二、現世−14
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病室にホタルを呼びにいこうとしたら、彼女はもう、部屋の外で待機していた。
「もう、いいのか?」
「カナデこそ、もういいの?」
互いに尋ねあい、そろって苦笑する。カナデが腕を差し出すと、ホタルは素直にそれに飛び乗った。
「じゃ、俺たち帰るから」
告げる先は、和臣。はなびにも伝えたほうがいいのかと思ったけど、彼女はもうカナデはおろかホタルまでも見ることができない。和臣に報告してもらうのが賢明だ。
「手伝ってくれてありがとうな。和臣がいなかったら、俺たちもっと時間がかかった」
「ボク、玉梓に向いてるでしょ」
玉梓の話をしたばかりなので、それが冗談とは思えない。口元を引きつらせたカナデを見透かしたのか、和臣は「冗談だってば」とはにかんでみせた。
「もうすぐご飯だし、ボク、戻るね」
「ちゃんと歯みがけよ」
和臣は小さく手をふって、病室へと戻っていく。その後ろ姿には名残惜しさというものがかけらもなく、カナデは少し寂しく思った。
「――あ」
何かを思い出したように、和臣が振り返る。ドアに身体を隠され、首とほんのすこしの肩だけが出ていた。
「また遊びに行くからね」
「わかってるって」
今度こそ、和臣の姿が消えた。それを確認して、カナデはそっと息を吐いた。
「行くか」
「うん」
身体まで冷えそうな雨音に、頭上から小さな身震いを感じた。雨粒の奥の曇天を見るかぎり、雨はまだまだやみそうにない。
「あたしたち、どうやって帰るの?」
「タエ様が連絡してくれるさ。もう帰る準備できたの黄泉で見てるだろうし……外科病棟に来いってさ」
噂をすれば、タイミングよく指示が下る。もしこれが彼女の悪口を叩いていた時でもあろうなら、カナデは今以上の鳥肌がたっていただろう。
外科病棟へは階をひとつ下るだけ。とくにエレベーターを使う必要はなかった。
「あたしの願いも、叶うのに一年とか時間がかかるの?」
「時間がかかるのは俺だけ。タエ様のやる気次第だけど、そんなに待たなくてもいいはずだ」
ふぅん、とホタルがあごを寄せる。カナデの頭はすっかり彼女の指定席になっているようで、カナデの歩みに合わせてゆれる尾がうなじを撫でてくすぐったかった。
「守護霊なら、早く叶えないとな。はなびが死んでからじゃもう遅い」
カナデの守護霊という提案を、ホタルはすんなりと受け入れてくれた。今までなにかと反論があったので今回も頭を悩ませるのかと思ったけど、ホタルもずいぶん素直になってくれたようだ。
そしてまた、彼女が守護する人間に環ではなくはなびを選んだのも驚きだった。これからリハビリなどが待ち構えているはなびを、影ながらサポートしたいという理由からだった。
「あたしが、はなびの幽霊のお母さんになるんだからね」
人間のお母さんは環。幽霊のお母さんがホタル。はなびが生まれる前から生きてきたホタルには、はなびは我が子同然に可愛いのだろう。
「ところで守護霊って、なにをするの?」
「それとこれとは玉梓も職が違う。俺には答えられないな」
あまり遅くなるとタエが怒ると思い、カナデは小走りになる。手すりをにぎったまま、段とばしで階段をおりた。
ジャージからのぞく手を見て、カナデは鳥肌が立っていることに気づいた。とくに寒いわけでもないのに、気づいたらそうなっていたのだ。
「――タエ様、着きましたよ?」
外科病棟のナースステーションで立ち止まったころには、背筋がわけもなく粟立っていた。和臣の病棟とは比べ物にならないほどの消毒液のにおいに、めまいのようなものまで感じた。
病棟の空気が肌にまとわりついてきて、その不快さに吐き気まで引き起こされる。けれどそれはカナデだけのようで、ホタルはいたって平然としていた。
「タエ様? 俺たちどこに行けばいいんですか?」
気を抜けば、身体をさらわれてしまいそうだ。両足に力をこめて、カナデは宙に向かってよびかける。
