三、現世−1
三、現世
9
「奇跡だって言われた」
奏は笑い話のつもりで話したのに、和臣はひどく深刻そうな顔をしてそれを聞いていた。
明日に控えた花火大会のセッティング作業をぼんやりと眺めていると、どのような過程を経てあの組み立て式のステージが作られるかを学ぶことができる。折りたたまれた鉄筋を決められた位置に組んでいけば、むき出しにされたパイプが味を出す野外ステージが完成する。
黄緑色の出店のテントの下では、青年団の男衆が木炭の入ったダンボールを積み上げている最中だ。その隣のクレープ屋では、焼き鳥のにおいがうつるから嫌だと女性陣が開催者に抗議をしていた。
「一年半も昏睡状態でいたから、普通なら身体が硬直するはずだって。でも俺、動くにはどこも異常ないってさ」
童顔主治医のあの驚いた顔は、しばらく忘れられそうにない。検査のために車椅子を用意したのに、奏はそれを使わず平然と歩いたのだから。
検査にひっかかることはほとんどなく、日常生活に支障が出ることはまずない。本人の希望もあり、退院までにそう時間はかからなかった。
「まぁ、太れとは言われたけど」
適正体重を無視した身体は、関節が浮いて自分でも気味が悪いほど。退院するまでにある程度増えはしたものの、眠っているときに筋肉が衰えたのもあって、身体はいぜん細いままだ。
暑さをこらえ、奏はジャージの上着でそれを隠した。黒の生地が太陽の熱を吸収して、今度から白系のジャージを着ようと心に決めた。
「俺、倒れたんだよな。全然覚えてないや」
手持ち無沙汰に、草をむしってみる。けれど刈ったばかりらしい土手の雑草は、背が短くてなかなか抜くことができず、すぐにあきてしまった。
うつむかせていた視線を上げると、まぶしさに自然と目が細まる。太陽を反射させるのは、市内一大きな川の水面だ。
この川の先に、奏の入院していた市立病院がある。退院してもリハビリや検査などで、よく世話になっている。自宅から遠いわけでもなく、運動もかねて、奏はいつもこの川沿いに歩いて通っていた。
今日は、その帰りだ。
「奏は、本当に何も覚えてないの?」
「……その質問何回目だよ、和臣」
隣に座る和臣は、毎回一緒に病院についてきては、小児科に顔を出しに行っている。なんでも入院したときに、仲良くなった子がいるそうだ。
「本当の本当に、何も覚えてないの? 病院で寝てた時のこと、これっぽっちも?」
「寝てた時って、俺はずっと意識不明だったんだ。夢だって見てないし、何を覚えてるってんだよ」
和臣は毎日こうやって、奏を質問攻めにする。このやりとりも、今日でいったい何回目だろう。
「だって、奏は!」
ムキになった和臣が声を荒げる。抱えていたひざを離し、ぐいとつめよってきた。
「奏は、寝てるとき――」
「……待った、和臣」
彼はなにかを話すのだけど、風の音に邪魔をされて、耳が聞こえなくなる。今日はほとんど風が無いはずなのだけど、その音がとてもうるさく感じた。
これは、今に始まったことではない。倒れる前にも、家で家族と話しているうちに、テレビの音のせいで聞こえなくなることがよくあった。
これは、あの事故の後遺症だ。
「……ごめん。で、なんだって?」
「もういいよ」
聴覚が正常に戻ると、和臣はもう話をしなくなる。結局、奏は和臣が何を言いたいのかわからないまま、首を傾げるしかなかった。
耳だけではなく、目まで見えなくなることもある。時がたてば治ると医師には言われたものの、良くなる気配は一向に見られなかった。
「倒れる前のこと、忘れてるところもあるんでしょ?」
「知ってたか」
身体においては、異常ない。けれど、こうやって五感が機能しなくなることに加えて、部分的ながらも倒れる前のことを忘れてしまっている。
