二、現世−15
「俺、役に立てたか?」
「とても。カナデが相手してくれて良かったわ、あたし人見知りはげしいから」
にっこりと、ホタルは見せたことのないような笑顔を見せる。目を細め、小首をかしげ、いつもの意地っ張りと違ってとても素直だった。
「もしカナデじゃなかったら、あたしもう二度と転生できなくなったかもしれない」
「他の玉梓でもみんな同じことをするさ」
ううん、とホタルは首をふる。
「カナデは、自分のことを話してくれた」
「自分のこと?」
「そう。話してくれたから、あたし、カナデになら任せられると思ったの」
彼女のさす自分のことが、カナデにはどうにもわからない。けどホタルはそれに気づかず、ただ頭をたれるだけだった。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
その頭を撫でようと、カナデは手をのばす。けれど彼女がそれを嫌うのを知っていたから、宙で止めてひっこめようとした。
「ありがとう」
ホタルはもう一度礼を言い、軽やかに鬼門をくぐっていった。
自分の頭を、カナデの手のひらにすりよせて。
『話っていうのは、ただ言葉を並べるものじゃないのよ。自分の気持ちを含ませないと、相手に通じてくれないわ。……って、アタクシが話したの、アナタおぼえてるかしら?』
「いいえ」
すがすがしいまでのカナデの即答に、タエの失笑が聞こえる。一段と強くなった薔薇が鼻腔をくすぐった。
『カナデが現世に降りる前に言ったんだけどね、忘れていたんでしょう。けど、アナタそれを無意識にやっていたのよ?』
「……そうなんですか?」
問いに問いを返せば、彼女はまた笑う。その中に、寂しさのようなものが含まれていることを、カナデは流すことができなかった。
タエ神はあれでいて、寂しがりやなところがある。なにかあるごとにカナデを呼び出してはちょっかいをかけてくるのは、神室での孤独感につぶされそうになった時だった。
なぜ彼女がカナデを選ぶのか、その理由はわからない。ただ、カナデは前借りの都合上、誰よりもタエに逆らうことができないということを、逆手に取っているわけでもなさそうだった。
口では厳しく言っても、何かあるたびに後ろから手を回してくれるのは、彼女がそういう性をしているからだ。
黄泉に帰ったら、また一日に何度も艮内を走り回ることになるだろう。タエに悟られないよう、カナデは心うちでため息をついた。
『カズオミに相談されたの、うまく答えたじゃない』
やっぱり聞いていたのかと、カナデは渋面をつくる。黄泉に帰ったら、タエはこの時のことについてカナデにお小言を食らわすつもりなのだ。
「……あれは、偉そうなことを言いました。すいません」
『現世に降りて、一番良い話だったとアタクシは思うのだけど』
「へ?」
微塵ですら思わなかった褒めの言葉に、カナデは目を見張った。
『一番、説得力のある話だったと思う。カナデもやればできるんじゃない』
「はぁ……」
続いて、脱力。タエに褒められたのはこれがはじめてのことだけれど、どうにも素直に喜ぶ気持ちにはなれない。
『今回はちょっと難のある仕事だったからね。……もうくぐっていいわよ、ゆっくり休んでちょうだい』
許可がおりたので、カナデは鬼門へと足をすすめる。現世に降りるときとは違って、今はためらいなく歩くことができた。
リノリウムの床を見つめ、しばらくこの人工物ともお別れだとしんみりしてしまう。あの小気味良い足音をたててみたくてスニーカーを強くおろしたけど、その足が鬼門に入って不発に終わった。
鬼門の中は、人肌より少し低い、死者の体温だ。死者の体温は雨の日の空気よりも暖かいことを、カナデははじめて知った。
『ねぇ、カナデ』
異変が起こったのは、そのときだ。
『あなた、自分がカズオミに何言ったか、覚えてるわよね?』
足に続いて胸まで鬼門に入るはずだったのに、その鬼門が消えかけている。中央に穴が開いたかと思うと、幕が四方へと勢いよく引き戻されていった。
「え……」