現世に降りたとき、鬼門は和臣たちの病室につながっていた。それはタエが手をくわえたからで、今回も鬼門は彼女がこの外科病棟のどこかにつなげてくれているはずだ。
「タエ様、聞いてますか?」
三度目の呼びかけの後、わずかながらも嫌悪感が薄くなる。あの白檀が消毒液をかき消し、誰よりも耳慣れた声が聞こえたからだった。
『聞いてるわよ。ちょっと待って、今やってるところだから……』
かぎなれた白檀の中に、彼女の気に入る香が混じっている。それが花の香りだというのはわかるのだけど、カナデにはそのが花なのかがわからなかった。
ホタルは、簡単にそれをあててみせた。
「お線香と、薔薇のにおいがする」
線香は白檀のことだ。院内でそれをかぐと葬式を思い出しなんともいたたまれない気持ちになるけど、薔薇の匂いにはどこか救われる気持ちになる。カナデはタエのこの香りが好きだった。
『……308の、赤木という人の病室に行ってちょうだい』
「はーい」
赤木ね、あかぎ。そう呟きながら、カナデは308を探す。タエの声を聞いて、嫌悪感はすっかりおさまったようだった。
ホタルも頭上で病室を探しているようだが、タエに話しかけられていまいち集中しきれないでいる。どもったり口ごもったりと、かなりおっかなびっくりな会話をしていた。
『アナタ、願いを変更するのよね?』
「はい、そ、そうです」
『こっちに戻ってきて、もう一度願い紙に記入してちょうだい。そうじゃないとアタクシは願いを受理することができないから』
「……は、い」
緊張している。会話を聞いていて、やっぱり神は偉大なものだとカナデは思った。黄泉ではそんな神に毎日どやされいじられている側にとっては、彼女に対しての緊張感というものがいつのまにか薄れてしまっていた。
「……あの、神様」
『何かしら?』
「黄泉に行っても、カナデが相手してくれるんですか?」
玉梓は、一人の死者の願いが叶うまでずっとその担当をする。タエはホタルにその説明をすると思ったら、聞こえたのは否定の言葉だった。
『カナデはここまでよ。黄泉に行ったら、別の玉梓が担当するわ』
「そうですか……」
「そうなんですか?」
そんなこと、カナデはひとことも知らされていない。聞き返した声はあまりにも間の抜けたもので、タエはそれにくすりと笑った。
『カナデには別の話があるの』
「……怒られるんですか?」
『まぁね』
何をしただろう。心当たりはいろいろあるけど、担当を外されるほどのことをしたおぼえはない。
「カナデ、308だよ」
ホタルの落胆した声で、カナデは足を止める。すぐに308の札が目に入った。
308は個室のようだ。引き戸はすでに開かれ、その奥で患者が眠っているらしい。心拍を知らせる電子音が、殺風景な病室に響いていた。
他の病室と、あきらかに雰囲気が違う。あの不快な空気の出所はここらしく、カナデは思わずあとずさっていた。
雨のせいで暗くなった部屋は電気がついていなくて、見舞い客はおろか看護師ですらいない。一歩でも中に入ればその孤独感に押しつぶされそうだった。
「タエ様もまた、嫌なところを選びましたね……」
まるで患者は、死を待っているようだ。誰もがそう思ったらしく、ホタルは這うようにカナデの肩に降りた。
『失礼なことを言うんじゃないの』
再び白檀が強く薫ったかと思うと、病室内の光景がぐにゃりと歪んだ。
扉の四面から、黒い膜がにじみ出てくる。隙間なく埋まるとそれは溶けるように消え去り、そこだけ墨で塗りつぶされたような、平面的な穴ができた。
黄泉で見た鬼門と同じ光景に、カナデはほっと安堵の息をついた。
『二人いっぺんにくぐらないで、先にホタルだけ来てちょうだい』
「……はい」
カナデからすべり降りたホタルは、まっすぐ鬼門に向かわず、こちらふり向いた。
「行かないのか?」
「お礼ぐらい言わせてくれたっていいじゃない」
ホタルが頬をふくらませるので、カナデは無神経だったと思って苦笑する。すこしでも目線を合わせようと、その場にしゃがんで倒れないよう片手をついた。