
「……どうかした?」
「や、どっかで似たようなの見た気がして」
デジャ・ヴだろうか。それとも、いつもこうして麦茶を飲んでいたからだろうか。それについてはあまり深く考えず、奏は口をつける。長いこと外にいたので、冷たいものがありがたかった。
麦茶を一気に飲み干し、おかわりをもらおうとして奏は仏壇の存在に気がついた。居間の隣の部屋に、それらしき黒いものを見たからだ。
「アイスさ、レモンとソーダあるけど……」
台所で和臣が呼ぶけど、奏はそれに応えない。コップをテーブルの上に置き、仏壇の前の座布団に座った。
漆黒の仏壇の上に、妙の写真がある。どこで撮ったものかはわからないけど、華やかな笑顔を見せた、どこか見覚えのある幸せそうな写真だった。
猫のような目は細められ、長いまつげがさらに強調されている。細く通った鼻梁から弧を描いた唇は瞳と同じく凛としていて、写真におさまりきらない長髪は、和臣と同じく天然のうねりをもっていた。
「ねぇ、聞いてる?」
和臣が水色と黄色のアイスを持ってきて、そのまま動きを止める。奏がまばたきもせずに写真を見つめているのを邪魔しないように、忍び足でつけっぱなしだったテレビを消しにいった。
写真の中の少女を、奏は見たことがある。見たことはあるけど、親しかったとは思えない。彼女とキスしたなんて、想像もつかない。 付き合っていたらしいけど、わからない。
「線香、あげてもいいか?」
「いいよ、もちろん」
不思議と、ろうそくとマッチがどこにあるのかすぐにわかった。ろうそくたてにさして火をつけて、燃え殻はゴミ入れに。その動きが手馴れていて、身体がまめに通っていたことを物語っていた。
そしていざ線香に火をつけて、手を合わせる前にその香りに気づいた。
「――これ、線香か?」
「お線香だよ。白檀じゃなくて、薔薇の香りの」
なるほど、だから色が赤いのか。
「お姉ちゃん、薔薇のお香が好きだったからさ。白檀のほうはあまり使わないんだ」
「考えたな」
「考えたのは奏だよ」
「……そうか」
呟きながら、奏はろうそくの火を見つめる。不安定にゆれていた火は、見つめられると細長く伸びた。
覚えていない。覚えていないけど、この薔薇の香りはかぎ覚えがあった。かいでいるうちに思い出すかもしれないと思って、奏は煙に手をかざした。
峰岸妙が亡くなったのは、二年前の八月十五日。花火大会の暴発事故に巻き込まれたためだった。
その事故に、奏も和臣も巻き込まれた。毎年妙も含めて三人で祭りに行っていたらしいのだけど、どうしてもそれを思い出すことができない。事故前後の記憶となると皆無に等しかった。
「奏、アイスどっちがいい?」
差し出されたアイスは、チューブ型の氷菓子を、くびれにそって半分に折ったものだった。色が黄色いのはレモン味だかららしく、どちらがいいかという問いはそのチューブの端に関係している。
「和臣は持ち手つきがいいんだろ?」
製造過程で液体を注いだらしいところを、奏たちは持ち手と呼んだ。小さい頃はその持ち手のあるほうをめぐって妙と喧嘩をしたものだ。
「好きなほうにしな」
自然と記憶の中に妙が出てきて、奏は思わず笑ってしまう。こういう些細なことに、彼女は潜んでいたと思うとなぜだか嬉しかった。
「最近のはね、両方に持ち手がついてるんだよ」
自慢げに見せてくるアイスは、彼の言うとおり両方に持ち手がついている。それこそどちらがいいか訊く必要はないと思ったけど、奏は適当に右と答えていた。
このアイスを三人で食べる時は、違う味を二本出し、和臣に両方の味をあげた。奏と妙はそれぞれ別の味で、一口ずつお互いのを分けて食べた。
アイスのことで、こんなにも妙のことを思い出すことができる。暴発事故や彼女の葬儀のことより、こうした身近なもののほうが精神的にも思い出しやすかった。
「……ごめんな、和臣」
「え?」
「妙のこと、思い出せなくて」