うずもりかけていた身体から、急速に鬼門が離れていく。その勢いに、髪の毛や服が引っ張られ、カナデはよろめきながら前に進んだ。
そこは紛れもない病室で、再び、あの嫌悪感が蘇る。息をすることですら不快で、胸元を握った手には脂汗が浮いていた。
『アナタ、生きろって言ったのよ?』
外では風が出てきたのか、叫び声にも似た音とともに、雨粒が鉛つぶてのようにふりそそいでくる。今にも窓ガラスが割れてしまうかと思うぐらい、それには力があった。
「タエ様……?」
病室の奥で、患者が一人、眠っている。心電図はあるが酸素マスクなどの生命維持装置は一切おかれず、ただただ、微動だにせず横たわっているだけだ。
死んではいない。ただ眠っているだけ。見ればわかるのだけど、カナデはその患者に何よりも嫌悪をおぼえる。
『カナデほど、そのセリフの似合わない人はいないわね』
「タエ様!」
部屋から飛び出そうとしたのに、カナデの足はいうことを聞かなかった。
中途半端に引かれたカーテンで顔を隠され、患者の姿は盛り上がった布団の形でしか見ることができない。もちろん性別などわかるわけがないのに、カナデはそれが男性だと思った。
心は必死に逃げようとしているのに、身体はそちらへと引っ張られていく。歩いてなどいない。突っ張った足ごと、床がカナデをつれていくのだ。
『アナタはこうやって今、生を捨てようとしているのに』
「――!」
何もないとわかっていながら、カナデは宙をつかんだ。
『特別に教えてあげるわ』
タエの声が、ぞっとするほど冷たい。首筋が凍りついたようで、吸い込む息は針のように肺を突いた。
『アナタ、まさにカズオミが考えていたことと同じことを願ったのよ』
そっちに行きたくない。そう思っているのに、身体は素直に引かれていく。なんとかその進行を止めようとしても、病室は空といっていいほど何もなかった。
『アナタ、自分の魂と引き換えに、人を蘇らそうとしたの』
「タエ様!」
どうにもならないとわかると、次は声をあげるしかない。
「嫌です、タエ様! やめてください!」
『アナタの願いは叶えないわ。契約を解消します』
「タエ様!」
『カズオミにあれだけ言っておいて、自分は叶えてもらうなんて不公平だと思わない?』
「嫌です、嫌ですタエ様!」
たかだか数歩の距離が、世界の果てのように長く感じる。見えない糸に全身からめとられたような、そんな痛みを伴う連行だった。
『ゆっくり休みなさい。そして、寿命まで生きることね』
「嫌だ、嫌だ!」
身体が――魂が、また近づく。片足がシーツに触れた。つかもうとしたカーテンが、今はもう遠くにあった。
「タエ様、タエ様!」
そこで寝ているのは、青白い肌をし、こけた頬の目立つ少年。赤茶けた髪が、うっすらと汗をにじませた額にはりつき、とても苦しそうだった。
『さよなら、カナデ』
「嫌だ! 戻りたくない!」
ベッドのふちを握りしめるが、それも一瞬でしかない。身体に戻ろうとする魂が、意思に反して腕の力を抜いたからだ。
「一緒にいさせてください!」
叫ぶ目に、涙が浮いた。
「あなたのことが好きなんです!」
魂が本体に戻る寸前まで、カナデは抵抗し、泣き叫んでいた。
「――タエ!」
○○○
「……デ君、カナデ君!」
真っ白な世界に、次第に線と、色が戻ってきた。
「カナデ君、わかりますか? ここは病院です!」
頬に、なにかの力を加えられている。はじめは鈍かったそれが、時間が経つにつれ、鋭い痛みへとかわっていく。
「アカギカナデ君、わかりますか?」
宙でさまよっていた焦点が、目の前で頬を叩いてくる男性に合う。ふちのない丸眼鏡をかけた男性は水色のシャツの上に清潔そうな白衣を着ていたのだけど、顔立ちが幼くて白衣にすこしぎこちなさがあった。
「君は、一年以上、ずっと眠っていました。僕は医者です。わかりますか? 君の主治医です」
「……俺」
はじめて発した声は、枯葉を合わせたような、かすれたものだった。
「君は、赤木奏です」
「奏……」
そうだ、それは自分の名前だ。
ずっと、眠っていた。
ただただ、深い眠りの中にいた。
「俺……」
眠っていた。
ただ、それだけだ。