それらのリハビリも兼ねて、奏はこうして通院しているのだった。
「帰ろう、奏」
「……そうだな」
重い腰を上げる奏に和臣が手を差し伸べたけど、それはやんわりと断った。
「それで、ボクの家に遊びにきてよ」
「わかった」
奏が眠っている間に、和臣はずいぶんと大きくなった。大福のように丸かった頬もずいぶんと細くなったし、身体もすらりと長くなったようだ。
奏は和臣を、赤ん坊のころから知っている。さして家が近いわけでもないし、知り合う接点などほとんどないというのに、和臣のオムツを換えたことだってある。当たり前だけど兄弟ではないが、彼は奏を兄のように慕っていた。
「お姉ちゃんに会いにきてよ」
「……姉ちゃん?」
首をかしげる奏に、和臣がこれまでで一番驚いた顔をする。眠っていたときのことを覚えていないといった時よりも、さらに大きく目を見開いていた。
彼がそんな表情をするとは思わなくて、奏は懸命に記憶を呼び起こす。なにが和臣の感情を波立たせたのか、今まさに知らなければならないことだった。
自分の記憶は、実に曖昧になってしまっている。倒れる前のことだから時間もずいぶんたっているけど、あれだけひどかった暴発事故のことですら覚えていないのだ。
「……わかったわかった。思い出した」
「それも忘れてたの?」
また後遺症が出て、視界がわずかにかすんだけど、和臣の今にも泣き出しそうな顔はしっかりと見ることができた。
「和臣の姉ちゃんな。えっと、ほら、峰岸……峰岸なんだっけ下の名前」
「妙」
「そうそれ。たえ、だ」
その名前を口に出すと、奏の顔からさっと血の気が引いた。
今までは暑さのためにかいていた汗と、背筋を流れる冷や汗はまったくの別物だ。血の気が失せて、軽いめまいまで覚えてしまう。
「バカ」
和臣が、奏の腰を殴る。殴るといっても力は弱く、逆に骨盤が当たった手のほうが痛いような殴り方だった。
「奏のバカ」
和臣の目から涙がこぼれたのを見て、奏はあわててあやまり、乱暴に涙をぬぐった。ひざをついて目線を合わせようとすると、和臣のほうが高くなってひそかに驚いた。
「ごめん。ごめんな和臣」
まぶたを真っ赤に腫らし、それでも涙をこらえようとする身体を、奏はぎゅっと抱きしめる。柔らかかった背中の肉は、どこへ消えたのか手に背骨があたった。
「悪かった。俺が悪かった」
しきりにそうあやまり、自分を罵りたくなるのをぐっとこらえる。自分の抱える後遺症に、これほど嫌気がさしたことはなかった。
「ごめん、和臣」
懸命に嗚咽をこらえる和臣に、奏の言葉はかなり響いただろう。
彼の姉、峰岸妙は死んでいたのだ。
○○○
和臣と妙は、年が九つも離れている。血はつながっているが、種が違うらしい。両親の離婚問題などがあった中、和臣の面倒はもっぱら妙がみてきた。和臣にとって、妙は姉であり第二の母のようなものなのだろう。
その妙と自分がとても仲がよかったと言われても、奏はどうしてもそのころのことを思い出すことができなかった。
けれど、このクリーム色のアパートにはたしかに通っていた記憶がある。
「おじゃましまーす」
「誰もいないよ」
なれたように首からさげた鍵を使った和臣は、小走りに居間へと走ってティッシュで涙まじりの鼻をかむ。夏休み中で、居間のテーブルには宿題のワークが散乱していた。
「奏、麦茶でいい?」
「あぁ」
峰岸家にお邪魔したのは、退院後これが初めてだった。
以前は、ほぼ毎日のように遊びに来ていた。それは和臣と奏が仲が良いわけではなく、奏と妙が幼なじみのようなものだったからだ。
受け取ったコップはよく冷えた麦茶で満たされていて、奏はそれをまじまじと見つめていた。