溶け出したアイスが今にもこぼれそうで、奏はそれに口をつける。ほのかな酸味に、なぜか涙が出そうになった。
「早く、思い出してね」
それで、と和臣が続ける。けれどその後の言葉は、また、聞こえなくなった。
この後遺症は、あまりにも都合が良すぎると奏は思う。
妙のことを思い出そうとする時、必ず発症するのだ。
○○○
奏は今年で十八になる。そう言われても、正直ピンとこなかった。
奏が倒れたのは、十六のときだ。それから一年と半年間ずっと昏睡状態だったと説明されても、自分には一晩寝たようにしか思えない。目が覚めたらもう十八歳目前。浦島太郎気分を嫌でも味わった。
学校は休学扱いになっているらしいが、奏は倒れる前も不登校をくりかえしていたらしい。一年生をやり直すのは確実だった。
高校を辞めたいと言うと、両親は戸惑いながらも了承してくれた。自分なりに空白の一年半を埋めたら、もう一度勉強すると約束したからのことだった。
息子が一年半の昏睡から醒めて、両親は泣きながら喜んだ。けどそれも長く続かず、よく戸惑いを見せるようになった。
『夢の中になにかを忘れてきたみたい』
母に言われたのは、退院翌日のことだった。
「――あの、さ」
家族三人で夕食のカレーライスを食べた時、奏は意を決して口を開いた。
「明日の妙の三回忌。俺も行っていい?」
奏のその発言に、二人は顔を見合わせた。目をこれでもかというぐらい見開いて、全身で驚きを表現していた。
「……俺、行きたいんだ」
赤木家と峰岸家は、家族ぐるみで仲が良かった。家が近いわけではなく、通っていた保育所で子供が仲良くなり、それに乗じて母親、家族と広がったものだ。仕事が忙しい妙の母のかわりに、赤木家が子供を預かるのもそう珍しくなかった。
だから奏の発言はおかしいものではないと思ったけど、そうではなかったらしい。自分がつくりだした沈黙に奏はうつむき、煮崩れたジャガイモをスプーンですりつぶした。
「駄目かな」
「――いや、行っていいのよ! ただ、奏がそんなこと言うなんて思わなかったから」
奏が受け継いだ赤茶色の髪をした母が、あわてたように声をあげる。息子よりも背の小さい父は何も言わずに首を激しくふり、自分の皿に福神漬けを山盛りにしていた。
奏の正面に、母。その後ろはカウンターキッチンとスイッチを入れたままの換気扇。ダイニングのドアから一番遠い位置に父。これが、いつもの食卓。
「妙ちゃんが死んでから、奏、ずっと塞ぎこんでたから……」
「そうなの?」
妙と和臣がそれに参加した時は、いつも奏の隣にならんでいた。だからこのダイニングテーブルには、奏の隣に、座る人のいない椅子が寂しく残されている。
次第に普段の声に戻っていく母は、安堵した様子でカレーにソースを入れる。その視線は流れ、妙の椅子におりていた。
「最初のうちはまだ普通だったんだけど、途中から学校にも行かなくなったじゃない。一日中ぼーっとしてて、後遺症が悪化して倒れたのよ。それでずっと、眠ってたの」
その話は、これで何度目だろう。話された直後は覚えているのに、しばらくたったら忘れてしまう。そしてまた話されたら思い出して、再び、忘れる。
奏の事故後の記憶が消えているのは、恋人――妙が死んだショックだろうと医師は言った。時がたてばその傷も癒え、死を現実として受け止めることができるとのことだ。
「こうして目が覚めて、覚えてないのは妙ちゃんのことばっかり。たまに母さんたちがその話すれば、奏、耳が聞こえなくなっちゃうんだもん」
「だからお前が三回忌に行くって言い出すなんて、信じられなくてな」
奏は、妙の死を受け止めている。それが空言ではないことは、自分が一番わかっているはずだ。
一年と半年前の奏は、その死を受け入れることができなかった。心と身体のバランスを崩して、倒れてしまった。
ひたすら眠っていた一年半の間に、赤木奏は変わってしまったのだろうか。
ただただ眠り続けたその間に、妙の死と折り合いをつけたのだろうか。